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「みことばを生き抜く」   2015年3月8日
 マタイによる福音書5章17節-19節                                             

 

神の「律法」は、人々が心と知恵を尽くして神を愛することができるように与えられたものです。往時のファリサイ派と呼ばれる人々は律法を守ることに厳格であり徹底的でありましたが、それは自分たちの宗教心を満足させ、優越感に浸らせる為のものでしかありませんでした。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」と仰せになられたイエスは、この神の律法を心のうちから理解するための新しい“在り方”をお話になられたのです。

 律法の使命は、キリストのもとへ導く養育係(ガラテヤ3:24)であり、罪を人々に示すことでありました。罪とは、神との親しい交わりを断つことで自らを孤独と疎外の中に閉じこめ、釘付けにしてしまう恐ろしい状態といえます。“罪を示す”とは、そのような悲惨な状況を人に知らせようとする神の情熱、ご努力なのです。その情熱(パッション)の極みが十字架のご受難(パッション)に他なりません。

 イエスは十字架のご受難をもって、捕らわれの身、釘付けの身となってしまった人々を解放するために、身代わりとなり代価を支払ってくださいました。いのちを賭して愛と情熱を注いでいただいたからには、私もまた心を尽くして神を愛さずにはいられなくなってきます。同時に、神に繋がる隣人をも愛さずにはいられなくなってまいりましょう。

 今、私たちがイエスとの愛の関わりに招かれている感動は、往時のファリサイ派の人々の宗教的満足をはるかに凌駕する喜びとなっているのです。

 

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イエスが与え給うしるし
マルコによる福音書8章1節-10節                                 2015年2月8日 

 

人間生活では、「しるし」は重要な役割を果たしています。人間は、物質的なものであると同時に精神的な存在ですから、物質的な「しるし」や象徴をとおして精神的なものを表したり、知覚したりします。

 今日の「福音」で読まれたパンの増加の奇跡には二つの「しるし」が示唆されています。一つは、日ごとの糧が“今日、このところ”で満たされていることの“しるし”です。

 8章1節以下は、6章に記されている5000人に食べ物が与えられたこととは異なる出来事です。6章はユダヤ人に対してなされたみ業ですが、8章はデカポリスの異法人に対してなされたみ業です。私たちは聖書に記されている出来事が事実であったことを確かに信じてはいますが、それは彼の時代の“彼ら”になされた出来事であり、私たちの生活世界とは関わりのないこととしてしまいがちです。

 しかしイエスのなされたみ業は、“今日、このところ”でもなされるみ業であることを私たちに悟らせるために、イエスは何度も同じような「しるし」を発信しておられるのです。

 もう一つは、“分かち合いの徳”を想い起こさせる為の“しるし”です。ある人々の豊かさが他の人々の困窮に役立つ為に、物的、霊的善が愛によって分かたれていくとき、さながらねり粉の中のパン種(イースト菌)が無限に膨らむように、5000人のみならず世界中の人々が、主と主のことばに満ちたらせていただけます。

 私たち一人ひとりのこのような生き様こそ、主に在るキリスト者であることの“しるし”なのです。

 

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2015年1月11日主日礼拝・説教要旨
『燭台の上のともし火』


マルコによる福音書4章21節-25節 
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」。ともし火は、もちろんイエス・キリストの福音です。私たちが持っている福音は、見えないところに置いて隠すためではなく、むしろ多くの人の前で輝かせる為であるとイエスは仰います。福音に与った喜びは、他者に表し明かすことによって、自己の体験を本当に自分のものとして所有することができるのです。つまり、福音を伝えることは、実に自己受容という大きな実りをもたらしてくれるのです。
 そして、この“ともし火のたとえ”は、終末のときの最後の審判を想起させるためのメタファー(隠喩)でもあります。「ともし火が来る」とは、審判者の到来を表し、燭台の上にそれが置かれるとは、「隠されているもの」「秘められているもの」がすべて法廷で明らかにされることを表します。私たち一人一人が、福音を生き、福音を証し、福音を悦び合うその生き様は、「ランプが来る日の審判」に関わる重大事であることを示唆しています...。イエスが再び来られる日まで、福音の光で互いを照らし合い、この生活世界を美しく彩っていきたいですね。

 

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2014年12月14日説教要旨

『主のことば、我に成れかし』  ルカによる福音書1章26節~38節 

 み使いガブリエルを通して、神の御子をお宿しするという大いなる使命に与ったマリアは、「おことばどおり、この身になりますように」と答えます。たった「一言」ですが、全人類の歴史が、この一言に転換させられたといっても過言ではありません。「神は御子をお遣わしなられました」〈ガラテヤ4:4〉。

 しかしその「からだ」を備えるためには、神は一人の女性の自由な協力を求められました。マリアは実に自由に謙虚に、このお召しに応答しました。  マリアの「おことばどおり、この身になりますように」は、「主よ、あなたのおこころのままにこの身とこの心をお用いになられてください」なのですが、「主よ、あなたのすべては私のものですので、私はあなたを自由に生き抜くことができます」と、主体性に富んだマリアの生き様を表す言葉でもあるのです。 

 私たちもまたキリストのお言葉を携える、全権大使。全権大使の発言は、即ち本国の発言そのものに他なりません。私たち一人ひとりが、キリストの言葉を携え、世に遣わされているキリストの全権大使なのです。私たちは、強いられてではなく、自由なる神の協奏者として主のみことばを生きる時、神がみ使いを通してマリアに「喜びなさい。恵まれた方よ」(1章28節)と告げられたように、「○○さん、あなたは神の喜び!」と仰っていただけるのではないでしょうか。

 

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神が住みたもう神殿          

ヨハネによる福音書2章13節~22節                2014年11月9日

         

神殿は既に古代ギリシャ・ローマ時代から神が住みたもう場所、神との出会いの場と考えられていました。

 しかし往時の神殿は、神殿祭儀の動物犠牲の売買や献金両替などの商売の場と化し、更には祭司の権益と結びつき腐敗堕落していました。イエスは羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して怒りをあらわにされます。

 そこに居合わせた人々はイエスに、「こんなことをするからにはどんなしるしを私たちに見せるつもりか」と激高します。イエスは彼らに、「この神殿をこわしてみよ。三日で立て直してみせる」とお答になられました。

イエスは死んで三日目に復活するご自分の体のことを仰ったのですが、群衆はもちろん、弟子たちですらこのことを理解することはできませんでした。                                                          

 イエスの教えは明白です。イエスは人間の力によって建設された神殿の時代は既に過去のものとなり、新しい時代、即ち死んで復活されたイエスを不動の礎とした“新しい教会の時代”が到来したことを表明されたのです。新しい神殿たる教会は、復活されたイエスを土台とし、私たち一人一人は、神殿を構築する柱となります。さながらそれは、林立するパイプオルガン!主の清い息吹をお通し鳴り響く妙なる調べが、教会に満ち満ちています。私たち一人一人が“通り良き管”となり、堅固にたおやかに建つ茗荷谷キリスト教会でありたいですね。

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)
 

 天の祝宴  

 イザヤの預言25章6~10節 マタイによる福音書22章1~14節   2014年10月5日  

 上記イザヤ書は、イザヤの黙示録(24~27章)といわれ、天の祝宴のすばらしさが描写されています。

 イエスは、預言者が描くような祝宴が ご自分によって実現されることを表明されますが、マタイ22章の福音書のたとえ話もそうです。私たちが定期的に与る主の晩餐式も主の復活を記念すると同時に、最終的な天の祝宴を目指し、それがもう今ここから始まりつつあるのだという事を想起させてくれます。

 神がすべての人のために備えられた天国の祝宴には、一人ひとりが招かれています。そして天の祝宴に招かれているものとして、ふさわしい心構えと準備、即ち祝宴の席にいつでも着座できるにふさわしい礼服を身に纏っているか今一度確認をするよう、天の祝宴の主催者たるイエスはお勧めになっておられます。 

 祝宴では一つの食卓につき食事を分かち合います。自分だけのお皿に料理を山もりにして独占をするのは、礼服を纏った淑女、紳士のふるまいとしてふさわしくありません。食事だけでなく精神的、霊的善も滞ることなく分かつことができる・・これこそが礼服を纏い、祝宴に招かれているものにふさわしい生き様であり、心構えではないでしょうか。

 神と神に繋がる人々との真実かつ自由な“交わりと分かち合い”に向けられた生き方は、天の祝宴の前味に他なりません。

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)                                                 2014/9/15
  主の赦しに生かされて                          
マタイによる福音書18章21節~35節                             

 21節~27節のみ言葉は、一万タラントン借金している家来が、慈愛に富んだ主人から借金を「帳消し」「御破算」にしてもらう出来事が記されています。神の“赦し”とは罪や負債を帳消しにする行為です。わたしたちが罪の赦しを信じたり、理解したりするのが難しいのは、「帳消し」、あるいは、「御破算」にするということが、通常の人間社会にはありえないことだからです。
人が神の不在を選んで、自らをして招いてしまった悲惨な状況に対し、神は悲惨極まりないお姿、即ち十字架上で痛々しいお姿をおとりになることですべて弁済、清算をされました。私たちは、この神の完全なる赦しの恵みを信じるところから、信仰者としての第一歩を踏み出だすことができます。...
私たちもこの神のお赦しに倣うべく、互いに出来得る限りの赦しを実践したいものです。人が成しうる“赦し”とは、憎しみをもって憎しみに報復する”憎しみの悪循環”を断つことです。赦しは却って他者だけではなく、自分自身をも解放します。 他者を赦すことのできない自分が、他ならない自分を縛ってしまいます。
そして“赦し”とは、互いに“共感”し合うことに他なりません。赦すことは、互いの過去の忌まわしい行いを大目に見るとか、無かったことにしようと蓋をすること、即ち“水に流す”ことでは決してありません。むしろ、その出来事を絶えず想起し、共に苦しむ、“共苦”することです。この“共苦”を経てこそ、共感の想いが湧き起こってきましょう。             
 日本国民は、公共の記憶は“水に流す”、すなわち“忘却”をする文化をもっています。日本国民の「忘却された記憶」として国内外から指摘されているのが「従軍慰安婦問題」であり、戦後沖縄の基地問題です。        
アメリカとて全く同じことです。原爆投下を正当化し歴史の記憶から忘却をさせてはいけません。互いに“負の遺産”を想起し共苦し続けることで、新しい共感、共生の関係が生まれてきましょう。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」これは、人を赦すことが天の父から赦されるための条件であると、教えているのではありません。事実はその逆です。“まず天の父が私たちに先んじ究極の赦しをお表しになられた。自分が天の父からどれほど多くの罪を赦されたかを知っているなら、人を赦さずにはいられないはずだ~赦せる自分となり、自他共により良く関りあえる美しい人生を送らずにはいられないはずだ!”・・そのような意味が籠められているように思えてなりません。

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)

 聖書のことばから                       2014/8/31        十字架の道    マタイによる福音書16章21節~27節                            

 

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

イエスのこのお言葉は、文字通りのお勧めではありません。本当にこのお言葉通りに行動しようものなら、クリスチャンは毎日十字架を背負って生活しなければなりません。イエスは、いのちを賭してご自身の十字架を私たちに差し出してくださいました。私たちもまた自らの十字架をイエスに差し出すことで、互いに良き友として美しい関わりを持つことができる・・これが、このお言葉に籠められたメッセージです。

 十字架を差し出し合うこと、それは“傷つく弱さと傷つく弱さの出会い”の一言に要約されましょう。

 神が人をお創りになられたのは、深い愛の交わりを実現するためです。しかし人祖であるアダムとエヴァは神との関係を壊してしまいました。神から授かっていたすべての関係が損なわれてしまったアダムとエヴァは希望を失い、無防備で傷つきやすくなってしまいました。

 傷ついた人を救うべくご思案なされた神は、何とご自身も傷つく者となられたのです。

 御子である神は人となり十字架で死に、心臓を槍で突き刺されました。もし“傷つく弱さ”が強さに出会うと、却って疎外感が増すばかりです。しかし“傷つく弱さ”が弱さに出会うと、そこに親密さが生まれます。  親密な美しい関わりを回復する唯一の道は、傷つく弱さ、即ち互いの十字架を差し出し合うこと以外ありえません。人は皆、この“十字架の道”をイエスと共に歩むべく召されているのです。

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)

 聖書のことばから                                        2014/8/10       

   主は湖上に立ちて      マタイによる福音書14章22節~33節        

 

 湖上を歩くイエスから「来なさい」と言われたペテロは、船から降りて感謝と喜びのうちに水上を歩き始めました。しかし彼の感激も束の間、進んでいくうちに強い風に気付き怖くなり、沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫びました。彼は、自分が湖上を歩くという“人の力”だけではできないことをしていることに驚きました。その時、はたとイエスに信頼するほか道はないことに気付かされ「主よ、助けてください」と叫ばずにはいられませんでした。

 イエスはペテロに「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と叱責なさりながらも、すぐさま優しく「手を伸ばして捕え」てくださいました。私たちの信仰生活もある意味、人智をはるかに超えた“神の大海原”を歩いているようなものです。人力、自力だけでは到底成し得ないものです。それを、自力、人力だけで推し量ろうとすると、かのペテロのように「助けてください」と叫ばずにはいられなくなります。

 私たちもイエスという絶対的な御助けから目を離してしまうと、強い風と高い波だけが目に入ってしまいます。それらをとても自力だけでは克服できないことが分ると恐ろしくなり、自分の存在そのものがぐらつき揺らぎ始めます。困難な時、自分の足りなさや、あるいは自分の“強さ”にではなくイエスのお言葉に想いを寄せましょう。イエスはいつも身近におられ、救いの御手を差し伸べてくださいます。

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)

      聖書のことばから     2014/7/20

 

  ただおことばのみを賜え   マタイによる福音書8章5節~13節        

 

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば私の僕はいやされます。」

百人隊長は、中風の部下の治癒をイエスに懇願する際、このように言いました。

聖書のことばは、釈義をしてようやく理解ができる教義書や論文などでは決してありません。人の心の中にたおやかに、優しく入り込み自ら働き始める“人格者”なのです。百人隊長は、イエスがご不在であろうと、イエスのおことばには私たちを愛し抜き生かし抜く力があると、堅固な信仰告白をするのです。イエスはこれを聞いて感心します。いやむしろ、イエスは百人隊長に“魅せられてしまった”といっても良いでしょう。

イエスは素晴らしいリーダーであることは言うまでもありません。しかし聖書には、人々がイエスを求め惹かれていくよりも、イエスの方が人間一人一人の良さや、可能性に惹かれて求めていく様子が多々描かれています。ザアカイ、シモン、マグダラのマリア・・。私たちは自分のことを考える時、しばしば嫌な面に目を向けがちですが、「イエスが私に惹かれるほど、私は素晴らしい人間です」と言えるようになった時はじめて、イエスの心を理解することができます。イエスに見出され、魅了されていることに感謝!

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)

  聖書のことばから                                         2014/6/29 

       われに来たれ  マタイによる福音書11章25節~30節 

 

 イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。この「重荷」とは一体、何を指しているのでしょうか? 

 第一は、当時の宗教指導者たち、即ち律法学者やファリサイ派の人々による過度の宗教的要求を指します。彼らは、律法を必要以上に詳細に解釈し、それを人々の肩に負わせていました。イエスは、ばらばらになっていた複雑な掟を、最大の掟である「愛」、即ち「心を尽くし神を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と統一、要約なされました。つまりイエスは、この愛の掟を実践することで、すべての掟を実践することになるとお勧めくださっているのです。

 第二は、「罪の重荷」です。罪は私たちの心身をがんじがらめに縛りつけ、自己の羽ばたきも気概も全部、釘付けにしてしまいます。このような「罪の重荷」から私たちを解放できる方は、私たちの身代わりとして十字架で釘付けになられたイエス・キリストだけです。

 第三は、日々の煩い、人間関係等の悩みを指します。私たちはこの世に生きている限り、日々の煩いや心配事は避けて通れません。しかし、これら様々な出来事はすべて主によって司られ、意味たらしめられているのだという事に気付かされるとき、その重荷は軽減されましょう。

 イエスによって、イエスと共に背負うところの重荷は、いとも軽し!

 

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(茗荷谷キリスト教会週報巻頭言)

  聖書のことばから                                2014/5/18 

          イエスは羊の門          ヨハネによる福音書10章1節~10節   

 

「わたしは門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」

とイエスは言われます。

 羊はしばしば夜間には、泥棒や天候、野生動物から守るために羊の囲いの中に集められました。聖書では羊や羊の群れは、神の民をあらわしています。羊を囲いに入れるのを決めるのは門番でした。門番は羊飼いを兼ねることもあり、夕方囲いに羊を入れるときに出入り口(門)で一匹ずつ羊の数を数えました。

 “羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を聞き分ける”良き羊飼いであるイエスのお声に導かれて、門であるイエスを通らなければ、羊である私たちは、豊かな牧草地を見出すことはできませんし、したがって命を維持することもできません。それ故に私たちは、交読文・詩篇23篇で「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水辺に伴われる。主はわたしを生き返らせいつくしみによって正しい道に導かれる」と詠うのです。

 イエスは神の救いの門であり、神に近づく唯一の道であります。“唯一の道”というとあまりにそれは狭すぎるのではないかと感じる人もいるかもしれません。しかしたった一つしかない道と首をかしげるのではなく、主の御元に進む為の最も確かな道、主イエスが自ら羊飼いとなり、門番となって導いて下さる最も親密な道と捉えることができましょう。

 現代の羊の囲いは言うまでもなく“教会”です。教会は、キリストに導かれた人々が、互いに同じみことばに生きるものとして照らし合い、赦し合い、自由に美しく関り合っている愛の共同体なのです。更に、信仰の恵みを分かち合いながら、ゆったりと確実に天上のエルサレムの子羊の婚宴を指向し続ける“大船”でもあります。

 私たちは羊の囲い“教会”に招かれ、導かれた幸いを感謝しつつ、今尚、迷える羊を呼び招かれるイエスの“お声掛け”の良き協力者でありたいですね。

 

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