
Missio Dei
Toshiya Inagaki Music Mission
祈りのパートナー:中野バプテスト教会
『復活賛歌』~「幸いな夜よ、お前だけがキリストの死者の国からのよみがえりの時を知ることができた。」
イエスの復活の出来事を目撃したものは誰もいません。四名の福音史家の誰も復活する瞬間は描写していません。
夜の帳(とばり)だけがそれを目の当たりしました。
空の墓と使徒たちが復活したキリストに出会った出来事によって、後日、主のご復活は確認されたものの、よみがえりの瞬間は相も変わらず人の歴史を超越し凌駕しています。~カテキズム参照~
復活前夜の漆黒の闇は、いわば暗転幕です。
舞台の上で、上がっている緞帳を見上げると、そのすぐ後ろ(舞台側)に緞帳とほぼ同じ大きさの黒い幕が吊られています。
この黒い大きな幕を「暗転幕」と呼びます。
「暗転」とは、暗い中での舞台転換ですが、転換作業ですと、ある程度の明かりが必要となります。
そこで用いられるのがこの「暗転幕」です。客席からは真っ暗に見えますが、舞台上にかすかな明かりを付けて転換作業に勤しみます。
同時に、暗転幕の前で演唱を続行することもあります。
閉幕による舞台転換は、舞台全面を全く異なる場面へと転換させますが、暗転幕による転換は、前シーンとの関わりを持ちながらも(継続しながら)、新しい状況を展開させます。
暗転幕の中で、イエスは十字架上の御傷を残したまま、新たなるいのちへと変容されました。
私たちも同じように過去の傷、痛み、苦しみに深い意味が与えられたうえで、新しいいのちへと移行されます。
復活は、新しいいのちの始まり。
此のいのちは、関わるいのちです。
氷室(ひむろ)の中に閉じ込めて、釘つけてしまった自分を、主イエスは御身をもって身代わりとなってくださり、その手かせ足かせを外してくだされました。
今や、神と神に繋がる他者と自由自在に“関わる自己”と成してくださいました。
主イエスの復活に与った私たちは、全く予想だにしなかった新奇な第二幕を始めさせてもらったのではありません。。
主は、私たちのペルソナ(愛、能力、祈り、悦び、痛み等)を十二分に慮りつつ、より佳く関われる自己としてお召しになられました。
此れ即ち、復活の恵みとして言わずして何と言えましょう。
キリストに讃美~2025年4月21日
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主の年2025年の主のご復活を心よりお慶び申し上げます。
「流山音楽アカデミーコンサート」~於:日本キリスト合同教会
毎月2回、日本キリスト合同教会・江戸川台教会礼拝堂にて篤い讃美(合唱・独唱)をお分かちさせていただいています。
来る4月26日(土)、同教会にて独唱コースを受講なさっておられる方々のコンサート+αを開催いたします。
主から戴いた祝福と恵みを、「讃美」という形で表現し、お証してこそ本物の信仰体験と成すことが出来ます。
まさに受は授と同じ。与ることは与えることと表裏一体であります。
前回の投稿でも書かせていただきましたが、讃美歌は息の芸術。讃美歌は神の息吹を親しく近しく感じ、味わわせてくれます。
この親しさ・近しさは、私たちが神の愛する子として神に属していることを明らかにしてくれます。
即ち、讃美歌は「愛を受ける力」を与えてくれます。
そして讃美歌は、私が「主のご愛、主のおよろこび」として生活世界に一歩を踏み出だす力を与えてくれます。音楽の奏で、歌声は次の小節、次の小節へと前に進み出で行くことを止めません。
主のご愛をお証しする私の歌声は小さな一歩かもしれません。その一歩は夜の闇の中に燃えるささやかな一本のろうそくのようなものです。まことに小さな一本のろうそくは、闇を取り去ることは出来ないかもしれませんが、闇の中を確実に導いてくれます。
そして其の一歩一歩の歩みが灯した一本一本のろうそくの光は、さながら美しい小道のように列をなし、後に続く方々の「道しるべ」となりましょう。
キリストに讃美
~2025年4月21日~
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「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
マルコ12:29~31
イエスは複雑な律法を、この二点に要約、統合なされました。
「神への愛」と「人への愛」。全くもって簡潔明瞭です。
そして主イエスは、数多の教えを此の二つの愛の在りように統合なされたと同時に、これら二者を「調和」なされたのではないかと、筆者は想うのであります。
即ち、神への愛、人への愛、どちらにも偏らず両者が程よくバランスを保ち、調和しています。
神への愛に専心することは大変よいことですが、生活世界との関りを断った神への愛は、ともすれば没我的な信仰になってしまいましょう。
人への愛のみとなってしまえば、神不在のヒューマニズム、共産主義へと陥ってしまいます。
~或る方曰く、共産主義は誤ったのではなく、(神という絶対的な視点を)見落としてしまった~
もちろんキリスト信仰は神への愛を根幹としています。
そして人には、此の神より「いのち」と「いのちを生きる尊い意義」が与えられています。
自分に「いのちといのちを生きる意義」が与えられているように、他者にもかけがえのない「いのち」が与えられています。私たちはそれを互いに主に在って愛し、敬い、悦び、寿ぎ合わずにはいられなくなりましょう。
此れ即ち『隣人を自分のように愛しなさい。』に他なりません。
十字架を、これら二つの愛として観るなら、縦の柄が”神への愛“、横の柄が”人のへの愛”となりましょう。まさに十字バランスのように両者が互いに支えあっているではありませんか。
また十字架はデザイン学的には完全・完璧という意味があります。
上下に貫く支柱がしっかとしていながら、左右のバランス感覚にも富んでいます。即ち完全・完璧です。
クリスチャンでない方も、好んで十字架のネックレスを付けています。これは、十字架ほど完全・完璧なデザインは他になく、其の完璧な文様に惹かれて止まないからです。
さあ、私たちキリスト者はこの「十字架の愛」を心身にしっかと着用し、いや「刻印」し、私たち自身の生きざまと為していこうではありませんか。
十キリストに讃美~2025年4月16日~
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牧師&オペラ歌手が詠う『青葉城恋唄』
「青葉城恋唄」(あおばじょうこいうた)は、仙台城(青葉城)の城下町を基礎に発展した宮城県仙台市の風景を用いた、星間船一による失恋の叙情詩で、さとう宗幸によってイ長調の曲が付けられたポピュラーソングです。(イ長調・A-Durは、教会音楽的には”告白“を意味します)
かつて台日交流協會主催のコンサートを台北でさせていただいた際、ご当地の方々からリクエストが多数寄せられ、歌わせていただきました。日本人のみならず、近隣の国々の方々の琴線にも触れる曲です。
『青葉城恋唄』は、失恋の歌ではありますが、いたずらに過去を懐かしみ悲しむ歌ではありません。
歌には「失意を保障する」という、大きくも優しい力があります。
かつて愛するお人と交わした”ことのは“は、今尚、街角に、通りに、木々に、風にそよぎ、エコーし続けています。
(イエスが語られたおことばも、今尚、ガリラヤ湖の水面(みなも)にそよぎ、ゆらいでいます)
其の”ことのは“を詠えば、“ことのは”はますます高鳴る調べとなり、自己を未来に向かって駆り立ててくれるでしょう。これ即ち、「失意の保障」に他ならないかと思います。
昨日のNHK「クローズアップ現代」では、東日本大震災で被災なされた方々が、行政から復興支援金を貸していただいたものの、未だに返済が出来ず県や市から訴えられていると報じられていました。
今尚、お苦しみ方々へのエールを込めて、『青葉城恋唄』をUPさせていただきます。
~2025年4月8日
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『初桜 咲けば散りゆく その様(さま)に
御身散らせし イエスを想う』
桜は不思議な花です。私たちは満開の桜が持つ美しさを讃えますが、同時に散りゆく桜にも美しさを感じます。満開の桜が美しいのであれば、それがそのまま続くことを望むのが自然なはずなのに、なぜか桜が散る姿にも幽玄なる美を感じます。
桜と相対するときの矛盾する感受性が、私たち日本人の心に確かに刻みこまれています。
日本古来の武道のひとつ「柔道」は、潔く「受け身」をとる姿に深い意味があります。
或る方が仰るには、「受け身」は散る美しさの表現であるとのことです。
きれいに受け身をとることで、投げ技を繰り出したお相手を勝者たらしめて差し上げるということでしょうか。これが柔道本来の姿であるように思います。
競技柔道においては「きれいに受身を取ること」は「負け」を意味しますので、競技者は試合中にきれいな受身を自ら取るようなことはしません。極限まで体を捻ったり、手をついたりして相手のポイントにならないように努めます。
「投げ技」が「光」だとしたら、「受身」は「陰」のような存在。
どうしても人は光である「投げ技」の方を見入ってしまいますが、私は「投げ技」以上の魅力が「受け身」にはあるのではないか、と思います。
私は中学・高校と剣道に打ち込む日々を送りました。(初段ではありますが段位をとりました)
もともと剣術は相手を斬るための技術でしたが、不可思議なことに「剣道」では相手を斬ってはいけないのです。むしろ、自己の”気“を渾身の力を込めて他者に打ち込んでいきます。それをして”一本”と相成ります。
自己の”気勢“を他者にお分かちして差し上げるとでも云いましょうか。他者を活かすことで、自己をも活かすというのが剣道の理念です。
そして剣道では、一本と判定されたあと、"ガッツポーズ“をとると”一本取り消し”となります。
他者に対する礼節を欠くということだけでなく、このよう剣道に理念に著しく反するからであります。
私も日本人なのでしょうか。他のスポーツ競技を批判するわけではありませんが、勝ちを得た時、全力で競い合った相手の目の前で雄叫び(おたけび)をあげたり、大喜びをするというのは、どうしてもいいただけません。
元来、日本人の心の中には、このような武士道精神が深く根付いています。
日本人の精神、”ことのは“は、キリストのみことばや其の生き様と何ら反することなく、むしろ豊かに共鳴し合うものではないかと想います。
いや、キリストがもたらされた佳きおとずれによって、ますます日本人の精神が高められ、昇華することになるのではないでしょうか。
散りゆく桜は、Sacra(サクラ・聖)。
桜とSacraの発語が近似していることにも、深い摂理を感じずにはいられません。
~2025年4月8日~
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『讃美は神を”アッバ、父よ“と呼ぶ力を与えてくれる。』
讃美は「息の授受」、「いのちの呼応」です。
いのちの息吹は神よりの授かりものであり、いのちを生きる意義深さもまた神より与えられしものです。神より託されしいのちに「はい」と答え、更には他者にお分かちをする・・この神と人との間に行き交う”そよぎ“こそが、讃美(讃美歌)に他なりません。
神と人が互いの息を感じ合えるということは、二者の関りが至近距離の近しさであるということです。いやそれよりも、肌が触れ合うほどに”親密“であると云えましょう。
確かに父なる神は全知全能であり、偉大なるお方です。「近寄りがたい光の中に住まわれる方」(Ⅰテモテ6・16)です。
しかし全く神秘なことに、神が人に一番呼んでもらいたい名は、「アッバ、父よ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・6)なのです。それは子供が「お父ちゃん」と呼ぶのと同じことです。
「お父ちゃん」の呼吸に合わせながら、イエスと同じように「アッバ、父よ」と呼ばせていただく時、私たちは神を実に親しく、感じ味わわせていただけます。
偉大なる全知全能の神は、お望みのままに造られた人間をご自分の神的生命に与らせ、御一子においてご自分の子らにしようとしておられます。
神よりの賜物である讃美(讃美歌)は、人が神に応答し、自分自身の能力の限界(能力の足りなさ)を超えて神を感じ、愛することが出来るようにしてくれます。
神と関わらせていただくのに、こんな幼子でもできるような単純なことでだけでよいのか? と思いたくもなります。
厳しい修業と研鑽を経てこそ神の道を極めることができるのではないか?・・と、結論付けたくなります。
私たちは単純になることを恐れ、むしろ自らに沢山の課題を課すことで安心を得ようとします。
しかしこれまた神秘なことに、神の道は”素朴“なのです。
素朴な子どもでも分かる摂理であり、子どものように素朴にならなければ分からないほど深遠な摂理でもあります。
聖書では、神はたくさんの名前で呼ばれています。例えば、「父」「牧者」「岩」「光」「愛」「いつくしみ」「平安」「平和」等々。
讃美歌は幾度も同じ”ことのは“を繰り返し詠います。私もその名を呼び、何回も繰り返し詠うことで、神に近づくことができます。(所感)
~キリストに讃美~2025年4月8日
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『讃美は存在する力を与えてくれる』
あなたは何者なのか?そう尋ねられると、私は即座に自分の社会的な立場、役職を答えてしまいがちです。
あるいは自分に対する社会の評価や、自分の業績や成績を"自分自身“と考えてしまいます。
もちろんそれらは、自分を自分たらしめる大切なものでありますが、自分の本質そのものではありません。
私たちは、自分自身で命を会得し、命を開発させているものではありません。
いのちは尊い授かりものであり、其のいのちを生きる意義もまた神より与えられしものであります。
即ち、私たちは自ら生きているものではなく、神の不可思議な息吹によって生かされているものであります。
私たちは成功や名声、権力や立場に属するものではなく、「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに」、キリスト其のお方を生き、生かされているもの(存在)であります。
讃美の息の芸術!!神の聖なる息吹と、神によって与えられし自分の息とがたおやかに呼応しているさまが、即ち讃美に他なりません。
讃美音楽は森羅万象すべてを表して余りあるほどの力がありますが、反面、これほど単純明快、素朴な世界は他にはありません。
筆者が賛美の現場で感じる息吹の在りようは、以下の3つに要約されます。
(”息吹“は”歌声“と同義とご理解ください)
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上に向かう息吹~神によって与えられしいのちの息吹が、感謝のうちに神への賛美となり、天上を志向する上昇気流となる。
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内に向かう息吹~癒しと慰めと励ましに満ち溢れるみことばを歌うことで、其のみことばが優しく自分の心身に染み渡っていただける。
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前に向かう息吹~創造主のご性質に倣い、私の賛美の歌声と息吹も創造的、建設的に前へ前へと進み行く。
そしてこれら三つの息吹が、たおやかに重なりあうことで、まるで三原色が無限の色彩を醸し出すように、自分ならではの唯一無二の「在りよう」を表すことと相成ります。
有名な歌手の歌声を聞き入るとき、其の歌手の学歴やこれまでの輝かしい業績を気にしながら聞いている人はだれ一人いません。
ただその歌手が発する息(歌声)が今、如何に在るのか?しかありません。
讃美の歌声は、私たちが神の愛に属するものであるということ、そして神の御前で唯一無二の自己(存在)であることを確信させていただけます。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」創世記2:7
~2025年4月1日~
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『讃美は、祈る力を与えてくれる。』
祈りはラテン語Oratio~オラツィオ、神と人との対話という意味。
祈りは空しい独り言や、つぶやきではありません。神と人の対話であります。
讃美歌・聖歌は、まさに聖なる息吹(聖霊)のそよぎです。聖なる息吹は、神の祝福に溢れるみことばを、私たちのもとに贈り届けてくださいます。そして、私たちの感謝に溢れる賛歌を神のもとへとお運びくださいます。
「”霊“も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表されないうめきをもって執り成してくださるからです。」ローマ8:26
自らをして、孤独と閉塞という氷室(ひむろ)に閉じ込めてしまっている自己を、讃美歌のなかにそよぐ聖なるあたたかな息吹は其の氷を溶かし、神と人、神に繋がる方々との対話へと招いてくださいます。
キリストによって生かされ、キリストと共に生きる自己であることを覚えさせてくださいます。
此れ即ち、「祈る力」が与えられることに他なりません。対話力を回復させていただけるということです。
しばしば、私はいつどこで、どう祈ればいいのかよく頭を悩ませます。
とりわけ、人の前で会衆の想いを代弁し祈るときには、方法やテクニックなどに心奪われてしまいます。
しかし、祈りは演説でもなければ、人を説き伏せる「お説教」でもありません。
聖なる息吹(聖霊)を架け橋とした、神と人との最も親しく、近しい対話であります。
敬愛する土屋繁牧師(私に洗礼をお授けくださった方)が、このようにお話しくださったことがあります。
「先日、実母の告別式司式のご用をさせていただきました。
式次第の進行や説教のときには、気丈にふるまうことが出来ましたが、讃美歌の時にはどうしても、自然で素朴な想いが神様に向かって醸し出されますので、涙を禁じえなくなりました・・・」
讃美と祈りの人/土屋先生の此のお言葉に私は大変感銘を受けました。
私も実父の告別式司式の際、全く同じ体験をいたしました。
祈りがあるからこその、いや、祈らずにはいられないがゆえのキリスト信仰であることに、改めて感謝の賛美をお捧げする次第です。
~キリストに讃美~2025年3月30日
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「新しい歌を主に歌え」詩編96編
ご周知のこのみことばは、我々教会音楽家のみならず、すべてのキリスト者の一大テーマ(示導動機)である。
新しい歌とは、主イエス・キリストの死と復活、其の贖いのわざを信じて新しくされたものの歌であり、新しくしてくださった方に捧げる感謝の賛歌である。
古(いにしえ)より在りし”みことば“は、永遠に新しく新鮮であり続ける。そのみことばを詠うキリスト者は、永遠に新しい主と主のことばとの関りに与らせていただける。
何という恵みであろうか~Amazing Grace!!
古くて新しい!!なんとも不可思議なことだが、ある意味、古いからこそ安心できる、とも言えるのではないだろうか?
日本のいにしえの諺は、このように語っている。『新薬、日浅うして、旧痾(くあ)いまだ除かず』~新たな薬は効果が分からず、持病に効くかどうか分からない。新たなものが適用するには時間がかかる。~
昨今開発されたコロナ・ワクチンの是々非々は、いまだに結論を観ることはない。まだまだ係争中の課題である。
また昨今の宇宙開発は目を見張るものがある。まさに日進月歩である。
宇宙開発に参入する民間企業のロケットには、最新鋭のコンピューターが装備されている。しかしそのコンピーターは必ずしも最新型ではなく、過去の宇宙開発で使われた実績のあるもので、その理由は”危険の回避“に尽きる、とのことである。
突飛なものより、安全で確実なものの方が遥かに有益であるということである。
神のみことばは、まさに古典中の古典である。
神のみことばは生成されたときから、完璧な良薬であった。しかしその薬を処方される人の心身をゆっくりと確実に整え、適応させるために驚くほどの時間をかけられた。
リヨンの聖イレネオという方は、此の神の教育法について、神と人が相互に慣れていくという比喩を用いて語っている。『神のみことばは人間のうちに住まわれ、人の子となられました。こうして、御父のおぼしめしのままに、神を知ることを人間に慣れさせ、(そしてなんと恐れ多いことに)人間のうちに住むことを神に慣れさせたのです。』~( )部分は筆者の言葉。
確かに神と人、互いを健康たらしめ生かし合うために、神をして「天地創造からアブラハムの召命まで2000年、アブラハムからイエスご降誕まで2000年、イエス昇天からイエスの再来臨まで2000年」という長大な時間をかけられた。
神ご提供の良薬は、神と人の関りの歴史というフィルターを通して更に濾過・精製され、人に優しい薬と相成ったのである。
「新しい歌を主に歌え」・・歴史に裏打ちされた、古き良き時代の詩編のみことばを、私たちは安心・平安のうちに歌うことができる。其の歌は永遠に新しい!!ゆえに「新しい歌を主に詠え」と叫ばずにはいられない。
~2025年3月24日~
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「少年時代」作詞・作曲:井上陽水
井上陽水氏の「少年時代」。いつかは真剣に詠ってみたいと思っていました。On Lineではありますが、本日、井上陽水氏の”ことのは“に親しませていただきました。
此の楽曲は映画「少年時代」の主題歌。「少年時代」の原作は、漫画家コンビ・藤子不二雄の安孫子素雄氏が、太平洋戦争末期、富山に疎開したときの実体験をもとに創作されました。昭和19年の富山を舞台に、東京から疎開した進一と、富山の少年タケシとの友情と葛藤を描いています。
私はこの原作を読んだ際、感銘を受け、この原作本を義父・遠藤光氏にプレゼントさせていただいたことがありました。光氏もまさに疎開をなさった世代。この時代を生き抜いたかつての少年として、共鳴するところ大であったとのことでした。
此の劇画には、少年の二面性が如実に描かれていました。
痛み苦しむ友に尽くさずにはいられない、”友のための自己でありたい!!“という純真無垢な少年性。
反面、戦争という時代性も相俟ってか、他者を支配し屈服させることにあこがれる少年性。自分を喜ばせんが為の友、即ち、自分の為の友であって然るべきという真逆の心模様。
いずれも精神的に未成熟な少年たちは、互いの関りを通して、人として成長をしてまいります。
「少年時代」を詠うと、私自身の少年時代の思い出が懐かしくよみがえってきます。と同時に、私の精神、こころが形造られた原風景を尋ねることで、今をより佳き自己として生きたいと思わずにはいられなくなります。
素晴らしい楽曲「少年時代」を世に送り出しくださったこと、本当に感謝にたえません。
~2025年3月18日~
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「メサイア」公演。2025年9月22日(月)18:00開演
於:めぐろパーシモン大ホール(合唱団員募集の仮チラシです)
毎年のように「メサイア」をご用させていただけるのは、何と大きな恵みでありましょうか。
此れは私が、生涯をとおして「メサイア」なるキリストに相応しい友となっていきますようにという、主からお招きであるに相違ありません。
そしてご参集になられるお一人おひとりもまた”キリストのかけがえのない友“であることを知らせんとする、万軍の主の熱心(イザヤ書9章)でもあります。
友・・前回の投稿でも書かせていただきました。
イタリアでは親しい友、家族、兄弟に対しての手紙やメールに、tuo Toshiya/あなたの俊也より、と書きます。
日本語で書くと少々照れ臭いですが、イタリア語であれば自然に表現できる文言です。
そう、「あなたの友・俊也」であって、「私の為の友であるあなた」ではありません。
更に云えば「あなたのよろこびは、即ち私のよろこび」であり、「私の喜ぶことは、あなたの喜び」ではありません。
本当に紙一重といったところですが・・「私にご利益をもたらしてくれる私のためのキリスト」を後にして、「主イエス・キリストの私」となっていくことが、天上のエマオへの旅路の一大テーマでないかと想います。
ある意味、険しくも嬉しいこの旅路、キリスト其のお方が伴ってくださるのであれば、成さずにはいられなくなります。
そしてこの文章をお読みの皆様方とも、この時代、この時節、この旅路をご一緒させていただいていることに、心から感謝を申し上げる次第です。
~2025年3月17日~
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いのちのことば社にて紫園香先生(総合プロデューサー)、原島様とともに「平和音楽祭」に向けての”お打合せ“。
終戦80年の2025年、世界の平和を祈念して、新緑がまばゆい5月3日、紀尾井ホールにて「クラシック音楽」に特化した「平和音楽祭」が開催されます。
音楽は、人をして造ってしまった隔ての溝、断絶の壁の”架け橋“となってくれましょう。
ところで、”クラシック音楽“の”クラシックですが、文字通りに読めば「古典」ですが、決して「古めかしい」「古びた」という意味ではありません。むしろ、時代を超えて認められる名作とでも云えましょうか。
私ども夫妻はここ数年、富士山麓にある、とある修道院にて、新年を迎えさせていただいています。
規則正しい、静思を中心にした生活を送る中、深遠な呼吸を取り戻し、新年に臨ませていただくことができます。
さて、この富士山麓、あちらこちらからおいしい湧水が、こんこんとわき出でることはあまりにも有名です。富士山麓の名水として有名な湧水は、富士の高嶺に降り注いだ雨が、富士の複雑な地層、即ち岩、土、砂、石といった様々なフィルターを経て、浄化されて出来上がるものです。湧水として富士の大地から湧き上がるまで、何と100年の歳月を要するということであります。
富士に注いだ雨水がそのまま飲めるわけではありません。ありとあらゆるフィルター、地層を経て浄化されてこそ、おいしく戴くことが出来る名水と相成るわけであります。
クラシック音楽もまさに此の”富士の名水“の如し。
100年単位の年月を経て造られた、”深遠で新鮮な真清水“なのです。
そして音楽の中の音楽、「福音」こそ然り。
福音、即ち神のみことばは、イエスが語られた往時から完全無欠でありましたが、みことばと一見相いれないと思われる生活世界、二千年の歴史を通して更に浄化され精製され、人に優しい、魂の渇きにうるおいを与える名水となったのではないでしょうか。
ある意味、私たちは人類史上もっとも清い、新鮮な名水たるみことばを味わわせていただているのやも知れません。
此の名水を平和と食糧難に飢え渇く方々に、お届けしお分かちをさせていただく「クラシックコンサート」となりますよう、祈って止みません。
~2025年3月15日~
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稲垣俊也(オペラ歌手&牧師)が詠う”ポピュラーソング“
今冬は何故か昭和歌謡、フォークソング等、ポピュラー音楽に魅せられ、まことに素人候の編集ではありますが、4曲収録いたしました。
私はオペラ歌手(&牧師の二刀流)ですが、オペラにはオペラの演奏様式があります。
当然、ポピュラーソングにも様式があります。
古今東西、おおよそすべての芸能には深遠な様式美があります。
例えば、歌舞伎の場合、確かにその成立時期は古いのですが、それを演じるのは今、生きている俳優であり、聴衆は現代に生きる私たちです。
成程、歌舞伎の様式は、扱っている台本とともに古いものですが、しばし舞台を見入っていますと、古めかしさは何ら感じさせられません。
即ち様式とは、演唱の時間を彼の時代の形に留め置くものではなく、むしろ逆に、今に生かし動かしてゆく術(すべ)だと思わされます。
ゆえに、各々の芸能ならではの様式を守る必要があるのです。
さもなくば、其の芸能はちぐはぐな正体不明なものとなってしまいましょう。
尚且つ、すべての芸能には共通の様式があります。
それはことばを”詠う“ということ。「歌う」ではなく、「詠う」です。
「詠う」は、言(ことば)を永(えいえん)たらしめることと言えましょうか。
言葉を永遠たらしめるとは、・・「2000年前イエスが語られたことばを、今にときめく言葉にすること。
永遠に果つるともなく”永続“するであろう、愛の言葉の授受を、今このときに感じ味わう言葉と成すこと。」です。
音楽はリズムであり、こころのそよぎでもあります。この二者は「キリストの今」を、一層近しく親しく感じ味わわんが為の、術(すべ)なのです。ゆえに音楽は、まさに「芸術」と呼ぶに相応しいものなのです。
~2025年3月14日~
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☆彡平和音楽祭 ~ Peace Classic Festival ~【本チラシでのご案内】
◆5月3日(土) 15:30開演 ◆紀尾井ホール
コンサート収益金はハンガーゼロ(日本国際飢餓対策機構)を通して世界の平和と復興のために届けられます。
『緑萌ゆ 紀尾井に皆皆 集むれば
賛美の御旗 我らに先立つ』
以前、別の投稿で書かせていただきましたが・・いにしえの時代、「聖歌隊」は「本隊」の前に陣取り、進軍をしました。
歴代誌下20:21「主に向かって歌を歌い、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先を進ませ、こう言わせた。『主に感謝せよ。その慈しみはとこしえに』」
通常、「軍楽隊」は「本隊」の後ろに配備され、本隊の戦いを後方から鼓舞するものです。
しかし、キリスト者共同体はさに非ず。
聖歌隊は本隊の前に陣取り、先鋒を務めるのです。
それはなぜか? 賛美の力は、剣や銃よりも強いからです。
賛美とは・・神と人、神に繋がる方々との美しい関わりです。
いのちは天より授かりし尊い賜物。人々が互いに、天より授かりいのちといのちを生きる使命を悦び、寿ぎ、育みあっていくこと・・これに勝る心身の充実は、他にありますまい。
愛と慈しみ、なぐさめと励ましによって打ち立てられた愛の御国は、永遠に果つるともなく続きます。
愛の奏では、共鳴が共鳴を呼んで、益々たおやかに無限大に拡がってゆきます。
反面、武力によって勝ち取った国は、また別の武力によって搾取されましょう。武力に訴えることは、果てることのない負の連鎖でしかないのです。
愛の奏では、軍隊よりも遙かに強いのです。
あるいは、いにしえの時代、主の軍隊に抗う者たちは、聖歌隊と本隊の間に、万軍の天使たちの援軍を観て、怖れおののき、逃げ去ってしまったのではないでしょうか。
そして、世界飢餓も深刻な問題です。一日に何と、二万人近くの方々が飢餓で亡くなられています。
毎日、毎日、東日本大震災級の津波が世界のそこここで起こっているのと同じことです。
世界飢餓も、人自らが作り出してしまった、ありようです。
世界では、地球上の人々を養うのに十分な穀物が生産されています。しかし、それらが一部の先進国に偏ってしまっているが為に、世界飢餓という状態を“人自らが”招いてしまっているのです。
今こそ、物心両面での愛の奏でを成さずにいられないのであります。
~2025年3月12日~
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「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あるゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(Ⅱテモテ3:16)
クリスチャン生活の醍醐味は、生涯をとおしてゆっくりと確実に主と主のみことばを心身に浸み込ませ、キリストのみことば、みこころを自身のものとしていくことではかなろうか。
「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように話す」自己とせらるること、これまさに信仰者の醍醐味。
ところでこの“醍醐味”は、もともとは仏教の大乗経典『大般涅槃経』のことばである。経典の中では、五味として順に乳→酪→生酥→熟酥→醍醐と、精製に精製を重ね、極上の乳製品を作り上げる過程が説かれているが、これを如来の最上の教法にたとえている。此れを五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)という。
反面、上記みことばの聖書記者の如く、ただならぬインスピレーション(霊感)が沸き起こり、瞬時に至福直観に至らしめられる体験もある。
みことばとみこころが瞬時にわが身を覆い、自由自在に“キリストを生きる”充実もまた、信仰者の常でもある。
このようなインスピレーション体験は、陶酔的、盲信的体験では決してない。
奇跡的な神のわざは、いつも突然起こったかのように私たちの目には見える。また、それを察知するインスピレーションも時として沸き起こるものであるかのように想えるが、実はその前には必ず、賛美と祈りが積まれている。
なるほど福音史家ルカは、ペンテコステの時も、パウロに天からの語りかけがある時も、ペテロたちが牢から助け出される時も、「すると突然…」という言葉を印象的に使っているが、奇跡が起こる前にはだれかの切なる讃美と祈りが神に捧げられていることは、大事な視点である。
時として沸き起こるインスピレーション(霊感)や、偶然とも思える奇跡的な出来事は、実は神によって練りに練られたご計画、精製に精製を重ねられた御摂理の必然である。
実に、讃美と祈りは、「神の必然」と「私たちの偶然」の出会いの場なのである。
讃美は祈り、祈りは讃美。両者相俟ってこその信仰、即ち神との対話となり、思慮分別を超える(思慮分別がない、ではない)超越体験となる。
信仰生活から讃美と祈りを欠くならば、それは福音を教義・教理レベルに引き下げることにしかならない。
Photo:講壇・舞台での孤独と緊張の賛美は、むしろ至福直観に与る恵みの時。
~2025年3月5日~
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文部省唱歌「春の小川」を詠う
②節
春の小川は さらさら流る。蝦やめだかや 小鮒の群に、
今日も一日 ひなたに出でて 遊べ遊べと さゝやく如く。
言わずと知れた、文部省唱歌の代表格。
歌詞は七七調、楽曲は二部形式といった素朴な構成。100年以上にわたって教えられ続け、世代を越えて歌い継がれています。
歌詞の「遊べ、遊べ」から、日本のいにしえのことのはを連想させられます
『拙い哉 同志 何ぞ優遊(ゆうゆう)せざる』~友よ、それはもったいない話だ。どうしてもって遊ばないのか~
ここでいう優遊とは、いのちといのちの関わりを云っているのではないでしょうか。
優遊の「優」は、「人」を「百」回、「愛」する、と書きます。
即ち、「優しさ」とは、あなたと私は、いつまでもどこまでも共に在らずにはいられない、という思いの表れです。
人は関わる存在。関わってこそ人。他者との関わりの中でこそ本当の自己を見出し得ましょう。他者は自己にとってかけがえのない有難い存在。いや、自分もまた他者にとって有難い存在であることが分かります。
其の「いのち」は、自分で会得したものではありません。
「いのち」は神様からの授かりものであり、主は、主に愛されし者「同志」が、互いのいのちを関わらせることによって、いのちを高め合っていくことをご期待なさっておられます。
其の「いのち」をふさわしい時に、ふさわしい形で天にお取り上げなさるのも神の御業です。
自分が自分のいのちを作ったかのように自分のいのちを所有し、いのちの顛末まで何とかせねばという思いを「遊離」し、天の御摂理にお委ねすることもまた「遊ぶ」ということに他なりません。
誤解なきようにお願いしたいのですが・・天の御摂理にお委ねする人は「聖なる楽天家」、「遊びの極め人」ではないでしょうか。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」ヨブ記1:21
ヨブの生涯は、苦難に満ち溢れる日々でしたが、天に召されるそのとき、優遊たる思いに溢れていたことでありましょう。
~2025年3月3日~
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「シクラメンのかほり」(作詞&作曲:小椋佳)を詠う
私たちは丁度、フォークソング最盛期に青春を過ごした世代。
70年代、吉田拓郎とかぐや姫によるつま恋コンサートを皮切りに、吉田拓郎の「旅の宿」、南こうせつとかぐや姫の「神田川」、井上陽水のアルバム『氷の世界』など、日本独自のフォークソング文化を形成していった。まさにフォークソングは若者のみならず、全世代の“琴線”に触れることとなった。
布施明の歌唱で知られる「シクラメンのかほり」も国民的愛唱歌。
淡い失恋の想いを詠っているが、ただ過ぎ去りし恋を追想するだけの歌ではないように思う。
妻、遠藤久美子は私と生業を同じくする声楽家、神学研究者であるが、高校生時代はフォークソング倶楽部に在籍し、フォークギターを手に様々な楽曲を弾き歌いしていた。
「シクラメンのかほり」も大好きな一曲であったとのこと。
私は、妻がときめき口ずさんだ「シクラメンのかほり」を詠うと、少女時代の妻に出会えるかのような感動がある。
妻と私は幼馴染ではないので、互いに知らない過去がある。
音楽は、私が知ることのない少女時代の妻のもとへと運んでくれる。即ち、私にとって「シクラメンのかほり」は、17歳の妻に出会い、“再びの恋”をする、恋歌にほかならない。
音楽は時空を超えて自由自在に想いを飛び交わせてくれる、まさに人生の旅路の同伴者‼
~2025年3月1日~
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凍てつく寒い日に、『襟裳岬』を詠う。
◇日本キリスト合同教会・江戸川台教会での『流山音楽アカデミー“合唱の集い』。今回で32回目を数えます。すっかり地域の(福音)文化となりました。
▷『襟裳岬』(えりもみさき)は、作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎。森進一29枚目のシングル。
▷「北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やしはじめてるらしい/理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうち 老いぼれてしまうから/黙りとおした 歳月(としつき)をひろい集めて 暖めあおう/襟裳の春は 何もない春です」~中略~
「寒い友だちが 訪ねてきたよ/遠慮はいらないから /暖まってゆきなよ」
▷曲尾の歌詞、「寒い友だち」ですが・・作詞者の岡本氏が襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したとのことです。~傷つき疲れ果てた友よ。ここ、襟裳は何もない所だけれど、凍えた君をあたためるだけの飲み物があるし、笑顔で迎え入れてやれる仲間がいる。遠慮はいらないから、ゆっくりしていきなよ。そしてまた前を向いて生きていこう、お互いにさ~という意味が込められています。
以下、自己解釈をお許し願いたいのですが・・
私には「寒い友だち」は、自身の「思い出」のように想われてなりません。しかもその思い出は・・十分に生かされていなかった過去の自分、十分に生きていなかった過去の自分とそれにまつわる出来事です。(参照:宮崎駿氏の“思ひ出ぽろぽろ”・・次回投稿予定)
人の素晴らしさは、思い出を追想することが出来るということです。
追想とは、ただ過去を懐かしむということではなく、往時、理解することができなかった其の出来事の意味、意義を、年月を経ればこそ知らしめられる感動、感銘とでも云いましょうか?
思い出の「事実」はいくら反芻しようが変わりようがありません。
しかし追想によって、「その思い出が今に与える意味」を変えることが出来ます。
更に思い出は、私がよりよく今を生きる新しい“動機”を与え続けてくれます。
追想は、むしろ追創造とでも云えましょうか?
その最たる例が、ペトロとユダの生きざまです。ペトロとユダ、両者ともイエスを裏切りました。裏切りの事実は、消し去ろうにも消し去ることはできません。
しかし、裏切った後の両者の在りようは正対称でした。
ペトロは「裏切りの事実」を、いのちを賭してイエスに従う決意となしました。イエスはペトロの過ちをあげつらうことなく、新しい使命をお与えになられ、更なるご期待をお寄せになられました。その熱きおこころを想うだに、イエスの佳き友とならずにはいられなくなりました。
完璧主義者のユダは、自分の大罪を嘆き悔やみ、自殺するしかありませんでした。
思い出は固定化した観念ではありません。次々と新しい心の動機、裏打ちを提供してくれる宝庫といっても良いのではないでしょうか。年月を重ねることは、即ち珠玉の思い出が沢山できることなのです。
暖炉の前で、凍り付き固まってしまった思い出を温め溶かし、氷室の中に潜んでいた“宝”を見出そうではありませんか。
~2025年2月27日~
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讃美歌『シャロンの花』
シャロンの花 イエス君きみよ わが内に開き給え
良き香り麗うるわしさを われに分かち与えつつ
シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え
シャロンはイスラエルの地名のひとつ。地中海に面した肥沃な平原で、砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。
寒波に見舞われた今冬でしたが、ようやく春の訪れを感じさせるこの頃となりました。
本日、関東平野を見下ろす筑波山の梅園に赴き終日、梅の香りを味わわせていただきました。
その際に思わず口ずさんだ讃美歌が此の『シャロンの花』
讃美の「ことのは」の“シャロンの薔薇の香り”と“梅の香り”が相まって、まるでパラダイスの香りに満ち溢れるかのようでした。
よく音楽には色彩があると云われます。
特にスクリャービンは自身の音楽を“色彩”で表現しようと試みました。調性によって色彩の変化を図る、すなわち「色彩と音楽の融合」です。確かに音楽には、調性、旋律の在りように“色彩”が感じられます。
其れに加えて、私は音楽に“香り”をも感じずにはいられないのであります。
以下、筆者の感覚です。ご承知おきください。
C-Dur~復活の青空「百合の香」
G-Dur~天使調、変わることのない愛を貫く「桔梗の香」
D-Dur~キリストの栄光「黄金色のひまわりの香」
F-Dur~平安・平和「母に抱かれる、母の匂」
A-Dur~緑の牧場「若草の香り」
B-Dur~流れ「清水の香り」
h-moll~キリストの受難「濃い赤のカーネーションの香」
d-moll~情熱「薔薇」 etc・・・
イエスの語られたことばは、ただ単なる伝達手段の言葉ではなく、まるで楽の音の如く、揺らぎそよいでいたことでしょう。
イエスのことばは今尚、ガリラヤ湖畔にエコーし続け、高貴な薫りを放っています。
そして私たちの基にあまねく、聖霊なる息吹がイエスのおことばと其の薫りをお運びくださっているのです。
関東一円を臨む筑波山に心身を寄せれば、世界大の聖霊なる息吹のおはたらきを感じずにはいられません。
「梅の香と シャロンの花の香 相まって
御国の薫りの 心地すらして」
~2025年2月25日~
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『また逢う日まで』を詠う
令和でもこの曲の素晴らしさは、 色褪せずに輝いています。まさに永遠の昭和歌謡。
亡き母が大好きな曲でした。
尾崎紀世彦氏の兄君、藤田彰彦先生はバレエダンサー&演出家です。愛知芸術劇場の歌劇「愛の妙薬」公演の際、私は藤田先生とご一緒させていただき、大変お世話になりました。
『また逢う日まで』は、淡い失恋の想いを歌っていますが、それまでの昭和歌謡の失恋歌と違い、この楽曲には未練や恨み節など一切ありません。
「ひとつの終わりは、新たな始まり」、とばかりに過ぎ去りし恋を、高らかに詠い上げます。
「また逢う日まで」がレコード大賞に輝いたのは1971年。
60年代、70年代は、「もはや戦後ではない」のことばに象徴されるとおり、戦後から復興する時代は終わり、これから新しい時代の扉が開かれんとする時代。日本が“今しも”高度成長に臨もうとする時代でした。
そして、人はみな「今」を生きるもの。其の「今」にとって、過ぎ去り、脱ぎ去るものにも深い意味と摂理があります。
それを思えば、「今」と「未来」をこそ高らかに詠わずにはいられなくなりましょう。
このような時代背景と個々人の想いが相俟って、名曲『また逢う日まで』が誕生したのではないでしょうか。
『また逢う日まで』の歌唱は、高度なテクニック(Passaggio=声区の移行)を入用とします。自分自身で真剣に歌ってみて、名曲でありながらも難曲であることが改めて分かりました。
其の『また逢う日までの』歌唱の最初の難所、「話したくない。何故か、寂しいだけ・・」の高音のクリアですが・・尾崎紀世彦氏は「話したくない何故かv寂しいだけ」と歌っています。(vはブレス)
一瞬、原詩と歌の音節が合っていないのかなと思わされますが・・ブレスは息が足らないから吸う、というよりもむしろ最大の表現符‼
ブレスは、特にブレスの直後の言葉を、浮き彫りにするはたらきがあるかと存じます。
「話したくない何故か v 寂しいだけ」~となりますと、話すほどに寂しさがこみ上げてきてしまうという、自己のこころのありようを表すことに。
「話したくない。v何故か、寂しいだけ」~は、「話すことは、ただ自他ともに寂しくさせるだけ。」、と自己に対する納得となりましょうか。
~2025年2月20日~
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万が一(?)、正式に録音する機会があるなら、尾崎氏に倣い前者で詠ってみようと思います(^^♪(^^♪
前回、「水は器に従って方円なり」~私は主の御前に“水の如し”。「みこころに従って、水はいかようにも形を変える」、と記させて戴きました。
今回は「私なる器」を、みことばと御心で溢れんばかりに満たすには、如何に在るべきを、静想してみました。
主は、「私は渇く」と仰られましたが、私なる器が、みことば、み旨でいっぱいになることを渇望なさっておられます。
私なる器には、大石、小石、砂など様々な形状の石が入っています。(以下、私の徒然なるままの霊想でありますので、ご承知おきください)
▷まず大石。ズバリ、大石は「祈り」ではないでしょうか。
「祈り」はラテン語でOratio/オラツィオ。オラツィオは「対話」という意味であります。
祈りは空しい独り言、つぶやきではなく、天と地の対話、究極の現実です。
私たちの讃美と神の祝福が一対の対話として、果つるともなく交わされてゆきます。
(ギリシャ語では「祝福」と「賛美」一対のことば“ευλογία”~「よく語り合う」という意)
▷そして「小石」は、みことばの分かち合い、兄弟愛の実践。
いのちは尊い授かりものであり、自分が生きることには深い意味が与えられています。
同じように他者にもかけがえのないいのちと、いのちを生きる意味が与えられています。
キリストの愛である他者と自己であるがゆえに、互いに兄弟愛の実践へと心駆り立てられます。
▷そして「砂」は聖書の研鑽、神学研究。
◇さて、私なる器にこれら三種の石を、まんべんなく入れる方法は?
まずは、「大石~祈り」から入れるべきでしょう。
そして「小石~みことばの宣教・兄弟愛の実践」
最後に、隙間を埋めるべく「砂~聖書の学び、神学研究」を入れます。
先に入れた、「大石~祈り」「小石~みことばのお分かち」の隙間に「砂~神学」は残り無く隅々にまで入り込み、器がいっぱいとなります。これによって「大石」「小石」は微動だにしなくなります
◇逆に「砂」から先に入れてしまうと?
「砂」が「大石」「小石」のスペースを奪ってしまい、「大石」「小石」を十分に入れることが出来なくなります。
このことは深い示唆を与えてくれます。即ち、聖書の研鑽を、神への愛、隣人愛の実践を断る理由にしてはいけないということです。
◇或る方がこのような言い方をしていました。「信仰は天に向かうエンジン。神学はブレーキ。」
まさに言い得て妙。ブレーキは、一旦停止、速度調節や危険回避のために必要不可欠ですが、ブレーキを最初に踏んでいては、天のエマオへの旅路に進み行くことができず、イエスと語らうこともできなくなりましょう。
「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」エペソ5:18~19
Photo:うつしよの 風に渇ける わがたまを
天つみ糧で 満たしたまえや
~2025年2月16日~
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**「水は器に従って方円なり
ものに随って清濁なり」
~水は器に従って、いかようにも形を変える
しかし人は、交友や環境しだいで善にも悪にも感化されるという~
キリシタン大名・黒田官兵衛は晩年『黒田如水』と名乗りました。
ご周知、黒田官兵衛は豊臣秀吉に天下をもたらした名軍師。
官兵衛のあまりの智謀、才覚ゆえに秀吉は、「いずれ自分にとってかわり天下人になるのでは」と恐れ、官兵衛を敵視しました。
それを敏感に感じ取った官兵衛は秀吉に、「いかようにも貴方のお入用に沿うてまいります」と恭順の意を示すために、“如水”と改名したとされています。
確かにそのような人間関係、時代背景があったかとは思いますが、「如水」はもっと深い意味があったように想います。
官兵衛は、世の趨勢や人間関係に捉われることなく、神のみこころにあわせ、水の如く自己を変化(へんげ)させ対応させていただきたいと、キリシタンの気概を示したのではないでしょうか。
恵みシャレー軽井沢「讃美セミナー」での実話です。
午前中の演習を終え、大食堂に移動し昼食をとるという場面で、私は受講生に「午後また此の演習室に戻ってきますので、貴重品だけお持ちになって食堂にご移動ください」と申し述べました。
受講生のお一人が「聖書は、持って行った方が宜しいでしょうか」とお尋ねになったので私は、「聖書は、此処に置いておかれてよろしいかと思います。」と言ってしまい、ご一同の笑いを誘ったことがあります。
確かに、個々人の使い込んだ聖書は“物品としての価値”は、無いのかもしれませんが、心の糧である聖書の価値は無限大です。
尚且つ、いのちの清水たる聖書のみことばは、この小さき器である私(たち)の心身に“水の如く”残り無く隅々に染み渡っていますので、もはや私が、“そぞろ歩きをする聖書なのです”と、言い得るのではないでしょうか。
随分、傲慢な言い方に感じられるかもしれませんが、こう言い得て初めて主をお喜ばせすることになるのではないかと想います。
「水は器に従って方円なり」~私は主の御前に“水の如し”。主は私の“いのちの清水”。~此の瑞々(みずみず)しいお関りに与らせていただいている幸いに感謝の讃美‼
~2025年2月11日~
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▷主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。~コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節
主は人の弱さの中において完全に働かれます。
人間的な強さにあるとき、主は働かれません。人間的な自我の強さが彼を掌握しているからです。あるいは彼の自信、実力、キャリア、プライドが先んじており、主を必要としていないからです。
ところで最近、NHKで「坂の上の雲」の再放送がなされています。
明治維新によって、はじめて「国家」というものをもち、「国民」となった日本人が、大国ロシアに対して、持てる限りの知力・体力・気概を振り絞り、如何に立ち振る舞ったかが描かれています。
百年前と何ら変わらぬ昨今のロシア・・際限のない領土欲、道理のない帝国主義の再燃に「くさびを打つ」というNHKの意図があるのかもしれません。
先日は「二〇三高地の戦い」を放映していました。かの戦いは、さほど遠い過去ではありません。
私の祖父が二〇三高地の戦いに従軍しました。祖父は左鎖骨下に盲管銃創を負い九死に一生を得たと、聞き及びます。
もう数センチ下を弾丸が貫いていたなら、祖父のみならず私もこの世に存在していないことになります。
一部の為政者たちの欲望の犠牲となった幾万の日本とロシアの若者の姿を観るだに、目頭が熱くなってきました。
強力な軍事力を得て「強く」なることは、不幸の極みです。
さてこれを憂う主イエスは、既に2000年前に御身をもって「弱く」なることをお示しくださいました。
非常に逆説的な言い方になりますが・・主イエスを通して神は、私たちを頼りにされる無力な神であることを示されました。
神の力が発揮されるのは、まさに此の無力さにおいてです。
此の「無力」なる神の力は、支配し、命令し、号令を下す力ではありません。
それは人を癒し、和解させ、調和させる力。
イエスが姿をあらわされた往時、人々はイエスに近づき、イエスに触れました。
その際、「イエスから“力”が出ていきました」(ルカ6・19)
此の「力」はまさにイエスの癒しと和解と調和に富みたもう聖なる息吹、聖霊に他なりません。
現在も、今に生きて働く“みことば”に触れるなら、確かに私たちも此の聖なる息吹に与からせていただけましょう。この息吹に与ることでこそ私たちは、人々と和解し調和するを良しとするもの変えられます。
冒頭のみことばは、私たちの弱さの中に働かれる神の在りようを語っていますが、神もまたご自身を弱く(無力に)なされました。
此の弱さと弱さの出会いを通して、真の和解と調和がもたらされることと相成りましょう。
~2025年2月5日~
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頌栄「父、御子、みたまの」を詠う
「三つにましてひとりの神」、即ち「三位一体の神」を詠っています。
三位一体・・古今東西ひろく知られたことばです。
行政でも「三位一体の改革」など、一般の文化用語としても用いられています。
本日もTVで、「市政の三位一体の取り組み」ということばを幾度も耳にしました。
「三位一体」なる文言は、AD325の二ケーア公会議において制定されたものですが、聖書は「三つが一つである」とか、「神は三位一体である」と強制的に教えてはいません。それどころか聖書には「三位一体」という表現すらありません。聖書にあるのは、神は父であり、子であり、霊である、とのみ記されています。
カテキズムでは聖三位を「三者は区別されますが、分離されえません。」と釈義していますが、これが人の文言の限界でありましょう。神の御摂理は到底、人のことばで表現し尽くせるものではありません。説明し尽くすことが出来ないが故、「神」であり、もし完全に説明をし尽くそうものなら必ず異端に陥ってしまうことは、教会史が証明しています。
聖三位は釈義するものでなく、感じ、味わうもの。
聖三位の味わいを一言でいうなら其れは「愛し合ういのち」。
神は、いのちといのちが無限に自由に関わり合う「愛そのもの」であられ、そこにこそ人々をお招きくださっている“ありよう”が、「聖三位」ではないかと想います。
さて、この空海上人のことばは、聖三位の味わいを更に深めてくれます。
▷『燈光(とうこう)一つに非ざれども、冥然(めいねん)として同体なり』
~複数(三つ)の蝋燭が灯されているときでも、その光はひとつに溶け合っている。~
筆者には「協」という字は、実に聖三位そのものを表しているよう想えてなりません。
「協」という漢字は「十」と「力×3」によって成り立っています。
父、御子、聖霊の「力」・・「力」とは他者を愛しぬく「力」。
父、御子、御霊の愛の情熱・パッションが互いに協働・協奏しあうとき、其の愛の炎は一つに溶け合い、人の眼には「十」の文様、すなわち十字架のパッションとして照らし出されることになるのです。(自己の霊想)
Video:「ラム・アドナイ」~田口靖子さんの素敵な伴奏(協奏)アレンジ。
アドヴェントには蝋燭をともし、来るべき方をお待ちいたします。
光は暗闇の中で輝いている(ヨハネ1;5)
プロテスタント教会ではアドヴェント以外、ローソクを灯すことは稀ですが、年間をとおして“暗闇の中で輝く光を希求すべく、灯すと宜しいのではないかと思います。
~2025年2月3日~
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「やがて天にて」聖歌638番(4節)を詠う。
目標(めあて)に向かいて 馳せ場を走り
輝く冠を 御殿(みとの)にて受けん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん
此処で云う「天」とは、場所(天体)ではありません。
「天」とは、神と神に繋がる方々が無限に“まみえ合う”心のありようです。
「天」とは、「信仰の旅路」の到達点であり、「天」においてこそ信仰は完成・成就いたしましょう。
しかしながら、敢えて人の五感で「天」と「信仰の旅路」をイメージするなら、それは「北極星」を目標(めあて)として、指向することに例えられましょうか。
『南斗は随い(したがい)運れ(めぐ)れども、北斗は移らず』
~北極星より南の星たちは巡り動いているが、北極星は動かない~
この世の中は、天体の如く、まさに流転の世界。
しかし今生世界には、此の流転に惑わされない「不動点」があります。
それは即ち、神と神の御摂理。この「北極星」に例えられましょうや。
激しく動揺する世の中で、此の不動点を見定め、それを志向する人こそキリスト者。
不動点・到達点を見定めているがゆえに、逆風が吹こうとも、ジャンプ競技のジャンパーのように却ってそれを全身の前面で捉え、高く舞い上がることができます。
ジャンプ競技は「向かい風」を捉えよとのことです。
ジャンプ競技の場合、追い風は却って失速してしまうとのことですが、信仰の旅路は然に非ず。
心身の背に風を感じ、順風満帆にうちに航行することとなります。
不動点を志向するが故に、風に流されることなく、むしろあらゆる風を利して自身の飛翔となすことができましょう。
流れゆく風に翻弄されるのか、あるいは此の風を、目標(めあて)に向かう航行の心地良い“そよぎ”とするのか、其れは北斗(天)を眼に見定めるのか否かに係ってきます。(所感)
~2025年2月1日