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 一年締めの霊想!!

 和音構成には、密集位置と開離位置がある。

◆密集配分…上三声がオクターブ以内に収まる。上三声の音域が近いためその分、繊細な印象を与える。

◆開離配分…上三声がオクターブ以上に広がる。開離配分では混声合唱等で音域を広々と使えるため、その分ダイナミックな響きに感じられる。

 作曲者は此の密集と開離を適切に使い分け、バランス感覚に富む作曲を志している。

 同様に人間関係における“親しさ”とは、ひたすらに密集・密着することだけではなく、むしろ此の密集と開離との程よいバランスではないだろうか。更に云えば、開離に裏打ちされた密集こそが、真の親しさであるように想う。

 残念ながら人と人の関係には、たやすく所有欲が入り込む。他者に対しては、どこまでも貢献してゆきたいと思う反面、他者にも同様の、いやそれ以上の愛や好意を無意識のうちに求め、それにしがみついてしまう。

 所有欲から離れて他者を愛することは大変に難しい。人が人である以上、完全な愛の実現は不可能に近い。キリストのみが完全な愛をお与えになることができる。

 完全な愛とは、上記の和声のように親しさのうちにも、互いに距離をとる感性を持つことではなかろうか。互いに自分でいられるスペースを与え合い、敬い合い、それぞれの領域で産出される実りや賜物を分かち合うなら、本当の親しさが実現するであろう。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」ヨハネによる福音書15章12節

 ある意味、キリストの愛は十字架の縦の柄(直結)と横の柄(開離)の十字の愛である。

 人と人の真の親しさは近さともに距離を保つことでもある。それはダンスとも似ている。時には体を密着して抱き合い、ある時には離れて双方がソロダンスを演じ、互いに魅了し合う。

 十字のバランスに富んだ愛のありようを、キリストから学びたい。

 +キリストに讃美

 2023年12月31日

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「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。

この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」マタイ1章23節

 心にかけること(ケアCare)と治療(キュアCure)は違うものである。

 治療は「好転」を意味する。医者や法律家、聖職者は、心身の状態や生活環境を“好転”させるため、専門的な技能を駆使する。

 私の母が天に召されたとき、母が務めていた歯科医院の院長先生から弔問の際このようなおことばを戴いた~「日本の医療技術は大変高度なものだが、医療技術の進歩に比べて精神的なケアが置き去りにされてしまっている。」

 院長の仰った精神的なケアとは“心にかけること”である。

 もちろん、日本の医療機関の全部がそうではないが、院長のことばは日本の医療の傾向を表しているように思う。

 心にかけるケアが不在の治療は往々にして、機械的にものになってしまおうか。

 心にかけるとは、共にいること、共に泣くこと、共に苦しむこと、その人のことばと生きざまに共感、共鳴して差し上げることである。

 目の前におられる人もまた、神の"およろこび・Ave”であり、自分と同じ尊いいのちが神によって与えられし方であることを歓び合いたい。そして自分も他者も其のいのちを、いつかは天の父なる神にお返ししなければならない、か弱い限りある人間であることに共感することが大切至極ではないだろうか。

 昨今巷には、AI による学習を促すコマーシャルが流れ、AIによる医療がなされているようだが、これは如何なものであろうか?

 確かにそれで学力が向上し、病気が治ることもあろうが、それを成したからといって飛び上がるほどの歓びを感じることは出来まい。

 先人が心を込めて“口移し”で学術を伝授していただいたことや、お医者様自ら患者に相対し“手当て”をしていただいたという、心と心のふれあい(ケア)こそが、人に真の充実をもたらしてくれるのではないだろうか。

 人はかかわる存在である。関わらずにはいられないのが「人」なのである。

 AIには心はない。主イエス・キリストは心と心がふれあう(ケアしあう)最も人間らしい在り方をお採になられた神である。
~MIssio Dei~2023年12月24日

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☆彡🎶「牧人(まきびと)ひつじを」~流山音楽アカデミーのお分かち

 主の年2023年に生きる私たちも、ご降誕の主イエスをお祝いするために、讃美歌「牧人ひつじを」を携えて、江戸川台教会の飼い葉桶に眠るイエスのもとに馳せ参じた。

 さて、主イエスがお生まれになられた往時、イエスのもとには羊飼いと東方の三博士が訪れた。伝承では羊飼いが先で学者たちは最後とされているが、どちらが先かは不明である。

 ルカによる福音書は羊飼いの礼拝を記述、マタイによる福音書は三博士に言及している。此れは、お互いが重複しないように、配慮して話題を分散したということではあるまい。

 しかしながら、私はこの伝承のとおり、羊飼いが先で学者は後ではないかと想う。此の「牧人ひつじを」も、まず羊飼いがイエスのもとを訪れ、3節で三博士の訪問を描いている。

 想うに・・主のみこころはまず“第一次産業”、すなわち農業・漁業・林業・牧畜業に携わる人々に示されるのではないだろうか。

 主が造りたもうた自然の恩恵に感謝をして、自然の摂理に沿うて生きる素朴な人々にこそ、主は働きかけられ、後に学者がその出来事の意義を明らかにし「言語化」する。この順位は、2000年前も現在も変わることのない摂理である。

 第一次産業に携わる人々は、此の地上の農産物、海産物の恵みは全人類を育むに十二分であることを知っている。しかし今、この地球上では毎日2万人近くの人々が飢餓で亡くなっている。東日本大震災の津波が世界中のそこここに“毎日”発生しているのと同じである。

 この世界飢餓という現実は、人類自らが作り上げてしまった大罪である。大地の恵み、大海の恵みを先進国の一地域が独占してしまっているがゆえに、開発途上国に深刻な飢餓が生じてしまっている。

 いのちを分かつイエスに倣い、私たちも「分かち合いの徳」を実践し、一つ地球家族として互いのいのちを育み、愛であう(めであう)ことができるよう、主イエスは其の想いをまず“土を愛する素朴で自然な人々”に託された。

☆彡イザヤ書 9:3 口語訳

あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、 彼らは刈入れ時に喜ぶように、 獲物を分かつ時に楽しむように、 あなたの前に喜んだ。
~Missio Dei~2023年12月22日

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☆彡「待つ」ということに関して・・時節の歌、ベートーヴェン「第九交響曲」

 第九交響曲のバリトンソロは大変難儀な役柄である。交響曲の終盤、いきなり立ち上がり歌い始める。

 此のソロのお務めは、余裕綽々で歌えたことは一度たりとてない。幾度経験を積もうが生きた心地がしない。

 四楽章を有する「第九」だが、通常ソリスト・合唱団は第三楽章から入場し着座をする。第三楽章と第四楽章前半を沈黙のうちに待ち、歌い出しとなる。

 しかし指揮者の意向によっては、ソリスト・合唱団は第一楽章より入場ということもありえる。

 事実、秋山和慶マエストロ指揮・公演際、第一楽章よりの舞台上待機を求められた。

 音楽的には第一楽章からの待機が良いに決まっている。第三楽章に入る前、ゾロゾロとソリストと合唱団が入場しては、そこまでの交響曲の流れが一旦中断されてしまう。

 当然のごとく此の第一楽章よりの待機は、相当の難行苦行であった。心身緊張の内に小一時間舞台上で過ごしいきなり歌い始める。もちろん発声練習もできない。

 早く自分の出番が来てほしいと其の想いでいっぱいである。しかし、時を経るにしたがって、不可思議な感覚に見舞われた。

 次第にベートーヴェンの音楽に心身が同調し始め、できるだけ永くこの揺らぎ、そよぎに自分に浸らせたいと想うようになってきた。更には、自分の出番はもっと待った方が良いかも、いや、待ちたいと想わされるに至った。

 そして自分の歌い出しを迎える。自慢めいた表現になってしまうが、通常三楽章入場のときよりも、佳い声が放たれたのではないかと想う。

 小一時間待つ間に、歌いたい、詠わなければ、という「行動レベル」(doing)から、偉大な芸術作品・神への賛歌に心身を浸らされる「存在レベル」(being)へと変容させられたのではなかろうか。

 バプテスマ・洗礼は「パンを葡萄酒に浸らせる」、という意味も込められている。「待つ」ことは、ただひたすらに我慢をするということではなく、自分の全人格、全存在を、残り無く隅々までキリストに浸らせる為の(バプテスマを実感する為の)、むしろ主の温かいご配慮、摂理と云えるのではないだろうか。

 Missio Dei~2023年12月15日

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☆彡「久しく待ちにし」 

 「待つ」の意味、意義とは? 即ち、じっくり時間をかけること

 神はご自身の「いつくしみ深い救いのご計画」を歴史全体を通して表された。これを救いの経綸(オイコノミア)という。

「愛なる神」を知ることを人間に慣れさせるためには、時間をかけてゆっくりと静かにかかわり合うことをお望みになられた。

そしてなんと、神ご自身もまた「人間のうちにお住まいになること」に慣れる必要があられた。(リヨンの聖イレネオ)

◆救いの起点は言うまでもなくイスラエルの民らに対してであった。

 神はご自分の名をイスラエルの民らに「私は、私は在るというものである」と知らせられた。

これは「わたしは、私自身で存在するものである」という意味である。

 すべての存在の源である神は全知全能であり、イスラエルの子孫らをご自身の救いの計画の実現のために、自由自在にお用いになられるお方である。

 神の全知全能には、限りのない「愛」「いつくしみ」という意味が込められている。

 神は「愛」そのものとして存在なさるお方。神は「愛」のみによって存在なさるお方である。

◆神はご自身のみ旨を預言者という「キリスト」を通してお伝えになられた

 「キリスト」は「油注がれたもの」という「マシアッハ」という「ヘブライ語」のギリシャ語訳に由来する。神のみ旨を伝えるために聖別されたものは「キリスト」である。王・祭司・預言者らに此の呼称があたえられた。

◆そして此のオイコノミアは、主イエス・キリストにおいて極まった。

 人自らが作ってしまった神と人の隔ての溝、人の側からの修復は到底叶わぬなか、なんと神ご自身がイエス・キリストという肉体のはしごをもって地にお出で下さり、隔ての溝、壁の架け橋となってくださった。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」

◆イエス・キリストは人々の罪を贖われ、ご復活成されたあと、ご自身の霊・ペルソナである聖霊を私たちにお送りになられた。   

 聖霊によって私たち今なお、イエスとイエスのおことばを「今」に、そして「自らの内」に感じ味わわせていただくことができる。

 

 文明の利器に浴する昨今は、ワンクリックの世界である。期待する結果と業績をすぐさま得ることが出来る。それが悪いというわけではないが、十二分な準備と過程を経てきていない結果は、表層のみを覆った金メッキのようなものである。すぐに得たものはすぐに剥がれ落ちてしまう。

 神の「ことのは」は、歴史全体、私たち個々人にとっては人生全体をとおして深く心身に刻印された。私たちは、神のことのはに深く同調、共鳴するものであって、その奏では止むことがない。

 神であっても、いや、神だからこそ、これだけ時をかけてお待ちになられたのである。

 主イエスとて、お生まれになられた後、30年間「神の御子」としてのご性質を表されることなく、沈黙を守られた。人として生きる美しさを、ヨセフとマリヤのもとで30年もかけて学ばれたではないか。

 私もイエスに倣い、全人生をかけてゆっくりと静かに主イエスにふさわしい友になってゆきたい。

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☆彡アッシジの聖フランチェスコ「平和を求める祈り」

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください・・」

 平和の「道具」というと、何か人間が物品化されてしまっているようで、あまり良いイメージを持たない方もおられるのではないだろうか。

 かつて信長が秀吉に対して言った。「そちは我が天下布武のための最も便利な道具である」

 しかしながらこの「道具」は、読んで字の如し・・「道」を「具体的」に示し表すという意味が込められているように思う。

「かつて主イエスが歩まれた愛と平和の道を慕って私も歩み、イエスの足跡(あしあと)を、私たちの足で踏み固めていきたい。そして其の足跡を、後に続く人々のための確かな“具体的”な“道しるべ”となしていきたい」。そんな深遠さを此の“道具”という言葉に感じ取ることが出来る

 主イエスは「一代の英傑」ではない。主イエスの愛と平和の「ことのは」は、時代から時代へと受け継がれ永続していく。主イエスは私たちキリスト者を「みことばの継承者」としてお召しになられ、一方ならぬ期待をお寄せである。

 また道具は楽器(instrument)でもある。私たちの心身は、主のみ言葉に共鳴、共振をしてその波動を広め伝えていくための楽器である。

 A楽器が振動していて、B楽器が振動していない場合、AからBに振動が伝わり、AとBは「共鳴」しあう。しかしC楽器とD楽器が各々既に振動をしている状況下で、CとDが相対した場合、両者は「共振」し、その波動は数十倍に膨れ上がる。

 個々人のみことばへのささやかな共感、共鳴であっても、それらが相対すると共振が共振を呼び、その波動の倍率はまさに天文学的数字となる。

 みことばに共鳴、共振する楽器としての道具は、かくも素晴らしい働きを成すことが出来るのである。

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください・・」

~Missio Dei~2023年12月7日

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​ ウェスレアン・ホーリネス教団 /ひばりが丘北教会~クリスマス讃美礼拝

『集いたる わが類(たぐい)なき 協奏者

 そは天使らの エールにまさりて』

 2023年アドヴェント最初の主日は「ひばりが丘北教会」に、独唱曲8曲とメッセージを携え、お伺いをさせていただいた。

 独唱でのご用、ご参集の皆様方は独唱者と共に声を発することはない。しかし皆様方には「こころの共鳴板」をもって讃美の“ことのは”を共鳴、共振をしていただき、讃美礼拝は、曲を重ねるごとにますます高鳴る調べになっていったように想う。

 本日、改めて思わされたことだが・・会衆の果たす役割は絶大ではないかということである。

 会衆の「心の共鳴」が得られないときには2・3曲歌うだけで疲れ果ててしまうこともある。主に捧げる賛美であっても、会衆の皆様方の「心の協奏」は不可欠であり、主もそれをお望みではないだろうか。

まさに主に捧ぐ「上に向かう“ことのは”」と会衆と分かち合う「横の“ことのは”」、双方相まってこそ十字の文様が時空に描かれよう。

 2023年アドヴェントの幕開けに、ひばりが丘北教会から、かけがえのないクリスマスプレゼントを戴いたように想います。

~Missio Dei~2023年12月3日

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「国会クリスマス晩餐会」に臨むにあたり

イザヤ書9:5 ~ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/ 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

▷待降節は文字通り主イエスのご降誕の準備に勤しむ歓びの時節。

 そして主イエスのご降誕の追想をとおして私たちの心を、主が再びお出でになられる”再来臨“に向ける時節でもある。主イエスの決定的な再来臨の有様を”聖なる都“をもって詠う。

 これまで世界は、ヘゲモニー国家(覇権国)によって治められてきた。

 古くは「ローマ帝国」、そして「オランダ」(東インド会社という世界初の株式会社を設立し西洋と東洋を席巻した)、更には産業革命による「イギリス」の台頭、そして現在の覇権国は・・様々な意見、異論もあろうが、矢張り「アメリカ」と言わざるを得ない。

 これら世界の歴史を観ると、世界は軍事力によって支配されてきたことがわかる。

「核」は其の軍事力の極みと云えようが、今、世界中の核を集めると、地球を5回も滅ぼすほどの分量になるという。

 今、人類は地球を滅ぼさないが為、核弾頭ボタンを押さずにいるというぎりぎりの分別の上に成り立っている。

「どうする家康」ではないが、力の論理で世を司る「覇道」は、限界に達した。

 この上は「平和の君」たるキリストの平和と愛徳によって司られる世界しかない。

私たち一人ひとりは、キリストがいのちを賭して愛される「高価で尊い」存在であるが故、キリストの眼差しで、互いに「地球家族」として愛し合う世界が心から待たれるところである。
​~Missio Dei~2023年11月28日

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 晩秋の夕暮れに・・

 讃美歌「ガリラヤの風かおる丘で」~夕暮れのエマオへの道で

「二人の弟子がエマオの旅の途中で(ご復活の)主イエスに出会いました。しかし、弟子たちの目は遮られていたので。イエスであることが分かりませんでした。しかし、その2人の弟子は家に着いたとき、食卓でイエスがパンを裂かれたその時、主イエスであることに気づきました。二人の弟子たちはそれがイエスだとわかりました。そのときイエスの姿は見えなくなりました。」(ルカによる福音書24章31節参照)。

 主イエスだと分かることとイエスの姿が見えなくなるというこの二つのことは、実は同じ一つの出来事である。

 それは外に観える主イエスが、自分たちの心のうちにお入りくださったことに他ならない。そしてこれよりは自分たちがキリストを運ぶものになったのだということが、弟子たちに分かったからである。

 つまりイエスはもはや彼らが話しかけたり、助言を得たりする人ではない。イエスはこの弟子達と一心同体となられた。イエスはご自分の愛の霊を二人に与えられた。イエスは彼らの心のうちに在って、信仰の旅路の同伴者になってくださった。   

 ちなみに・・思い起こす・追想するは、英語ではリメンバーremember。イタリア語でrimenbranza

 すなわち「 リ」再び、「メンバー」同伴者・伴走者にする。ということである。 イエスが生きておられた同じ時代に生きていた信徒らはまさにイエスのメンバーであった。しかし、私達が聖餐の礼典や、主イエスの語られたみことばを追想する、いや追創造することは、イエスを再びの同伴者とするもう一つの現実である。

 此のリメンバーかつてのメンバーに勝るとも劣らない、いや、2000年の歴史・風雪を生き抜いてきた、より堅固な関わりではないだろうか。

 先に天に召された両親のことを追想(リメンバー)することも、両親の愛を心のうちに宿し、今を生き抜いていくための同伴者(リメンバー)とするもう一つの現実である。

~Memento Mori~2023年11月27日

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「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」マタイ11:28~30

(オラトリオ「メサイア」の第一部の最期を彩る牧歌風の二重唱と合唱)

 柔和とはただ“やさしい”という意味だけではなく、「共に苦しむ」という思いが籠められている。

 他者の苦しみや重荷を自分のものとして共に背負い、どこまでもその苦しみを分かち合う心のありようである。

 英語の「思いやり」「慈愛に富むやさしさ」という言葉は“コンパッション”、すなわち「共にcom」「苦しむ passion」から来ている。

 苦しむ人と一緒に過ごしたり、失意のうちにある人に寄り添うことで、静かで深い喜びに満たされる。

 一見、喜びとは「他の人と異なっている」「私は他者に抜きんでている」からもたらされる思われがちである。

職場で褒められたり,良い評価を得たりすると「私は他の人とは違う」という喜びを覚える。

人よりも容姿が優れている、人より頭がいい、コンクールで一位をとった、このような違いが自分に喜びをもたらしてくれるようだ。

 しかしこのような喜びは、ほんの束の間のものでしかない。

 本当の喜びとは・・私も他の人々と同じように弱く、もろく、はかない存在であること。いずれは皆、死ぬべきものであるということへの共感ではないだろうか。

 今生、いかに栄華を極めようとも、苦難の日々であったとしても、いずれの人々もやがては死すべき「限界」のある者である。

 そのような者同志が友人・仲間として互いの弱さを補い合い共に苦しみ、"信仰の旅路“の同伴者として共に在るということに勝る喜びが他にあるだろうか? 大げさな言い方になるかもしれないが、それは人間であることを分かち合う喜びである。

 インマヌエルなる主イエスは、“私たちと共に苦しむ”お方として、あえて弱さ、もろさをお持ちになって戴いたお方である。そして究極の限界である“死”の現場にもお出かけ下さり、それをお分ち戴くお方となってくださった。弱さを分かつ喜びを御自らの喜びとなさってくださった。

+ご降誕のキリストに讃美~2023年11月23日

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讃美歌「主よみもとに近づかん」~流山音楽アカデミー「合唱の集い」お分かち

於:日本キリスト合同教会・江戸川台教会

①主よ、みもとに 近づかん / のぼるみちは 十字架に

 ありともなど 悲しむべき / 主よ、みもとに 近づかん

②さすらうまに 日は暮れ / 石のうえの かりねの

 夢にもなお 天(あめ)を望み / 主よ、みもとに 近づかん

③主のつかいは み空に / かよう梯(はし)の うえより

 招きぬれば いざ登りて / 主よ、みもとに 近づかん

④目覚めてのち まくらの / 石をたてて めぐみを

 いよよせつに 称えつつぞ / 主よ、みもとに 近づかん

⑤うつし世をば はなれて / 天(あま)がける日 きたらば

 いよよちかく みもとにゆき / 主のみかおを あおぎみん

 まさに讃美歌の中の讃美歌。世界中の人々の愛唱歌である。

 告別式にも用いられる讃美歌である。

 2~4節は、創世記28章を基としている。

 ヤコブは父イサクより、一族の血縁を堅固にせんが為、パダン・アラムのラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけるようにと言われた。

 旅の途上、野営をするため石を一つとって枕にしてその場に横たわった。まどろみのなかで彼は、先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、神のみ使いたちが上り下りをしている光景を観た。

 そして、天より声が聞こえる「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ東へ北へ南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」

 ヤコブはその場で感謝の礼拝を捧げ、枕にしていた石を取り、それを記念碑として建てた。その場所をベテル(神の家)と名付けた。

 天使が上り下りする階段は、さながら天と地をつなぐ雲の階段。天と地が繋がり一つとなる光景。

 神への願い、賛美、感謝と天の祝福が完全に繋がり、調和しているさまをあらわしている。

 カトリック教会や正教会では、聖礼典に臨む際、司祭は香をたきながら入堂する。立ち上る煙は、私たちの祈りを表している。祈りはラテン語で「Oratio」”天と地の対話“という意。

 お香には、「天と地の親しくも自由なる対話のうちに、此の聖礼典がいとなまれますように」との想いが込められている。そして、立ち上る香の煙は天と地をつなぐ階段のようだ。

 旧約時代を過ぎ越し、やがて神ご自身が、イエス・キリストという肉体のはしごを下って地上に舞い降りてくださった。私たちにはイエス・キリストにより天と地の完全なる調和、流通がもたらされた。

 讃美歌「主よみもとに近づかん」は”天と地“の確かな架け橋となってくれよう。

~Missio Dei~2023年11月22日

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🎶聖歌「九十九匹の羊は」(マタイ18:12~14)~讃美のお分かち

①九十九匹(くじゅうくひき)の羊は 檻(おり)にあれども

  戻(もど)らざりし一匹(いっぴき)は 何処(いずこ)に行(ゆ)きし

  飼(か)い主より離れて 奥山に迷えり 奥山に迷えり

②「九十九匹もあるなり 主よ良からずや」

  主は答えぬ「迷いし者も我がもの 如何(いか)に深き山をも 分け行きて見出さん 分け行きて見出さん」

⑤谷底(たにそこ)より空まで 御声ぞ響(ひび)く「失われし羊は  見出されたり」 

 御使(みつか)いらは応えぬ 「いざ共に喜べ いざ共に喜べ」

 

▷とある牧師宅に近隣教会の友人牧師が突然訪ねてきた。(以下、実話に基づいた筆者の創作)

 来訪の理由を問うたところ「いや、此の近くに私の教会の大切な信徒さんがお住まいなので、其の方を訪問した帰路、先生のお宅にも立ち寄らせていただきました。」とのことであった。

 その時、彼は「其れでは教会には大切な信徒さんと、大切ではない信徒さんがいるのだろうか?いや、主の眼差しには教会の内、外にかかわらずお一人お一人がかけがえのない、大切な方々ではなかろうか」と思わされたとのことである。

 おそらくその友人牧師にとっての大切な方とは、献金を沢山していただける方(←昨今大きな社会問題となっている)、経営、経済の知識・経験が豊富で、教会運営に積極的に携わっていただける方、すなわち教会に沢山貢献をしていただける方ということであろう。

 友人牧師にとっては、まず教会共同体の運営が第一義、第一優先であり、そのために信徒は各々の賜物を駆使して教会に貢献して然るべきであるという価値観に捉われていた。「全体のための個」とでも云おうか。

 しかし主のおこころは此れとは正反対であると云えよう。まずは個人個人が、感謝の讃美と祈りをもって主に繋がることが第一義である。其のお一人お一人の信仰と信心業こそが、共同体を立ち上げていくことになるという順位である。即ち「個が全体である」と云おうか。

 自転車車輪のスポークが一本外れてしまったら、もう自転車の走行は出来なくなってしまう。ピアノの鍵盤ひとつの不具合が、ピアノ全体のバランスを欠くこととなり演奏不能となってしまう。たった一本のスポーク、一つの鍵盤こそが大切至極なのである。

 上記の讃美(そのみことば)は、一匹の羊を大切に思うあまり、99匹の野に取り残した羊が狼の餌食なってしまってもよい、と解釈するのは屁理屈である。

 主は「個」も「共同体」も大切に思っておられる。しかしながら「個が全体である」という優先順位を違えてしまえば、昨今大きな社会問題となっている教団のごとく、いびつな共同体となり果ててしまおう。

 私も結婚カウンセリングの際、新郎新婦お二人によくこのように申し上げている。

「お二人のご家庭のために社会的な立場や境遇をいっとき犠牲にすることがあっても、社会的な立場を得んが為、お二人の家庭を犠牲にすることがあってはなりません。

 お二人のご家庭に実るたたわな愛の実りを、広く社会にお届けをなされますよう、お二人の家庭が社会に向かって開かれたご家庭でありますように」
~Missio Dei~2023年11月19日

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~Missio Dei~

🎶キリストの愛、我に迫れり~讃美のお分かち~   

 作詞:山口昇 作曲:天田繫(1937~2012)

 コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節「キリストの愛、我に迫れり」のみことばを基にした3節からなる有節合唱曲。

 コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節のみことばは、聖書によって日本語訳の表現が些か異なる。(意味が異なるのではない。)

「キリストの愛、我に迫れり」文語訳

「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」新改訳

「キリストの愛が私たちを駆り立てている」新共同訳

 私は”ことば“を語ることを生業とさせていただいているが、本当に”ことば”とは不可思議な存在である。”ことば”は、自分自身が全責任をもって発するのだが、発した後はまるで”もう一人の自分“として、自由自在に空間に飛び交い、時空を超えて働き続ける「人格者」となってくれる。

 イタリア人(特に声楽家)は自分の声を、”自分の娘”と表現する。声はことばを乗せて運ぶ“息吹”。自分の発した声は、時に足らざる自分を補い、またある時には過ぎたる自分を補正してお相手のもとに”ことば“を届けてくれる。また時には、自分の発した声(娘)がまるでブーメランのように自分自身に舞い戻り、慰め励ましてくれることもある。

 これをお読みになられている方々は、まるで異次元のお話を聞いているかのような思いに駆られているかもしれない。しかし此れは私が、ことばとことばが対峙する其の現場で感じ味わわせていただいていることに他ならない。

 ことばの中のことば、キリストのみことばは、紙面に閉じ込められた活字ではない。今に活きて働く人格者である。

 2000年前に発せられたみことばは、時を経れば経るほど共鳴が共鳴を呼び、ますます高鳴る調べと相成る。

 キリストのみことばは、天上高くそびえたつことばではなく、人肌の触れるほどの近くに在り、いついつまでも私たちを優しく包み込み、”キリストを生きる自己“へと私たちを駆り立ててくれる。(上記みことば)

 キリストのみことばは永遠に生きて働く人格者。みことばそのものがいのちに満ち溢れているので、説教者たる私たちは、みことばを上手く語る必要はない。

 いやむしろ、正しく語りさえすれば、後はみことばそのものが縦横"無限“にお働きになられよう。

+キリストに讃美

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 流山音楽アカデミー「合唱の集い」お分かち

「世の終わりのラッパ」

 世の終わりのラッパ 鳴り渡る時

 世は常世(とこよ)の朝となり 救われし者は

 四方(よも)の隅より 全て主のもとに呼ばれん

 その時我が名も 呼ばれなば必ずあらん

◇世の終わりの光景を描いた賛歌。ラッパの響きとともに、永遠の御国が今しも創(はじ)まる。

 此の讃美歌も告別式や召天者記念会でよく愛唱される讃美歌である。

「おくりびと」(本木雅弘氏主演)という映画をご存じであろうか。

 ご遺体を棺に納める”納棺師“が主人公。日本人の死生観がおごそかに表された大変感動的な映画である。

 英語に訳され世界配信となったこの映画だが、英語名は「Departure」旅立ち,出で立ちとなる。

 キリスト信仰の根付く欧米文化においては、死は天の御国への”旅立ち“、復活への希望に他ならない。しかしながら「おくりびと」という厳かな”ことのは”とは、意味が全く違うように思う。

 先日、私も実父の告別式を執り行わせていただき、天の御国へとお送りをさせていただいた。お棺にご遺体を納め、お顔を布で覆い、お棺を蓋で閉じさせていただいた。これは、父と私たちとの今生のかかわりが閉幕したことを告げる儀式である。

 そして、お棺という「ノアの箱舟」に父をお乗せして、天上のエルサレムへと“お送り出し”をさせていただいた。ノアの箱舟の水先案内人はもちろん主イエス其のお方である。

 閉幕・・閉じるというと何か物悲しい思いに駆られるが、閉じることを通して、今生の関りが完成・成就したこと宣言するのである。

 やがて始まる"永遠に終わりの無い幕“、永遠の第2幕の開幕に臨むにあたっては、いかに第1幕を完成・成就するかが大前提となる。

 告別式はひとときの幕間(まくあい)である。昨日とは違う永遠に新しい明日の開幕を待つ「聖なる幕間」である。

 結婚式では、式冒頭でベールダウンセレモニーが行われる。独身の娘に対して母(両親)自ら身支度を整える儀式だが、父・母と分かち合った人生の第一幕を閉幕を宣言する儀式でもある。

 結婚式の間は、ベール(幕)を下ろしている。そしていよいよ結婚式終盤で、今日から始まる新しい人生の幕開けのしるしとして、花婿によって花嫁のベールが高々と上げられる。

 いわば結婚式も、人生の第一幕と第二幕の聖なるインターヴァル(幕間)と云ってもよい。

 世の終わりのラッパは、「永遠に新しい今日」の開幕を告げるファンファーレである。

 キリストとキリストの愛される人々が、無限に自由自在にかかわり合っていける、むつみあうことができる世界が今、始まる。

 このファンファーレは、結婚式のファンファーレに勝るとも劣らない、いやそれをはるかに凌駕する高鳴る調べであるに違いない。~Missio Dei~2023年11月15日

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「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない。」ヨハネ14:6

 剣道、柔道、空手道、茶道、華道、香道・・日本人は古来より「道」という文言に親しんできた。

 その昔、剣道の師匠から言われた。「剣の道とは、剣術の会得ではない。相手を打ち負かす小手先の技術の習得ではない。むしろ、剣の業を磨くことを通して、自分自身を磨いていくこと。人として向上することだ」と言われたことが今でも脳裏に焼き付いている。

 有難い師の言葉を今、改めて自己のことばで反芻するなら・・「剣の業の習得を通して、人として生きることの美しさを見出していくのが剣道に他ならない。人はかかわる存在。かかわりの中でこそ人は本当の自己を見出すことができる。剣の道はよりよくかかわれる自己を見出す道」となろうか。

 関り・・いのちといのちを生きる意味を与えたもうた神とのかかわり。同じいのちが与えられし「神の愛」である他者とのかかわり。武士道や剣道は福音に何ら反するものではなく、むしろ日本における福音は此の「道」の中にこそ開花させなければならないと想う。

 私は「キリスト教」という文言はあまり好きではない。「教」というと何か「教理、教義、教団」という外枠のイメージしか沸かない。

 確かに「キリスト」という真清水をお入れする「教理、教義、教団」という「器」は必要であろう。しかし「器」そのものにはいのちはない。「器」がキリスト信仰を代弁する文言となってしまっていることに、些か違和感を覚える。

 日本人先達はどうして「キリスト教」ではなく、「キリスト道」と訳さなかったのであろうか?

「キリスト道」と表す方が、日本人の琴線に触れるように想う。

更に「道」は、未来に向かってこそ歩いて行く行動性、能動性を感じさせる。

 キリストと親しく語らいつつ、「天上のエマオ」に向かって歩み行く道こそ「キリスト道」なのである。

+キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに歩み行くわれと成さしめたまえ。

​〰Missio Dei~2023年11月14日

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アッシジのフランチェスコ「平和の祈り」~主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください~

▷「主の山に登り、ヤコブの家に行こう。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」イザヤ2:1~5参照

 私たちは「主の山に登ろう」と呼びかけられている。この登山は、剣を鋤に変える登山道である。

 この山は地上の山々に限定されない。主の聖名によって人々が集うところ、それが「主の山」となる。

ここでいう剣の道とは・・異質の他者を切り取る道。(私には剣道のたしなみがあるが、本当の剣道は”切る“のではなく、他者に”気”を打ち込み、他者を生かす道であると理解している)

 鋤の道とは・・異質の他者と共に平穏な「農耕生活」をいとなむ道。鋤という「道具」を手に取り、互いの心身を耕し合い、私たちと私たちの生活世界を豊穣なる大地としていくいとなみ。

 ともすれば形骸化し固定化してしまった自分のありようを、思いもかけない方法や方向から鍬入れをしていただくことにより、自分が掘り起こされ、柔軟かつ新鮮な大地へと変えられていく。

 耕すはラテン語で「Colere」。これは「Culture・カルチャー、文化」の語源である。

 人の素晴らしさは、此の「文化」を創造することができる、ということに尽きる。

 真に文化的な生活は、天の御国の農園にも似た「主の平安と平和」に満ち溢れている。
~Missio Dei~2023年11月12日

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 東京プレヤーセンター支援会コンサートのご案内。

《汝ら静まりて我の神たるを知れ》 詩編46編10節

▷コンサートのタイトルは「春待ちコンサート」。

 主のご復活の春を待ち望むコンサートだが、日本のリバイバルを待ち望んでいる現状とを掛け合わせている。

「春を呼ぶコンサート」という題名はよく目にするが、「春待ちコンサート」という文言には、そこはかとない新鮮さを感じる。

「春を呼ぶ」の積極的な動的なイメージに対して、「春待ち」には秘めたる美しさ、「秘すれば花なり」を想わせる日本人の品性の美しさを観ることが出来る。

 待つとは、ただ単にひたすらに我慢をするということではない。

 待つこと自体がすでにキリストを深く体験していることであり、静まり待たなければ「御摂理」の深遠さは分からないということではなかろうか。

~Missio Dei~2023年11月9日

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「イエスは弟子たちに言われた。私に向かって『主よ。主よ』と言う者が皆、天国に入るわけではない。わたしの父のみこころを行う者だけが入るのである。」マタイ7:21

 マルティン・ルターとカール・バルト。誰もが知る偉大な神学者であるが、一言でいうと「不振場に出でた実践家」ではないだろうか。

 ルターは自己の信仰と、当時の教会のあり方の乖離に悩み、懊悩したが、ある時、聖書の「ロ-マ人への手紙」にある「信仰によってのみ人は義とされる」という言葉に感動し、救われた。そのような中で1517年、ローマ教会が贖宥状の発売をドイツで始めたことに対し、『九十五ヶ条の論題』を発表し、宗教改革の口火を切った。命の危険をも顧みず、ドイツ語聖書翻訳を完遂した。

 バルトも幾多の優れた神学研究書を執筆しているが、バルトは長年「教誨師」として刑務所の働きに携わった。

 バルトのエピソードであるが・・ある日、刑務所の清掃作業員が礼拝堂祭壇前にガウンが丸めて投げ捨てられているのを見た。収監者のための礼拝が小一時間後に行われるため作業員はガウンを片付けようと手に取った。ところがそのガウンは丸めて捨て置かれていたのではなく、バルト先生が祭壇前でうずくまって祈っておられたのだ。

 バルト先生は、収監者に正しく福音を語ることが出来るよう、2時間も前から祭壇の前でうずくまり祈っていたという。

 バルト先生が教誨師となられた最大の理由たるは、「彼らには罪を語る必要がなく、直ぐにでも本題を語ることが出来る」とのことである。

 お二人の秀抜な神学は、教授室の机の上から出でたものではない。最前線の現場での言動から醸し出された”ことのは“であるがゆえに、後世のキリスト者たちの心を打って止まない。

「富久・とみきゅう」という古典落語がある。日本橋と浅草の火事場を行き来する久蔵が主人公。

若き日の古今亭志ん生が「富久」を演じる前に師匠から厳しく言われた。「お前さん、頭の中だけで富久を語ろうとしていないかい?いいかい。落語は腹と足で語るんだ。久蔵の気持ちになって、今、日本橋から浅草まで走りながら稽古してこい」

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」イザヤ書52:7

 福音はエウアンゲリオン [eu̯aŋɡélion]。戦勝報告という意味である。福音宣教はよき訪れを伝えるべく、走りださずにはいられなくなる「足の業」である。

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讃美歌512番『わが魂の慕いまつる』

「わが魂の したいまつる

 イエス君のうるわしきよ

 あしたの星か 谷のゆりか

 なにになぞらえてうたわん」

 

 神と私たちは婚姻の関係で例えられる。

 聖書は創世記のアダムとエヴァの創造と結婚から始まり、キリストと其の愛する教会・花嫁、そして「天上のエルサレムの小羊の婚宴」の黙示録で締めくくられている。

 心身ともに相まみえ一心同体となる婚姻の関りは、おおよそ私たちが体験しうるかかわりの中で、最も素晴らしいものであろう。神と人との関係もこれにさも似たり。いやそれ以上のものである。

『わが魂の慕いまつる』は、谷のユリであるキリストの香りを、わが心身にまとわせたまえ・・と詠っているかのようである。なんとも艶やかな歌詞ではないか。中近東、欧州の人々は、「自分のものとして会得する」を、「身にまとう」「着こなす」と表現する。

『わが魂の慕いまつる』を詠うごとに、キリストの香りを幾重にも、まるで十二単のように重ね着をする光景が観えてくる。 

 一度、人の心身に染み渡ったキリストの香りは決して消え失せることはない。

 永久有効の香りの証印である。

 キリスト者はキリストの香りを漂わす「歩く福音書」と云ってもよいのではないだろうか。

~Missio Dei,Pane e Vino~2023年11月2日
 

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[『神はわがやぐら』

1

神はわがやぐら わが強き盾

苦しめる時の 近き助けぞ

おのが力 おのが知恵を 

頼みとせる 陰府(よみ)の長(おさ)も など恐るべき

4

暗きの力の よし防ぐとも

主の御言葉こそ 進みに進め

わが命も わが宝も 取らば取りね

神の国は なおわれにあり

 

『神はわがやぐら』(ドイツ語: Ein' feste Burg ist unser Gott)は、マルティン・ルターの最もよく知られた讃美歌である。ルターは1527年から1529年の間に歌詞を書き、旋律を作曲した。聖書箇所は詩篇46篇。

『神はわがやぐら』は、ルーテル派とプロテスタントの伝統において最も歌われる愛唱歌の一つである。これは「宗教改革の戦いの讃美歌」と呼ばれ、宗教改革者たちをよく助けた。

 ルターがドイツ語訳聖書を執筆の際、悪魔が毎晩毎夜ルターのもとを訪れこう叫んだ「マルティン止めろ!!」。ルターは「さがれ、悪魔め」言い放ちつつインク壺を悪魔に向かって投げつける。其のためルターの書斎の壁はインクの染み跡でいっぱいであったとのことである。

 ルターは「悪魔に狙われることは恥ではない。むしろ悪魔にも見向きもされない生半可な信仰を恥じよ」と言われた。

 上記4節の日本語歌詞は「わが命も わが宝も 取らば取りね」となっているが、原語のドイツ語では「わがいのちもわが妻も」となる。「わが宝も」と詠うより「わが妻も」と詠う方が、迫りくるものがある。

 あるいは私は「妻のために自分を犠牲にしてもかまわない」と言い得るかもしれないが、「自分の信仰を堅持せんがため、妻を犠牲にして、悪魔に手渡しても構わない」と言えるだろうか?

 もちろんこれは比喩的表現である。それほどまでにルター先生の信仰と宗教改革に臨む気概は、揺るぎのないものであったということであろう。

 また、こうも言えようか・・「自分の宝である妻であろうと、神と信仰を不在にしては其の愛に何の意味ももたらさない、無きに等しい。手放したも同然である。神がいのちを賭して愛される妻であるからこそ、神ゆえに妻を愛されずにはいられない。人と人の友愛は信仰のよる絆があってこそのもの。さもなくば、ただ単なるヒューマニズムにとどまってしまおう。一女性としての妻を直接見る前に、まずは神の国と神の義、そして信仰こそを第一義に据え、その愛を永遠たらしめたい。」
Missio Dei~2023年10月30日

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唱歌『埴生の宿』里見義訳詞

1 埴生(はにふ/はにゅう)の宿も 我が宿 玉の装い 羨(うらや)まじ

  のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友

  おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや

「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。

 風月を友とする幸いと共に、優しい両親の愛のもと育まれた生家を懐かしんでいる。

 人はかかわる存在。人は喜怒哀楽を通し、様々な出来事を通し、そして仕事を通して互いの愛をゆっくりとたおやかに育んでいく存在。

 人の幸いは、愛する人と共に”在る“ことに尽きよう。

 私は幼いころ、遊園地で迷子になったことがあった。両親とはぐれてしまったあの時の不安、心身の混乱は今でもしっかと脳裏に焼き付いている。遊園地のメリーゴーランドや華やかな楽しいお遊戯道具とて地獄の風景に観えてきた。

 しかし両親と相まみえ合ったその瞬間、その重苦しい風景は一変した。

愛する人と離れてしまえば、王宮であろうと御殿であろうと唯々むなしく色あせたところでしかない。しかし愛する両親・家族と共に在れば、裸電球ひとつの4畳半一間の部屋であっても、其処は天にも似たあたたかな空間・時間となろう。

 神も遠く離れた天から宣う神ではなく、人と共に在る神・インマヌエルなる主となられた。人肌の触れんほどの素朴な小さな部屋に訪れになられ、私たちと心を分かつ神となられた。

「埴生の宿」は、生まれ育った故郷を詠っているが、天の故郷をも詠っているのではないだろうか。私は天国に行ったことがないので分からないが・・天国は目を見張るような大宮殿と大庭園に花々が咲き誇る光景かと思いきや、地の故郷とあまり変わらない、素朴な小さな家と狭庭で”主イエスと愛する家族“とあたたかに集い合うところかもしれない。そんなことを想像をするだに、「楽しく」「頼もしい」。

+キリストに賛美~2023年10月19日

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『復活賛歌』~幸いな夜よ、お前だけがキリストの死者の国からのよみがえりの時を知ることが出来た~

 主イエスの復活の出来事自体を目撃した人は誰もいない。福音記者の誰もがこれを描写することが出来なかった。後に、空となった墓と使徒たちが復活したキリストに出会った「事実」によって復活は確認されたが、復活の瞬間は相も変わらず歴史を凌駕し超越するものである。

「夜」・・アダムが神に背き林檎の木の実を食した夜。ノアの箱舟にハトがオリーブの葉をくわえ舞い戻った夜。先祖がエジプトから脱出した夜。

「夜」はヘレニズム文化にあって、信仰の尊さを思い起こさせてくれる。

「夜」・・夜の帳が下りる(よるのとばりがおりる)とは、夜になって暗くなるさまを、垂れ絹が下りたことにたとえたもの。舞台用語の「暗転幕」にも通じる表現である。

 昨日(第1幕)とは違う今日(第2幕)を展開するためには一旦、幕を下ろさなければならない。この幕間(まくあい)の中で、第2幕に向かうための「仕込み」が行われる。

 料理でも音楽でもそうだが、適切な仕込みがなければ活動をなすことができない。神の御心、ご意志は此の「仕込み」の中にこそ注ぎ込まれている。

 私たちの生活世界の一時の「暗さ」は、この暗転幕かもしれない。もう「夜」を知らない永遠の朝に向うため、「永遠を生きるにふさわしい自己」となるため、今は主にあって自己を整え研ぎ澄ます「仕込み」のときではなかろうか。 ~Missio Dei,Pane e Vino~2023年10月17日

 

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「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。私は天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」ヨハネ6:49〰51

 スペインではよく知られた民話であるが‥ある人が神に地獄の風景を見せてほしいと願った。神は特別にその人に地獄の風景を見せて差し上げた。その人は、地獄とはすさんだ恐ろしいところに違いないと思い込んでいたのだが、さにあらず。美しい花園に御馳走がならんでいた。しかし一人一人が手にしているフォークは2メール以上の大きなフォークであり、ご馳走をとっても自分の口に運ぶことができない。

 そして神は、天国の風景もその人にお見せになられた。同様にご馳走が並んでいた。やはりこちらも一人一人2メートル以上の大きなフォークを手にしていた。しかしこちらの住人は長いフォークを用いて互いに食べさせ合っていた。

 地獄とは、自分だけの充足を得んが為、躍起になる世界。此処には他者に対する配慮や思いやりは全く無い。反面、天国とは、「分かち合いの徳」に満ち溢れる世界。互いに分かち合いことで、真の心の充実がもたらされる。

 上記みことばのマンナは、与えられたパン(糧)。

 イエスのおことばとその生きざまは、他者に分かち与えるパン(糧)。

与えられたパンは一度食してしまえば、自分が満足してそれでおしまいだが、ほんの少しであろうと「自己」を捧げ、「自己」を裂き与えるパンは分かてば分かつほど、神の祝福のうちに幾倍にも膨れ上がる(5000人を食べ飽かしめた2匹の魚と5つのパンのように)。

 此の”分かち合い喜び“とその余韻は、果てるともなく続いていく。イエスによってもたらされ、実践された「分かち合いの歓び」は、天の御国の前味、前奏曲に他ならない。
​~Missio Dei,Pane e Vino~2023年10月15日

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聖歌 506番『いわなるイエス』出エジプト33:22

『巌(いわ)なるイェスは我が身を、御許(みもと)に引き上げ

裂け目の中に安けく かくまい給えり

御怒りは過ぎ行くべし 我が身の隠れ家

巌なる主覆いたまわん 愛の御手をもて』

 歌詞の中の「御怒り・みいかり」とある。怒り・・本当に厄介な感情である。期せずしてそれは沸き起こり,自身ではなかなか統御することできない。先日も、ある友人に私の「怒り」を露わにしてしまった。

 しかし「怒り」とは、「正義」の思いの高まり、自他ともによりよく生かし合いたいという「情熱」に他ならない。「義憤」とも言おうか、「いや、それは間違っている。真実ではない。あの振る舞いはあり得ない!!」と、全身全霊が打ち震える。

 このように観ると「怒り」は、いとも佳きものであり、むしろ健全至極であるといってもよい。「怒り」は、私の自尊心・自立心の回復にも貢献してくれる。

 しかし、いつまでも怒りの中にとどまってしまうと、私の怒りが相手に溢れ出て、相手の自尊心を攻撃することとなってしまおう。

「怒り」の当初の感情は「何が正しく、何は正しくないか」であるが、時間がたつにつれて「誰が正しく、誰が正しくないか」に代わってしまう。

「怒り」は、相手を破壊する武具ではない。怒りは、自己と他者の関りを回復せんとする「情熱」である。「怒り」の感情が沸き起こってきたならば、すぐさま其れを「踏み石」にし、お相手と共に新しい旅路へと一歩を踏み出だしたい。負の感情(怒りや悲しみ)を信仰の息吹を駆って過ぎ越してゆくことが、キリスト者がキリスト者たるゆえんなり!!喜びや楽しみの追及であれば、ご利益宗教となってしまおう。

 主も「御怒り」を過ぎ越された。主の「御怒り」のうちに在った「正義」と「情熱・パッション」」は、やがて十字架の「ご受難・パッション」となる。

~Missio Dei,Pane e Vino~2023年10月12日

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シナイでモーセに現れた主がエリヤに臨まれた!!~列王記19章

 風が起こり、地震が起こり、火が起こった。それらの中には主はおられなかった。その後、主は「静かにささやく声」として現れた。得体の知れない恐ろしい神ではなく、人にやさしく語りかける神としてエリヤに臨まれた。

 文字通り、風、地震、火は自然現象であったことだろう。しかし、これはエリヤの心模様をも表しているのではないか。心身揺り動かされ、焼き尽くすような試練の中に在っても、尚、神を信じ続けたエリヤであればこそ、”慈愛にとみたもう“優しい主との出会いを体験できた。

 湖上を歩くイエスに向かって、ペトロは水の上に出た~マタイ14章

 しかし強風に気づいて沈みかけ、助けを求める。イエスはすぐさま手を差し伸べ「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と優しく語りかけられた。

 ともすれば此れは、ペトロの失敗談として語られがちだが、「宣教の荒海」に勇気を振り絞り一歩を踏み出だしたペトロであったればこそ、“その渦中に心身を投じたペトロであったればこそ”、優しきイエス“Pie Jesu”に出会えたのではないか。

 昔、ジャズをテーマに「スイングガール」という映画がブレイクした。劇中、大変興味深い文言があった「世の中は2種類の人しかいない。スイングする人とスイングしない人だ」

 私たちは、主と主のことばをイデオロギーや倫理として捉え、外側から達観する人間であろうか?あるいは、その渦中に飛び込み、みことばに共鳴、共振する人間であろうか?

~Missio Dei, Pane e Vino~2023年10月10日

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「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」マタイ17:20

 イタリアの友人が、よく私に言う「Si o No?」然りか否か? 言い換えれば「100%か0%か?」

彼らのことのはの授受には、”何となく“という表現はほとんどない。

 まさにこれは信仰のありように通じるではないか。

 信仰は、「持っているか、持っていないか」、の世界である。

「私は神のことを80%ぐらい信じています。」・・考えてみれば可笑しなことばである。

 例えば、名古屋に住む人が、東京の友人に会いに行くとしよう。新幹線に乗車、名古屋を出発するも、様々な事情もあってか横浜で途中下車をしてしまった。その時、「私は友人との再会を80%果たしました。」と言うとしたら、なんとも陳腐なことばとなってしまおう。

 目的地の東京に対して80%の地点まで来たとしても、友人に会えないことに変わりはない。つまり10%でも80%でも、目的を果たしたことにはならないのである。

~「山を移す」とは、ユダヤ人たちの慣用句。困難な問題を解決するという意。

 また当時のラビは、聖書の難しい箇所を解明する”山を移す人々“と呼ばれていた。

 イエスは仰った。「あなたがたにはできないことは何もない」。

 私たちは"からし種一粒ほどの信仰“であろうとも、それを持ってさえいれば、難題を移動させることも出来れば、難題の正体を明らかにし、それが今の自分にもたらす「意味」を見出すことも出来る。

「信仰を持っていることは、すでに人智を超える権能に与っている!!」と、イエスは仰せである。

 信仰の神秘!!~Missio Dei、Pane e Vino  ~2023年10月7日


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友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)

 友情は、おおよそ人が成すすべての体験のうち、最も素晴らしいものであろう。ある意味、友情は恋愛の絆よりも強く、親子の絆よりも親密なものとなることもあろう。

 創世記では、神がエデンの園で一人ぼっちのアダムに対し、「人が一人でいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」と仰せになられた。この「助ける者」は、原語のヘブル語では”エゼル“であるが、此れは「特別な助け手である友」、あるいは「増援部隊」という意味が込められている。「増援部隊」は車の助手席の助手のような”いれば助かる”というレベルではなく、それがなければ本隊が立ち行かなくなるほど重要な部隊であるということだ。

 恋愛が互いに見つめ合う関係であるとすれば、友情は同じものを観て感動を分かち合う関係である。

さらに友情には表裏がない。相手がどのような状況、状態になろうとも、関わり続けることを止めない。

「友のために命を捨てよ」・・これだけ読むと主は無理難題を私たちに課しているように思えるが、このようにお思いになっては如何であろうか?

「人は関わる存在である。友とのかかわりがあってこそ本当の自己を見出し、自己を自己たらしめることができよう。友とのかかわりは自分のいのち続く限り最優先事項としなければならない。いや、それを成さざれば、自分を見失ってしまうことにもなりかねない。」

 私たちはイタリアで結婚式をさせていただいたが、以下の誓約のことばは、今なお心身に刻印されている。

 Quando tu morrai,Io morro.Dove tu morrai.Io morro~汝れ死すとき、我も死す。汝れ死すところで我も死す。

~さながら戦友同志の誓い!!~。
​~Missio Dei~2023年10月5日

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流山音楽アカデミー「みことばと賛美の集い」お分かちⅣ

唱歌「椰子の実」島崎藤村作詞、大中寅二作曲

 椰子の実を手に取り「思いやる八重の潮々、いずれの日にか国(故郷)に帰らん」と詠う。

ところで・・ご復活された主イエスは弟子たちにこのように仰せになった。

「ガリラヤに行きなさい。そこで私に会えるであろう」マタイ28:10

イエスは弟子たちにガリラヤに行け、と言われた。

 ガリラヤは彼らにとっては故郷である(ユダだけは違っていた)

 彼らの立場を慮れば「ガリラヤに帰りなさい」と、言うべきであろうが、主イエスは「行きなさい」と仰った。何故であろうか?

 そこには”よき訪れ“に与ったものの姿がある。

 復活の主に出会い、新たな使命と、新しいいのちといのちの関りに召されたものには、もはや帰る(帰結する)世界はなく、行く世界のみが眼前に拡がる。

 主イエスとイエスのことばは愛に満ちあふれている。この愛の”ことのは“の授受は果てるともなく、永遠に共振、共鳴をし続ける。「愛は決して絶えることがありません」コリント13章。

 創造主なる神の御業も、常にAnd、 Andである。創造主なる神のご意志とご決断にはIf(もし)、 Or (あるいは)、But(しかし)はない。

 そういえば、オラトリオ「メサイア」も接続詞はほとんどがAnd,ではないか。

 And the glory of the Lord shall be the revealed.

 Glory to God in the highest, And peace on earth.

 And we shall be changed.・・

~Missio Dei~2023年10月2日

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流山音楽アカデミー「みことばと賛美の集い」お分かちⅢ

 主は天上高くから「私はあなたを救おう」と宣う神ではなく、私たちの信仰の旅路に伴われる神。エマオへの旅路をご一緒していただける神である。

 私たちが道に迷わぬよう、私たちのわずかに前を歩きリードをしていただける神こそ主イエス・キリストである。主イエスこそ、「霊的視力」の滞る私たちのまことの伴走者であられる。

 「三歩(三尺)下がって師の影を踏まず」は、「弟子が師のお供をして歩くとき、三尺離れて師の影を踏まないようにすること。弟子は師を尊んで敬い、常に礼儀を失わないようにしなければならない」と理解されている。

 しかし、此れを福音のまなこで観ることをお赦しいただけるのであれば、・・「師はいつも私たちと共に在り、三歩先を歩まれるお方である。私たちが課題をこなすことができるよう、一つ、二つ、三つと三つ先ぐらいまでの課題を少しずつ”順次“ご用意してくださる。克服しなければならない課題を一時(いちどき)に示し、弟子にプレッシャーを与えることはなさらない。師のご高配に信頼して、安心して追いてお行きなさい」となろうか。

 なるほど、「師」という漢字の偏である「𠂤(たい)」は、”魚を切り刻んで串にさし、弟子が食しやすいようにして差し上げる“、という意味が込められていると聞く。

◆G.Pucciniのことば~「私の音楽は聴衆の三歩先を歩むことがあっても、10歩先んじることはない。」~プッチーニは同時代に生きる人々を置いてきぼりにするような前衛音楽を作曲することは決してなかった。
~Missio Dei~2023年9月30日

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流山音楽アカデミー”みことばと賛美の集い“のお分かちⅡ

 私(たち)は、未来を予見できたらどんなにか良いだろうと考えてしまう。

「5年後,10年後はいかなる私と相成るか?」と思いめぐらしてしまう。

 しかし、これらの問いには答えはない。自分たちには、せいぜい次の時間、次の日、次の週に何をしなければならないのか、ぐらいのことしか分からない。                                         

 しかしながら・・神の導きとは、5年先、10年先の遠い将来を示唆するものではなく、次の”直近“の歩みを照らす光ではないかと想う。

 闇夜に懐中電灯を照らしつつ歩むとしよう。懐中電灯で10歩先、100歩先を照らすとどうなるか? 肝心の足元が真っ暗となり、手前の石につまずくか、道を踏み外してしまうことにもなりかねない。

 想うに、いたずらに未来を予見させ、足元を危うくさせるのはむしろ悪霊の仕業ではないだろうか。

 私(たち)は、明日を照らすのに十分な光があるという信頼をもって一歩を踏み出だすとき、私(たち)の歩みは喜びの旅路となる。そしていつの間にか、こんなにも遠くに来たものだと驚くことであろう。

 まことの神がまことの人になられたとは、「神は天上高くから人を照らし導く神ではなく、人の可視領域の三歩先を歩み、道しるべとなられた神である。」と心に響く。
​~Missio Dei~2023年9月28日

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 讃美歌298番「安かれ、わが心よ」流山音楽アカデミー”みことばと賛美の集い“のお分かち

「やすかれ、わがこころよ

 主イエスは ともにいます

 いたみも苦しみをも

 おおしく忍び耐えよ

 主イエスの共にませば

 耐ええぬ悩みはなし」

 シベリウスの「フィンランディア」による讃美歌。当日はフィンランドのご婦人のご参加もあり、此の曲のことのはを分かち合わせていただいた。

 忍耐・・大変に難しい課題である。

 それは、自分たちの状況が好転するようにひらすらに我慢をするということではないように想う。

 また、電車が来るのを待ったり、”待ち人来る“を待つことでも、雨が止むのを待つということでもない。

 忍耐が自分たちに求めていることは、今この瞬間を十分に生きること、今まさに自分がここに在ることを深く味わうことではないだろうか。

 すなわち、今・この時も神の御取り計らいの真中にあることを知ること。

 私たちがキリスト者として成長・成熟していくための神の導き、御取り計らいを、私たちは”摂理“と呼んでいるが、その摂理に与っている今・この時が、すでにキリストを深く体験していることになる。

 キリストは、「今」を私たちと分かち合われるお方である。

「キリストの今」に感謝と賛美!!
~Missio Dei~2023年9月26日​~Missio Dei~2023年9月25日

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 バッハ~マタイ受難曲「わがこころよ、おのれをきよめよ」

   https://youtu.be/CWRxvh44pB4?si=A3SOgtVJIwl1qXg3
 小淵沢オリーブ教会のライブ配信動画。配信当初はそこそこのご視聴をいただいたが、半年を経た今、視聴回数がじわじわと増えてきたように思う。
 クリックの数や視聴回数によって作品が評価されるわけではない。あるいはそれに振り回され一喜一憂してしまうことは何とも情けない。
 しかしながら・・バッハ作品は、人の心と生活にゆっくりとたおやかに浸み込み流布していくことが、此の度の例を観てもよく分かる。
 バッハ先生ご存命中「マタイ受難曲」全曲は数回演奏されたきりで、没後はついぞ日の目を見ることはなかった。しかし没後100年を経たとき、メンデルスゾーンによって発掘され、歴史的再演がなされた。
「マタイ」は歴史の中に埋もれていたというより、100年の時をかけて極上の葡萄酒に醸造・生成されたのだ。我々と後の世の人々は「マタイ」の珠玉の味に与らせていただけよう。
 それにしても自分(たち)は、あまりに性急にワンクリックで実りを得ようとしてはいないだろうか。
 イエス・キリストとて、人として生きることの美しさ、素晴らしさを、30年もかけてヨセフとマリアのもとで学ばれたではないか‼

~Missio Dei~2023年9月17日

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 前回の投稿で、悲しみを分かつことで、真の親しさを見出すことになるやもしれない、と記した。

 親しさは、互いの傷に触れることでもたらされる果実である。

 互いの傷に触れることで生成される果実・・まるで真珠のようではないか!!

 真珠とは、アコヤ貝の体内に異物が挿入され"傷付けられること“で生成される″生体鉱物(バイオミネラル)”という宝石。

 私たちも”異質の他者“とかかわるとき、最初はかみ合わない歯車ゆえに、互いに傷つけあうことも多々あろう。

 大変逆説的な言い方になるが・・傷つけあうこと、面倒をかけあうことを恐れてはならないと想う。傷つけあうことも、真珠のごとき宝石を得るためのまたとない機会かもしれない。むしろこれは神のご配慮ではなかろうか?

 イデオロギーは異質の他者を排除するが、福音は異質の他者との共存、共生をよしとする!!

~Missio Dei~2023年9月16日

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 昭和歌謡研究会??『襟裳岬 』作詞:岡本おさみ 作曲:吉田拓郎 「北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やしはじめてるらしい 理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうち 老いぼれてしまうから .黙りとおした年月を拾い集めてあたためあおう~中略~寒い友達が訪ねてきたよ、遠慮はいらないから温まってゆきなよ。」

 とある霊操家が「喜びと悲しみは、私たちの霊的成長にとって、父であり母である。」と言っている。

 喜びと悲しみ・・私個人として観れば、喜びは自分にとり好ましい状態、悲しみは自分にとり好ましくない悪しき感情ということになる。

 しかし、主にある親しき友や妻とのかかわりの中で観れば、喜びを分かつことで、更なるいのちの謳歌へと駆り立てられる。悲しみを分かつことで、真の親しさを見出すことになるやもしれない。

 かかわりの中では喜び、悲しみに優劣はない。それどころか、悲しみを分かつことにこそ友愛の本質を観ることができる。

 ユングは、人の一生はほとんど「あがない・redemption取り戻すこと」であり、「幸福・happiness」ではないと言っている。

 悪しきものとして投げ捨ててしまった悲しみ、置き去りにしてしまった苦しみを拾い集め、それらを暖炉にくべ友と囲み、友情をあたため合っていくことは、まさに“あがない”と呼べるのではないだろうか。

 詩篇第30篇5節「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びがくる」。

​~Missio Dei~2023年9月15日

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 詩篇 37:5-6 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」

▷この詩歌は、主の示される道に対する全幅の信頼を詠っている。

▷と同時に主は、各々が歩む道を人自らをして切り開かせる自由と気概をもお与えになっておられる。

▷結婚カウンセリングの際、たまにお話をするのだが・・

「どうか主よ、わたしにふさわしい女性をお与えください。」と祈れば、まるでマナのように天から女性が舞い降りてくる・・これは一見、敬虔そうに観えるが、ナンセンスと言わざるを得ない。

「この人とこそ生涯を通して愛を分かち合ってゆきたい・・迷い悩みながらも私(たち)は決断を致しました。」と、主の御前に進み出でる人を、主はこのうえもなく喜び寿ぎ、祝福をお与えくださるのではないだろうか。

▷私たちが主に全幅の信頼を寄せるのと同じように、主は私たちの自由なる決断を信頼しておられる。

なんという心深きお方であろうか !!
~Missio Dei~2023年9月13日

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Ⅱコリント3:18 「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 生きることは尊く美しい。美とは・・ダイヤモンドのように固定された不変の輝きというより、キリストのおこころとことばを毎年、毎日重ね着をして、錦織りなすがごとく、美しいよそおいに"変容”していく美しさではなかろうか?

 すなわち、完成・成就を目指し成長をする"過程”そのものがすでに美しい。

 例えば、全4幕の歌劇の場合、第1幕、第2幕そのものとしては完成品ではない。しかし第1幕にこそ、オペラ全幕を示唆する大切なアリアがあるではないか。事の結末だけを観ればよいというものではない。

 資本主義社会においては、利潤・結果がすべてである。過程はさほど問題とされない。

 信仰・信心業の世界は、すでに約束されている完成(へブル11:1)を指向し、変容していく美しさでなのである。

~Missio Dei~2023年9月11日

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疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」マタイ11:28~30

▷キリストに”ついて“学ぶことと、キリストを学ぶことには雲泥の差がある。

 キリストに“ついて”学ぶは、キリスト教信仰に役立つ方法や組織の在り方を学習すること。

 キリストを学ぶとは、”みことば“そのものを聴くこと。キリストに”ついて”学んでいる神学者の中には、ノンクリスチャンもおられると聞く。

▷そして、キリスト”を“学ぶと、キリスト”に”学ぶも大きな差がある。キリスト”を”学ぶは、学ぶ主体がまだ自分である。

 キリスト”に“学ぶは、キリストのことば・生き様を自己の生き様と成させていただくことではなかろうか。

▷キリスト”に“学ぶことは、すなわち”分かち合いの徳”の実践であろう。分かち合いの徳は、キリストの品性そのものであられる。

 キリストとキリスト者と歓びを分かち、労苦の軛を負い合う・・分かてば分かつほど歓びが∞に、労苦は軽減されていく。

▷(祈り)かつて私は、天から降るマンナとパンを与えられ(出エジプト16章)、自分を養うばかりでしたが、今より後はキリストに倣い、自分を”分かち与えるパン“と成さしめたまえ!!

~Missio Dei, Pane e Vino~2023年9月9日

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「新しい歌を主に歌え」詩篇96篇

 新しい歌とは、主イエスの死と復活、其の贖罪を信じて新しくされたものの感謝の賛歌である。

(以下、所感)

 私たちの一日一日に新鮮な感動がある。新鮮な感動はすなわち“ときめき”。思うに、“ときめき”は、“ユーモア”と同義ではなかろうか?

 ユーモアとは・・「既に固定化し形骸化した生活や関りの中に、思いもかけない方法や切り口で新たな関りを発見する楽しさ。」、と私は理解している。

 人自らをして作ってしまった神と人との隔ての溝。

 主は、そんな人とのかかわりを回復せんが為に、天上高くから「私はあなたを救おう」と仰せられると思いきや・・

 なんと、神御自ら"人“となってその溝の底辺にお下りになり、手を携え人を引き上げなされた。思いもつかない此の主の業は、ある意味、私たちに差し出された究極のユーモアではなかろうか。

 人は年を経ると考えが固定化、習慣化して物事を決めつけてかかってしまう。ときめきと新鮮さが無くなってくる。教会生活の長い熟練者然り。

 とある実験で、西洋式のドアノブの付いたドアを開けるよう被験者に課した。実はこのドア、観音開きの構造になっていた。子供がその実験に臨むや、ものの2・3分でドアを開けることができたそうだ。大人はドアノブを押したり引いたりで30分経とうがドアを開けることできなかった。

 主は茶目っ気たっぷりに、日常の中にAmazingを隠しておられる。私(たち)は少年のように、ときめきのまなざしをもって、それらを見出してゆきたい。「新しい歌」に満ち溢れる日常でありたい

~Missio Dei~2023年9月8日

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「主はわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。主はわれを緑の野に伏させ、憩いのみぎわに伴いたもう」詩篇23篇。

 原発の汚染・処理水の海洋放出が大きな社会問題になっている。この問題には国内外から様々な賛否が寄せられているが・・そもそも人は、原子力発電に依存しなければ生きていけないのだろうか?

 神は地球上の資源で全人類をまかえないほどに、あまりに沢山の人々を創造してしまったのだろうか?

 否、地球上の農産物、海産物で人々が生活できるほどの恵みは、既に十二分に与えられている。食む(はむ)草は、牧場に青々と生い茂っている。

 その生産物を、いくつかの先進国が占有してしまっているが故に、世界飢餓という悲惨な状況を、人みずからをして招いてしまっているのである。

 理論的には・・コンビニエンスストアの消費期限切れのお弁当を開発途上国に送る事ができれば、飢餓状態は解消されるとのことである。それにはお弁当の輸送等さまざまな問題があろうが・・それにしても先進国が食料を廃棄するほどに“食べ飽きている”現実には愕然とする。

 原発は事故を起こさなくても、毎日放射線を排出している。被爆をする作業員がいてはじめて稼働をする原発の存在を、はたして神はお喜びになっているのであろうか?

~Missio Dei~2023年9月1日

**************************************************************************7田島 理枝、西川 和子、他5人

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」ヨハネの黙示録3章20節。

 讃美歌「キリストは、待っておられる」は、まさにこの光景を詠っている。

 神学校教員時代の出来事・・神学生が授業中、戯れに「キリスト、はまっておられる」と言ったのを聞いて、大笑いをしたことがあった。

 しかしこれは意外にも戯れではなく真理かもしれない。

 キリストは私に「はまっておられる」。キリストは、私を溺愛せんばかりにあまりに愛しておられるので、私たちに心から愛されることを待っておられる。

 愛を強制することはできない。それは自由に与えられるもの。

 キリストは人に此の自由をお与えになる“究極の自由”であられる。

~Missio Dei~2023年8月29日

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 20年ほど前、とある修道士から「砕きの霊性」というお話をお伺いしたことがあった。

◆年長の修道士が年少の修道士に向かって「この土の上に水を撒いてご覧なさい」と言った。しかし乾いて固くなった土は、ただただ水を跳ね返すばかりであった。

 さらに年長の修道士は「さあ今度は、土を鍬でよく砕いてから水を撒いてご覧なさい」と言った。

 すると水は、見る見るうちに土にしみ込んでいった。

 年長の修道士曰く「これは私たちの心の有様を表しているではないか。傲慢や自己形骸化によって固くなってしまった心は、いのちの真清水たるみことばをただ跳ね返すばかりであろう。しかし程よく砕かれた魂には、真綿が水を吸い込むがごとく“みことば”が染み入ってこよう。自身の心に鍬入れするときには苦痛を伴うものであるが、いのちのみことばを十二分に味わうためには、むしろ甘美なる苦痛というべきであろうか。」(←お聴きしたお話に、少々私の想いを加えさせていただいた。)

◆根気、忍耐を意味する“pazienza"(伊)、“patience"(英)は、ラテン語の動詞“patior"から来ている。“patior”は「苦しむ」という意。

「みことば」をふさわしくお受けするための土壌造りは、一石二鳥のワンクリックでなしえる業ではなく、根気よく鍬入れを繰り返しながら、ゆっくりとたおやかに成していくべき業である。

 土壌造りは生涯を通しての「過程」であるが、その過程のうちに主をすでに経験しているのではないかと想わされるのである。

~Missio Dei~2023年8月27日

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『大波のように、神の愛がわたしの胸によせてくるよ。

 こぎだせ こぎだせ 世の海原へ。先立つ主イエスに身をゆだねて。』(讃美歌第二編171)

 先月、神の家族主イエス・キリスト教会の礼拝堂に大波うねる聖画が掲げられていました。

 まさに上記讃美歌を彷彿とさせる聖画でした。

 私はサーフィンの経験はありませんが、波乗りを信仰生活に置き換えるなら・・みこころの波が迫って来ているにもかかわらず、注意散漫や怠りなどで波に乗り損なってしまったこともあれば、波の到来に先んじて自分であれこれと作為を弄し失敗をしてしまったこともあります。

 私個人の証を申し述べるのであれば・・圧倒的に後者の方が多かったように想います。

 自己錬磨、自己努力も過ぎたるものとなれば勇み足となりましょう。

 ユダとて、キリストを裏切ろうと思って裏切ったのではないと(私個人として)思います。ユダは、キリストがローマの兵隊に囲まれ四面楚歌となってしまえば、いよいよ政治改革者としてのご本性を顕すに違いないと思い込んでいたのでしょうか。「神の時」を待ちきれず、自己判断で事を運ぼうとしたのではないかと推察します。

 波を捉えみこころに乗ることは、他ならぬ信仰者の自由意思によってなせることでありますが、一呼吸おいて波を待つ、Allegro ,ma non troppoを志したいと想います。

~Missio Dei~2023年8月25日

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使徒信条に「聖なる公同の教会を信ず。」とあります。

 先日の霊想日記に「教会はいのちの真清水たるイエスをお入れする器で、大切至極であります。しかし器そのものには、いのちはありません。」と記しました。しかしながら・・神を信じると同じように、「教会」は信仰の対象なのです。この大いなる二律背反こそが信仰の神秘とも言えましょうか?

 教会を信じるとは・・教会が父と御子と聖霊なる三位の神を信じるのに役立つ組織・建物であることを信じるのではありません。

 神は私たちに、私たちと共にいる神(インマヌエル)となる“具体的”な場所として“教会”をお与えくださいました。

 神が、ご自身の愛されるお一人お一人をお呼び寄せになられるところが教会。神は教会において溢れんばかりの祝福をそそがれ、私たちは感謝に満ち溢れる賛美を捧げます。

 祝福と賛美の“佳いことば”が、幾重にも呼び交わされるところこそ「教会」であると、私は信じます。

 カテキズムに「世界は教会のために造られた。」とあります。すなわち、「世界」は祝福と賛美の“美しいことば”に満ち溢れる「神の教会」​であるべきと、私は信じて止みません。

~Missio Dei ,Pane e Vino~​2023年8月17日

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 フランチェスコの平和の祈り」に

~主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。~と、あります。

 Consolation~慰め~とは、“一人ぼっちの人(solus)”と“共にいる(con)”を意味します。

 慰めるとは、悲しむ人の痛みや悩みを取り去って差し上げるというより、むしろ一緒にいて差し上げることです。共に重荷を負い合うことです。痛みを解決できなくても、共に苦しむ(共苦)することで、明日に向かっての新しいいのちといのちの関りが実現しましょう。

 ちなみにイタリア語で「慰める」は“consolare”、「領事」は“consolato”、「領事の」は“consolare”。同音異義語なのですが・・ある意味「領事」は、彼の地に移り住み“同朋と共にある人”。同朋を慰め励まし、善きに導いてくれる役職と云えましょう。

 私は「住職」という表現も大好きです。「住職」は地域の方々と同じところに住み、共に在って“慰め”、”善き教えを説いていただける”お方。

 本当に人は、人と関り共に在らずにはいられない存在なのですね。

~Missio Dei,Pane e Vino~2023年8月15日

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 使徒信条(二ケア信経が源流)に「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」とある。

 この文言から私は、救いの歴史の「一回性」と「永続性」ということを連想するのである。

▷神の救いの御業は「ヨハネ3章16節」を通奏低音としながらも、其の人、その時々に最もふさわしい在り方でもたらされる唯一無二の出来事である。

▷これまで自分のこころを慈しみ育んでくれた、「あなたは愛されるために生まれてきました。戴いた愛を分かつ充実の人生を生きるための生まれてきたのです。」、「あなたは神の愛と"およろこび”」等の、愛に溢れることばは両親や牧師、また信仰の先達からもたらされた。しかし、両親はその両親から、牧師はその師匠から、信仰の先達はさらにその先輩方からこれらのことばに与っている。つまり自分は、歴史を通して続く「愛の永い列」に連なっているのである。

 永い歴史を通して培われた「聖徒らの愛の交わりの実り」を今、此のところで味わわせていただける幸いに感謝

~Missio Dei,Pane e Vino~2023年8月12日

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「わたしはあなたを母の胎に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」エレミヤ書1章5節

 自分は主のおことばを語る者として、大いなる摂理のもと生を受くる以前より"あらかじめ”選び分かたれていた、とある。

 私たちの生活世界では、或る人が特別に選ばれたということは、他の人は選ばれていないということになる。

しかし神の世界には競争も比較もない。すべての人が、その人ならではの"高価で貴い”使命を果たすべく選ばれている。(イザヤ書43章4節参照)

 更に云えば・・すべての人が神に選ばれていることを知らしめるために、父なる御神は御子イエスをお選びになり、この世界へ遣わされた

~Missio Dei, Pane e Vino~2023年8月11日

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『教会に 集いしわれは 教会の

 ものとはならぬ キリスト者なり』

 中野バプテスト教会でのお務めもあとわずかとなりました。これを機に「教会」について想うところを一言・・

教会に在って教会のものとならぬこと・・これはキリスト者にとっては大変難儀でありながらも、大切なことではないでしょうか。

 教会のものになるとは・・教会組織の問題や課題、あるいは教職者の業績や動静などに心奪われ、イエスとイエスのことばが観えなくなってしまうこと。

 教会はいのちの真清水たるイエスをお入れする器で、大切至極であります。しかし器そのものには、いのちはありません。皆々が器の元に相集い、こころを一にして真清水を頂戴するところが教会に他なりません。それ故に、教会に集えど教会のものではない・・と申し述べるのであります。

~Missio Dei,Pane e Vino~2023年8月10日


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『福音を 物語るわれ、我をして

 イエスを生くる 物語となせ』

イエスのおことばとその生き様は、「物語り」として語らねばなりません。

いや、福音は「史実」であり「物語り」ではないと言う方がおられましょうが・・

①紫式部のことばで、源氏物語・蛍の巻に「正史は嘘ばかり、物語の中にこそ真実がある」とある。

 現実はあまりに早く過ぎ越してしまうために、その人が語られらことばの深遠さに気付かずじまいのうちに時が流れ去ってしまう。故にもう一度、彼の時代のお方のことばを反芻し物語ることで、今度はしっかとその言葉を捉え、殻を割り実を取り出して味わおうではないか・・と心に響く。

②小学校の授業一コマは45分。その45分間、児童たちが真に集中して授業を聞いていられる時間は何と・・低学年で約5分とのこと。大学生であっても講義一コマのうち集中し聞き入ることができるのは約半分(良くて3分の2)とされている。

 故に説教も釈義的な内容であった場合、会衆の集中力は半分にも及ばないと考えた方が良いだろう。

しかし、物語りとして語るのであれば、小学生であっても一時間でも二時間でも集中を絶やすことなく聞き入ることができる。物語は聞き入る人を、その渦中にいざなう力がある。

▷故に、福音を物語り(ドラマ)として語ることは、むしろ会衆に対しての最大の心遣いとなるのではないだろうか。

~Missio Dei, Pane e Vino~2023年8月8日

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