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 聖画像はシュンボロン~σύμβολοv

 アメリカの日系人教会での出来事です。実際に筆者が当事者から聞いた話です。

 大学の卒業を記念して隣国メキシコを旅行した若者が、日ごろお世話になっている牧師先生に露店で売っていた“ケツァルコアトル像”を求め、プレゼントしました。

 プレゼントをお渡しする際、牧師は「お気持ちは大変うれしいのですが、此のプレゼントはこうするしかありません」と言うや否や、地面に叩きつけて粉々にしてしまったそうです。

 其の牧師は異教の「偶像」と断じてそのような行為に及んだかと思われますが、私はこれを聴いたとき、若者の無垢な思いを踏みにじる牧師の行為に、怒りを抑えることが出来ませんでした。

 

 従来、日本の教会でも、節分やひな祭りに対してあまりに敏感でした。宗教的催事の象徴であるひな人形は焼き捨てるようにと指導していました。

 教会が偶像礼拝を禁止する以上、きちんとした聖書的、神学的根拠を示して説明する必要があります。教会は十戒の第一戒、第二戒を根拠とする説明をしてきましたが、習俗、文化、作品なんでもかんでも一くくりにして「偶像」と断じるのは乱暴な気がします。

 そもそも「偶像」とは“神仏をかたどった信仰の対象となる像”、“あこがれや崇拝の対象となるもの”です。一般のキリスト者の家庭にも(我が家にも)、イエス像、十字架がありますが、宗教的偶像として拝んでいるわけではありません。

 

 聖画像や、典礼イコンはおもに「キリスト」を表しています。かつては体も顔もない神を画像によって表すことは出来ませんでした。しかし神が受肉されて、人と共に生きられた今、往時の人々が見たキリストのさまを画像として追創造することができます。

 神の御子キリストの聖画像を観想する信者は「画像」を礼拝するのではなく、「画像に表現されている方」に想いを寄せ、崇敬するのです。画像に頭を下げているさまは、見た目には偶像礼拝に観えますが、心のありようはそうではありません。

 カルケドン公会議では、キリストを想起する聖画像は偶像礼拝の対象ではないとしています。

 

 そしてキリスト像は、まさにキリストの「象徴~思想・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと」に他なりません。

 聖書的に観れば・・「象徴・シンボル」はギリシャ語の「シュンボロン・σύμβολοv」が基いとなっています。

 シュンボロンは、書類契約の際、一言一句違うことのない二つの書類を合わせ、その真中に押印をする「割符」「割り印」のことです。

 キリスト像は、私たちが確かに十字架の贖いと復活のいのちに与った契約の「割り印」なのです。

 大切な契約書と其の割り印である「キリスト像」をぞんざいに扱っていいはずはありません。最大限の注意を払い、丁寧に対峙せずにはいられません。そのさまを偶像礼拝と断じるのは、断じる側に聖書的、神学的根拠が欠如していると言わずにはいられません。

 神の御子の受肉は聖画像を用いるという、新しい道、新しい契約の印を私たちに提供してくださいました。

この大いなる恵みに、感謝の賛美!!
~2024年11月21日~

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「道に迷ったら教会へ行け」イタリアのママがよく言っていた、ご当地の格言です

ヨーロッパの街は、教会を中心とした放射環状型市街を基調としています。

 街のどこからでも教会を観ることが、いや、認めることができます。

 道に迷ったらまず中心の教会に行き、一度リセットをして、改めて目的の地を目指せということです。

 躍起になり町中を走り廻っては、まさに堂々巡り。まず教会に行き、自分の立ち位置と方向を確信したうえで再スタートをせよ、という格言です。

 これは精神的なことにも応用できましょう。いや、精神的なことにこそ云えるのではないでしょうか。

 

 宗教改革者ルターは、カトリック教会を否定して新たな教派を立ち上げようとしたのではありません。(結果として両者、袂を分かち教派が分裂してしまいましたが・・)

 ルターは、強大な組織と化してしまった教会の中の権威主義を改め、今一度、初代教会のアンブロジウス、アウグスティヌス神学へ立ち返ることを求めました。原点回帰をしたうえで、其の時代に寄り添う新たな福音の在り方を見出そうとしたのです。

 

「改革された教会は改革され続けなければならない。」は、プロテスタントの標語となっています。

一度改革されたら、それで「完結」したのではありません。「完結」ではないので、常に改革し続けなければなりません。

 改革を停止してしまえば、また誤りに陥り、歪みが生じます。教皇の権威を否定してできた教会であったのに、いつの間にか権威主義に陥ってしまいます。

どうしても組織は権威を志向し、安定を目指しがちです。

 神のことばを守る保守が、組織の体裁を守る保守となり、個人の立場、地位を守る保守に変質してしまいがちです。

 コロナ禍も重なり、私は特に大きな教団、神学校で其れを観てきました。

 本当に、権威・立場はかくも簡単に人を頑なにし、また酔わせることができるものだと実感させられます。

 

「伝統と刷新」のバランスを欠くとき、其処に必ず異端が生じることは、教会史全体が示していることであります。

「改革をし続ける」とは、絶えず伝統という主題・原点に立ち返り、そのうえで其の時々、文化にふさわしいあり様を追創造していくということではないでしょうか。

 さながらリトルネッロ(主題とヴァリエーションを自由に行き来する)、ソナタ形式(主題から展開するものの、再び主題に回帰)のように。

 主よ、我らをして、深遠で新しい信仰を養わせたまえ!!

~2024年11月18日~

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 パパ様、パウロ6世のおことば。

「若いころ私は一般人の生活に必要な様々な適性をもっているような気がしていました。

 私は父のように上院議員、兄のように医者、母のように瞑想家になりたいと思っていました。

 芸術家や雄弁家、冒険家にもなりたかったのです。

 しかし、こうした様々な相反し対立する職業的希望を、どうしてすべてを満たすことが出来ましょう。

 すべての世俗的希望を満足させ、それらを高い次元に引き上げるには・・つまり完全無欠の非聖職者になるには、   唯一つ、自分が司祭になる以外にはなかったのです。」

 

 深遠なこのおことばは、主イエスの此のみことばを表すのではないでしょうか?~「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」マルコ10:43〰45

 

 成程、自分の満足のために様々なものを会得しようものなら、“却って”更なる渇きを覚え「もっと、もっと」と、絶え間ない欲求に捉われてしまいましょう。

 仏教者はこれを、永遠に満たされることにない人生の繰り返し“輪廻転生・りんねてんしょう”と表現しています。永遠に続く生き地獄と云いましょうか・・仏教の教えとされる此の輪廻の思想は、仏陀自身が説いたものではなく、古代インドに伝わる考え方から派生したものという説があります。また、仏教のみならず古代ギリシャやイスラム教のごく一部でも見られ、世界各地に似たような思想があります。

(誤解なきようにお願いいたしますが・・私は輪廻の存在を認めているということではありません。心のあり様として、多くの人々このように考え、想っているということを申し述べています)

 

 自分を満たそうと思えば思うほど、却って満たされることない自分に気づかされます。

 しかし、天より与えられしいのちといのちを生きる意味を、主にあって悦び合い、“善”を分かちあうことには、ほのぼのとした充実があります。

 言い換えれば、主に在る他者を喜び、他者に貢献するということは、自分自身をも満たすということになるのです。

 他者に仕え、他者に貢献をする・・一見切ないようにも感じられるこの言葉は、実は“究極の自己の充足”、“永遠の満たし”に他なりません。

 キリストは御自らその生きざまをお示しになられました。私たちも「万人祭司」としてそれに倣うようにと、願っておられます。

+キリストに讃美

~2024年11月15日~

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 新約聖書マタイによる福音書6章34節「明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり」。

▷山僧活計茶三畝(さんそうがかっけいちゃさんぽ)という言葉があります。

 お坊さんは小さな畑があれば生涯暮らしてゆけるという意。

この言葉には「漁夫生涯竹一竿」(ぎょふのしょうがい、たけいっかん)と続きます。

 こちらも、漁師は釣り竿一本あれば充分という意。

 生計たらしめるために何か他のものは特に必要ではないということでしょうか。

 世の中には「これがあればもっと幸せになりますよ」「これをすれば、もっと高額の収入を得ることができますよ」と欲望をかきたてる広告に溢れています。

 自分にはこのスキルがないから・・十分な財がないから不幸なのだと否が応でも思わされてしまいます。

 

 さて、福音のまなこに映る「幸福」、「人生の一大目的」とは・・

 今生の様々な出来事、かかわり、仕事をとおして主と主に繋がる方々との愛を深めていくことに他なりません。これに勝る成功や幸福はないと言い切れます。

 この一大目的を達成するために、さほど多くの財や立場は必要ありません。

 何か一つ、自分を自己たらしめるものがあれば充分。其の自己をして他者に対峙できれば十分ということでありましょうか。

 あまり多くを持ちすぎると、自己が分散してしまい却って自分を不自由にしてしまいましょう。

 そして、何か一つのことに専心すれば、自分が直接携わっていない領域も、何かしらの形で体験することになるのではないでしょうか?

 すべての仕事、能力は「共通善」の実現のために貢献しています。

 具体的な働きの内容は異なるものの、「共通善」に寄せる思い、動機は同じです。

 私は芸術領域の人間ですが、経済人とも政治家とも医療に携わる方々とも其の動機を分かち合うことが出来ます。

 世の中おおよそすべてのことを体験しようと思ったら、人生百回あっても足りません。

 其れゆえに、自分ならではの一つの分野に専心し、他領域の方々と互いの動機と実りを豊かに分かち合い、喜び合わずにはいられないのです。

 冒頭のみことば「一日の苦労は一日にて足れり」

 その日一日の一事に携わること、この最も個人的な出来事は、実は世界に繋がる世界大の出来事であります。

 其れゆえ、主に在る平安のうちに一日一事に励めばよろしいのです。(自己の所感)

PS. みことばは固定化した教義ではなく、二千年たってもまだまだ新しい切り口で味わうことができる生きた人格者。上記のようなみことばの味わいもまた、お赦しいただけるのではないかと想っています。

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前回投稿のつづき
 讃美歌『ガリラヤの風かおる丘で』
 4節~夕暮れのエマオの道で 弟子たちに告げられた
   いのちのみことばを 私にも聞かせてください

▷キリストと“永遠の友愛の契り”を交わした私(たち)は、天のエマオへの旅路を歩んでいますが、歩むとは「静かに歩む」という意味。
 急ぐにあらず、走るにあらず、叫ぶにあらず、「歩む」のであります。
 夫婦の契りにも勝る“永遠の友愛”の契り・・私(たち)は父なる神の御前で、キリストと生涯を通して愛を分かち合うことを約束いたしました。キリストとの愛の授受こそが、人生の一大目的であります。
 私(たち)は既に此の一大目的を得ていますので、何か他の価値観を得ようと躍起にある必要はありません。
 キリストは、「日々、品行方正に研鑽を積むのであれば私の友としてあげよう」とは仰っていません。
「あなたは永遠の契りを交わしたかけがえのない友。生涯をとおして私たちの友愛を深めてまいりましょう」と仰せです。
 毎日、毎月、毎年、“キリストと私の友愛”を心身に重ね着をいたしてまいりましょう。“西陣織”にも似た極上の着物を纏いつつ、錦秋の日々を“静かに歩ませていただいている”幸いに感謝。
 キリストに讃美

​~2024年11月7日

 

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『音楽讃美礼拝』のお分かち 於;日本キリスト合同教会江戸川台教会

 賛美は祈り。そして「祈り」は主と主のおことばとの対話に他なりません。

 私たちは此の讃美の祈りのなかで、主と主のおことばに親しく近しくお目にかからせていただけます。

 また讃美礼拝を通して私たちは、主と主に愛されし方々と共に、天のエマオへの旅路を“歌いつつ歩ませて”いただいている幸いを深く味わわせていただけましょう。

 

▷讃美歌「ガリラヤの風かおる丘で」

 ガリラヤ湖湖面に投じられたイエスのみことばの波紋は、時を経れば経るほどますます大きく拡がり、いついつまでも揺らぎ続けます。

 イエスの発せられた「おことば」は、ガリラヤ湖畔のそよ風にのっていつまでもエコーし続けます。

音響的には、ことばや声は、時を経れば減衰してゆきますが、主のおことばはさにあらず。聖霊の息吹を駆ってますます高鳴る調べと相成ります。

 

 さあ、私たちの自らの声と言葉をもって此のみことばのそよぎに共鳴・共振してみましょう。

 みことばによって、みことばとともに、みことばを生きるかけがえのないご自分を見出すことになりましょう。

 

 2000年前のイエスのおことばに思いを寄せ「リメンバー」してみましょう。

「リメンバー」は「リ・再びの」「メンバー・同伴者」。そうです。リメンバーは唯、過去を懐かしむに非ず。イエスとイエスのおことばを再びの同伴者とさせていただくことなのです。

 2000前のイエスの言動は紛れもない現実。そしてリメンバーされたこともまた「もう一つの現実」。

 讃美の歌声のなかに、今尚生けるみことばとして、私たちにご同伴くださっているイエス其の方を観ることとなりましょう。

​~2024年11月6日~

 

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『天使らの リュート伴う アカペラで

 御国はいよよ 親しくなりけり』

 11月1日、ルーテル教会では全聖徒の日、カトリック教会では、諸聖人の日、11月2日は万霊節・All souls' day死者の記念日としています。

 アカペラという言葉は一般の文化用語になっていますが、ア・カペラ(イタリア語: a cappella)の本来の意味は「聖堂で」「礼拝堂で」となります。ア・カペラは簡素化された教会音楽の様式のこと。また、そこから転じて「無伴奏」による声楽だけの歌唱を指すようになりました。

 演奏者にとって協奏者、伴奏者は欠くべからざる存在ですが、無伴奏・アカペラの歌唱時には、万軍の天使ら自らがリュートを手に取り、伴奏に臨んでいただいているなと、想わされるのです。

 父母の居る天の御国‼  そして大恩ある方々が居られる天の御国は、これまで以上に親しさが増してきました。

 とりわけ、礼拝堂・納骨堂でア・カペラで讃美をなせば、自由自在に天の御国と対話をさせていただいている心地にさせられます。

 

 主の年2024年10月31日、復活苑(愛知牧場)にての父・厚,召天一年記念会ではアカペラによる聖歌『世の終わりのラッパ鳴り渡るとき』をお捧げいたしました。

 天使らの伴奏とともに聖歌『世の終わりのラッパ鳴り渡るとき』を、亡き父のみならず、天の御国におられるすべての方々にお捧げさせていただきました。

  • 世の終わりのラッパ鳴り渡るとき 世は常世(とこよ)の朝となり

  救われし者は四方(よも)の隅より すべて主のもとに呼ばれん

  其の時我が名も 呼ばれなば必ずあらん

  • 其の時眠れる聖徒よみがえり さかえの体にかわり

  我らも共に携え上げられ 空にて主に会いまつらん

  其の時我が名も 呼ばれなば必ずあらん。

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『音楽礼拝のご案内』

 コロナ禍もあってか、しばらく“鳴りを潜めていた”「音楽礼拝」の復活です。

 流山音楽アカデミーでお世話になっております日本キリスト合同教会・江戸川台教会礼拝堂をお借りしての「音楽礼拝」です。

 ルーテル教会、ドイツ国教会では教会音楽家を“カントール”と呼称しています。

 カントールとは“詠わせるもの”と云う意。

「音楽礼拝」ご参集の皆様には、カントール稲垣のガイドのもと、みことばを幾重にも詠い交わしていただきます。

 みことばを詠うことで、みことばの“ゆらぎ”“いのちのそよぎ”を全身全霊で感じ、味わっていただければと想います。

 「冷暖自知・れいだんじち」という言葉があります。

 湯呑に入った水が冷たいかどうかは、自分で飲んでみないと分かりません。

 人がご飯を食べているのを見て、自分のお腹がふくれるわけではないのと同じです。

 みことばを自分の息と声で歌うことで、其のみことばの篤さ、爽やかさ、たおやかさ、鋭敏さを実体験してみましょう。みことばによって、みことばと共に、みことばを生きる“かけがえのないご自分”を発見することとなるに違いありません。

 皆様のご来会をこころよりお待ちいたしております。

~2024年10月25日

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 聖歌392番「神はひとり子を」

▷神はひとり子を給うほどに 世人を愛したもう 神は愛なり

 神は愛なり 汚れはてしわれさえ愛したもう 神は愛なり

 

伝承によれば、ヨハネは「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8)以外の説教はしなかったということです。

周りの人々から「あなたはイエスの直弟子ではありませんか。イエス様から直接、いろいろとお話を賜ったでしょう。もっと他の説教もしていただけませんか?」と懇願されても、「“神は愛なり”以外お話しすることはありません!!」と言い切ったそうです。

 偉大なバリトン歌手、F.ディースカウ氏は、「同じリート(歌曲)を千回詠おうとも、一つとして同じものにはなりえない。」と語っておられましたが・・確かに詠う人の其の日、其の時、其の状況によって“ことのは”の味わいは“千変万化”します。

 「神の愛」

神の愛は、私たちの「喜怒哀楽」にいつも優しく寄り添ってくれます。以前にも書きましたが「優しい」とは、「人」を「百回」「愛する」と書きます。神の優しい愛は、いついつまでも(百)絶えることなく、実に多彩(百)であると言えましょうか。

 

 いつも私がご用させていただいています「音楽礼拝」「合唱の集い」は、「一期一会・いちごいちえ」で在りたいと願っています。

 人が生まれてから死ぬまでを「一期」といいます。「一期一会」とは、一生に一度出会うこと。初対面の人やものに使われる言葉ですが、普段会っている“お馴染みのメンバー”にも此の言葉は当てはまるのではないでしょうか。

 たとえ毎回のように顔を合わせる人でも、その日、其の時、其の状況のお相手は一度だけです。

尚且つ、その日ならではの“みことばの味わい”、“楽の音のそよぎ”であることを想えば、今日此の日の出会いや出来事は、まさに今生自分が体験しうる唯一無二の珠玉の機会と言えましょう。

 また、今現在の自分も一度きりの自分です。今日この時ならではの「神の愛」、他者、自分であることに感謝の賛美を奉げたいと想います。

 

動画:「主の祈り」~お茶の水クリスチャンセンターにて、ピアノ:田口靖子さん

まさに日々の糧である「主の祈り」。一貫とした「神の愛」「主の御養い」をモチーフとしながらも其の味わいは日々、独特なものである。

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 聖歌340番「救い主イエスと」

▷救い主イエスと共に行く身は

 乏しきことなく恐れはあらじ

 イエスは安きもて 心足らせ(こころたらわせ)

 物事すべてを佳きになしたもう

 物事すべてを佳きになしたもう

 

「リート(歌曲)を歌う前と歌った後では、その人の人生は変わっていなくてはなりません。」

ドイツリートの大家・シュヴァルツコップ女史の言葉です。

ことばを自らの声をもって歌うということは、其のことばを自らの“新しいいのち”とすることに他なりません。

 一昔前、日本ではオペラ・オラトリオのアリアを「詠唱」と呼称していました。

「詠う」・・なんと美しい表現でしょうか。「“言”葉」を詠う人、聴く人のうちに「“永”遠」たらしめると申しましょうか。

 かつて私が務めていた神学大学で、クリスマスコンサートのプログラムに“詠唱”と表記したことがありました。その際、とある教授から「仏教の“御詠歌(ごえいか)を連想させるので修正してください。」とクレームを受けました。私は「ことばを返すようですが、“歌”は神道の“祝詞(のりと)”が基となっています。それでは讃美歌、聖歌もいけないということになりますね。」と言いつつ、修正はしませんでした。

 

 ことばは情報伝達の道具や紙面に閉じ込められてしまった活字ではなく、生きてはたらく人格者です。

 尚且つ、ことばには創造する力があります。

 神も「光あれ」と、“みことば”をもって天地を創造なされました。

 特に“みことば”を詠うということは、畏れ多くも神の創造の御業に参与するということ、そしてそれを詠うものが、“永”遠を指向する全く新しい人に変えられるということなのです。

 

 讃美歌・聖歌を詠いつつ、イエスと共に「天のエマオへの旅路」を歩みゆく幸いに感謝の賛美!!

(2024年10月23日、父・厚の命日に想う)

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 新聖歌7番「主のみいつと」を詠う

▷主のみいつと 御栄えとを

 声の限り たたえて

 全(また)き愛と 低き心

 御座に供(そな)え ひれ伏す

 

「礼に始まり礼に終わる」

 学校の入学式・卒業式、運動会、授業、裁判や議会、公演、スポーツ、日本ではこれらすべて”礼に始まり礼に終わる“のが常である。

 道で人に会えば礼をし、物品の売買でも礼をする。

 更に言えば・・日本のカトリックの方々は礼拝堂・お御堂に入る際に、一礼をする。福音派の中には、「これは偶像礼拝ではないか」と、批判する人々もいる。

 頭を下げれば何でも礼拝になるというのは、あまりにも短絡的な見方であると言わざるを得ない。

 日常的に頭を下げる習慣のない西欧人にはそう見えたとしても、同じ日本人同士がそう言うのは、実に歪んだ見方である。

 日本は正座で“深々と礼をする”という独特の文化を持っている。正座で頭を下げるということは、相手が最も攻撃をしやすい姿勢である。

 そのことで相手方への聴従や信頼の念を示す。

 それは世界中の挨拶に共通している。旧約聖書の「ひれ伏し」は、両手、両足を投げ出して地にひれ伏すので、最高の聴従、信頼の表明となる。

 日本の正座は、「ひれ伏し」に“匹敵”する絶対信頼の姿勢である。

 武士の着座は、立ち上がりやすいような胡座(あぐら)であるし、旧陸軍の“兵隊すわり”は片膝を立てた胡座(あぐら)で常に戦闘態勢である。正座と土下座は自分の首を差し出さんばかりの「自己の明け渡し」と云えよう。

 

 厳かな礼拝堂や、主イエスを想起させる聖画や聖像を観るごとに畏怖の念や恭敬の思いが沸き上がり、「おことばどおり、この身になりますように」と自ずと膝をつき、深々と頭を下げるのは日本人の本性ではないか?

 

 人間社会では、外に現れ出でた姿勢が問われ、そこから其の人の心の内を判断されることになるが、礼拝の場合には、そこで表されている外形ではなく「心」が大切至極である。どのような心を神に寄せ、そのような行動・所作をとらせているのかを互いに慮ってゆきたい。

~2024年10月20日

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 聖歌40番(讃美歌21の57番)「ガリラヤの風かおる丘で」

 ガリラヤの風かおる丘で 人びとに話された

 恵みの御言葉を わたしにも聞かせてください

 

 讃美を詠い交わす現場で感じることなのだが、おおよそすべての讃美歌は以下の三つの霊的意味が籠められているように想えてならない。

  • 寓意的意味

「寓意」とは、聖書に示されている様々な出来事を、自己に関連付けることによって、これらの出来事をより深く理解すること。

 讃美歌は主と主のことばを、他ならぬ自己の息と声で反芻するものである。

息と声は“こころのそよぎ”そのもの。

 みことばを詠うとは、彼の時代のキリストの出来事は今の私の“こころのそよぎ”、つまり今の私の出来事に他ならないと“全身全霊”で味わい、告白することである。

  • 天上的意味

 あくまでも一般論で申し上げるので誤解なきようにお願いしたいのだが・・セダンの方がワンボックスカーやミニバンに比べると事故率が少ないと言われている。

 車のフロント部分が運転席から観えるので、ドライバーが、「今、自車がどちらに向かっているのか」を、はっきりと自覚できるからである。フロント部分が観えないと、一瞬、自車がどちらに向かっているか分かりにくいため錯覚を起こし、事故につながりやすい。

 さて本題にもどる。

 おおよそすべての讃美歌は、絶えず天の御国を指向する。

 今の私に及ぶキリストの出来事は、一時の充実では決してなく、一期一会に勝る永遠の意味があることを知らしめてくれる、と同時に、自らが向かうべき先が分かるということは、安心、平安のうちに人生の旅路を航行させていただくことと相成る。

  • 道徳的意味

 キリスト者は天の御国を希求し指向し続ける者であるが、“世捨て人”ではない。

 天の御国に導びかれるであろう者ならば、今生を其れにふさわしい“前奏曲”と成すべく、キリスト者一人ひとりは道徳的で在りたい。

 キリスト者にとっての道徳とは、即ち“分かち合いの徳”。

 主と主のおことばを広くお分かちをさせていただくことである。

 

 古今東西の珠玉の讃美歌は、此の三位の味わいによって織りなされている。(筆者の所感)

 

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『知性にも 勝るも劣らぬ 直観で

 こいにまみゆる 幸い覚ゆ』

 釣りをしていて、まさに佳いと思うことは、野生的直観を呼び起こし養うことできるということです。

 釣りのテクニック、ノウハウは確かにありますが、対象魚はなんら人の手を加えられていない野生の生物。最終的には釣り人も野性の魚には、野性的直観で対峙することになりましょう。

 野性的、動物的な感覚とは、動物や人間がもっていて考えずにとる自然な行動や反応(instinct)と、本能的に何かを理解する(intuition)の両方なのかなと感じます。

 人間は、本来その感覚を持っていて実際に感じているはずなのですが、うまく感じ取れていない、または無視をしてしまう人が多いのではないかと思います。

 人にはまた理性や知性と云う、動物には無い賜物が与えられていますが、それらは人が自然にとる行動や反応に対して、裏打ちを与えるものであり、その逆ではないと思うのです。

 中山悌一氏(日本声楽界の重鎮、初代二期会会長)のおことば~「知性や理性は感情、感性の娘であって、其の親ではない」

 これはまた、信仰・信心の世界にも、いや、信仰・信心の世界にこそ云えることでありましょう。

「こころのおもむくままに自然体で神を感じ味わうことが第一義。神学・教義が其の裏打ちとなるのであって、その逆ではない」と声も高らかに申し述べたく思います。

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 聖歌222番「疲れし者よ、来て休めと」~「メサイア」二重唱アリアの讃美歌転用

▷すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

 

 此処で云う疲れし者とは、往時、ユダヤ人には、十戒で有名な、モーセの律法(法律)がありました。しかし、当時のユダヤ教では、その律法を守るために付け加えられたさらに細かい民法のようなもの(口伝律法と言います)があり、生活のあらゆる場面で、ああしろ、こうしろ、○○はダメ!と、民衆にとって負いきれない重荷となっていました。

 さて其れに加え、現代社会においての「疲れ」とは一体何か?と想いを巡らしてまいります。

 キュリケゴールという哲学者は、疲れは「相対的絶望」から生じると指摘しています。

「相対的絶望」とは、自分一人では大丈夫なのに他者との比較、競争、そして言われなき誹謗、中傷によっていとも簡単に陥ってしまう絶望感であるとしています。

 とりわけ現代のSNS社会では「誹謗、中傷」は深刻な社会問題となっています。

 SNS上には、自分の批判能力を誇示せんが為、他者のたった一点のシミを重箱の隅をつつくように指摘し「大袈裟」にしてしまう者や、あるいは“注視されている人”、“権威ある人”を傷つけ自分の傷を贖おうとしている者の汚い言葉に溢れています。

 

 禅語に「本来無一物・ほんらいむいちもつ」という言葉があります。

本来人には、自分を落ち込ませるもの、絶望させるものは何一つないという意味です。

迷いや疲れの原因は自分のうちに探そうとしても見つかりません。それらはすべて人との比較や競争、誹謗、中傷から生まれるものでありましょう。

 

欠点のない人など誰一人いません。しかし主イエスは其の人の足らなさ、欠点、「罪」を汚らわしいものとは決してお思いになっておられません。

主イエスの眼にはそれらは、其の人がこれから“成長する領域”とお映りになるのではないでしょうか。

さあ、疲れし者よ!!かつて人々が棕櫚の葉を主の御前に広げお迎えしたように、自己の疲れ、弱さ、そして罪を主の前に敷き連ねようではありませんか。主はそれらを“麦を踏む農夫”のように踏みしめ、更には耕し、花と咲かせてくださるに違いありません。(所感)

~癒しと慰めと、そして励ましに満ちたもうキリストに讃美~

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 本日、聖歌隊/コーロ ペスカトーレは、西新井ゴスペルクワイアの皆様との合同練習と相成りました。

 ブラックゴスペル独特の胸声発声のパワーコーラスを基調としている皆様ですが、私たちが伝統的に親しんでいる讃美歌に皆様を“お迎え”することで、実に不可思議な“ことのは”が飛び交うこととなりました。

 ブラックゴスペルをそっくりそのまま模倣するも良し、しかしブラックゴスペルのパワーを私たちの文化の中で表すことは更に佳し、とでも言いましょうか。

 

 考えてみたら、西欧のキリスト教も中近東より発生した「福音」を自分たちの文化の中に迎えました。

 例えば・・聖書の中に「クリスマスは12月25日である。」と一言も書かれてはいません。

 西欧人は、漆黒の闇から光の時節へと転じる「冬至」にいとなまれるローマの農耕神・サトゥルヌスや、ゲルマンの太陽神・ミトラスの「冬至祭」を、キリストのご降誕日として設定したのです。

 また私たちが何気に使っている復活祭“イースター”は、実は「春の女神」の名前なのです。

 春の花々が艶やかに咲き誇る時節、春の女神・イースターのお祝いにキリストの復活祭をお迎えしたのです。(アメリカで交わされる「ハッピー・イースター」の「原意」は、「春の女神様、おめでとうございます」となります。もちろん、今のアメリカの兄姉に春の女神を賛辞する意図は全くありません。)

 決してこれは、福音をいびつに変えて異教化してしまったということではなく、他ならぬ自分たちの土壌、文化の中にこそキリストをお迎えしたいという思いの表れです。

 まさに福音の文化内開花・インカルチャーレーションです。

 

 日本の教会は仏教や神道、あるいは日本古来の習俗を敵視しないまでも、積極的に関りを持ってこようとはしませんでした。その結果、日本のクリスチャン人口は相も変わらず1%未満。如何に福音が日本の地に土着していないかが分かります。

 私たちにも美しい日本の文化があります。西欧の借り物のキリスト教ではなく、今や、自分たちの文化で福音を着こなす時ではないでしょうか?

~2024年10月8日~

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 讃美歌430番 「いもせをちぎる」

 1、妹背をちぎる家のうち

         わが主も ともにいたまして

         父なるかみの 御旨になれる

         祝いのむしろ 祝しませ

 

 ご周知、讃美歌430番「妹背を契る」。結婚式の定番讃美歌である。

 新郎新婦の門出を寿ぎ、主の御祝福を祈る歌であるが、私たちもまた(男性であっても)キリストと契りを交わした“キリストの花嫁”である。

 さて、今回も和のこころで福音を味わわせていただくことをお許し願いたい。

 

 聖書はアダムとエヴァの創造と結婚から始まり、キリストとキリストの教会である“花嫁”、そして黙示録は天上のエルサレムの小羊の婚宴で締めくくられている。

 キリストとキリスト者は婚姻の関係で、いや其れ以上の関りであると表されている。

▷「創造主ははじめから人を男と女とにお造りになった。そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく一体である。』」=マタイによる福音書19章4~6節。

 此れは、二人は「一心同体」と云っているのではない。

 「二人」は一つ体の如く、いつも共に在り、無限に関りあう存在である、との意である。

 自己に限りなく寄り添うお相手は、もう一人の自分であると云ってよい。

 

 ところで禅語でいうところの「主人公」とは、自分の中の“もう一人の自分”、とのことである。

 こちらの自分は、普段の自分よりもずっと強くて純粋。

この主人公は、普段の自分が迷ったり、苦しんだりしているときも静かに寄り添い、導いてくれる。

 自分の中に住む“もう一人のより佳き自分”の有り難さに気付くとき、私は本来の自分を見出し、自分を創り上げていくことができよう。

 

 キリスト者にとっての主人公は、いうまでもなく「聖霊」である。聖霊は聖なる息吹。

私の滞ってしまった思い、ことば、「息」を、創造と希望に向わせてくれる不可思議な聖なる息吹である。

 キリスト(教)伝来以前の仏教者も、自分たちの心のうちに在るこの不可思議な存在に気付いていた。

 今や、まことの夫たるキリストは聖霊として私の心身にお住まいになり、私の主人公となっていただいていることが、明らかとなった。

 この驚くべき御摂理に、感謝の賛美を奉げずにはいられない。

~2024年10月7日~

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福音讃美歌299番「小羊なる主の招きにこたえて」~讃美歌は277番「いさおなきわれを」

1.小羊なる主の 招きにこたえて

 すこしも飾らず みもと行きます

◆無事是貴人(ぶじこれきじんなり)

 最近私は、みことばの静想とともに「禅語」に親しませていただいている。

 誤解の無きようにお願いしたことは・・此れは決してキリスト教を“仏教的”に変容させて日本の地に土着させるということではない。

 また日本の宗教や習俗をキリスト教的に再解釈して済ませるということでもない。

 むしろ逆である。

 日本人が生来持っている和の心、ことのは、文化をもってこそ、「福音」をより深く理解することになるのではないだろうか。

 身の丈に合わない西欧のキリスト教文化を身にまとうのではない。和の心でキリストを着こなすことで、まさに「福音が日本人の血肉とせらるる」である。

 

 さて“無事是貴人(ぶじこれきじんなり)”は、“何もしなくてもそのままで大丈夫”の意。

 男女を問わず「きれいになりたい」と厚化粧をして自分を飾り立ててしまうのが人の常。そのメイクの下には、きれいな素肌があるというのに。

 非常に逆説的な言い方であるが、禅語による「無事」とは、“何もしない”ということ。

 “余計”な飾り(負荷)を取り外してしまえば、本来の貴いさま“貴人”が観えてくる。

 あれこれ手を加えたりしなくても、いや手を加えないことが、そのままで尊いのである。

 無理をしないこと、即ち「無事」。

 自分の身の丈に合う“はたらき”で十二分であると云えよう。

 

 自分の実体験を申し述べさせていただくことをお赦しいただきたいのだが・・

 例えば、今日のコンサート本番では高音“f²”まで駆使しなければならないので、余裕を得るために“fis²~g²”まで発声をして臨むことをこれまでの常としていた。

 さぞかし本番は余裕をもって詠えたかというと、むしろ逆である。

 此れは唯、準備段階で声に負荷をかけただけであり、当日、用いるべき音域の発声準備のみのほうが好結果につながったように思う。

 栃東関であったか、より強い筋力を得るためにバーベル等の器具を用いた筋力トレーニングを常としていたそうだが、現役時代の晩年に其の過ちに気付かされたとのことである。

 日ごろの稽古で相手と対峙し、稽古の中で相手を押し出し吊りだすほどの筋力を養えば十二分であり、それ以外のトレーニングは心身の負担にしかならないと、述懐しておられた。

 

 これらのお証は、すなわち精神、心のありように繋がる。

 身の丈に合うはたらきは、既に「高価で尊い」のであり、そんな自然体の自分を主はおよろこびくださっているのではないかと想わさるる白秋の日々である。

~2024年10月3日~

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 アッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」より(“和”のこころで味わう)
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

 人にとって「愛し愛される体験」は大切至極である。
 とりわけ人は「愛される体験」がなければ、1分1秒たりとも生きることが出来ないほど、「愛される体験」は人にとって切実なものであろう。
 法的罪を犯す人とそうでない人の違いは、法的罪を犯さない人は品行方正で意志が強い人であり、罪を犯す人は意志の弱い人であるということでは決してない。
 或る犯罪心理学者によれば、両者の違いは無条件に自分が認められ、受け入れられ、愛された体験があったか否か、だけとのことである。
「平和の祈り」では、「慰められる/慰める」「理解される/理解する」「愛される/愛する」という3組の受動態と能動態の対照が使われているが、「される(受動態)」よりも「する(能動態)」方がよりよいとされている。
 もちろんその通りなのだが・・私には此の「愛されるよりも愛する者に」は、「沢山、沢山愛されているがゆえに、愛さずにはいられない者とせられ!!」と心に迫ってくる。
「私は主イエスと主に繋がる方々から溢れんばかりの愛をいただいたので、其の溢れんばかりの愛を、他者に与えて差し上げることができます。見返りを期待することなくお分かちすることができます。いや、お分かちせずにはいられません。」と、思い、ことば、行いが能動態にまさる超能動態、“自由意思”とさせていただく悦びが詠われているように想えてならない。
 もし、愛することが出来る自分とさせていただいているのであれば、まさにイエス・キリストより与りし無限の愛ゆえである。「愛」の本源は神。神がイニシアティブをお取り下さっている。
 
「自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです。」
 禅語に「無一物中無尽蔵・むいちもつちゅうむじんぞう」という文言がある。自分の心の蔵から、すべてを取り出してお捧げするということは、逆に何でも入れられるということである。
 此の禅語は大きな示唆を与えてくれる。すべてを捧げて何も持たないということは、何でも持っていることと同じということである。
 花も月も、そして聖なる息吹もまるごと私たちに分け与えられている。
 失うことを恐れて、自分の命も所有物も立場も抱え込もうとすると、そのほかのものは自分のものではないという境界が出来てしまう。
 イエス・キリストに倣い、此の境界を取り払いすべてを捧げることで、自分の心の蔵に世界を、そして永遠をも収めることとなる。
 素晴らしい信仰の遺産である「平和の祈り」。「和」の心で味わわせていいただくことを、ご寛容のうちにお赦しいただければ幸いである。

~2024年10月1日~

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 聖歌「まことのため十字架の」~中野音楽アカデミーのお分かち

詩篇60篇4節「あなたはあなたを恐れる者のために、旗を授けられました。それは弓に変えてひらめかせるためです」

 ◆フォルティッシモ・ffの勇壮な曲である。

恩師・伊藤亘行先生から常日頃このように仰っていただいた。(少々、自己のアレンジを加えさせていただく)

「フォルティッシモであっても100%出してはいけない。マックスでも90%にしておきなさい。

 財布の中身を全部見せてしまうと、聴く人は其の人の限界を知ることとなり“ああ、ご苦労さま”となってしまう。

10%であっても声を潜めていれば、人はまだまだ無限のものを秘めているのではないかと“そら恐ろしくなる”。そのことをして人は其の大音響・ffに圧倒される」

 

 このお言葉は、信仰者の在りようにも通じる。

 様々な出来事に果敢に対峙する際、ともすればそこに自己の力100%を注ぎたくなってしまう。

 しかしながら・・主がお働きになる「余地」を10%でも残しておけば、主はそこに溢れんばかりに聖なる息吹をお注ぎになられる。

 自己努力の90%に対して主のご介入が加われば、90%+∞(無限大)。結果は100%を遥かに凌駕する無限大(∞)となる。

(誤解なきよう願いたい。“人事を尽くし天命を待つ”ではない。“主のご介入を期待しつつ人事を尽くす。”である)

 

 確かに私の過去の失敗を鑑みても、主のお求めになるものに対して足らなかった失敗もあれば、過ぎたる自己努力によって勇み足してしまう失敗もあったが、後者の方が圧倒的に多かったように想う。

 

 以前、私はCD「秘すれば花なり」と出させていただいた。

「秘すれば花なり」は「風姿花伝」を著した世阿弥の言葉だが、「黙していようとも、他者には花と映るように。あなたの存在そのものを花とせよ」との思いが籠められている。

これに本日の霊想を反映させることをお許しいただけるのであれば・・

「自己を秘めることは、すなわち“神秘”なるお方との対話に他ならない。永遠・無限なるお方との御交わりに与ることで、自己を朽ちることのない花と咲き誇らすができよう!!」
~秘めることは神秘なる実体験、ミステリオーゾ・misterioso~

~2024年9月27日~

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 聖歌「キリストにはかえられません」再考!!

~キリストにはかえられません。世の宝もまた富も。このお方が私に代わって死んだゆえです。

 世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストにはかえられません。世のなにものも~

 

 歌はブレス(息・あるいは息継ぎ)によって司られている。適切にブレスをしないと、息が続かなくなり歌うことができなくなる。至極当然のことである。

 しかし、ブレスは息が続かなくなったからするという消極的動機によってなすものではない。むしろ、ブレスの在りようは歌にとっての最大の表現である。メロディーに勝るとの劣らぬ“表現符”であるといってよい。

 ブレスをとることの意味合いは

◆歌詞と歌い手の心身を新しくする。

「新しい」という言葉に当たるギリシア語は「ネオス~νέος」と「カイノス~καινος」に大別される。

 ネオス という言葉のほうは、たとえば、古いスマホを「新しい」機種に変える、つまり「新品・new」に取り替えるという意味合いになる。

 カイノスという言葉は、英語で例えるならfresh という言葉がそれに近い。

▷コリント人への第二の手紙 5:17

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」

 此のみことばは「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられる者です。」となろうか。「古いものであっても、見なさい、主の十字架の贖いと復活の息吹に与ることで、すべてフレッシュな存在に変わっていくことができる」と言えようか。

 すでにお馴染みの人に対しても、そして他ならない自分自身に対しても、“この人もまた、キリストがいのちを賭して愛されしお人」というキリストの眼差しで見させていただける。

 また既にお馴染みの出来事や自分にとって不都合極まりないと思われる出来事の内にも、主のおことばとお心がお住まいになっておられることを悟らせていただける。

 

◆ブレスは、特にブレスの次の言葉を強調する。         

 「キリストにはかえられません」の後半の歌詞(Vはブレスとする)~「世の楽しみよV去れ。世の誉れよV行け」とあるが、此れだけ読むと「キリスト者はすべての楽しみや喜びを否定し、禁欲に徹する人である」と思わされ、なんだか切なくなってくる。臆せず申し上げるが、この歌詞は禁欲を奨励する歌詞ではない。

 上の項目、「心身を新しくする」のように、主の十字架の贖いと復活の息吹に与ることで「世の楽しみ」「世の誉れ」にも新しい意味が与えられた、と詠むべきである。

「世の楽しみ」は、自分に唯一無二の“いのち”と“いのちを生きる意味”が与えられていることに対する感謝に変えられ、自己に対する世間の注視「世の誉れ」は、自己を真に自己たらしめてくれる“キリスト”を証す機会へと変えられていく。

 歌詞の「去れ」「行け」がブレス(V)によって浮き彫りにされるが、そのようなものは「去れ」、「行け」と毛嫌いしているのではない。イエスのご介入(V)によって、過去の古い生き方が「去り行き」、新しい生き方へと「変えられた」と解したい。キリストにおいて「去り行く」ことは、即ち新しいいのちの始まり、新しいいのちへの「変容」に他ならない。

 私には此の「行け」「去る」には、代わりなきお方キリストによって、より良き自己へと変えられた感動と悦びが籠められているように思えてならない。~キリストに讃美~2024年9月19日

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「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。

 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ」詩篇3篇5~8節

 

 詩編を歌詞としたシュッツ(Schütz)の Kleiner geistlichen Concerten(小宗教的協奏曲集)。その昔、岳藤豪希師から、ドイツ語の語感と発声テクニックを養うために、同曲を用いたレッスンに与った。

 上記詩編による“私は身を横たえて、眠る(Ich liege und schlafe)は、夢の中でも詠えるようになるまで(?)徹底的に鍛えられた。

 

 ところで詩の末尾「セラ」だが、詩篇には71回登場する。「セラ」の意味は明確には分からないが・・

  • 休止符号

  • 楽器の間奏を求める符号 であるとされている。

 それでは詩編朗読、或いは答唱詩編唱で「セラ」を声に出すか否か、ということだが・・

  • 聖書に書かれているから朗読する(声に出す)べきだと考える人たちがいる。

  • 休止を求める符号だから、沈黙すべきだと考える人たちがいる。

 

 シュッツの楽曲で特筆すべきは、「セラ」一語に対して長大な走句をあてがい、何度も繰り返し詠っていることである。セラ一語の歌唱分量は,詩本編を圧倒するほどである。

「セラ」に関して私は断然、此のシュッツの技法や霊性に倣う者である。

「セラ」はもちろん休止符であるが、同時に「セラ」はその直前に書かれているみことばに共振・共鳴する「感嘆符」であるように想う。

 みことばを黙想するとは、ただ単に沈黙を守ることではなく、みことばを心身深くに浸み込ませ、自己の実践、行いの動機としていくことである。

「セラ」は、其のおことば通りの私になりますようにという祈りであり、尚且つ、「おことばを実践する私と成さしめたまえ。おことばを実践して初めて其のおことばを本物の体験と成すことができましょう」という自己の信仰告白ではないだろうか。

 

 ゆえにシュッツは「セラ」を確実に自己のものと成すために、時間を割いて幾度も反芻をしているのである。

 

 岳藤師のレッスンに遡ること数年前、私がまだ藝大浪人生であったころ、常盤台バプテスト教会の「みことばの集い」に参加したことがあった。詩編輪読の際、私の番のところで私が「セラ」とはっきり朗読・発語したことを、往時の牧師先生に大層ほめられたことがあった。浪人時代ということもあってか、深く自己を肯定された感動が「セラ」とともに脳裏に刻み込まれた。それ以来、今尚「セラ」は私のうちに宝として光彩を放っている。

~2024年9月16日~

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​ ​讃美歌405番「神ともにいまして」

▷イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。 第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』マタイの福音書 22:37-39

 

 日本語の「分かる」と「分かつ」は同じ言葉である。隣人とよき分かち合いをするためには「分かり」合わなければなるまい。

 

 日本もアメリカも今、新しいリーダーを選ぶことにヒートアップしている。

 テレビ討論会などを見入っていると、皆々、自己の政治イデオロギーと展開とともに、他者の政策・政治イデオロギーへの批判に終始している。もちろん政治は寛容さだけではなし得ないものであろうが、一言でいえば政治イデオロギーの世界は「異質の他者の排除」。反面、福音は「異質の他者との共生」である。

  

 イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた。「隣人を好きになりなさい」と仰られたのではない。

感情は、命令によって動かされるものではない。命令によって変えることが出来るのは行動だけである。よって「愛」「愛する」とは、自然に発生する感情の高まりではなく、意志であり努力であり、実践であるといえよう。

異質の他者に対して「同意」はできずとも、お相手のこころの動機を認め、理解して差し上げること、分かって差し上げる努力が、即ち心を分かつことに繋がるのではないだろうか。

 

 他者の異なる思いの一例として、少々極端かもしれないが「煉獄」を挙げてみよう・・我々プロテスタント教会には「煉獄」なる教えはない。

「煉獄」とは、神により罪をゆるされ義とされたものであっても,その罪の償いがまだ終っていないなら死後至福の状態に導かれるまで,残された償いを果すためにおかれる苦しみの状態、とされている。

 罪の償い、精算の一例として・・この地上で仲たがいをしたままの自己と他者、双方とも天に召されたとしよう。

 この地上では、会いたくないと思っている人には会わずに済むものの、天の御国では双方が永遠を過ごすことは事実である。永遠の世界にその場しのぎはない。

 其の時、人はこう言うだろう。「分かりました。相手が私と永遠のときを過ごすのに相応しいものに劇的に変えられれば、ご一緒することもやぶさかではありません」

 しかし、かく語る自分自身が、相手にとっての「相手」なのである。このような変化がこの世で起こらなければ、確実に永遠の入り口で身もよじらんばかりに“自分を変える”苦悶のときを体験しなければならないであろう。「煉獄」の教義はこのように教えている。

 大切なのは「煉獄」の存在の是々非々を「討論」することではなく、カトリックの方々の「煉獄」に寄せる「心の動機」を理解することではないだろうか。

「隣人」の心の動機を理解することで、感化よろしきを得て、永遠に向かう私たちの気概をも新たにすることができる。

 永遠においては私たちが生前に出会ったどんないやな人も大親友に変容するのであり、其の為に今生の生活を自分自身の歴史と人格を変える「聖化」の日々とし、永遠への備えとせずにはいられなくなる。

 これが他者との共生をよしとする福音の在り方ではないだろうか。

~2024年9月14日

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『讃美歌21』487番

1.イエス、イエス、主の愛でわたしたち 満たしてください

弟子たちの足 静かに洗い 人に仕える 主よ

4.イエス、イエス、主の愛でわたしたち 満たしてください。

“しもべ”のように 互いに仕え イエスと共に歩もう

 

意外に思われるかもしれないが・・「三尺三寸箸」の説法をひとつ。

~昔、ある所に、地獄と極楽の見学に出掛けた男がいた。最初に、地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間であった。食卓の両側には、罪人たちが、ずらりと並んでいた。

「地獄のことだから、きっと粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、なんと、豪華な料理が山盛りにならんでいた。

それなのに、罪人たちは、皆、ガリガリにやせこけている。「おかしいぞ」と思って、よく見ると、彼らの手には非常に長い箸が握られていた。恐らく1メートル以上もある長い箸であった。

罪人たちは、その長い箸を必死に動かして、ご馳走を自分の口へ入れようとするが、とても入りきらない。イライラして、怒りだす者もいる。それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとして、醜い争いが始まった。

次に、男は、極楽へ向かった。夕食の時間らしく、極楽に往生した人たちが、食卓に仲良く座っていた。もちろん、料理は山海の珍味である。

「極楽の人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」と思いながら、ふと箸に目をやると、それは地獄と同じように1メートル以上もあった。

「いったい、地獄と極楽は、どこが違うのだろうか?」と疑問に思いながら、夕食が始まるのをじっと見ていると、その謎が解けた。極楽の住人は、長い箸でご馳走をはさむと、「どうぞ」と言って、自分の向こう側の人に食べさせ始めた。にっこりほほ笑む相手は、「ありがとうございました。今度は、お返ししますよ。あなたは、何がお好きですか」と、自分にも食べさせてくれた。

同じ食事を前にしながら、一方は、俺が俺がと先を争い傷つけあっている。もう片方は、相手を思いやり、相手から思いやられ、感謝しながら、互いに食事を楽しんでいる。

まさに極楽浄土の幸せの花は、相手(他)と自分との間に咲く花である。~

 

 成程、この説法はキリスト者の琴線にも触れる名言である。

 

上記、讃美歌歌詞のような、“しもべ”や、“仕える”ものになることは、いくらキリスト者だからといって、容易になし得ることではない。主は何と無理難題を要求なさることか、と思いたくもなる。

しかし、此の説法はこの“難題”に対し佳き示唆を与えてくれる。

お相手に仕えるとは・・私たちの前に並ぶ共有の「膳」、共通の「善」に対して、まずは「おひとつどうぞ」とお相手に勧めて差し上げることに他ならない。それが却って自分自身をも富ませることになるのである。

人が成し得る最も崇高な行為は“分かち合いの徳”の実践であり、それは上記説法のように、ほのぼのとしたささやかな行為によって、誰でも自然になし得ることではないだろうか。いや、成さずにはいられなくなるのではないだろうか?

 

「断食」は、こころからなる悔い改めを表す行為であるが、もうひとつ、「此の食を断つことによって、それを必要とする方々へ届けられますように」と、分かち合いの徳へと想いを向かわせてくれる。ここにもお相手によりよく「仕え」「しもべ」となるための佳き示唆がある。

▷マルコ9:33~35

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。

 彼らは黙っていた。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからである。

 イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

​~2024年9月12日

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 オラトリオの歌い手は楽譜をもって詠う。一つの演奏様式である。

 暗譜をしていないということでは、決してない。オペラ歌手同様、楽譜の細部に至るまで暗譜をしている。

 それでは何ゆえに楽譜を「見る」のであろうか。

「見る」ことには以下の三つの深遠な意味がある。

▷オラトリオは神のみことばそのものを詠う。

 みことばを一言一句違う(たがう)ことなく、正しくお伝え、お通しせんがために“みことば”をしっかと見入るのである。

 

▷「見る」は新しさを表す。

 今、此の投稿記事をご覧になって皆様は、今生のあなたが見入る最も新しい風景であろう。

 見るは“新しさ”、即ち 「キリストの今」を表す。

 みことばは紙面に閉じ込められてしまった活字ではなく、今に生きてはたらく人格者(ペルソナ)。キリストの愛に満ち溢れるみことばは、今わたしに迫り、私を取り囲み、私をキリストの愛へと駆り立てる。其の“キリストの今”。

 「祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現われ」(テトス2:13)を待ち望みながらも、既にその世継ぎの保障を受け、「今」既に永遠のいのちに与っている。其のキリストの今‼

 それゆえに、みことばをしっかと“今”見入るのである。

 

▷聖書では「見る」は「持つ」という意味で用いられている。

 やがての日、私たちは天の御国において神を直接「見る」*ことができるという約束は、今生のあらゆる幸いをも超える幸いについての約束である。

 聖書では、「見る」ということばは「持つ」という意味で用いられる。

 神と神のみことばを見るものは、佳いものとみなされるすべてを「神と神のみことば」を見ることによって、既に「持って」いるのである。

 楽譜を「持って」、「見て」詠うということは、みことばを“究極の現実”として実感することに相なろう。

 

*神を直接見ること~“至福直観・しふくちょっかん”

~2024年9月5日~

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「メサイア」終曲~“アーメン”

 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。~Ⅱコリント1;20

 ヘブライ語のアーメンは、「信じる」と同じ語源から派生している。

 この語源には、堅固さ、信頼、忠実という意味が込められている。したがってアーメンは、神の私たちに対するご誠実さと私の神に対する信頼という、一対の対話となっている。

 

 神のみ救いはイエス・キリストにおいて完成・成就した。

 貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を告げるため、神はキリストを遣わされた(ルカ4:18参照)

もはや貧しい人は富むものとせられ、捕らわれ人は自由なる身となった。アレルヤ

 

 ここで云う貧しい人とは、経済的に困窮している人を指しているのではない。

 人々から反感をかって、軽蔑と共にあしらわれている貧しい人、他でもなく親友と思っていた人から足蹴りにされた人、自分をガラクタと決めつけ自らをして疎外と孤独に押しやってしまっている人、むしろこちらの人々の貧しさの方が、より深刻な貧しさといえるだろう。

 貧しい人は、自分一人でこれらの貧しさを解決することが出来ないことをよくよく分かっているがゆえに、本当の誠実さと交わりに枯渇している。

 イエス・キリストは貧しい人々に心身を賭して寄り添わんがために、十字架上ですべてをはぎ取られ、「貧しく」なられた。敵対するファリサイ派の人たちだけではなく、ご自分が手塩にかけた弟子たちからも裏切られ、十字架上で孤独の極みを味わわれた。

 イエスの貧しさと自分の貧しさが出会うところ。それが信仰(対話)の世界である。

 いのちを賭しての貧しさを分かち合いが、新しいいのちの交わりへと心身を向かわされる。

 

 昨年、とある聖歌隊の練習で或る方が「今日はひどく疲れ落ち込んでいますので、練習を休ませてください」と言われた。

 私は、「ご状況にもよりますが、とにかくお出でになられてください。人々が主の聖名によって集い、和するところには慰めと癒しのみ言葉が満ち溢れています。讃美の中に、貧しきものの友となられたイエスがお住まいになっておられます。讃美のそよぎにはそのような不可思議な力、神秘さがあります。もちろん練習に参加したからと言って、特効薬のようにすぐに心身が晴れ晴れとすることはないかもしれません。

 しかし、主と主のことばと、主に愛されし友との“調和”の中でこそ、ゆっくりとたおやかに心身に開放が与えられます。お一人で悶々とせず、兎にも角にもお出でになられてください。」と申し上げた。

 もちろんこれは私が有能な指導者であることを誇示するものではない。

 讃美の中には、貧しきものを愛して止まないイエスとの出会いがある。そこにこそお連れさせていただければという思いのほとばしりが、このように言わしめたのでないだろうか。

「まぶねのなかに 産声上げ 大工(たくみ)の家に 人となりて

 貧しきうれい 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ アーメン」讃美歌121番

~2024年9月1日~

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「メサイア」公演。8月31日(土)13:30開演~紀尾井ホール

◆「メサイア」公演は、台風通過の前となりそうですが、どのような状況であっても、お客様、演奏者ともご来場できる方々だけで公演をするとのことです。

 主宰のマエストロ小田彰(牧師)の堅固なご意志に、私は「グレン・ミラーサウンド」の実話を思い出しました。

 先日執筆した記事を以下に載せさせていただきます。

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 喜びや希望を与えたもうた神に感謝をすることは、あるいは容易いことかもしれない。

 しかし怒りや悲しみを与えたもうた神に感謝をすることは難儀であろうか。

 神に祈ろうとも、怒りに駆られたあの出来事、悲しみに打ち沈み途方に暮れたあの出来事を忘れることはできない。その事実は永遠に残る。

 しかし「祈り」を過小評価するなかれ。

 祈ると、それら事実が「今」に与える意味を変えてくれる。これを教会では「あがなう」と云う。

 主のあがないの恵みは溢れんばかりに私に注がれている。覚えていたい出来事や人々と、忘れてしまいたい出来事や人々を二分してしまうなら、私(たち)の存在すべてが神からの贈り物であるという実感が湧いてこないであろう。

 案外、自分にとっての失敗や不都合な出来事中に、「今」にこそ生かす宝が隠されていることがある。

 怒りに駆られ、悲しみに打ちひしがれた心のうちに、新たな気概へと繋がる布石が隠されている。

 ジャズ中興の祖、グレン・ミラーをご存じであろう。グレン・ミラー楽団は、サックスセクションの一番上の音をクラリネットが演奏する「クラリネット・リード」のサウンドで有名で、バンド・テーマにもなっている。「ムーンライト・セレナーデ」は、その代表曲。

 しかし、此のグレン・ミラーサウンド。不慮の事故のさ中に出来上がったものである。

~第二次世界大戦のさ中、グラン・ミラー楽団は各地の戦地へと慰問公演に赴いた。しかし汽車での移動中、ソプラノサックス奏者が爆撃によって負傷をしてしまった。それまでのグレン・ミラー楽団はサックス四重奏を基調としていたが、緊急措置としてソプラノサックスの代わりにクラリネットを宛がった。

 ところがこれが、これまで思いもつかなかった"妙なる調べ“となったということだ。

 コカ・コーラも溶液の配合ミスによって偶然出来上がった”珍味“であると聞く。

 現在に至るまでの私たちの信仰の旅路に同伴してくれたすべての“みことば”と”出来事“に有難うと言えるなら、私たちは真に神の子とせらるるのではなかろうか。

​~2024年8月30日

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 オラトリオ「メサイア」発語のキーワードは意外にも“and”と“the”‼

「メサイア」冒頭の合唱である(イザヤ40:5)

▷And the glory of the Lord shall be revealed,

and all flesh shall see it together:

~見よ、神の栄光は地に現れ、人みな見るを得べし

◆まずは「And」を観ていこう

 イタリアのMammaアンナはいつもこのように言っていた。「Io non penso di se o ma. Persempre e e e.~私は、“もし”“あるいは”“しかし”は、考えない。とこしなえに、“そして/and””そして/and”“そして/and”。」

 イタリア人気質を一言で表した、秀抜な表現ではないか。

 これは決して強がりであるとか、楽天的であるということではない。

 Io(わたし)にDを加えるとDio。「神」となる。Mammaのこの言葉は、まさしく神のご性質の反映であると私は観ている。

 神は天地を創造したもう神であるが、被造界は創造主から全く完成されたものとして造られたのではない。神が定めた、此れから到達しなければならない究極の完成に「向う途上」にあるものとして造られた。神が被造界、被造物を此の完成に向って導かれるはからいを我々は「摂理」と呼んでいる。

 神の「摂理」は歴史の中に滔々と流れる大河であり、留まることはない。いつもAnd、 And 、Andである。

 神が被造界全体を、“愛の完成”に導かれんとする其のご意志とはからいに、if、 or 、but の入り込む余地は全くない。

▷And He shall purify the sons of Levi, 彼はレヴィの子らを清める。(マラキ書 3:3)

▷And bring glad tidings of good things. 良き事々の嬉しい知らせをもたらす者の足は。(ローマ人への手紙 10:15)

▷The trumpet shall sound !! and the dead shall be raised incorruptible; and we shall be changed. ラッパが鳴ると死者は朽ちない者として立ち上がり、我々は変えられるだろう。(Ⅰコリント15:52)

 まさに「メサイア」は、And 、Andを十二単のように重ね着をした気品に満ち溢れている。

◆そして「the」

 本文冒頭のみことば・・The glory of the Lord shall be revealed,

 The gloryであって、A gloryではない。

 A gloryというと、一般論でいう光、「栄光というものは」となる。

 (A glory is an optical phenomenon,栄光はひとつの光学現象である。)

 しかしTheとなると・・今このところで私に迫り、私を取り囲み、私を主の愛へと駆り立てる「其の光」となる。光と云う観念ではなく、私の五感、全人格で感じ味わうことが出来る「其の光」である。

 私たち宣教者はキリストについて語っているのではない。キリストを語っているのである。今日此のところで生きてはたらく御言葉であるキリスト「其のお方」を語り、お分かちをさせていただいているのである。

 And とTheは、主と主のみことばをいっそう親しく近しく感じ、味わわせていただける架け橋のような言葉ではないだろうか(筆者の所感)

~2024年8月28日

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「讃美歌234番「昔、主イエスのまきたまいし」を詠う。

 神のみ摂理は普遍的でありながら、一人ひとりにもたらされる救いは、其の人ならではの唯一無二の独特な在りようである。

 其の人の全生涯、全人格は此の唯一無二のみ救いの内に完成・成就する。

 尚且つ、神の救いの御業は、人から人へ、時代から時代へと継続、いや永続していくものでもある。

 救いの御業の「一回性」と「永続性」と云おうか、此の両者のコントラスト、ダイナミクスが信仰世界に在るものの醍醐味と言ってよい。

 「一回性」と「永続性」の両者を生きる信仰者にとっては、自分という唯一無二の信仰生活から産出した実りを次世代の人々に、如何にバトンタッチをするかが肝要となる。

 リレー競技で最も難しく大切なことと云えば、やはり“バトンタッチ”であろう。

 合唱団・聖歌隊も同様。特に対位法作品では、その時々パートにおいて完熟したフレーズを、追従するパートへと受け渡すことが至極大切となる。そのことが即ち、その合唱団の品性とも味わいともなる。リレー競技同様、たった一か所のフレーズの受け渡しの失敗が、音楽全体の流れを乱し、台無しにしてしまう。

 

 神のみ摂理はモーゼからヨシュアに、エリヤからエリシャに、そしてアンカーのイエスにバトンが受け渡された。尚且つ、私たちも主イエスの佳き訪れを証し、お届をする走者(+奏者)として2024年の走区を任されている。

 できるだけ良い走区を走りたいと思わされるが、ガラクタな走区は一区たりとも無い。

 私の兄は3年で生涯を全うしたが、其の凝縮した3年の生涯は、いのちを生きることの素晴らしさ、意義深さを家族の皆々に伝えてくれた。兄の3年の生涯は、家族を愛の内により深く結びつけることに参与し続けてくれている。

 父は94歳の天寿を全うした。94年をかけて培われた“いぶし銀”のような深遠さと優しさは、今尚私の心身にエコーし続けている。

 

 かけがえのない「信仰」の継承!!

 我々は「佳き訪れ」の「聖火リレー&聖歌リレー」に召されていることを悦ばずにはいられない。

~2024年8月26日~

 

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「慈しみ深き友なるイエスは」3節にご注目‼

~慈しみ深き友なるイエスは、変わらぬ愛もて導き給う

世の友我らを捨て去るときも、祈りにこたえていたわりたまわん

 神は私たちと契りを交わされるときに、「私は永遠の愛をもってあなたを愛します。あなたの友があなたから立ち去るとき、そしてあなた自身が私を拒み、私を裏切るときでさえ、私はあなたに誠実です。」、とのみ声が聞こえてくるようだ。

事実、ユダがイエスを裏切ったとき、イエスはユダに「わが友よ、何のためにここに来たのか」と言われた。これは決して皮肉や当てつけの言葉ではない。

 

神は私たちと契り(契約)を結ばれた。神がなされた契約はCovenant,コヴェナントの契約である。Contract,コントラクトの契約ではない。

 オラトリオ「メサイア」の冒頭、バスによって詠われるレチタティーヴォもCovenantである

◇The Lord, whom ye seek shall suddenly come to

 His temple, even the messenger of the covenant,

 汝らが求める主、汝らが喜ぶ契約の使者が

 突然神殿にあらわれる。(マラキ書3:1)

 

 Covenantという単語は「一緒になる」という意味が込められている。「一緒になった」ではない。むしろ、「いかなることがあろうとも、生涯を通してお互いの関りを深め、やがての日、一心同体になりたい」という、神の決定的な、かつ自由なご意志の表れではないだろうか。


 Contract,は・・「あなたがあなたの分を実行してくださるとき、わたしも自分の分を実行します。あなたがあなたの分を実行しなくなったら、私たちはContract,を守る必要はありません。」「自社と御社は売買契約を交わしました。しかし自社にとってもっと良い条件で売買ができるC社からのお申し出がありましたので、そちらの契約に移行いたします。」と、“Contract”はしょっちゅう破られる。(もちろんこれらの言葉を、当人に面と向かって言うことはないだろうが、残念ながら世の中は、自分に利あるか否かで動くものである)

この間、とある結婚式で「いつくしみ深き」を3節まできちんと歌うバージョンがあった。司式をするものをして感銘を受けた。

 神は私たち人間同士の関りが「コヴェナント」の契約を反映するものであることを望んでおられる。とりわけ夫婦に対しては、神のご誠実さに倣う二人であり続けるようにと、祝福のエールを送り続けてくださっているに違いない。

「いつくしみ深き友なるイエス」に讃美!!
~2024年8月24日~

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 流山音楽アカデミーのお分かち(江戸川台教会)~本日のテーマはAllegro ma non troppo(歓びに溢れて、しかしはなはだしくなく)。音楽用語Allegroは「速い」だが、言葉の原意は“よろこび”。

讃美歌164番「こひつじをば ほめたたうる」
 1) 小羊をば ほめたたうる
    妙(たえ)なる物の音(ね) 天(あめ)に聞こゆ
    いざ御民(みたみ)よ、恵みの主に
    栄えの冠(かむり)を 献(ささ)げまつれ
 此の讃美歌はニ長調(D-Dur)。伝統的にD-Durは“キリストの栄光”を詠う調性とされている。(ちなみにD-Durの平行調はh-moll、キリストの受難となる)
 キリストは「神の小羊」として表されるが、小羊と云えば、世の罪を除く神の小羊(Agnus Dei)。そして天上のエルサレムの「小羊の婚宴」が直ぐさまに想い起こされる。
 此の讃美歌は後者、「キリストなる神の小羊」と、「花嫁なるキリスト者」が永遠に結ばれる「天上のエルサレムの婚宴」の光景を詠っている。
 私は一度、結婚式においてギリシャ正教の作法に則り「戴冠式」を執り行わせていただいたことがある。新郎新婦はこれから一家庭を営んでいくのだが、一家庭の精神的、霊的価値は一国家のそれに勝るとも劣らぬ重みがある。
 戴冠式では司式者が朗唱風に「あなたがたは、神より託されし家庭を治める王、王女でありますように」と詠いつつ、新郎新婦に冠を被せる。
「結婚」は正教では「機密」、カトリックでは「秘跡」、即ち聖礼典(サクラメントゥム)に組み込まれている。教派の違いは多少なりともあるが、此の地上の礼典は天上の礼典を前もって味わうことに他ならない。
まさに此の「戴冠式」の執行はやがての日、花婿キリストと共に、とわに天の御国を治めるであろうことの前表(ぜんぴょう)となる。
 
 さて神様は私たちに対し、「この地上の生涯を懸命に走り抜き、全うしたら小羊の婚宴に招き、勝利の栄冠を授けよう」とは仰ってはいない。
 むしろ、「さかえの冠を約束されたものに相応しく、神より託されし家庭や共同体を愛の内に治めるように!!」と仰っているのではないだろうか。それゆえに躍起になり先走る必要はない。歓びに溢れつつも“甚だしくなく”、粛々と「天のエルサレムの小羊の婚宴」のバージンロードを歩んでゆきたい。
2024年8月21日

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 前回投稿に引き続き、讃美歌520番「静けき河の岸辺を」を詠う~2節
「群がる仇(あだ)はたけりて かこめどせむれど、
いざなうものひしめきて のぞみをくだくとも
こころ安し 神によりて安し」詩編55:19
「決して群れなさんなよ。一人気高く、孤高であれ」
 林家木久蔵(現、林家木久扇)が、若き日に師匠から戴いたお言葉である。
「孤高であれ」とは、人とのかかわりを断って孤立しろということではない。むしろ逆である。
 泳ぎ上手に波間に漂い群れる「烏合の衆」に加わるのではなく、真に自分を自分たらしめてくれる誠の友を得よと、師匠は仰ったのではないか。
 神は一人ぼっちのアダムに対して「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われたが(創世記2章)、此の「助ける者」は原語のヘブライ語では「エゼル」、すなわち“特別な助け手である友”“親友”と表されている。
「車の助手席に助手が座っていれば、諸事助かります。」といった程度の助手ではなく、「エゼル」は増援部隊とでも云おうか、それがなければ本隊が立ち行かなくなるほど必要不可欠な援軍である。
 人は関わる存在。関わり合ってこその人。人と人が互いにエゼルとして貢献し合うとき、自他ともに其の人ならではの孤高の花を咲かすことが出来る。
「烏合の衆」は時事ネタに群がる日和見主義者の集まりなので、彼ら同志の間には深いかかわりはなく、何かの拍子にすぐに混乱を生み、分裂を生じさせる。
 混乱はヘブライ語で“バラル”。そう、あのバベルの塔の語源である。
 神はバベルで一つ原語を話していた民に対して、再び悪計をめぐらすことがないよう互いの言葉が聴き分けられぬようになされた、と記されている(創世記11章)
 人間をちりぢりに分裂させるために神が人間の言葉を混乱させたのではない。むしろ人々の利己心と主我主義が、自らをして混乱を生み分裂を生じさせたのだ。
 昨今、ネット上での心無い誹謗中傷が社会問題になっている。(特にオリンピック・メダリスト、あるいは惜しくもメダルを逃したアスリートに対しての誹謗中傷は聴くに堪えない)
 其の人の本質、心身の動機を見ようともしない表層的、近視眼的な言葉の暴力と「乱立」は、現代のバベル以外のなにものでもない。
 人はことごとく孤高であることに召されている。いのちといのちを生きる意義を与えられたものとして、誇りをもって生きるように召されている。孤高なる人生は、主と主に繋がる方々との深い関りと、混乱と分裂の隔ての壁を取り除き、調和の美しさに導かれる聖霊の降臨によってこそ実現する。

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 讃美歌520番「静けき河の岸辺を」を詠う
「ピアノを奏するはフォルテを奏するより遥かに難しい」~かのモーツァルトのことばである。
もちろんこれは、ただ音が強い、弱いといったAIの演奏レベルの言葉ではない。
不肖、わたくし音楽宣教者が思うところのフォルテとは・・“今、確かに此処に在るという現実感、実体”。そしてピアノは、“時空を超えるそよぎ、ゆらぎ、祈り”ではないかと想う。
音楽は現実を実感し謳歌しながらも、やがてそれは時空を超える「愛の昇華」「祈り」となる。音楽は絶えずピアノ(悠久の祈り)を指向して“完成”するがゆえに、かのモーツァルトをして「ピアノを奏するはフォルテを奏するより遥かに難しい」と言わしめたのではないだろうか。
 
讃美歌「静けき河の岸辺を」は、フォルテ、ピアノの差異が“激しい”曲である。曲中歌詞はフォルテ、ピアノを自由自在に行き来するが、此れは主イエスの神性、ご人性そのものである。
キリストは人々の苦境に対し無関心ではいられず、力強い御手を差し伸べ、リーダシップを発揮なさる御方である。反面、キリストの方から一人一人の美しさや良さに惹かれて“優しく”寄り添う生きざまが、聖書のそこここに描かれている。
“優しい”は、以前の投稿でも書かせていただいたが、“人”を“百回”“愛する”と書く。主イエスはどのような状況、状態の人であっても無限に優しく(ピアノ)愛しぬくことが出来るお方ゆえに、まさに“神”なのである。
全知全能の神としての偉大な側面(フォルテ)と、どこまでも優しく人に寄り添い、共感し“共苦”する生きざま(ピアノ)を調和的に表現なされた方こそ、主イエス其のお方である。
キリストに讃美~2024年8月16日

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「いとも良きものを、きみにささげよ」(新聖歌388番)
~「一年を 二十日で暮らす いい男」~
「粋でいなせ」な相撲取りを詠んだ江戸川柳である。
 江戸時代の大相撲本場所は年二場所、しかも一場所は10日で千秋楽であったため、「一年を二十日暮らす」、となっている。
 詠み人には、たった二十日間の仕事で一年分の稼ぎを得る相撲取りが、羨ましいという思いも込められているようだが・・相撲取りの一年は、其のたった二十日間を“いとも佳き”日々と成すためにこそ在る。相撲取りの一年のほぼすべては、其の二十日間に貢献をしている。それをして「いい男」と詠まずにはいられなくなるのではないだろうか。
 富士のふもとは、あちらこちらからおいしい水がこんこんと湧き出ている。富士に降った雨が富士の地層、すなわち岩、土、砂のフィルターを経て浄化されていく。富士に注ぐ雨水がそのまま飲めるわけではない。ありとあらゆる障害と闘い乍ら、ほぼ100年をかけて「いとも佳き名水」となる。
 キリスト者の賛美も、日曜日に礼拝で歌う美しい讃美歌だけが賛美ではない。
 むしろ、日々のあらゆる出来事をとおして主とかわす親しくも篤い「祝福と賛美の対話」の集大成が教会で詠う讃美歌なのである。云わば、私たちの生活そのものが“賛美”なのである。
 私たちの生涯をとおしての賛美。天に召されるその日に歌う「辞世の讃美歌」こそ、もっとも浄化された“いとも佳き”極上の讃美となろう。
Photo:母の命日に寄せて~2024年8月12日

 
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新生讃美歌388番「主よ、わが心に」
「主よ、わがこころに 友を思う 愛をば満たして 用いたまえ
 わが友に君の 愛を示す いのちの器と なさせたまえ」
◇大相撲史上、最も偉大な横綱であった双葉山は生前、「後の先・ごのせん」ということを語っておられた。
「後の先」とは、まずは相手に技をかけさせた後、それをしっかと受け止め、更にはその相手の力を利しての返し技で勝利を得ていくありさまである。
 お相手の後に在ることが、むしろお相手に先んじることなる。これぞまさに横綱相撲ではないか。
 剣道でいう「後の先」は、小手抜面、面抜き胴、面抜き面、出小手などがある。
 そして此の「後の先」は、柔道の創始者、嘉納治五郎氏の「自他共栄」にも相通じる精神である。
「自他共栄」は、いたずらに勝ちを求めるものではなく、自分のみの輝きを求めるものでもない。
 相手のありように合わせ、他者とのかかわりのうちに自己を高めていく生き方である。
 キリシタン大名の「黒田官兵衛」は、晩年「黒田如水」と名乗った。
 水がどんな「器」にも合わせていくことが出来るように、神とお相手の中に自己を染み込ませながらも自らのアイデンティティを発揮していく生きざまは、キリスト者としての極みでもある。
 今回のオリンピックにおいて、嘉納治五郎氏によってフランスの地に植え付けられた「柔道」が、見事「Judo」として大きく花咲くさまを見入ることが出来た。スポーツが民族・文化を超えて、一つ地球家族の財産として共有できるようになったことに感動を禁じえない。
 反面、「Judo」ではなく、「柔道」本来の味わいとでも云おうか「後の先」が見られないのは、些か残念でもあった。
 自分に有利な組手を得るために、互いに額を合わせ、極端な前傾姿勢で組み手争いをする姿や、組み合う前に高速タックルで「技あり」をとろうとするさまは、「柔道」本来の在り方とは違うのではないだろうか。(時間内でのポイント先取のシステムでは致し方ないことかもしれないが・・)
 もちろん、勝敗は大切至極であるが、互いに全人格を“確と”対峙させ共鳴し合う、古き佳き「柔道」を観てみたいと想わされるものである。
Photo:賛美の競演(ひばりが丘グレイス教会)。自分の演奏にこだわるよりも、お相手が歌いやすいように配慮する方が、結局は自己の歌をより輝かせることになる。

​~Mossio Dei~2024年8月10日

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 讃美歌「み足のあとを」~私は、私の道を顧みて、立ち返ってあなたの定め(摂理)に足を向けます(詩篇119編59節~
 和声学は、クラシックにおける和音の進行と各声部の導き方について体系化された音楽理論である。
 ソプラノ、アルト、テナー、バスという4つの声部を用いて書かれる「四声体」は和声の基本中の基本である。
 古今東西の讃美歌もこの四声体を基(もとい)としている。
 四声“体”と云われる和声を用いることで、音楽は、ものの見方とか、考え方というレベルでは決してなく、実に音楽は「実体」を伴う現実であることを知らしめてくれる。
(以下、自己の所感)
 ソプラノ、アルトは、万人が共感するところの知性・感情のあらわれではないかと思う。(体で例えるなら頭・顔・胴)
 テノールは、音を書いてある長さの通り、最後までしっかり保ち、支え、維持するテヌート(tenuto)が語源である。テノールは、主と主のみことばに対し、程よい張り、緊張感を保つ役割を果たしているかのようである。即ちそのことが楽曲全体を、適切に支え司ることになろう。(テノールは体幹)
 そしてバス。キリスト者が、神のことばとみ摂理を想うとき、最初に起こる衝動は、それを自分の行動で実現したいという思いである。それは耳でもなく舌でもなく、足と云う体の器官によって従っていくものである。D.L.ムーディ師は「聖書は靴を作る革になるべきなのだ」と語っておられる。
 そう。バスはまさに足である。
 主はとても恵み深く私の足に靴を履かせてくれるので、私たち四声体は勇躍、外に進み出でて「平和の福音を告げる」(エフェソ6:15)ことができる。みことばの高鳴る調べを、あまねくお届け、お運びせずにはいられなくなる。
~Missi Dei~2024年8月8日

 
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 讃美歌「ものみなこぞりて」~アッシジの聖フランチェスコ「太陽の賛歌」より

 オリンピック・アスリートの心・技・体の調和は、まるで極上のムジカ・ウマーナ(人間の音楽)。
 神は人間を、神のみこころを理解できる知的な存在としてお造りになられ、より佳き行為を自主的に成すことが出来る倫理的存在として誇りに思ってくださっている。
 オリンピック・アスリートの強靭な肉体は、知性美のあらわれ。そして競技をとおして自他ともに高め合わずにはいられないという自由意思のほとばしりは、私たち人間の最もよいものを注ぎだした“賛美”に聴こえる。
 神がかくも美しく人をお造りになられたこと、神に在って互いを悦び合うさまは、神への賛歌そのものではないだろうか。
「人馬一体」「一球入魂」のことばの如く、動物や道具を用いるところのスポーツはまさにムジカ・インストゥルメンターリス(楽器の音楽)。
 スポーツを通して、世界が一つ“地球家族”であること味わい悦ぶことは、
 ムジカ・ムンダーナ(宇宙・世界の音楽)。
 成程、古代オリンピックにおいては芸能・詩歌も競技種目に入っていた。
 神が混沌とした世界に対し、最初になされたことは、「創造と調和」である。
 神が世界や人体の調和を司っているのと同じ仕組みが、スポーツ、芸術、いやすべての文化に現れていることに、改めて想いを巡らしたい。
 2024年8月3日~Missio Dei,Pane e Vino

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 2024年8月3日
​ 詩編119編を詠う
「神よ、あなたのことばは私の足のともしび、私の道の光。
 いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。」
 十戒は主たる“戒め”であるが、かつて其れを裏付け、従属する「律法」があまた存在していた。
 律法には、「~してはいけない」という356の禁止事項と、「~しなさい」という248の積極的に守るべき掟とがあった。合計約604もの戒めがあり、律法学者はこれらを熱心に探求し教えることを生業としていた。
 どの掟が最も重要であるのかという律法学者の問いに対して、主イエスはお答えになられた。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
 イエスは最重要の二つの掟を示されたが、これ以外の律法を削除されたのではない。
 イエスは「おおよそすべての律法は、此の二つに要約される、いや、すべての律法はこの二つを“動機”としている。」と仰せになられたのである。
 
 聖歌隊を指導する際の鉄則は、「指導言は一時に一事」である。
 そもそも人が一時(いっとき)に注意できる事は、一つか二つである。人は一時に四つや五つの項目を実践することはできない。
 演奏上の不都合が沢山あっても、曲を止めて発する指導言は多くて二つ程度に留める方がよい。まずは最重要の二つに留意して演奏に臨み、其れが網羅できたと確認したら、再び曲を止めて、次の留意事項を述べたい。
 間怠っこいようだが、この方が断然効率が良いし、心身共に達成感がある。
 人のこころをよくよく理解なさっておられる主イエスは、すべての律法を網羅する為の「動機付け」「目当て」を二つの“掟”としてお示しくださった。尚且つ、私たちの愛を求める前に、それを遥かに上回る愛をお示しくださった。
 キリストがいのちを賭して愛してくださった自分であればこそ、そして“もう一人の自分である他者”であればこそ、愛の応答を為さずにはいられないという“自由意思”へと変えてくださった。
 主イエスは、死守すべき困難な規則や、じっと忍耐すべき厳密な規定を、幸せと賛美の内に歩む生き方へと変えてくださったのだ。
2024年8月1日~Missio Dei,Pane e Vino

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「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」へブル人への手紙12章1節
 コンサートを意味するConcerto。ラテン語のConcertoは“競走”、転じてイタリア語のConcertoは、“協奏”となる。
 この両者の対比は、「競走」は即ち「協奏」であるという深遠な意味が込められているように思う。
 
 NHK大河ドラマ「いだてん」で心の残った台詞がある。
 短距離走の三島弥彦氏が今しも競技に臨もうとする際、監督が「我々短距離走者の最大の敵は“タイム”。これから我々はタイムと云う強大な敵に立ち向かおうとしている。共に走る競争相手を“敵”と思ってはいけない。むしろタイムと云う敵に共に挑もうとする“同労者”と思いなさい。」と語られた。~オリンピック精神を一言で表した秀抜なことばではないか。
 私は中高生時代“剣道”をしていたが、剣道では一本を取った際“ガッツポーズ”をすると、一本は取り消しとなる。お相手に対する礼節を欠くという理由からである。
 剣道における対戦相手も敵ではなく、礼節を会得し技を磨き合う同労者。同労者があってこその自己である。私の周りに妻、友、先生というかけがえのない同労者がいるということは何と素晴らしいことであろうか。
 私たちの生涯を通しての競技、“信仰の旅路”も同労者と共に走り続けていきたい。走るというのは一気呵成に目的に向かうということより、情熱を傾けるという心のあらわれである。
 既に垣間見えているゴールを目指し、同労者と共に篤い「協奏」を奏で続けてゆきたい。

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*ベートーヴェン「諸天は神の尽きぬさかえ」~流山音楽アカデミーおレッスンのお分かち。
 詩編8編による答唱詩編
「神の名はあまねく世界に輝き その栄光は天にそびえる。
 あなたの指の業である天を仰ぎ、あなたが造られた月と星とを眺めて想う。
 なぜ人に心を留め、人の子を顧みられるのか。
 あなたは人を神の使いに近いものとして造り、栄と誉の冠を授け、あなたが造られたものを治めさせ、
 すべてをその知恵にゆだねられた。」
 
 人を生物として見た場合、人は小さなものにすぎない。
 大宇宙においては、「塵」のような存在でしかない。
 しかし、「霊的な存在」という点では、天地創造の神が目的をもって存在させた、宇宙をしのぐ大巨人であると云ってよい。
 霊・・とは、魂と魂の関りの美しさ。
 人は関わる存在。関わることを通して、人はますます巨人たらしめられていく。
 
「主なる神よ。あなたは果たして地上にお住まいになるのでしょうか?天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。私が建てた神殿など、なお相応しくありません。唯、しもべの祈りと願いを顧みて聞き届けてください。」ソロモンのことば~列王記上8章
 主は宇宙の運行を司っておられるが、ご自身の居場所を、大宇宙(天の天)には設けられない。むしろ、其れを遥かにしのぐ私たち人間の霊的な交わり、霊性あふれる“讃美”のなかにお住まいになっていただけるのである
~キリストに讃美~

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聖歌「慕いまつる主なるイエスよ、捉えたまえ我を」~流山音楽アカデミーのお分かち 於:日本キリスト合同教会江戸川台教会
 全知全能の神のおはたらきは、わたしたちが終わることのない無限なる広がりへと思いをはせるようにすることだけではありません。
 私たちの生活世界のなかに、いや、私たちの心身の真中に私たちを「無限」に愛して止まない“主なるイエス”がお住まい下さっていることを知らせ、味わわせてくださいます。
 
 先日、トランプ前大統領への銃撃事件がありました。銃の乱射事件はアメリカのいたるところで、毎年のように起こっています。
 十数年前、アメリカのミッション系ハイスクールで銃の乱射事件がありました。無神論者を名乗る男がある女学生に向かって銃を突きつけ、「神はいないと言え。いないと云えば発砲はしない!!」と叫んだところ、女学生は決然と宣言しました~「I believe in Jesus!!」。その直後、女学生は凶弾に倒れました。
 後日、其のハイスクールの校章の下には、女学生の今際のことばを記念して「I believe in Jesus.」の文字が刷り込まれることになりました。
 此の「in」は神に対してしか用いません。I believe in Kumiko-san.とは言いません。I believe Kumiko-san.となります。
 イタリア語でもCredo in Dio.
 此の「in」の一語は、キリストと私は全存在レベルでの関りであることを表します。即ち、「私は、キリストによって、キリストの“内”に捉えられしもの。キリストと共にキリスト其のお方を生きる自分であります。」となりましょうか。
 世の中が如何に移ろい、流転しようとも、キリストと私の此の関りは、未来永劫変わろうはずはありません。むしろ私はこちらの現実を信じ、第一義とさせていただきとうございます。
 I believe in Jesus.
 Io credo in Dio.
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詩篇138編による答唱詩編
「主をたたえよう。
 主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
 神よ、私はこころを尽くしてあなたに感謝し、
 神の使いの前であなたをたたえる。
 あなたの神殿に向ってひれ伏し、
 いつくしみとまことのゆえに、
 あなたに感謝をささげる。」
 
 賛美とは、暇にまかせてする道楽でも、礼拝を盛り上げるBGMでもない。
 賛美は、神と神の御業の強力な証であり、神の真の祝福を公に表す“公文書”である。
 人の限りある言葉のみでは、神の御業すべてを証すことは到底出来まい。
 其れ故に人は、神と神の御業は人の想いや言葉を遥かに超越するものであることを表わさんがため、神を「賛美」するのである。
 賛美音楽の拍節、リズムは神のことばの「常動性」を、「音」に伴う無限の倍音は、神の「無限性、永遠性」を表して止まない。
 神を賛美している魂は、神の鼓動(リズム)と“ときめきの今”を身近に間近に感じながらも、永遠を指向し続ける。
 
 今生の心身の“ときめき”だけを求めようものなら刹那的、没我的な自己に陥ってしまう。また、天上指向のみに終始しようものなら、キリスト者は世捨て人になってしまう。
 健全な賛美はそのどちらにも偏らない。天上指向を一大モチーフとしながらも、両者が程よく調和を醸し出し合っている。
 賛美は、人が知覚・体感できる言葉を用いつつも、永遠なる神を神として最もはっきりと認める祈りの形である。
 其れゆえに、永遠の昔から現在、そして未来永劫に至るまで、様々な創造物が声を上げて終わりなき讃美を神に捧げるのである。
​~2024年7月12日~

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 詩編119編による答唱詩編
「神よ。あなたは私の足のともしび、私の道の光。
 私は仰せを心に納めています。
 神よ、あなたのことばを生涯守れるように。」
 神のことばが豊かに蓄えられている心は、準備万端に整えられた兵糧米(ひょうろうまい)に似ている。
 戦国の世、戦(いくさ)において「籠城」はよく用いられる戦法であったが、兵糧が尽きるとき、其れは即ち敗戦を意味した。
 しかし心に納められている兵糧は尽きることがない。
 何故ならば、互いに交わし分かつ“愛の糧”は、使えば使うほど、すなわち、分かてば分かつほど新たな愛の実りを得ることができるからだ。
 私たちの家庭や共同体という城内では、果つることなく愛の糧が「再生産」されていく。
 主が私たちの心に植え付けられた“愛のタラント”を、私たちがどのように用い「拡大生産」するのか、主は楽しみつつご覧になっておられる。
 十二分な兵糧米があれば、外部からの攻撃、内部の不協和音のいずれに直面しても、恐れる心配はない。
~キリストに讃美~

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「神よ、あなたの顔の光を、私たちの上に照らしてください。
 神は私の光、私の救い、わたしはだれもおそれない。
 神はわたしのいのちの砦、わたしはだれをはばかろう」詩編27編による答唱詩編

 神の御守りと恵みは、いつも私に迫り、取り囲み、私を主の愛へと駆り立てる。
 主が私になしてくださった恵みを一つひとつ指折り数えるならば、指が百本あっても足らないだろう。私たちは、昨日のイエスの恵みを語り、証しすることに何ら“はばかり”はない。
 しかし、昨日のイエスは今日のイエス、更には明日のイエスであることを証すことは少々難儀かもしれない。喫緊に迫る課題、外からくる困難のさ中に在っても、「神は私の光、私の救い、わたしはだれもおそれない。」とはたして言い得るだろうか?
 其れゆえに「讃美の歌」は、昨日のイエスは変わることなく今日のイエス、更には未来永劫のイエスであることを表し、覚えさせてくれる。
「あの方の讃美の歌声は、リズミ感がとても良いですね!!」と言い合うことがあろう。
 リズムとは、「楽譜に表記された音符を正しく打点する」という意味であるが、いや、むしろそれよりもリズムとは「流れに乗る力」と言っていいだろう。更に「流れを駆って、前に前に進みゆく気概」とも云える。
 讃美の奏でとその歌声は、昨日のイエスの鼓動(リズム)を今に味わい、「行け、わが想いよ黄金の翼に乗って~ Va pensiero sull'ali dorate 」と、“イエス”をまだ見ぬカナンの地への旅路の確かな同伴者として覚えさせてくれる。
「讃美」を信仰の旅路の日々のマンナ(糧)としてお与えくださっているキリストに感謝と賛美
 
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ストに“感謝と賛美”。
「神は恵み豊かに、あわれみ深く 
 怒るに遅く、いつくしみ深い
 父が子どもをいつくしむように、
 神の愛は、神をおそれる人の上にある」答唱詩編103編
あわれみ、いつくしまれた体験は、人を賛美へと駆り立てる。
 
 12年前、まだ私が神学生であったころ、学び舎である神学校で同時に音楽教員をさせていただいていたが、音楽教員として業務上のミスを犯したことがあった。
 更に自分がそのミスに対応することを怠り、ロスアンゼルスの日系人教会でのインターンにいそいそと出かけてしまった。
 何とその際、往時の音楽科主任であられた大竹海二先生が懸命にお執り成しをくださったのだ。LAでEメール等で、そのことを知った私は自分の不都合を猛省し大竹先生に謝罪、感謝を表した。
 Eメールと国際電話で大竹先生は「此の度のことは、先生も大いに反省なさっておられることと思いますので不問といたします。私も牧会の現場で躍起になり、過ぎたる発言をよくするものです。その都度、反省と悔い改めに導かれ、それでも尚、牧会のご用に携わらせていただいています」と、決して私のミスをあげつらえ叱責をすることなく、とつとつとご自身も同じ弱さや痛みをお持ちであることを述べられた。
 大竹先生のこの言動に、私は“キリストの愛”そのものを観させていただいたように想えた。
更なる悔い改めに導かれ、こころから大竹先生の佳き共鳴者、協働者になりたいと思わされた。また恐れ多いことかもしれないが、大竹先生にふさわしい友にならせていただきたいとも思わされた。
 
 主イエス・キリストは罪を犯されなかったということ以外、私たちと同じ弱さ、痛みをお持ちになられ、それらを人々と分かち合われた。人の弱さの限界である、「死」の現場にも伴ってくださった。
 あわれみはcompassion(英).compassione(伊)。共に(com)苦しむ(passion)。~「あわれむ」とは只、かわいそうと同情することに留まらず、私とて同じ弱さや欠けを持つ人間であることを告げ、「共に痛みを分かち合い、共に心身の健康を取り戻していきましょう」という想いを表し、実践すること。
 イエスこそまことの救い主、慰め主、あわれみに富みたもう主。
 イエスにあわれまれ、赦されていることを思えば、「いつくしみ深き、友なるイエスは」と、讃美を詠わずにはいられなくなってくる。
~キリストに讃美~
▷先日のライフライン放送で大竹先生の元気なお姿を拝見、メッセージを拝聴させていただいた。懐かしさと共に、目頭があつくなった。
https://www.seishobridge.com/content/detail/id=5836?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR2fXwzyQgrmmMWhZzKHwocDE9FJ5t0bd797fz_x1JIXhvBhwHXAxXyU1Ig_aem_YGofaJP3aarvO6vY6SpXHg

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「主よ、あなたの道を教えてください。
 わたしはあなたのまことの中を歩みます。
 御名を畏れ敬うことができるように
 一筋の心を私に与えてください」詩編86編11節
 詩編86編は17節あるが、「願い」が15回も出てくる。
 大きな声で願い事を次々に叫ぶと、次第に疲れて、集中力が弱まってくる。
 するとこれらもろもろの願いが、一つの祈りに集約されていく。~「御名を畏れ敬うことができるように、わたしに一筋の光を与えてください」11節
 此れは“主の祈り”「御名を崇めさせ給え。御国を来たらせたまえ。御心の天になる如く地にもなさせたまえ」に繋がる祈りではないか。これに勝る祈りは他にはない。
 
 讃美歌にもたくさんの願いが詠われているが、最終的には「御名を畏れ敬いさせたまえ。崇めさせたまえ」にまとめ上げられていく。ある意味、讃美歌はあらゆる願いを「神にも迫るこのただ一つの祈り」へと統合、調和させていく架け橋なのである。
「聖名を崇めさせたまえ」は、「あなたは素晴らしい、すごい」と感嘆するだけではない。
「どうぞ、この私を貴方のお住まいとなさってください。」「この混沌とした世のなか、どうぞ私を貴方の居場所となさってください。私は貴方をこころに抱き、主と主のみことばを生き抜く自分とならせていただきとうございます」とお応えしていくことでもある。
 創造主のご性質に倣い、自分もまた創造的、建設的な自己にならせていただくことは、キリスト者の究極の願いであり「祈り」である。
~キリストに讃美~2024年6月27日

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「いかに幸いなことか
「ヤコブの神を助けと頼み
 生けるその神を待ち望む人」~詩編146編5節
 
「幸い」ということばは詩編歌集で31回も用いられている。
 詩編一編の最初のことばも此のことばである。
 この「幸い」は、詩編歌集全編を網羅するライトモチーフ(示導動機)といってよい。
 時にこの「幸い」は、「祝福されている」とも訳されている。
 山上の垂訓の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」は、「祝福されし心貧しきもの」と訳している版(ラテン語訳聖書)もある。
 さて、此の祝福だが、ギリシャ語ではΕυλογία(エウ・ロギア)、「よく言い合うこと」となる。
 即ち、私たちにとって「幸い」とは・・・イエスとイエスのおことば“福音”との対話に招かれていることが、此れ幸いなのである。
「福音」とは、まさに読んで字の如し、今このところで、自分の全人格・五感で感じ味わう「音」なのである。
「音」が鳴るということは、今に生き、動いているということに他ならない。「福音」は紙面に閉じ込められてしまった活字(死に体)では決してない。
 イエスが発せられた声音(こわね)は、ガリラヤのそよ風に乗り、いついつまでもエコーしている。
 牧師もまた声音を駆使して、メッセージを語る。牧師は、今なおエコーし続けるイエスの声音に、自らの声音をもって共鳴、共振しその声紋を増幅し豊かならしめる。(説教する前、会衆に説教要旨を配り、「さあ、本日の説教です。皆様、静かに黙読してください!!」とはならない。)
 そして、さらに会衆が此れに賛美歌をもって応答・共鳴するならば、その声音は世界大のそよぎとなろうか。
 さあ、今になりわたる音、「福音」とともに在る幸いを味わいつつ、信仰の旅路を歩んでいこうではないか。
 
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  フライフィッシングのパイオニア、里見栄正 (さとみ よしまさ)氏は著書で「時に釣りは思索的であり、哲学的でもある。」と記しておられる。氏の此の思いに一つ加えさせていただくことをお赦しいただければ・・釣りは瞑想的でもあるように想わされる。
 
 禅語に「山僧活計茶三畝(さんそうがかっけいちゃさんぽ)」とあるが、僧侶は小さな畑があれば生涯暮らしてゆける、ということ。
この語には「漁夫生涯竹一竿(ぎょふのしょうがいたけいっかん)」と続く。こちらも「漁師は釣り竿一本あれば充分」という意味で、他に生計を立てる手立てがあっても必要ない、と説いている。
 
 私も漁師の気骨にあやかり「音楽宣教声一貫(おんがくせんきょうこえいっかん)」と詠んでみたい。イエスとイエスのおことばを正しくお伝え、お通しせんがため、絶えず自分の声音(こわね)を整え、研ぎ澄ますことに専心したい。いや、それ以外のことをなすべきではない、と想わされる。
 
 世の中には「沢山のもの、経済、立場を所有する方がもっと幸せになれますよ」と欲望をかきたてる広告が溢れている。しかし自己を自己たらしめる真の充実は、むしろたった一つのことを、終始一貫することではないかと、あらためて想うのである。
▷徒然なるままの瞑想に加えて、本日の短歌
『夏の宵 雲焼く空の 艶やかさ(あでやかさ)
水面(みなも)もこいも すべて鴇色(ときいろ)』
初夏の夕焼け空は、鮮やかな橙色というより、淡い桃色の「鴇色」に近い。「鴇色」はトキの羽の薄い紅色に由来しているとのこと。

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「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
 あなたの記録に
 其れが載っているではありませんか。
 あなたの革袋(かわぶくろ)に私の涙を蓄えてください。」~詩編56編9節
 
 イスラエルなど中近東の気候は、「雨季」と「乾季」に大別される。
「雨季」には小麦・大麦が栽培、収穫される。
 そして「乾季」には葡萄が収穫される。
「雨季」に大麦・小麦が収穫されるというのは分かるが、何故「乾季」に葡萄が収穫されるのか?・・と思いたくもなるが、実は夜露がしたたり落ち葡萄を育てるのである。
 イエスの最初の奇跡、「カナの婚礼の奇跡」。即ち、婚礼の宴席でお客にふるまう葡萄酒が無くなってしまった為、イエスが水瓶の水を葡萄酒に変え客にふるまったという、あの奇跡である。
 イスラエルの人々は、この奇跡の出来事を聴くと、字義通りの奇跡であることを理解するばかりではなく、「ああ、この出来事は、私たちの生活そのものが神の奇しき恵みであること語っているのだな」とピンとくるという。
 
 枯渇した魂から流れる涙、人知れず夜に流した涙は、イエスのおこころのうちにしっかと受け止められる。イエスのお心(革袋)にその涙は蓄えられ、やがての日、極上の葡萄酒として発酵するに違いない。
 何故なら、イエスのカナの婚礼の奇跡のうちに、そして私たちの生活のうちにイエスの恵みが十二分に示されているから。
 彼の地の奇跡は今、私の涙を「喜びと力を与える葡萄酒」に変える奇跡でもある。
~キリストに讃美~

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「試みの世にあれど」を詠う~流山音楽アカデミーのお分かち~江戸川台教会
同曲のテーマとなる聖句:ローマ人への手紙8章14節、15節「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。あなた方は人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。此の霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」

「主の祈り」の中に、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出(いだ)したまへ。」とある。まさに試みとは「悪」、あるいは「悪しき状態」に留まらせる力と云おうか。
「悪しき状態」に引き戻す力には、外的要因と内的要因があるように想う。
 外的要因とは、生活世界における予期せぬ出来事(災害、災難、死別など)、いわれなき誹謗、中傷。
 かたや「内的要因」とは、自分自身をして造ってしまった自己を蔑み、否定する有様。
 どちらも自分の心身に大きな苦痛をもたらすものであるが、あえて言うならば後者、「内的要因」の方がより深刻ではないかと想わされる。
「既に贖われ、神の家族とされた身であるにもかかわらず、自分の過去の罪・一点のシミに捉われ、過去の状態に釘付けにしてしまうこと。」これを、主は大層お悲しみになっておられる。
 人は誰しも(もちろん私も)、自らを過去の暗闇に引き戻そうとする性質があるのではないかと思う。

 其れゆえに、主は私たちに「賛美」という賜物を与えてくださった。
 賛美は美しい讃美歌を奏で詠うことだけではない。
 賛美は、メタノイア(ギリシャ語・μετάνοια)と言ってよい。
 メタノイアは「悔い改め」と言う意味であるが、これは「申し訳ないことを致しました」と謝り続けることではない。
 メタノイアは、神の家族とされた喜びと誇りを携え、「神の子」にふさわしく信仰の旅路を歩んでゆくことである。実に創造的、建設的な「悔い改め」なのである。

「賛美音楽」とて然り。音楽は「小節」によって構築されているが、一小節では音楽は成り立たない。音楽は、一小節内のことばを味わいつつも、次なる小節、次なる小節へと進んでいくことを促してくれる。前に前に進み行くことを教えてくれる。

 私は賛美音楽は、「主の前輪」と「自分の後輪」による二輪走行に近いのではないかと思っている。二輪車なる「音楽」、止まってしまおうものなら、倒れてしまう。
 ゆっくりであっても前に進んでさえいれば、心地よい走行を味わうことが出来る。
 
 救い主イエスと共に行く旅路は、喜びに満ち溢れるAllegroの道行き。
しかし、前に進まずにはいられないとて慌てる必要はない。走行中に観える光景や、頬をかすめる風を感じつつ、Allegro ma non troppo(喜び勇んで、しかし甚だしくなく)でよいのだ。


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 聖歌「主イエスのごとき友は」を詠う。
 主人公(しゅじんこう)とは、小説・映画・ドラマなどストーリーの中心となり、物語を牽引していく登場人物である。
 しかし此の「主人公」、元々は“禅語”である。禅宗によれば“主人公”とは、自分の中のもう一人の自分。このもう一人の自分は、普段の自分よりずっと優しく純粋な自分とのことである。
この主人公は、普段の自分が迷ったり、苦しんだりしているとき、静かに寄り添い、平安に導いてくれる自分である、と説いている。
(日本古来の教えや文化語は、「福音の文化内開花」を成さんがための鍬や鋤である、という観点から、以下自己の所感を記す。)
 
 成程、人はかかわる存在。人は関わり合うことで自分の中の「本当の自分」を発見し、自分を「自己」たらしめることができる。
「自分」と「自己」は似通った言葉ではあるが、異なる状況、有様を表す。
「自分」とは、他人とは異なる唯一無二のいのちといのちを生きる意味が与えられし「自分」である。「自己」は「他者」と関わり合うペルソナ、関わり合わずにはいられないペルソナである。
 文学の世界では「自分」に対して「他人」、「自己」に対しては「他者」と明確に区別している。
 
 私たちは「賛美」をとおして、自分が関りの美しさに招かれている「自己」であることを発見する。
 と同時に、私たちは讃美を通して、他者に備わっている賜物や品性も知ることができよう。
 共に同じみことばを詠うことで、私と同じようにいのち与えられし他者が、如何にいのちの本源(神)を指向し、神に根差しているかが分かる。
 実に讃美とは、自己と他者、自己と神がよりよく関わり合っていくための架け橋に他ならない。
 そして讃美は、自分に与えられし「人生」という物語の「主人公」になっていくためのエールでもあるのだ。
 
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グラニール「ホザンナ」を詠う。
心理学者ユングは、人の一生は其のほとんどが「あがない」(redemption~取り戻すこと)であり、幸福(happiness~満足)ではない、と説いている。
 つまり私たちが人生を充実のうちに過ごしたければ、幸福を追求するのではなく、過去の自分に対峙してその一つ一つの出来事に、「意味を見出していく」ということであろうか。
 偉大な信仰の先達、あのダビデ王も大きな罪を犯した。まず姦通、そして殺人。一つの罪を隠し、取り繕おうとすることが他の罪を犯すことになる。蟻地獄のように罪の深みに沈んでいく。
 ダビデ王が犯せし罪は、預言者ナタンによって指摘された。さらに姦通の相手バト・シェバが産んだ子は、罪の代償として死ぬことを告げられる。
 ダビデ王は、我が子が死ぬ間際に断食をして必死に悔い改めた。しかし、子が亡くなった後は「今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないのでしょう」と答えている。
 此の事は非常に大切なことである。ダビデ王は罪の悔い改めと、罪の贖いに対して素直であった。このことが、ダビデ王とヘロデ王の大きな違いである。
 
 私たちも、罪の代償を既にイエス・キリストが支払ってくださっている。
 既に贖われているのもかかわらず、尚、自分を責めて嘆いたり、世間の冷たさに失望したり、他者の罪をあげつらっていくことは、信仰者としては相応しくない。
・・とはいっても、そのように思い込んでしまうこともまた人の常でもある。
 
 其れゆえに、過去の罪が、まさに私を威嚇し屈服させようとするとき、神は「賛美」という素晴らしい賜物を与えてくださる。
 讃美は、“主が主であるために褒めたたえずにはいられない”思いの高まりであるが、それだけではない。讃美は、主の御業の協働者として創造的、建設的に携わらせていただくことでもある。
 
 ダビデと同じく、主を裏切るという大罪を犯したペテロに対しイエスは、その罪をあげつらうことなく「私の小羊を飼いなさい」と、新しい使命をお与えになられた。
 イエスはペテロの罪を大目に見られたのではない。イエスはペテロに新しい使命、新しい生きざまに専心させることで、過去の罪を克服させようとなされた。ペテロはイエスの御心のままに、主を証し、主を賛美する人生へと変えられた。
 主イエスは過去の罪をむしろ、新しい使命に向かわせるための布石としてくださる。
 主の贖いはまさに、建設的、創造的御業である。
~Missio Dei~2024年6月14日

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