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 東京基督教大学から芸術・文化領域が大きく削除されることへの危機感(つづき)

「福音の文化内開花~incluturation」の重要性がかつてないほど高まっている昨今であるが、プロテスタント教会ではあまり此の文言を聴くことはない。

 古今東西、キリスト教のみならず宗教は「文化」という衣を纏ってきた。

 もちろん、信仰と文化は同義ではないが、世の人々は常に宗教を、精神文化に貢献し、こころに実りをもたらす〝いとも良きもの“として捉えている。

 キリスト教は文化という切り口で「福音」を提供しうることで、福音は間違いなく日本に土着化(インカルチャレーション)されていくこととなる。

 

 文化(culture)の語源はラテン語の“colere・耕す”である。人の心身は芸術文化によって耕されることで、豊穣なるペルソナとなる。人の偉大さは、この文化を有し,文化を創造することができるということに尽きる。

ある意味「宣教」とは、日本文化をキリスト教文化という“新しい鍬”で耕し、“みことば”の種を捲き、新しい息吹を吹き込んでゆくことではなかろうか。さすれば、程無くして私たちの生活世界は、日本の地ならではの福音の花々が色鮮やかに咲き誇ることとなろう。

 日本文化に対して鍬入れもせず、耕すことなく種をまいても、唯々、異質の他者・異物・異教として弾き飛ばされるだけである。

 日本におけるキリスト教宣教の一大不振は、神道や鎌倉仏教の霊性を超えるキリスト教世界観を提供できていないことと、キリスト教文化による鍬入れが不在となってしまっている、いや、不在としてしまっていることに他ならない。

(仏教は、東大寺大仏開眼法要以来、仏典に節をつけて詠うという声明“しょうみょう”、即ち仏教音楽を用いることで、爆発的に日本全土に広がっていったことは周知のとおりである。 老子、荘子 孔子の「子」は、「ね」とも読む。この「ね」は「音・ね」と同義である。即ち、中国の偉大な思想家は、深遠な摂理を美しい楽の音のように語り、伝えた人々である。)

 特に、日本人は歌を詠むことに秀でた国民である。はっきり申し上げて、教義的、釈義的な説教、宣教は日本人の情感や「ことのは」には合っていない。

 今回の東京基督教大学の無風流な出来事から、私たちはいよいよ、みことばを「高鳴る調べ」に乗せて、日本にあまねくお届け、お分かちをせずにはいられないと想わされる。

~Missio Dei~2024年4月30日

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東京基督教大学は私が22年間お務めをさせていただいた大学であり、出身校でもある。

 今年度より教会音楽専攻科が廃止されるとのこと、それに加え「夏期教会音楽講習会」や「クリスマスコンサート」など、すべての音楽諸行事が中止と相成った。これは直接連絡を受けたわけではなく、関係諸氏から間接的に聞いた情報である。

 悲しいというより、なんとも情けない話である。

 今回のことで想わされるに・・これから後は、特に教会音楽に携わるものは、過度に教会や組織に依存することなく、自分自身が賛美の奏でをお運びする「ノアの箱舟」、「イスラエルの契約の箱」「歩く福音書」となっていく時代ではなかろうか。出向いた先を「一期一会の讃美教会」と成す時代である。

 特に教会音楽家は、教会音楽家でありながら教会のものとなってはならない。

 教会のものになるとは、組織にまつわる様々な問題や教職者の人事異動に心を奪われ、それらに巻き込まれてしまい、イエスに焦点を合わせることが出来なくなってしまう状態である。

次第に「教会」も「神学大学」も、私たちが観ようとしてきたものを観えなくし、聞こうとしてきたものを聞こえなくしてしまう。

 それでもなお、キリストが宿り、キリストのことばが語られるのは「教会」である。

 教会のものにならず、教会の中で生きることは、大きな課題であるが・・福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という言葉が大きな示唆を与えてくれるように思う。

 一人ひとりが独立した人間であって初めて、国として独立できる。

 自分で考え行動できること「一身の独立」によって、「一国の独立」が可能になる。

 教会とて同様である。いたずらに教会頼み、大学頼みにするのでなく、一人一人がきちんとした「各戸教会」「家族教会」として“一家をなせば”こそ成る「公同の教会」ではないだろうか。

~Missio Dei~2024年4月26日

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讃美百景~讃美歌「うき世のたび 行く身は」

 マエストロは自分が行くべきところ、其の住所を示してくれるが、出かけるのは自分自身である。

 最後に師事した歌の師匠、アルド・プロッティ氏のことばである。

 芸道の伝授は、一挙手一投足、其の所作動作を"手取り足とり”教えるものではない。師は、次に向かうべきところを示しはするが、そこに自らの気概と自由意思をもって赴くのは生徒自身である。

 師はその旅路の動機づけと、到達地のみを示す。

 これは、天つ御国を目指す私たちとまことの師なる神とのありようでもある。

 決して此れは、放任主義ではない。

 むしろ主は、天に向かう「過程」を楽しむ余地を残しておられるのではないか。

 主は、人生の旅路の同伴者(妻・家族・信仰の友ら)と、其の長い旅路をとおして美しく関わり合っていくことをご期待なさっておられる。

 昨今、自動運転ができる車が登場した。

 一度、同乗させていただいたことがあったが、まさに快適至極である。

 様々な事情で自動運転の車を入用とする方々は少なくない。

 しかし自らがハンドルを取り、運転をするという楽しさはどこかに残しておきたい。

 いやむしろ、人は自らハンドルをとり、ドライブを楽しまずにはいられないものでなかろうか。

 主よ。我をして、エマオへの旅路をいよいよ楽しみ喜ぶものと成さしめたまえ。

~Missio Dei~2024年4月21日

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 讃美歌「主よわれをば捉えたまえ」

 オペラや演劇では、歌手・演者は自由自在に舞台を闊歩し、互いを呼び交わしあっている。

 一見、自由奔放に観える歌手・演者であるが、此れは事前に指揮者(マエストロ)演出家や、台本作家との所作動作に関しての綿密な打ち合わせがあってこそなせる業なのである。

 オペラ・演劇本番の際、観客には演出家の姿は見えない。観客には自由に演唱する歌手しか目に入らない。故に、観客には演者が自らの意思・意向のみで動いているように観えるのだが、実は事前の「水面下」での眼に見えない"仕込み”があってこその舞台なのである

 演出家は、いわば計画書、設計図を演者に知らしめる者である。

 演者は計画書・設計図を目当てにして、空間に立体を構築していく。演者はこの設計図があればこそ、安心して自由自在に、その演者ならではのヴァリエーションを加味し、皆皆にお見せすることができる。

~実はこの少しのヴァリエーションで、十二分に其の人ならではの”独自性”は醸し出されているのである。すべてを自分色に染めてしまっては却って表現過多となり“独善的”となってしまおうか~

 逆に「何でも構わないから、兎に角、表現しなさい」と言われても、演者は只々、狼狽するばかりである。

テーマ・動機・目当ては、演者をして自由に表現なさしめる「ご指南書」に他ならない。

 

 此れは即ち、神と人の関係にも当てはまる。

 人は皆皆、自由自在に生きているように観えても、実は眼には見えない「神の御摂理、ご計画書」によって人の営みが司られている。

 此の御摂理は、人の生き様、一挙手一投足を規定し、がんじがらめに縛りつけるものではない。

 人皆皆が、“よりよき自己”“唯一無二の自己"と生き抜くことができるようにという、優しく篤い「拘束」なのである。

 主よ、我をして、いよいよ自由自在にみことばを詠うもの成さしめ給え。

~Missio Dei~2024年4月21日

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「新しい歌を主に詠え」詩編96編

 私がご用させていただいている、「賛美と合唱の集い」では、毎年,その時節にふさわしい曲を選ばせていただている。

 ご参加者の「ああ、この曲は昨年も歌いましたから、何か他の新しい曲をお願いできませんか?」というご要望があるかもしれないが・・同じ曲であろうとも、此の年、此の年齢ならでは“新しい味わい”があるはずだ。

「ご飯の味は、昨日食べたから分かっています。今後は、いりません」とはならない。同じ白米でも昨日とは違う“味わい”があるが故、日々味わい続けずにはいられない。

 

 さて、“新しい”という概念は、ギリシャ語では二つの異なることばで表される。

 νέος・ネオス~時間的な新しさ、若さ、未熟さ

 Καινος・カイノス~性質の新しさ

 特に此のカイノスは、詠嘆する神的な新しさである。なぜなら、ネオスの中に生きる人も地も衣も、やがては古びるのに対し、神には何一つ朽ちるものがなく、すべてが新しいからである。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」コリント人への第二の手紙 5:17

 

 生活世界においての新しさとは、新規さや奇抜さを追い求めていくことではない。

 むしろすでにお馴染みの出来事、思い、ことば、行いを「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛し合う」ことで、私たちの日々は、新しい光を放ち続けることが出来よう。

 未知なることを体験し知っていく新しさは、言うまでもなく素晴らしいことである。しかしそれよりも既に分かっていることを、“キリストの眼差しで観て深めていくこと”こそが「神的な妙なる新しさ」と言えるのではなかろうか。

~Missio Dei~2024年4月16日

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「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

  花も花なれ 人も人なれ」

 ご周知、細川ガラシャ辞世の歌である。

 花は散るがゆえに、花と咲いた其のひと時を珠玉のカイロス(意味的時間)とすることができる。

 人にとって大切なのは数理的な時間の長さ(クロノス)ではなく、ひと時に永遠を垣間見る“カイロス”を如何に体験できたかである。

 人の生涯は長いようで短い。5歳で天に召される人もあれば、100歳で天に召される人もいる。随分、不公平であると思いたくもなるが、全宇宙の歴史から観れば、いや無限を司る神から観れば、5年も100年も一刹那にすぎない。人はもともと有限で“はかない”存在である。

 しかしその刹那に、永遠にも等しい時の深遠さを感じることが出来れば、人が過ごす「刹那」は決して虚しいものではない。

 話は変わるが・・とある柔道家によれば、「柔のこころ」とは“散る美しさ”であると云う。

 以下、自己の所感となるが・・“散る美しさ”とは、相手に投げられたらすぐさま“受け身”の体勢をとり、潔く畳に心身を投じていくということではなかろうか。

 受け身をとることで、勝者をますます勝者たらしめて差し上げる。そして、其の素晴らしい相手とひと時、対峙することができたのは、正に“カイロス”の恵みであったと言わずにはいられなくなる。

 近年、柔道は競技スポーツ化して、「一本」「技あり」の他に「有効」「効果」「指導」等、細かいポイントで加算をしていくようになった。しかし昨今、勝敗を決するのは「一本」と「技あり」のみに限定している。

 此れはまさに、“散る美しさ”を真骨頂とする“武士道の精神”をこそ取り戻したいという思いの表れではないか。

 散りゆく桜に、“幽玄”を観る。これぞ「和」のこころ。日本人として生を授かったことに感謝と讃美

~Missio Dei~2024年4月9日

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 聖歌525番「語りつげばや」を詠う。

~敬愛する戸上信義先生(元常盤台バプテスト教会牧師)は、かつて私にこのように仰っていただいたことがあった。

「礼拝の説教は別として平素、私が人とお話をするとき、其の方がキリスト(教)の話をお聞きしたいと欲さない限り、こちらからキリスト(教)を語ることはしません」

 ある意味、此れもまた深い宣教の真理を表すおことばではなかろうか。

 かといって戸上先生は、キリストをひた隠しにして沈黙を守っていたわけではない。

 みことばを悦び、みことばを生きる戸上先生の生きざまそのものがキリストを証し、表して止まないものであった。「神」という文言を用いなくても、戸上先生の全人格がいつも、神を指向し神に応答する“礼拝”であったのだ。

 信仰は言葉で説き伏せるものではない。いや、説き伏せてはならないものである。

 信仰は、キリストを生きるキリスト者の生きざまに魅了され、其れに同調・共鳴せずにはいられなくなる心の高まりである。

 イースター主日の次の主日(復活節第二主日)は、カトリック教会等では「白衣の主日」と呼ばれている。

 復活祭で洗礼を受けた新しいクリスチャンが、新しい信徒のしるしである「白衣」を取り外し、使徒たちと同じように、新しい生活を始める日とされている。罪許されしものから、罪のゆるしを伝うるものに、更には神の愛の光合成のもと、自他ともに花咲くものとせらるる「佳きおとずれ」を宣べ伝えるものとして成長していくことを表す。気高くも美しい習慣ではないか。

 さあ、気負うことなく臆することなく、戸上師のごとく自然に素朴に「キリストを着こなし」、生活世界へと出で行きたい!!
~Missio Dei~2024年4月8日

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『一羽の雀さえ、主は愛したもうなり』(新聖歌285番)

 ドジャース移籍後の大谷選手に待望の初ホームランが出た。

 数試合、打撃不振が続いた大谷選手であるが、期待される成績を出せないと、マスコミやメディアは容赦ない。心無いバッシングを浴びせる。成績が回復すれば、すぐさま称賛へと転じる。全く現金なものである。

 私たちの世界では、いつも自分たちの持ち物によって評価される。例えば、自分が人から称賛されるときは、それは私の「何か」ゆえに称賛されるのであり、その「何か」が無くなれば、人は知らん顔をしてしまう。知らん顔をしたから世間は冷たいとか、薄情であると言っても仕方がない。値打ちのある人は高く評価され、値打ちのない人は低く評価されるものである。残念ながら世間とはそのようなものである。

 大谷選手のファン、フォロアー、そしてマスコミのほとんどは、本当に大谷選手其の人を愛しているのではなく、大谷選手の戦績を愛しているのである。

 しかし信仰の世界は、それとは真逆であると云ってよい。

 「人が義とされるのは、律法の行いによるではなく、信仰によるのである」(ローマ人への手紙3:28)

 信仰は、ご自身を啓示し、ご自身を与えてくださる神への人間の応答である。此の信仰によってこそ、神は其の人をこの上もなくお悦びになられ、嘉せられるのである。

 臆せず申し上げるが・・私の素晴らしさは、律法を網羅して神の道を会得し、業績を上げたことではない。神が私をご自身の家族に選ばれ、神が私を“獲得”してくださったがゆえに私は素晴らしいのである。

 そして其の神の家族にふさわしい自己たらんと「気概」に満ち溢れさせていただいているがゆえに、私には価値があるのである。

 神の私たちに対する評価と愛に満ち溢れる眼差しは、古(いにしえ)から未来永劫に至るまで変わろうはずもない。

~Missio Dei~2024年4月4日

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主の年2024年‼ 主のご復活を心よりお慶び申し上げます。

~イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20・16)~

 ご復活のイエスは“マグダラのマリア”の前に立ち「マリア」とお呼びになられた。マリアは「ラボニ」(先生)と言葉を返した。

 故人の声を思い出す者こそ、故人を最も愛した人であると云われている。マリアは、イエスから名前を呼ばれて初めて、目の前の方がご復活の主イエスであることを知った。

「復活」!!原初の“美しい神と人の関り”の回復であると同時に、永遠に新しい“いのちといのちの関り”の創まり(はじまり)でもある。

 原初の男女アダムとエヴァは、神との完全な友愛のうちに生き、生かされていた。

 しかし、人の側から此の神との友愛を断ち切ってしまった。更に、其の友愛を限定的、条件的なものとしてFix(制限・固定化)してしまった。

 損なってしまった此の原初の関りは到底、修復は不可能と思われるなか、神御自ら十字架にFix(究極の制限、釘付け)されることで、人が課してしまった罪の身代わりとなられた。そして、人自らをして課してしまった手枷、足枷をお取りくだされた。

 

 聖書のことば、即ち主のみことばは、万人に語られる言葉であるのだが、主はいつも、個々人の名をお呼びになられる。「サウロ、サウロ」とか、「ヨセフよ」「アナニアよ」「モーセよ」「アブラハムよ」、そして上記のみことばの「マリア」というように、主のおことばは万人共感のことばであると同時に、個々人一人一人に迫り、取り囲み、駆り立てる「ことのは」なのである。

 ある意味、信仰者とは全世界の人に対して語られたことばを、私個人に語られたことばとして感じ味わう人であると云ってよい。

 

 聖書のみことばは既に完結している。しかし、主が今「〇〇よ」と私に語られる言葉は唯一無二の独特なものである。此の主の語りかけは聖書のエピローグとして記されて良いほど素晴らしいことなのである。

 主の年2024年、主のご復活と信仰に神秘に与りし幸いに感謝と賛美

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 主の年2024年、受難日の静想

「神がそんなに人を愛しているのに、何故地獄を造ったのか」と疑問に思い、神の愛を信じられなくなることがある。

 そこには当然誤解がある。地獄は場所ではない。地獄は心の状態である。

 世間の慣習として、告別式等で「天国での再会を祈念して」と言うときには、空を指さし、空を見上げる。

 しかし、霊の世界は時間・空間を超越する世界である。天国や地獄は、「上」とか「下」とか、「そちら」とか「あちら」とか時間、空間に中で生きている観念・感覚で表現できるものではない。

 「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」 (黙示録20:15)

 この黙示録で語られているのは、最終的な魂のありようである。即ち、“神”も“愛”も“平安”も“美”も“調和”もない世界である。

 天国は神が見え、神の愛が感じられるので、すべてを愛することができ、すべてが美しく見え、すべてが調和をしている。

 逆に地獄は正反対の状態である。神が見えなく感じられないので、人々は互いに怒り、憎しみ、攻撃し合い、孤独と疎外に陥る。

 人が神の不在を選んで、自分と人の“恨み”を選ぶときに、そのような状態が地獄となる。「神が地獄をつくった」というよりも、人が自分自身の地獄をつくっているのである。

 

 本日は受難日である。人の罪を贖うために十字架にお掛りになられたイエスを想うだに、自己の罪について深く考えさせられる。

 しかし、罪を黙想することの目的は、罪の中に落ち込んでいる自分の無能ぶりを悔やむことでない。また自己嫌悪や自虐の念、自己呵責を得ることでもない。

 目的はズバリ、キリストの十字架と復活にあらわれる“神の無条件で絶対的な愛”を悟らせていただく為である。

 神の愛は、私の善行に対してのご褒美ではなく、私が私であるが為に与えられる愛である。罪の深い認識は、自分に対する神の無条件で絶対的な愛を味わわせていただけよう。

 この慰め深い真理が、目に見える形となって顕わされたのが、十字架につけられたキリストである。

 個人の罪や社会の罪が極まり、人々が神不在の地獄のような心の状態を選び、神の御子を十字架につけるまでになったときに、神が却って最高の赦しを見せてくださったことが、十字架上のキリストによって表された。

 

 2000年前と同じように、今もキリストが私たちに向かって言って下さっている。

 十字架上のみことば

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ルカ23章34節

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 棕櫚の主日(主の年2024年)

「棕櫚の葉」フォーレ作曲、中田羽後訳詞

 歌唱:稲垣俊也

「クレタの聖アンデレの説教」より

「このように私たちがキリストの足元に広げるのは、衣服や命のない木の枝や若枝など、ほんの短い時間だけ目を楽しませ、あとは枯れてしまうものではなく、私たち自身です。」

 

~私たちがイエスを歓迎するために道に敷いて、イエスに踏み砕いていただかなければならないものは、私たちの所有物や一時的な立場や世間の評価ではなく、私たち自身の「罪」であるということでしょうか。

 私たちの罪を贖うために、エルサレムに入城されるイエスを歓迎するに最もふさわしい歓迎方法は、私たちの「罪」を敷き連ねること以外にありえません。

 更に云えば・・私の頑なな心をイエスの御前に敷き連ね、踏み砕いていただければと願います。言い換えれば、凝り固まってしまった私という土地を、イエスのみ足で耕していただきたいのです。そして、主のみことばを花と咲かす豊穣なる大地と成していただきたいのであります。

 成程、文化(culture)の語源は、ラテン語のcolere,「耕す」である。

 今日の祈り

「主よ。この棕櫚の主日に私を、みことばの実を、たおやかに産出する“文化人”と成させたまえ

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 詩編19編2節「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる」

 昨日夕方の暴風豪雨の後の一瞬の晴れ間に、美しい虹が空に描き出された。

 自宅ベランダより、“御手の業なる”大パノラマにしばし見入ってしまった。

 まさに、天空が織りなす「光」の芸術~

 私はよくメッセージで、「写真家は被写体を撮っているのではなく、実は“光”を撮っているのである」と、語らせていただくことがある。

 確かに被写体も大切ながら、光の当たりようによって、被写体は様々に表情を変える。

 その最も顕著な例は「能面」であろう。

 能面の前面から光が当たれば、気概に満ち溢れる表情となる。やや上方から光があたれば、怒っているように観え   る。下方から光が当たれば笑っているように観える。

 更に光の強さ、質(暖色系、寒色系)によって、能面が醸し出す表情は千差万別・無限と云ってよい。

 逆に光が当たっていないと、どんな表情なのか皆目分からない。いや、其の存在すら認識することができない。

 ゆえに、写真家は被写体ではなく、被写体への「光の当たりよう」を撮っているのである。

 

 この光を、「神の愛」と置き換えてみよう。

 自分が、神の愛の光に包まれれば、自分が神の愛によってこそ生かされていることを“実感”できる。そして光が当たれば、自分が不都合、不具合極まりないと思っていたことが、たった一点のシミであることに気付く。其のたった一点のシミに捉われ、自分が自分を駄目にしてしまっていたことにも気付かされる。(主によって与えられしいのちと、いのちを生きる意味の否定、卑下・・教会ではこれを“罪”と呼んでいる)

 神の妙なる優しい光につつまれし自分は、神の美しい被造物、珠玉の芸術作品である。これを想うだに、「奇しき主の光、こころに満つ」と感謝と悦びの讃美を詠わずにはいられなくなる。

~Missio Dei~2024年3月21日

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 2024年3月22日(金)、中野バプテスト教会での洗礼式にお立会いをさせていただく。

「洗礼」~これほど、心ときめく文言はない。

 先日、父の遺品整理の為、実家に帰省した折、実家に置いてあった私の幼少期~青年期のアルバムをすべて自宅に持ち帰った。私が洗礼に与った写真とも数十年ぶりに対面‼(1981年6月7日・同盟福音基督教会・岩倉キリスト教会/授洗者:土屋繁牧師)。これを観るや、「初心忘るべからず」の思いがこみ上げてくる。

「初心忘るべからず」・・此れは近世能を確立した世阿弥の言葉である。

 何ら説明のいらない字義通りの言葉であるのだが、「初心忘るべからず」には、「生涯を通して新鮮に存在するための方法を考えよ」という思いが籠められている。

 自己の所感であるが、「生涯を通して新鮮に存在するための方法」は、日々“Memento mori~死を黙想すること”ではないかと思う。

 Memento mori~今日のこの一日は、全生涯の総括。今日という一日は、これまでの全生涯に匹敵する重みがある。今日、此の日、主に捧げる賛美の歌は、人生最高(最幸)の「辞世の句」でもある。

 そして今日、此の日こそが、永遠に繋がる一日であることを想わずにはいられない~

「佳き死を黙想することで、佳き“今”を生きること」が、「生涯を通しての新鮮に存在するすべ」ではないだろうか。

 

 洗礼は、「キリストと共に古き自分を水の中に葬る、と同時にキリスト共に水の中(死)より引き上げられ、新しい自己として復活をする」ことを顕す。洗礼は、「死」と「生・永生」が表裏一体となっている。

 実は「死」と「生・永生」は大の親友でもあるのだ。この二者の間には、絶えず聖なる新鮮な息吹がそよいでいる。

「永遠に生きるかのように自分の体を大事にしてください。

 そして明日死ぬかのように自分の魂を大切にしてください。」アウグスティヌス

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 昨今は「子」のつくお名前がめっきり少なくなってしまったが、「子」は、日本人女性の品性・品格を一言で表す秀抜な言葉であると思う。

 以前の投稿で「子」は、人生完「了」するその日まで、名前のとおり「一」途に生きぬくことができますように、という「了」と「一」の二文字の複合であると記した。

「久美子」であれば、人生完了するその日まで、久しく美しく在れ、となる。

 尚且つ、「子」は「ね」とも読む。実は此の「ね」は、「音・ね」と同義である。

「久美子」であれば、久美子の全生涯が、久しく美しい楽の音に満ち溢れますように、となろう。

 中国の偉大な思想家「老子」「孔子」「荘子」は、深遠な思想を釈義的にではなく、まるで楽の音のような"ことのは”で人々に伝え、流布した方々である。

 故に名前に「子」なる称号を付けている。

 キリスト教(特にルター派)では、教会音楽家のことを「カントール」と呼称している。

 此れはCanto(歌)、~ore(する人)「歌う人・朗唱風にみことばを伝える人」だが、むしろ「歌わせる人」という方が的確であろう。

 カントールは会衆に、主と主のことばを歌うように伝え、皆々の心身深くに染み込ませて差し上げる人。尚且つ、会衆のお一人お一人もまたカントールに倣い、自らをしてみことばを詠い、みことばを分かつものとせらるる。

 楽の音は、生活世界にやさしく在りながらも、人智を超越するものである。

 人智を凌駕する摂理、真理を私たちに知らしめるのは、まさに「音・ね」を通してこそなされる。

 私たちの教会が賛美の奏でにいよいよ高鳴りますよう、そして私たちの生活世界が美しい「楽の音」に満ち溢れますように。
​ Missio Dei~2023年3月18日

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 フォーレ・レクイエム「Pie Jesu~優しきイエズス」を詠う。

 小学館の「ダックス先生と40人の子供たち」の、なかにししゅうすけ君の詩。

「えらいひとより、やさしいひとのほうがえらい。

 かねのあるひとより、かねのないひとのほうがもっとえらい。

 なぜなら、かねのないひとはさびしいなかで、よく生きているからだ。」

▷よく生きている人の生活は、いつもやさしい想い、言葉、行いに満ち溢れている~と、私の心に響く。

▷日本語の「優しい」は、素晴らしい言葉ではないか!!「人」を「百回」、「愛する」と表記している。

 関わるべき人が、どのような状況・状態であろうとも、心にかけ、共に泣き、共に苦しみ、共に感じ、共に痛まずにはいられない有様である。

 2000年前、ガリラヤの一地方でイエスが示された愛と優しさは、ガリラヤの風と聖霊の息吹を駆って、時を経れば経るほど、ますます高鳴る調べとなっている。ガリラヤ湖に投じられたイエスの優しい「一石」は、世界中にその波紋が広がり、とりわけ「寂しい中でよく生きている人」に迫り、とり囲まずにはいられない。

 写真は、五島の潜伏キリシタンが生活をしていた離島の岩場である~(潜伏キリシタンご末裔の方に船でお連れ戴いた)。彼等は、人を百回(無限に)愛して止まないイエスの優しいおことばに養われたがゆえに、激しい弾圧と、司祭が不在であるという“寂しい中”であっても、互いに其の優しさを分かち合い、よく生き抜くことができたのではないだろうか。

 Pie Jesu Domine~優しきイエズスよ。

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聖歌「丘に立てるあらけずりの」を詠う。

国民的TV番組「サザエさん」。私も幼少の頃より見入っていたが、小学校5・6年の頃だっただろうか、サザエがカツオに言った一言がいまだに脳裏に焼き付いいている。

~「カツオ。あなたが生涯、苦楽を共にする素敵なパートーナーは、もうこの世に存在してあなたとの出会いを待っているのよ。そのことを想うと、素敵じゃない?」

 何気ない台詞に、何かしらほのぼのとした気持ちにさせられた。

 本当に夫婦と云うのは不可思議な存在である。人生のほとんど一生を共にするのに、お互い知らない過去がある。

 私たち夫婦も互いに知ることのない過去の思い出を語り合ったりする。

 しかし、此の語り合いはただ単に「何があったの?」「その時、どうしたの?」という疑問に留まらず、無意識のうちにも「この出来事のうちに、まだ見ぬ貴方のことを想っていました」ということを聴きたいのではないだろうか?

即ち、「此の歓びはあなたと分かち合うための喜びであったのです。」「この時、負ってしまった心の傷は、あなたにこそ共に背負っていただき、癒していただく傷なのです。今、心の傷を負った往時の私を貴方の前に連れてきました」等、今の自分とのかかわりを見出したいという想いが籠められているように思う。

四旬節に私たちは「丘の上の十字架のイエス」のお苦しみを思い返す。

2000年前のイエスのお苦しみは、「わが苦しみは、まだ見ぬ2000年後の貴方の為の苦しみです。あなたが背負うことのできない苦しみ・悩みを、あなたに先んじて私が贖いました(お支払いいたしました)」と、自分に迫ってくる。

「思い出す」はRimenber。すなわち再び(Ri)、メンバー・同伴者(menber)にする、と以前記した。

思い出を語るということは、ただ懐かしがることだけではない。思い出を語るということは、現実を反芻する“追創造”、もう一つの現実である。「思い出」は過去の他者をも、“今”の自分のかけがえのない同伴者にする。

Missio Dei~2024年3月5日

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 ルカ伝2章、マリアの賛歌より、「主が身分の低いはしために、目を留めてくださった。今から後、いつの時代の人々も私を幸いなるものと呼ぶでしょう」

 勝手解釈になってしまうかもしれないが、此のみことばは・・「いつの時代の人々もマリアに倣って、それぞれの時代のマリアとして生き抜くことができますように。これ誠に幸いなり!!」と心に響く。

「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」の言葉通り、マリアは謙遜に自由自在に主の御心を生き抜かれた。マリアの投じられた一石は、全歴史を凌駕する大いなる出来事となったが、マリアご自身は、其の働きの実りのすべてを見届けられたわけではない。むしろ“悲しいことのみ多かりき”生涯であられた。

 神の宣教(Missio Dei)は、一気呵成に入信者を募る方法では決してない。むしろ歴史全体を通して(あるいは人の人生全体をとおして)、ゆっくりと確実に“佳き訪れ”をしみ込ませて差し上げる方法をお採りくだされた。これを「救いの経綸」(オイコノミア)と云う。

 私たちは、主の佳き協働者として「救いの経綸」の一ステップ、一石を担わされたものである。

あるいは自分の投じた一石で、すぐさま宣教の結果を観ることもできれば、そうでないこともある。たとえ宣教の実りを観ることが出来なくても、主に在って自分がなした業は、しっかと歴史にうちに(救いに招かれようとしている人にうちに)刻印されている。

 宣教者の常としては、なるべく自分の目の黒いうちに結果を観たいと思ってしまう。しかし、救いの御業の創始者も完成者も主御自身であられる。

 オイコノミアを司る主の委ね、自分はこの時代とこの時代の人に唯、粛々と役割を果たしてゆきたい。

 自分の投じる一石はまことにささやかなものであるかもしれないが、“救いの経綸”に繋がる、いや後世へと“救いの経綸”をお繋ぎさせていただく、かけがえのない一石である。

 此れを想うだに、マリアのように「私を幸いなるものと呼ぶでしょう」と言わずにはいられなくなる。

Missio Dei~2024年3月2日

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​MMissio Dei

 Missio Dei前回投稿に続いて・・

「キリストを信じられなければ、キリストを信じる人を信じましょう。」~ヘルマン・ホイヴェルス神父のことばである。

「キリストを生きる人々から差し出された愛の授受、分かち合いに心身を投じてみましょう。即ち此れが“キリストを信じる”ということなのです。」と、私の心に響く。

 キリスト者は、“今にキリストを生きる”キリストの全権大使。“今に生きるキリスト”(油注がれし者)とのお交わり・関わりから、古(いにしえ)より永遠に生き続ける“キリストとキリストのことば”を実感することがすることが出来る。いやむしろ“今に生きるキリスト者”とのかかわりがなければ、キリストとのかかわりは「実体」のないものになってしまおう。

信仰は頭で理解する思想ではなく、人格者とのかかわりに心身を投じる人格行為の極みである。

 

「信仰」と「信心」。似通った言葉だが、その意味合いは異なる。

「信心」は「信心業」と云われているように、業であり行動であり意志でもある。「信心」は「信仰」を支える業、慣わしと云えようか。

 愛の授受・分かち合いは、「キリストが愛される其の人」を愛さずにはいられないという、意思であり行動である。「信仰」は「信心」によってますます「信仰」たらしめられる。

 仏教(浄土真宗系)でいうところの「信心」は、“信心は徳の余り”とされている。それは、心のゆとりがあってこそ、信仰心も起こるものである、という意味である。

 心のゆとり、それは即ち「愛の分かち合い・分かち合いの徳」ではないか。

 人は関わり合わずにはいられない存在である。「分かつこと、分かり合うこと」・・それは人が人として生きる美しさそのものである。

~2024年2月26日~

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「分かち合いの徳」

 日本語の「分かる」と「分かつ」は、同じ語源による同じ言葉と云われている。

「分かり合う」為には分かち合わねばならず、分かち合いを通してこそ、真の相互理解に繋がる。

 有名な話であるが・・日本の大衆伝道の草分け的なお方、羽鳥明牧師の伝道集会に、(入信前の)弟の羽鳥純二氏が来られることになった。純二氏は東京大学工学部卒の超インテリ。明師は理論派の純二氏に対して、どのように理路整然と話せば、キリスト(教)を理解してもらえるのかと大いに悩まれた。思慮を尽くした末、結局「神は愛なり」(第一ヨハネ4:16)をただ篤く繰り返すだけとなってしまった。

 ところが純二氏はまさにその夜、キリストを信じる決心をしたという。(その後、羽鳥純二牧師は兄・明牧師とともに、長きに亘り福音宣教者として多大なる貢献をなされた)

 福音を分からせようと思って語れば語るほど、分からなくなる。何とか説き伏せようとしても、ほとんどが無駄に終わる。「神は愛である」「神が天地を創造された」ということは、分かるように話しても分からせることはできない。

 想像をするだに・・純二先生は既に兄・明先生が、キリストとキリストのことばによって生かされ、キリストのことばを嬉々として生き抜いているさまを目の当たりにしていたのではないだろうか。

 かの夜、純二先生は明先生の、「キリストが私に注がれた溢れんばかりの愛を、是非ともあなたにもお分かちをしたい。私は“キリストの愛”である貴方を愛しています」との言葉に、自分もまた心身を投じ、“参加”していく決意を新たにされたのではないだろうか。

 夫婦とて同じことである。ある意味、ほとんどの夫婦は医学的には血縁のない他人ではないか。しかしその他人同士が、互いの愛の分かち合いが果てることなく続くことを信じ、それに賭けてみようと決意をするところに結婚の神秘がある。

 まさに信仰とは、頭で理解してから信じるというより、神より差し出された愛の分かち合いを信じ、其処に心身を投じることによって初めて「分かる」世界なのである。

~Missio Dei~2024年2月22日

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「主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」詩篇127:1

 神学生時代のことである。教会の代表執事の和久井さんという方が、私にこのように仰った。

 和久井氏は関東圏にセブンイレブンを何十店舗も展開する、経営・経済のプロである。

「私たち経営・経済のプロでも、教会の運営・財務だけは理解することができません。教会には予想だにしないことが度々起こります。全く不可思議としか云いようがありません。ですから日本経済新聞を読むような牧師にはならないでくださいね。牧師はむしろ経済に明るくない方が良い。牧師はひたすらに聖書に対峙し、みことばの説き明かしに専心してください。」

 教会は、主が主の愛される方々をお呼び寄せになり、お始めになられたところ。主は教会の必要はすべてご自身で備えておられる。人があれこれと過度の心配をしても仕方がない。

 とある神学大学のシンポジュウムで「現代の流動化するコンテクストにおける教会形成」なる討論がなされた。しかしながら・・教会形成は誰がするのか?教会形成は神ご自身がなさることではないか‼

 そうであれば、流動期であろうと停滞期であろうと、そんなことは問題にならない。まるで人間が教会を造っていかねばならないかのような思い違いをしているとしか思えない。

 では、このシンポジュウムでの討論内容を実践することで、日本の教会は隆盛を極めるに至ったか?答えは「否」である。

 教会は(神学校も)、討論・討議をする場ではない。神のみ旨が何であるかつまびらかにしていく祈りの場である。人智をはるかに凌駕する御業に、感嘆と感謝の讃美を捧げる場である。そしてキリスト者一人ひとりが、信仰という武具を携えて、神のみ旨に参与していくところである。

 さもなくば、「神の聖なる宮」を一零細企業に大格下げすることになる。
~Missio Dei~2023年2月14日

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 2019年のクリスマス、中野区のイエズス会神学院にて「日本のプロテスタント教会の歴史と文化」と題して講演をさせていただいたことがあった。

 質疑応答の際、未来の神父様/神学生諸氏から一番多く出された質問は「幼児洗礼」と其の聖性であった。今、改めて「幼児洗礼」に思い巡らしてみたい。

 確かに・・「幼児洗礼」については、それを支持する教会と否定する教会がある。

 聖書には、幼児洗礼に言及した箇所はない。幼児洗礼は「伝承」として紀元3世紀ごろから行われていたという。今と違って、乳幼児の死亡率が高い時代であったので、大人になる前に死んでも天国に行けるように、幼児洗礼を授けた。その背景には、「洗礼によって救われる」という誤った認識があった。

「人は信仰と恵みによって救われる」というのが、救いに関する真理である。もし洗礼を受けることが救いの条件であるなら、救いには「人間の業」が必要だ、ということになり、救いの摂理に反することになる。イエスと共にカルバリの丘で十字架につけられた犯罪人がイエスに対して「イエスよ。あなたがみ国に入られるとき、私を思い出してください」と言うと、イエスは「あなたによく言っておく。今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」と仰った(ルカ23章)。此の犯罪人は心からの回心をしたが洗礼は受けていない。しかしイエスは「私と共にパラダイスにある」と明言されている。

 洗礼は救いの条件ではないが、大切至極である。洗礼を受ける第一の理由は、「イエス・キリストがそう命令されたから」に他ならない(マタイ28章参照)。

 キリスト者とは「生涯を通してキリストによって、キリストともに、キリストのうちに歩む者」のことである。洗礼は生涯、キリストと共に在らんとするキリスト者の公生涯の始まりの宣言であり、それに対するイエスの祝福の油注ぎである。

 幼児洗礼は、「今,与えられし子供が神の子として、イエスの兄弟姉妹として生きることが出来ますように、どうぞ聖霊によって導いてください」という“両親の願い”を表す礼典であると云えようか。

 幼児洗礼のとき両親は、「今、与えられし子供は決して自分たちの所有物ではない。子供は神のものであり、神の名によって愛し育てるようにと、神より託された人格である」との想いも新たにする。両親が親になるということは、神が親となってくださることに参加することである。

 洗礼は「パンを葡萄酒に浸す」という意味もこめられている。此の洗礼によって両親は、この聖なる務めを心身深くに浸し、刻印することになろう。
​~Missio Dei~2024年2月9日

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 典礼聖歌「主は水辺に立ちて」

~主よ!私を見つめ、微笑みわが名を呼ぶ~

 イエスが、ガリラヤの漁師ペトロを使徒として召命なされた光景を詠っている。

 主はペトロの名を呼ばれたように、今も”私”の名をお呼びである。

 名前は、其の人の人生の一大テーマである。「久美子」を例に挙げてみよう。中国の故事によれば「子」は、「祈願・祈り」が籠められた文字とのことである。子は「了」と「一」によって成り立っている。即ち「久美子」とは・・「人生終“了”するその日まで、久しく美しく、“一”途に生き抜くことができるように‼」という命名者であるご両親の「祈り」と云ってもよい。

 主イエスが「わが名」をお呼びになることには、「主に在って貴方が貴方の名前の通りに人生を生き抜くことが出来るように」という、祝福とご期待が込められている。

「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」使徒行伝3:6

美しの門にすわっていた足の不自由な人がペトロの言葉によって癒された箇所であるが、あえてイエス・キリストの「名」と宣言している。「名」は単なる標識ではない。「名」は、其の人の性格・品性・全人格を表すものである。  ペトロは肉体の癒しのみならず、「生涯を通して主のことばと主のおこころを貴方のものと成すことができるように・・」という思いも込めていたのではないだろうか。

 

 ロスアンゼルスで牧会研修をさせていただいた際に聞いた話である。~とあるハンバーガー店(IN-N-OUT??)で出来上がったハンバーガーをお客に渡すとき「〇〇さん。出来上がりました。カウンターまでどうぞ!!」と、番号札ではなくファーストネームで呼ぶことにしていたそうだ。しかし其のお店、地域の人気店となり「〇〇さん!!」と呼ぶと、同じ名前の人が何人もカウンターに殺到するようになってしまった為、残念ながら其のシステムを止めざるを得なかったとのことである。

 

 主イエスは、他の誰でもない自分の、そして貴方の名を今もお呼びである‼

~Missio Dei~2024年2月8日

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 神の命令形

「タリタクミ『少女よ, あなたに言う, 起きなさい』」(マルコ5:41)

「(ペトロに対し)早く、起き上がりなさい」(使徒行伝12:7)

「帯を締め、靴を履きなさい」(使徒行伝12:8)

「上着を着て、ついてきなさい」(使徒行伝12:8)

 神はいつも私たちに「~なさい」と言われる。これは神のことばの一大特色である。

「~なさい」というのは私たちに応答を求めることばである。

一方的な押し付けや強制ではない。

「いつまでも輝かんばかりの光を外から眺める者ではなく、いち早く光の輪の中に入り、その当事者となりなさい」という、いのちへの招きである。

「~なさい」は、人が応答をするであろう、いや、人はそれに対し応答をせずにはいられないであろうという「神のご期待」である。

 モーセの「十戒」とて同様である。第1戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」十戒は、「~するな」という否定命令文であるが、此れも「“神の愛”と“神のおよろこび”である貴方は、全身全霊で主と主のみことばを生きる貴方であらずにはいられないであろう」という、神のご期待である。

 この神への応答、即ち神との「対話」に招かれた人は、神の世界に呼吸をする人である。この呼吸による心身の充実は、まさに現実に中の現実。それほど信仰というものは客観性を持っている。自己の主観的な思い込みや、あるいは神の強制に対しての屈服ではない。

 この確かな心身の充実があったからこそ、(特に日本の潜伏キリシタンは)約250年間、司祭が不在であっても、信仰の現実を生き抜くことが出来たのではないだろうか。
~キリストに讃美~2024年2月4日

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「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」~豊臣秀吉の辞世である。

 この世のあらゆるものを手に入れた秀吉であっても、その栄華はわずか数十年にしか過ぎなかった。幽玄なる永遠から観れば、まさに私(秀吉)の人生は一刹那の「夢」であった・・

 「現世」の平仮名表記は「うつしよ」となる。「うつし」とは、人の生から死までの転移を表している。

 その時、その時の現(うつし)は、目まぐるしく流転する儚いものである。

◇聖書のことば

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒行伝2:17)

『(ペトロは)、ヤッファの町で祈っていると夢心地になって幻を見た。』(使徒行伝11:5)

 聖書が語るところの「夢」は、うつしよの「夢」とはむしろ正反対である。

 特に後者のみことば“夢心地”は、フランシスコ会訳聖書では“脱魂状態”となっている。

 夢心地・脱魂とは、まさに魂のリセット。自分の可視領域のみをすべてとする考えを脇に置き、人智を超越する大いなる御摂理に心身を寄せる有様ではなかろうか。

 夢を見るとは・・まだ実現していないことを垣間見ること。しかし主によって夢見させていただくことは、実体のない陽炎ではない。主の夢は、確かな未来完了形である。未来のことでありながら今、此のところで味わう出来事である。

 主の夢は預言過去である。未来のことを預(予)言しつつも、既に自分が体験した出来事となっている。

 主の夢は究極の「正夢・まさゆめ」である。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)“目に見えないものを”を、“主にあって夢見ることを”と置き換えても良い。

 さあ、自分はうつしよの「夢」に心を留めるのか、主にあって夢見る自己で在りたいのか?その選択は、各々に委ねられているように想う

~Missio Dei~2024年2月2日

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 プロとアマチュアの違いは何であろうか?

 プロもアマチュアも、携わっていることに対する情熱は同じである。

一点違うとすれば、プロは事の顛末、最終責任まで自分が負わなければならないが、アマチュアは最終責任を負わなくてもよいということではないだろうか。

 戦時中、日本の教会には宮城遥拝(きゅうじょうようはい)が課せられた。皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為である。戦時中の日本の教会を指導していた人たちは、信徒の生命・財産を守らなければならないと考えて、断腸の思いで宮城遥拝を主日礼拝に組み込んだ。

 反面、断固としてこれに反対し、憲兵隊に捕らえられ投獄をされ獄死をした牧師もおられた。辻啓蔵牧師もそのお一人である。ご子息、辻宣道氏の手記を読んで胸が熱くなったことがあった。迫害に最期まで屈することなく、耐え抜いた方々には唯々敬服しかない。

 しかし迫害を逃れ、逃れた先で自由に宣教に勤しむ人々もいた。

「さて、散らされていった人々は、みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた」使徒行伝8:4

初代エルサレム教会はステパノの殉教の後、教会に対して大迫害が起こり、使徒たち以外の人々は、様々な地方に逃れて(散らされて)いった。

 使徒行伝を観ると、宣教のプロである使徒たちよりむしろ、一般信徒の方が目覚ましい活躍をしていたことが分かる。使徒たちは最期まで教会の存続に心を砕いていたが、信徒たちは迫害を受けたら逃げることができた。後のことは責任を感じなかった。信徒をアマチュアとは言わないが・・プロである使徒たちよりももっと自由に大胆に宣教に携わることが出来た一面もある。

 此の両極の出来事から想わされるに・・もちろん私は宣教者としてのプロに徹していたい。しかし心のどこかに「宣教は神ご自身がなされるもの、“Missio Dei~神ご自身による宣教”。宣教は主ご自身がお望みになり、お始めになられたこと。私は主と主のおことばをお通しし、お運びする“通りよき管”で在りたいと願っています。しかし、それ以上のことは主ご自身がなされること。最終責任は主ご自身が負ってくださいましょう。」と、アマチュア精神を残しておきたい。

 宣教は、果敢なプロ精神と、聖なるアマチュア精神の“妙なる調和”であるやもしれない。

~Missio Dei~2024年1月31日

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『私について来なさい。無理なら私がついて行きます。』

 敬愛するイシドロ・リバス神父様からいただいた式紙に書かれてあったことば。

 聖書のことばではないが、イエスのおこころと其の生きざまを一言であらわしたことばではないか‼

 此れを文字通りのことばとして味わうこともできれば・・・

 主イエスは、私たちがイエスについて行きやすいように、私たちの分かることばで、私たちが分かる〝ありよう“でご自身をあらわし、十重二十重にご配慮をしていただけるお方であると、こころに響く。

 イエスは、私たちがイエスに倣ってゆきたいという意思と気概を最大限に尊重されるお方。いやむしろそれをこそ育み、発展させることをご自身の悦びとなされるお方。

+インマヌエルなるキリスト・イエスに賛美。

~Missio Dei~2024年1月30日

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◇聖歌「みかみの愛をば」Ⅰペテロ1:8~言い難く、かつ光栄ある喜びをもて喜ぶ~

~神の家族主イエス・キリスト教会“Coro Pescatore”定期練習からのお分かち。

同曲は、周知のベートーヴェン「第九交響曲~歓喜に寄す」の讃美歌転用である。

ベートーヴェンは此の「第九」を、専門家だけではなく万人(alle Menschen)に歌ってほしいと願ったに違いない。

讃美歌転用と言えども、ベートーヴェンが記したメロディー、和音構成は、一音たりとも変えてはならない。しかしテンポ(アゴーギグ)は、作曲家の指示はあるものの指揮者・演奏者の自己裁量に委ねられている。

さて、万人共感の「テンポ感」とは・・お稽古中、期せずして飛びだした言葉をお分かちしたい。

▷初老(白秋世代)の方々が、心地よく感じるテンポ。

 此れは、元気溢れる若者も、初老の方々に足並みをそろえて差し上げる心遣いと言おうか。

 かつまた、人生の大先輩である初老の方々には、まだまだ沢山教えを請わなければならないことがある。初老の方々のそよぎに同調すると、優しく謙虚になれる。

▷女性が心地よく感じるテンポ。

 「女性的な慈愛に満ち溢れるテンポ感は男性にとっても心地よい」と言い得るが、「男性的な勇壮なテンポ感は、女性にも心地よい」とは、必ずしも言えない。

 男性(男性性)は狩猟本能とでも云おうか、決められた期間、時間内で獲物や業績を獲得しなければといった性急さがある。

 女性(女性性)は、出産・授乳・“長い年月をかけた育児”といったように、長いスタンスで日々の生活をいとなんでいる。

 女性のテンポ感は男性よりも“遅い”のではなく、”深い“(もちろんこれは、男性は男性性のみ、女性は女性性のみを有していると限定しているのではない。個々人によって差異がある。)

なるほど確かに、音楽はLa Musica、女性形である。

▷私たちは、万人共感のテンポ感を味わえばこそ、かえって自分独自のテンポ感を見出すことができるのではなかろうか。上記二つのテンポ感は、ニュートラルポジションであるように思える。

~Missio Dei~2024年1月23日

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新春コンサート~ロングライフ梶ヶ谷
『小寒に 歌の花束 もて参ず

 集いし皆々 早(はや)春めいて』

 小春日和の2024年1月19日、8曲の歌の花束を携え「ロングライフ梶ヶ谷」新春コンサートにお伺いをした。

 人生の諸先輩方を前に、改めて世阿弥の「老後の初心忘るべからず」のことばが胸に迫ってきた。

 Facebook前回の投稿で・・「老後の初心とは・・人生の晩節にこそ咲かせる花がある、いや、人生の晩節でなければ咲かせられない花が多々ある。人生の晩節こそが花盛り。新鮮な想いでそれに臨まずにはいられない。」と記した。

 老後の初心が織りなす最も華やかな“花”は、「祈り」ではないだろうか。

 私はご高齢の方々の祈りには、特別な力があることを識っている。亡き父は、不出来な息子のためにいつも祈ってくれていた。実際に顔を見合わせずとも、父の存在と其の祈りは、最期まで私の道しるべであった。いや、今なお万軍の天使と共に祈りを合わせ、エールを送ってくれている。

 「ロングライフ梶ヶ谷」の壁には、美しい絵画がたくさん掲げられていた。私の父も晩年過ごした特養ホームに、父が描いた絵画を5点ほど飾らせていただいた。 父が天に召された後、特養ホームのお部屋の整理と絵画の回収に伺った際、「稲垣さんが描かれた絵画を是非このまま、こちらに飾らせていただけないでしょうか」とのホーム長様からおことばを戴き、今なお父の絵画はそちらに掲げられている。

 そのような中、詠わせていただいた「主の祈り」(←今回のコンサートプログラムに予定していなかった)。時空を超えて働かれる“天にまします我らの父”のご愛が、究極の現実として迫りくるのを感じずにはいられなかった。

 

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 新しき地に (新聖歌398番、聖歌584番)

1. 新しき地に 踏(ふ)み出(い)だす

 心に備(そな)え ありや見よ

 ヨシュアのごとく われも言わん

「わが家(や)とわれは 主に仕えん」

▷新しい年、新たな思いで、主が遣わされる新しい生活世界へと一歩踏み出だしたい。

「ヨシュアのごとく我も言わん。我が家と我は主に仕えん」ヨシュア記24章15節から、使徒の働き16章31節「主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も救われます。」を連想することが出来る。

▷あなたが救われれば家族も自動的に救われる、という意味ではない。一心同体に思える家族とて、私とは別の一人格者。   聖書には、Aさんの信仰によってBさんが救われるという教えはない。それが家族であっても、本人が信じなければ救いはない。

 この聖句の意味はこうである。あなたは、主イエスを信じれば救われる。つまり、あなたもあなたの家族も、同じ信仰の原理によって救われるということである。

▷先に救われた自分が、確実に家族に福音を伝えるならば(特に親から子へ、子から孫へ)、百年後には日本人口の80%がキリスト者になるということである[i]。←(あくまでも統計学上の計算)

 神の宣教(Missio Dei)は、一網打尽に人々を掻き集める方法ではない。主イエスのようにひとりひとりにお声がけをし、 共に食事をし、お泊りになられ、励ましと癒しをお与えになられた其の生き様こそが「神の宣教」に他ならない。

 私は言わずにはいられない「主よ。私の家族に関しては、この日この時、私が責任をもって福音を伝える使命を果たしとうございます。」 それこそが、「ヨシュアのごとく私も言わん。我が家と我は主に仕えん」に他ならない。

 天に召された先のパパ様ベネディクト16世は、「主の年2024年にはリバイバルが起こる」、と預言されている。その預言によるリバイバルとは、世界のそこここにメガチャーチが起こされるというものではない。むしろ独立独歩としての教会が起こされ、大きな教会組織が細分化していくとのことである。

 パパ様のことばを借りれば、世界中がセルチャーチ(家族教会)に満ち溢れていくことこそが、リバイバルと云えるのではないだろうか。

 救いの御業は永続していく。モーゼからヨシュアに、エリヤからエリシャに、そしてヨシュアからイエスに救いの御業が継承されていったように、私も私の家族教会を神の嘉せられるものとしなし、次世代へと信仰のバトンを繋いでゆきたい。

~Missio Dei~2024年1月19日

[i] 戦国大名が、手柄を立てた家臣に、何を褒美として所望か尋ねた。家臣は「碁盤を用意していただき、其の一升にまず米一粒を置いていただきとうございます。隣の升に二倍の二粒、更にその隣の升に其の二倍の4粒。碁盤が全部米で満たされる米を頂戴いたしとうございます」と言うや、主君「なに、容易いこと。そなたも意外に欲がないのう」と答えた。主君は米一俵もあれば事足りると思っていたのだが、とんでもない。その年に領内で収穫された米全部でも未だ足らない分量であったとのことであ

 

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◆文部省唱歌「冬景色」より、ショートメッセージ

①さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の

 舟に白し、朝の霜。

 ただ水鳥の声はして

 いまだ覚めず、岸の家。

②烏(からす)啼(な)きて 木に高く

 人は畑(はた)に 麦を踏む

 げに小春日(こはるび)の のどけしや

 かへり咲(ざき)の 花も見ゆ」

▷主がお創めになられた主の年(Anno Domini)2024年に、新たな思いで臨まんとする年の初めの今日この頃、まさに「初心忘るべからず」の心境である。

「初心忘るべからず」これは能の大家“世阿弥”のことばである。

 此れは「新鮮に存在し続ける為の方法を考えよ」ということである。

世阿弥が記した「花鏡」には、三つの初心が記されている

「是非の初心忘るべからず

 時々の初心忘れるべからず

 老後の初心忘れるべからず」

「是非の初心」とは文字通り、「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならない。」となる。

 時々の初心とは・・(以下、幾分自己の所感を加える)「自分をその時、その時節、その年齢ならではの花と咲かせ、自然に素朴に其の香りを味わい分かち合わずにはいられない。」、ではなかろうか。

 同じ世阿弥のことばに「時分の花」と言葉がある。読んで字の如し「時をわきまえた花」である。

 人生の時節は季節のことばで表される~人生の春・青春。人生の夏・朱夏。人生の秋・白秋。人生の晩節・冬・玄冬。

いついつまでも自分は燦然と輝く「ひまわり」であり続けることは出来ない。晩秋には晩秋にこそ咲く花がある。晩秋に咲く花は、ひまわりの輝きに劣る花では決してない。異なる美しさをたたえる花である。その年齢にふさわしい“身の丈たけに合う”花として在りたい。

 そして老後の初心とは・・人生の晩節にこそ咲かせる花がある、いや、人生の晩節でなければ咲かせられない花が多々ある。人生の晩節こそが花盛り。決して晩節を「人生の収束」としてはならない。~上記歌詞2節“かへり咲き”は冬(玄冬)の季語~

 このように世阿弥のことばは、生涯を通して「新鮮に存在し続ける」通奏低音となってくれよう。

 新しい年、新たな思いで、主が遣わされる新しい生活世界へと一歩踏み出だしたい。
​~Missio Dei~2024年1月17日

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聖フランチェスコ『太陽の賛歌』より

「わが主よ。すべての被造物とともに、御身は讃えられよ。

 とりわけ偉大なる兄弟、太陽とともに。

 昼があるのは太陽ゆえであり、われらは太陽に照らされる。

 太陽は美しく、大きなる輝きを発して、いと高き御方よ、御身を思い起こさせます。

 わが主よ。姉妹なる月と、星たちによって、御身は讃えられよ。

 御身が天のうちに創り給うた月と星々は、清澄にして貴く美しい。」

◆歌劇「ドン・ジョバンニ」のドン・ジョバンニ役を演じたときのこと、演出の栗山昌良先生から一環として言われた・・「君はただ中央で格好よく凛としてくれていればいい。ジョバンニのありようは、脇役が“どのようにジョバンニを観ているか、あるいは関わろうとしているのか”によって表される。」

 脇役が主役を十重二十重に囲み、まるで鏡のように多方面から多角的に主役を映し出す。それをして主役の人性が、ますます主役たらしめられていくこととなる。(ゆえに、演技的には主役よりも脇役の方が数段難しい)

 そして聴衆は、鏡である脇役が“映し出す主役”を観ようとする。鏡そのものを観るのではない。鏡が見ようとしているものを、聴衆もまた観ようとするのである。

 この世は神がお造りになられた沢山の被造物に溢れている。森羅万象(太陽・月・星)、更には経済、財産、名声、縁故などもある意味、神の被造物である。

 しかしながら私たちが眼差しを注ぐべきは、これら被造物そのものではなく、被造物(脇役)が映し出している、創造主(まさに主役)そのお方である。

 自分が経済人であれば・・経済・財産こそが、今生を生きる安心保障であると固執するのではなく、むしろ経済人としての使命を通して、創造主が自分にどのようにお働きになられようとしておられるのかを観てゆきたい。

 こういう生き方は信仰者としての理想である。それをして、聖フランチェスコのような感謝の讃美を自由な心で捧げることができよう。

~Missio Dei~

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とある絵画のCMの文言でハッとさせられた。

「消しゴムは、消すためのものではなく、光を与えるものなのですよ。」

 成程・・消しゴムは、既に描き込まれた水彩画に、最も明るく見える部分(ハイ・ライト)をつけていくものに他ならない。言い換えれば、消しゴムは「光を描くツール」である。

 消す、修正をするという言葉からは、「間違いを消去し、矯正をする」というイメージしか沸かない。

 しかし消すことは即ち、「光を指向していくことに他ならない」というこの絵画的な発想から、大きな示唆を得ることが出来る。

 私たちにとって欠点とか過ち、間違い等は、観るに堪えない汚らわしいものではない。むしろそれらは、自分がこれから成長をしなければならない領域・分野を示していると云ってよい。

 神の優しい“愛の光・愛の光合成”のうちに、自己を育み、開花させることができよう。いや、開花せずにはいられなくなってくる。

 神は決っして、間違いを正したり叱責することはなさらない。むしろそれらを自分自身で克服し、自己を発展させることが出来るよう、優しい愛の光を投げかけ御見守り下さるお方である。

 以下、詠み人知らずの詩歌です。作者をご存じの方がおられたら、お教えください。

「私の話を聞いて」

私の話を聞いてとお願いしているのに、忠告されはじめると、それは私の願いではないのです。

私の話を聞いてとお願いしているのに、そんなふうに考えたら駄目だと説教されると、それは私の感情を無視していることなのです。

私の話を聞いてとお願いしているのに、私のために何かをしてくれることは、私のためにならないのです。

忠告はわずかなお金でも買うことが出来ます。

小銭一つあれば、新聞に載っているビリーグラハムのアドヴァイスを読むことが出来ます。

自分一人でも問題は解決することはできますから。

その点、祈りは効果があります。

神様は何もおっしゃらないから。忠告をされたり、間違いを正そうとなさらないから。

神がただ黙って聞いてくださって、人が自分で解決できるようにそっとしておいてくださいます。

~Missio Dei~

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「孤独のグルメ」静想2

 とある落語家がこのように語った。「私が落語を語るのではない。落語が私の口を通して語り始めるのだ」。古(いにしえ)より伝わりし“ことのは”を、その時、その場ならではの在り方で、お通しして差し上るということであろうか。

 私は“通りよき管(くだ)”という表現が大好きである。主のみことばは、旧新約聖書を通して語りつくされている。しかし、私たちの内にはまだ十全に行き渡ってはいない。私が生きる時代と、私が携わる領域にふさわしい在り方で、私という人格を通して、主のおことばをお通してさせていただきたい。

 かつて主イエスがエルサレムに入場された際、人々は棕櫚の葉を道に敷き連ねて歓迎をしたが、今を生きる私は、私自身を道に横たわらせ、現在のエルサレムと生活世界にイエスをお通しせずにはいられない。

 マタイによる福音書3章で洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっ直ぐにせよ」と語った。まっ直ぐではない曲った道とは、私“が”神の言葉をどのように語ろうかとあれこれ思索をすること、と心に響く。まっ直ぐな道とは、神が私を通してどのようにお働きになられようとしているのかを静かに想うこと。

まさに両者は紙一重のように思えるが、実は天と地ほどの差がある。冒頭の落語家のように、「ああ今、私が歌い語っているのではなく、福音自らが語り、歌い始めた!!」と想える瞬間は、正直申し上げて年に一度あるか無いかである。帝釈天の御前様ではないが、“まだまだ修行が足らん”私である。願わくは、私という等身大の管(パイプ)を用意して、聖霊の息吹をお通りになっていただき、高鳴る調べとさせていただきたい。

 しかし、私の一本のパイプですべてを網羅することは到底出来まい。ほかのパイプとの協奏、共演があってこそ、あの大パイプオルガンの調べとなってこよう。さもなくば、宣教に躍起になる私のみが“孤立”状態へと陥る。

 私ならではのパイプの奏での確立は、すなわち此れ“孤独”といえようか。孤独とは、ロンリー(lonely)・一人ぼっちの寂しいさまではなく、主に在るかけがえのない“個の確立”に他ならない。

 個の孤独があってこその全体。この真理は、福音全体に亘る通奏低音である。

~Missio Dei~

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「裂かれたる主の体」~パンを裂き葡萄飲むごとに~

 最近「孤独のグルメ」なるTV番組が静かなブームとなっている。

 主演の松重豊氏がただ食事をしているだけなのだが、視聴率はうなぎ上りであるとか。時々松重氏は、隣のテーブルの家族団らんの食事を羨ましそうに見入る。

 人にとって食事をする、食卓を囲んで食を分かち合うということは必要不可欠であり、尚且つ最も原初的な喜びといってもよい。これは時代がいくら進もうが「AI」が生活世界に台頭しようが変わることのない”いとなみ“であり続ける。

 戦国の世、守護大名が乱立した時代は各々の地域で通貨を制定していた。日本全国共通の通貨がなかった。それゆえに多国間交渉や手柄を立てた家臣に報奨を与える際には、「米」を全国共通通貨として経済価値を算出した。

 米は主食。食事をしなければ人は生きていくことが出来ない。食は人の生命活動に直結するものである。よく歴史でOO万石といわれるが、「一石」は、一年に大人が食べる米の量を収穫できるだけの土地の広さである。一万石は一年に一万人の大人が食べる米を収穫できる土地の広さということになる。

(聖書のことば)

 二人の弟子がエマオの旅の途中でご復活の主イエスに出会った。しかし、弟子たちの目は遮られていたのでイエスであることが分からなかった。しかし、その二人の弟子は家に着いたとき、食卓でイエスがパンを裂かれたその時、主イエスであることに気がついた。(ルカによる福音書24章参照)。

 パンを裂くということ以上に一般的で日常的な仕種が他にあるだろうか? パンを裂くこと・・もちろんこれは中近東あるいは欧米社会の食卓での基本的な動作である。その動作に、其の人の“人となり”、癖などが余すところなく表される。(パンを裂くことは、私たち日本人にとっては、ご飯を盛って差し上げることと置き換えられようか。)

 このパンを裂く、ご飯を盛って差し上げるということは、あらゆる人間の動作・仕種の中で最も必要かつ人間的なものである。それはもてなしの仕草であり、「友情」「思いやり」「一緒にいたい」という思いの表れでもある。

 イエスは、パンを一つとって祝福し皆に分かつという最も日常的なことを通して、最も超日常的なことをなさっておられる。それ言い換えれば最も人間らしい仕草であることこそ、最も神らしい仕草であると云える。

 今に生きる私たちにとっても、私たちの日常的で最も人間的な仕草といとなみのうちに(特に食卓にこそ)、神が親しく近しくお臨みになっていただいていることを覚えていたい。
Missio Dei~2024年1月5日

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 新年元旦の霊想「食卓の妙味」

 食卓は私たちの生活の中で、自己と他者が最も親密になれる場所である。

 夫婦、親子、友人が食を分かつことを通して、自らを供し合う場が食卓である。

「さあ、本日のメインディシュですよ!!」「お代りは如何ですか!!」「遠慮なくお取りください!!」という時、私たちは其の言葉以上のことを告げている。

 即ち、「食を分かつあなたは既に、私の生活、いのちの一部です。」と言っているのである。

 聖書の世界では「共に食事をする」、あるいは「泊まる」ということには、「あなたと私は同じ人間なのですよ‼」という思いが籠められている。

 主イエスは取税人ザアカイと食卓を共にし、一晩の宿を借りた。日本語でも「一宿一飯の恩義」という言葉があるではないか。「一宿」「一飯」を伴った友は、特別な縁で結ばれ、其の恩恵は生涯を通して続くことになる。

 少々大袈裟かもしれないが、「私たちがお互いのための糧となりたい。」と想うところ、それが食卓である。

食を伴うことに深遠な意味があるように、食を断つ「断食」にも深い意味がある。

 断食とは、神に関心を向けるために、食物を断つことである。つまり、この世への執着心を捨てて、神との関係を深めるということなのだが、断食にはもう一つ大切な側面がある。

 それは「私が一食を断つことで、それが必要な方に届けられますように」という、分かち合いの徳の表れである。

この世界は、食べ飽きるほどに食しダイエットを推奨している国もあれば、飢餓、貧困で苦しんでいる国もある。このような偏りは、人自らをして造ってしまった大罪である。私たちが偏りなく食といのちを分かつことでこそ、平和が実現する。

 主の年2024年が、主の平和に満ち溢れますよう。

​ Missio Dei~2024年1月1日

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