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 霊的筋力はOFFのなかで養われる

 筋肉は運動のさ中に鍛えられていくかと思いがちですが・・さに非ず。

 激しい運動や筋力トレーニングで摩耗してしまった筋肉は、「休息時間」の中で材料となるタンパク質を吸収させ新しい筋組織として修復され、更に増強されます。

 骨折をした際も、カルシウムが骨折部位を覆い、再びその部位が骨折しないよう増強されます。即ち、修復+増強によって以前より強い骨が形成されます。

 筋肉も同様、さらに強い筋組織となるためには、遮二無二運動を続けることではなく、むしろいかに上手に休息をとるかが必要となってまいりましょう。

 プロのアスリートにも当然OFF、或いはOFFシーズンがあります。

 長く現役生活を続けるには、一貫としたトレーニングに加え、いやそれ以上に、適切なOFFをとることが大切となりましょう。

 これは即ち、我々歌手にも云えることです。

 昨今の私に関して言えば・・加齢と共に自分がこれまでいとなんできたON、OFFのバランスが変わってきたように思います。

 若い時に比べて、体力・知力の復元、増強には当然、時間がかかります。

 そのことを鑑み、OFFの分量を増やすことを良しとして、新しいON,OFFのバランス感覚を見出す「勇気」が必要となってきましょう。

 加齢を補うべく、ひたすらにONに勤しむのは、却って逆効果になるとも限りません。

 筋力に比べ、もっと繊細で傷つきやすい「霊」「霊性」にとっての休息は大切至極です。

 主と主のみことばは、霊性を鍛える「霊性養成ギブス」ではありません。社会生活、生活世界で傷つき、摩耗してしまった精神を癒す「憩い・休息」です。

 日本人の精神は、儒教の影響を多々受けていますので、宗教イコール、鍛錬というイメージを持ちがちですが、みことばは「憩いの水辺のほとり」に他なりません。

 家庭も、愛する妻・子らと、愛に溢れる行いとことばで互いを照らし合う「憩いのオアシス」。

 我々に社会生活という「負荷」が与えられているのは、むしろ負荷によって「家庭の憩い」が一層、憩いたらしめられ、霊的な力を養う場と成ります。

 まさに「負荷」と「憩い」は好対照。この両者は一対を成しているのではないかと、想わされるのであります。

マタイによる福音書11章28節「われに来たれ、われ汝らを休ません。」

~2025年9月5日~

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~水辺に小舟を捨てて、共に海に出よう~

マタイ 10:37~39 「イエスは使徒たちに言われた。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。」

 

 一見、「神への愛のために自然的情愛を否定せよと」、ともとれる常識ではついてゆけない言葉ですが、はたしてそうでしょうか?

 いのちは尊い授かりものであり、「今」を生きる意味もまた天より与えられしものです。

 いのちを自力で獲得できる人は一人もいません。

 自然的愛と神への愛をいずれかを二者選択しなければならないとき、まずは“いのち”と“いのちを生きる意味”を与えたもうた神に繋がることを第一義とすることを、神はご期待なさっておられます。

 神に繋がればこそ、今生与えられているかけがえのない関わり(夫婦、親子、友人)にもっともっと深い意味が与えられましょう。

 イエスが十字架におかかりなるほど愛された妻・子を、イエスの愛ゆえに、イエスの眼差しで愛さずにはいられなくなります。

 今生の家族愛、友愛にご利益をもたらすための「神への愛」ではなく、「神への愛」が、自己を自由自在にあらゆる愛へと向かわせることとなります。

 本末を違えてしまわぬよう、イエスは渾身の力を込めて、上記みことばを発せられたのではないでしょうか?

~2025年9月1日~

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【軽井沢リトリートでの静想―1】

 年をとるごとに、先に天に召された方々は増えてゆきます。

 天の御国での再会が約束されているとはいえ、ひとときの別離は、矢張りとても悲しいものです。

 しかし人には、「思い起す」、という素晴らしい精神の業(わざ)が与えられています。             

「思い起す」は「remember」。「re・再びの」「member・メンバー」にするという意。

 

「言葉」は時空を超えて生き続けます。

 尚且つ言葉には「創造」(+追創造)する力があります。

 彼らの言葉、彼らと交わし合った言葉は今尚、私の心身にエコーし続け、「今」をよりよく生きるための動機を与えてくれます。

 そして彼らの「言葉」は、天のエマオへの道行きの同伴者・伴走者としていつも私に寄り添ってくれます。

 思い起す彼らの言葉は、私にとっての「再びのメンバー」です。

 道に迷いそうになった時、或いは人生の旅路で何か重要な決断をするとき「再びのメンバー」は自分を優しく助け、導いてくれます。

 

 或いは此の「再びのメンバー」は同伴者というよりむしろ、天つ御国への旅路に精通した旅先案内人かもしれません。(天つ御国への旅路に精通した=天のみ国への旅路を完遂した!!)

 そして旅路の最後、天の御国に差し掛かるヨルダン川を渡河するときには、イエスと共に水先案内人となってくれましょう。

 そう想うと、亡き方々は、生前見える姿で自分と共にいた時よりも、死後の方がもっと親しい近しい存在になることもあります。

 

 年をとるにつれ、思い起すことの出来るかけがえのない思い出が沢山、沢山出来ることは、むしろ年輪を重ねていく素晴らしさではないかと想うのです。(所感)

 

【軽井沢リトリートでの静想】

リトリート中、私は平素と変わらずみことばを静想し、その想いを文字に記してきました。

文字に記せば、自分の想いを、自己の想いたらしめることができるからです。(自己の想い~主や他者とよりよく関わり合う想い)

ということは、私の日常が既にリトリートになっているのだということに気付かされた次第です。

~2025年8月25日~

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   流山音楽アカデミー・聖歌「主と主のことばに」を詠う

 ことば・・文字通り主が語られた「言葉」ですが、この「ことば」はギリシャ語では「ロゴス」。

 ロゴスは、神の「摂理」でもあります。

 摂理とは、神と人との「愛の授受」の完成に向かって導かれる、「神の計らい」です。

 みことばは既に完成していますが、まだ私たちに内には十全に染み渡っていません。

 神は其の日、其の時ならではの関り、出来事、森羅をとおして「みことばを生くる私」とならせんが為、ご配慮をなされます。

 

 私も「ことば」を語り、詠うことを生業としていますが、「ことば」は本当に不思議な存在です。

「ことば」を発するまでは自己の責任ですが、発した後は「ことば」そのものがまるでもう一人の自分であるかのように自由自在に飛び交い、働いてくれます。

「ことば」は他者に及び、「他者の共鳴、共感」という大いなる実りを携えて、まだ自己のもとに戻ってきてくれることもあります。

「ことば」がどのように他者に伝わるのか・・どのような実りをもたらしてくれるのかは、ある意味「ことば任せ」にした方が良いように思います。

「ことば」で他者を説き伏せようと躍起になってしまうと、却って「ことば」の自由な働きを制限してしまうことになりましょうか。

 私めの「ことば」であってすらそうなのです。ましてや「ことば」のなかの「ことば」、神の「みことば」は、まさに不可思議としか云いようがありません。

(もともと不可思議は数の単位。人智を遥かに超越する数量、観念)

 

讃美歌で詠われる「ことば」もまた、よりよく愛の授受をなさんがための「起承転結の摂理」ではないでしょうか。

  • 「起」~讃美歌で起こされた「ことば」は、神と人との間に近しく親しく飛び交い、架け橋と成ってくれます。

  • 「承」~イエスのご誠実さゆえに、此の神と人との親しく近しい対話は、いついつまでも果つることなく継続、継承されてゆきましょう。

「私たちが誠実でなくてもキリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである」テモテⅡ2:13

  • 「転」~この対話は、天の御国での永遠の関りに繋がる親しさなのです。

 讃美歌で「天」を指向しない曲は一曲たりとてありません。

  • 「結」~天を指向するものであっても我々は世捨て人ではありません。

 天の御国を約されたものに相応しく、両の足で「キリストによって、キリスト共に、キリストのうちに」、今生の歩みを確となしてゆきたい。

 

 この素朴な「起・承・転(天)・結」は、おおよそ全ての讃美歌にそよぐ「摂理」ではないかと想うのであります。(所感)

 ~2025年8月20日

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心猛るとき、落ち着きを失ってしまったとき、どうすれば静まりを取り戻すことができるのか?

最も素朴かつ有効な方法は、みことばの一節を繰り返し口ずさむこと。イエスを思い起こさせてくれる一枚の絵画に精神と心を集中すること。これに尽きましょう。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」と静かに繰り返し口ずさんだり、その光景を表現した絵画を見入ることで、落ち着かない精神は安らぎを得て、たおやかな神のご臨在を体験させてくれます。

これはにわかに出来ることではない、と思いきや、意外にも簡単な“信心業”なのです。

信仰と信心は違います。

信仰は、神からのいのちへの招きにお応えさせていただく心のありよう。

信心は、信仰を支え育むための術(すべ)であり、業(わざ)であります。

 

まさに讃美歌は、此の信心業を、心ときめかせつつ成させていただける、神よりの賜物です。信仰を支え育む具体的な術(すべ)、芸術です。

讃美歌は、同じ歌詞を何節にもわたって繰り返します。

これはくどくど祈る、ということではなく、繰り返し歌うことで其の歌詞に親しみ、幾重にも歌詞を心身に重ね着をして、ついには自分自身の心の「あでやかな十二単」としていくことなのです。

 

詩編1編1~3節 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 

此の詩編1編には、「口ずさんでいる人」とありますが。「口ずさむ」と訳された「ハーガー」(הָגָה)は「反蒭・にれはむ」とも訳され、繰り返し繰り返し、反芻して思い巡らし、瞑想することを意味します。   それだけではありません。瞑想したことが、完全に自分の心の言葉として口をついて出てくるニュアンスをも合わせ持っています。

 

カトリック教会では、「ロザリオの祈り」を慣わしとしています。

ロザリオの祈りとは、カトリック教会の伝統的な祈りである「アヴェ・マリア」をロザリオの珠を繰りつつ繰り返し唱えながら、福音書に記されているイエス・キリストの主な出来事を黙想していく祈りです。イエス・キリストの生涯のおもな出来事が、「アヴェ・マリアの祈り」としてあらわされます、ミサなどの典礼行為ではなく、私的な信心業として伝わるものです。

 

このように沢山の神学的課題を網羅する祈りよりも、短いみことばのそよぎに親しんでいく方が、より深く、静穏な祈りとなるのです。

どうか日々、素朴なみことばを食し反芻し、「主の平安」を自他ともに味わうことができますように。

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8月15日~平和を祈念して~

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」マタイ7:13~14

 

狭い門を通る人とは、良い実を結ぶ木である人、天の御父のみこころを行う人、岩の上に家を建てる人、等々。

広い門を通る人とは、悪い木である人、みこころに反するもの、砂の上に家を建てる人です。

 

「良い木がもたらす実り」とは、主と主に繋がる方々との交わりから生じ出でる「愛の実り」です。

愛の賛歌と云われるコリント前書13章には「愛は寛容であり、愛は親切です・・」とあります。

結婚式のカウンセリングでもよく申し述べさせていただいていますが・・「寛容」とは、お相手の不都合や不具合を大目に見て差し上げることや、水に流して差し上げることでは、決してありません。

むしろお相手の弱さ、痛み、不都合を自己のこととして共感、共苦(きょうく)し、いついつまでも責任を負い合っていく意志の強さ、健気さではないでしょうか?これまさに、鋭く狭い門、狭い道に他なりません。

 

クワイ河にかかる泰麺鉄道鉄橋の傍らにある記念碑にはこのような文言が記されています~「わたしはあなた方を赦すが、決して忘れない」 

泰麺鉄道(たいめんてつどう)は第二次世界大戦末期、日本陸軍がインド侵攻作戦遂行のために造ったタイ、ビルマ、ミヤンマーを結ぶ軍事鉄道です。

英国と連合国軍捕虜とアジアから連行された労務者が此の建設のために強制労働させられました。過労や栄養失調、マラリア、コレラなどの病気、虐待で約11万人が犠牲になりました。この旧日本陸軍の残酷な行為は現在でも克明に語り伝えられ「枕木一本ごとに一人のいのちが失われた」と言われています。

しかし彼の時代は日本だけでなく、世界全体が「帝国主義に駆られる」という過ちを犯し合った時代です。アメリカもまたフィリピンを植民地化し、中国大陸での権益を譲らず、国際連盟を提唱しておきながら自らはモンロー主義を掲げて、関わろうとしませんでした。戦争終結の為に原爆投下は「やむを得なかった」と答えたアメリカ人は64%であることに愕然とさせられます。

過去の互いの罪は、消し去ろうにも消すことはできませんが、しかし悔悟のうちに互いの罪を「共苦」し、未来に向かってこそ責任を負い合っていこうと、思いを新たにすることが即ち、「わたしはあなた方を赦すが、決して忘れない」ではないでしょうか。此の文言は、痛々しくも研ぎ澄まされた狭い道に通じます。

 

戦争の記憶を風化させてはならない、と云われる昨今、先人たちが築いた尊い「狭い道」の足跡を、私たちもしっかと踏み固め、後世の方々への道しるべとせずにはいられません。

▷Photo

狭き門 妻と御歌を 交わしつつ

 過ぎ越し行かん 天つ御国へ

 

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2025年8月13日

亡きひとを 想いて詠う アカペラで

あまつ御国 いよよ近しく

 

 本日は亡き母・玲子の27回目の命日です。

「天の御国」は、永遠に神と神に嘉せられし方々を喜び、関わりあうところ。今、母を想って詠う鎮魂歌は、母のみならず、「天の御国」の母のご隣人すべての方々に対して詠わせていただいたのであります。

音楽の原初のありようは、言うまでもなく声一つによるアカペラ(無伴奏)の歌唱です。アカペラは、いついかなる状況であろうとも、瞬時に天と地の架け橋となってくれます。

 アカペラは、ア・カペラ(a cappella)。即ち「礼拝堂にて」、という意。

 成程、アカペラは教会の礼拝堂で詠われるものですが、逆に言えば、アカペラ歌唱は、家庭であろうと樹々の木陰であろうと、清流の水辺であろうと、其処をすぐさま礼拝堂となすことが出来ます。

「世界は教会のために造られた」・・初代教会のキリスト者のことばです。

此の深遠なことばには、世界はアカペラの讃美に満ち溢れる神の嘉せられる教会(Cappella)である!!という意味が込められているように想えてなりません。

~キリストに讃美~

 

 2025年8月15日~平和を祈念して~

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」マタイ7:13~14

 

 狭い門を通る人とは、良い実を結ぶ木である人、天の御父のみこころを行う人、岩の上に家を建てる人、等々。

 広い門を通る人とは、悪い木である人、みこころに反するもの、砂の上に家を建てる人です。

 

「良い木がもたらす実り」とは、主と主に繋がる方々との交わりから生じ出でる「愛の実り」です。

 愛の賛歌と云われるコリント前書13章には「愛は寛容であり、愛は親切です・・」とあります。

 結婚式のカウンセリングでもよく申し述べさせていただいていますが・・「寛容」とは、お相手の不都合や不具合を大目に見て差し上げることや、水に流して差し上げることでは、決してありません。

 むしろお相手の弱さ、痛み、不都合を自己のこととして共感、共苦(きょうく)し、いついつまでも責任を負い合っていく意志の強さ、健気さではないでしょうか?これまさに、鋭く狭い門、狭い道に他なりません。

 

 クワイ河にかかる泰麺鉄道鉄橋の傍らにある記念碑にはこのような文言が記されています~「わたしはあなた方を赦すが、決して忘れない」 

 泰麺鉄道(たいめんてつどう)は第二次世界大戦末期、日本陸軍がインド侵攻作戦遂行のために造ったタイ、ビルマ、ミヤンマーを結ぶ軍事鉄道です。

 英国と連合国軍捕虜とアジアから連行された労務者が此の建設のために強制労働させられました。過労や栄養失調、マラリア、コレラなどの病気、虐待で約11万人が犠牲になりました。この旧日本陸軍の残酷な行為は現在でも克明に語り伝えられ「枕木一本ごとに一人のいのちが失われた」と言われています。

 しかし彼の時代は日本だけでなく、世界全体が「帝国主義に駆られる」という過ちを犯し合った時代です。アメリカもまたフィリピンを植民地化し、中国大陸での権益を譲らず、国際連盟を提唱しておきながら自らはモンロー主義を掲げて、関わろうとしませんでした。戦争終結の為に原爆投下は「やむを得なかった」と答えたアメリカ人は64%であることに愕然とさせられます。

 過去の互いの罪は、消し去ろうにも消すことはできませんが、しかし悔悟のうちに互いの罪を「共苦」し、未来に向かってこそ責任を負い合っていこうと、思いを新たにすることが即ち、「わたしはあなた方を赦すが、決して忘れない」ではないでしょうか。此の文言は、痛々しくも研ぎ澄まされた狭い道に通じます。

 

 戦争の記憶を風化させてはならない、と云われる昨今、先人たちが築いた尊い「狭い道」の足跡を、私たちもしっかと踏み固め、後世の方々への道しるべとせずにはいられません。

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 私は15年程前、ボナヴェントゥーラ(Bonaventura, 13世紀イタリアの神学者、枢機卿)著「三様の道」を一年かけて静想したことがありました。

 ボナヴェントゥーラ師は、神との愛をいよいよ深めていくには、「甘美~渇望~飽和~酩酊~安心~平安」の六段階を経ることを佳しとしています。

 今一度、同書に親しみ、“今、この時を生きる”霊の糧とさせていただきたいと想います。

▹第一段階「甘美」

 さて本題に入るにあたり、まずは誤解なきように願いたいのですが・・神の人に対する愛は、教育愛、博愛というよりも、甘美なる「溺愛」なのです。

 

 ◆Ⅱコリント5:14

▹文語訳~キリストの愛われらに迫れり。

▹フランシスコ会訳~なぜなら、キリストの愛がわたしたちを虜にしているからです

▹聖書協会共同訳2018~事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです

▹グラニール作曲「ホザンナ」の歌詞では、まさに「キリストの愛にのみ込まれしこの身」と表わされています。

 私が私であるが故に、愛されずにはいられない愛。嫉妬と焼もちをやくほどに“私”にまなざしを注いでくれる愛です。

 

 そして、私(たち)のイエスに対する愛はどうでありましょう?

 聖書は神様からのラヴレターであるとしたら、私たちはこの手紙をどのような気持ちで読んでいるのでしょうか。冷やかに、教科書か教訓書を読むような浮かぬ気持ちで読んでいるのでは・・

「主がいかに甘美にましますかを味わう」(詩篇34:9)

「私は夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた」(雅歌3:1)

 花嫁は花婿を夢でまで慕う。夜という言葉は原語のヘブライ語では複数で、夜な夜なという意味です。

 天井の木目までもが愛する人の顔に見え、夢と現実の区別がつかないほど甘美な心地よさがその人を支配します。

 もちろん、私たちの信仰は単に感情の産物あってはなりません。知性や意志が相俟って、正しい信仰となりましょう。

 しかし、「私が私である」という理由だけで、無条件に溺愛されているという此の「甘美」なるときめきが、健全な知力・意志を生み出すのであって、その逆では決してありません。

 確かに・・わたしたちは何事に対しても「ときめき」がなければ、気概も持ちつづけることができません。ボナヴェントゥーラ師が、愛の完成・成就のための第一段階を「甘美」としたことに、大いに共感いたします。

「甘美なる愛の授受」・・キリストを三度否んだペトロに対して、ご復活されたキリストはそれを咎めることなく、「私の子羊を飼いなさい」と仰せになり、愛をお示しになられました。此のキリストの溺愛に飲み込まれたペトロなればこそ、イエスのために殉教の死をも“甘受”できたのではないでしょうか。(所感)

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「渇望」を静想する~ボナヴェントゥーラ著「三様の道」・神との愛をいよいよ深めていく6段階より、第二段階「渇望」~

 

 第一段階の「甘美」に魂が慣れ始める時、魂の上には多大な「飢え」が生じます。

 それは、自分が愛しているその方を完全なまでに所有しないかぎり、何ものも魂を癒しえないほどのものです。

「鹿が水の泉を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求めます」(詩篇42・2)

 

 キリスト教はよく「荒れ野の宗教」と表現されます。

 荒れ野をさまよう旅人が飢え渇き、今しも命尽きようとするとき、旅人は何を欲するでしょうか。

 だれもビーフステーキを食べたいなどとは言わないでしょう。

 まずは、コップ一杯の水こそがいのちを繋ぎとめるのに最も必要なものです。このいのちの清水を求めることなしに、他の何かに依存することには、何も意味を見出すことができないどころか、却っていのちを危うくすることになりましょう。

 イエスは「私は渇く」と仰いましたが、これは、私たちが渇く程にイエス”のみ“を欲し、求めることに「渇いて」おられるのです。

 今も尚「私は渇く」と言われるイエスと、渇くほどにイエスを欲する自己との「渇きと渇きの出会い」が、「荒れ野の福音」に他なりません。

 

 心身共に渇ききり、イエスなる真清水を飲むことは大変良いことですが、出来得れば・・少々渇きを覚えた時に(あるいは程なくして渇くであろうと懸念を感じた時に)、少しずつ主と主のおことばに与る方がより佳いかと想います。

 渇ききった体に一気呵成に水分を接収すると、それらは体内に取り込まれず、汗として体外に放出されてしまいます。渇きを感じた時に、ゆっくりと少しずつ真清水なるイエスのおことばを戴き、心身に浸み込ませる方が心身に優しかろうかと存じます。

 渇きを覚えることは、心身が健全で在りたいと願う大切な動機です。

 そして福音は飢えと渇きを癒す、生涯をとおしての真清水であり糧でもありますので、その日その時ならではのマンナを、ゆっくりと味わい頂戴させていただければと想います。​

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「飽和」を静想する~ボナヴェントゥーラ著「三様の道」・神との愛をいよいよ深めていく6段階より、第三段階「飽和」~

ボナヴェントゥーラによれば、「渇望」に続いて生じ出でるのは、「飽和」であるとしています。

 この「飽和」の愛は、非常に激しく神を希求し、高くに運ばれます。

 もはや低い下に留まっているものはすべて「魂」にとって不快なものと変わります。

 そこで満たされた魂は、愛する方ご自身でなければ、何ものにも充足を見出すことができないように、また満腹した人が、食事を摂るとすれば、摂ったことで充足よりむしろ嫌悪感を覚えるように、愛のこの段階において、魂は地上のすべてのものに対してこのように感じます。

 

 この「飽和」から連想する讃美歌と言えば・・「キリストにはかえられません」でありましょう!!

「キリストにはかえられません。このおかたでこころの満たされてある今は、世の楽しみよ去れ。世のほまれよ行け」

 

 まさにこの歌詞は、キリストによって心身の充実が与えられた今、そのほかのものは「去れ」、嫌悪するとまで歌っています。

 しかし・・この歌詞だけを聴くと、キリスト(教)は、これ程までに禁欲に徹するものであるのかと、何か切なくなってきます。

 此れのみならず、聖書のことばには一見「あれっ」と思う箇所が多々ありますが、気を付けなければならないのは、日本と西欧(中近東)の語句表現の文化の違いです。

 中近東では、「~よりも~を愛す」という比較表現をする際、「~を愛する代わりに~を憎むという」、対称的な反意語を用いることを慣わしとしています。

 主のことば~ルカ14:26「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であっても此れを憎まないなら、私の弟子ではありえない。」

 

 即ち、主と主のみことばとの関りこそが最優先であり、其の主と主のみことばが妻・両親・兄弟との情愛により深い意味を与えるのであって、その逆ではないということです。

 「キリストにはかえられません」も、今生の楽しみ、誉れが悪いと言っているのではありません。

 主と主のみことばが、この世の楽しみ、誉れを、主と主に繋がる方々と分かち合う深遠な「楽しみ・誇り」とさせていただけるのであって、この世の楽しみや富を保障してもらうためのご利益宗教・キリスト(教)ではない!!と言っているのです。

 

 変わることのない主と主のことばに満たされることで、私たちの心身が、「真」の充実へと変えられていきましょう

~キリストに讃美

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「酩酊」を静想する

 バロック芸術のテーマは「法悦」です。このうえもない、心身の高揚です。

 今しも殉教の死を遂げようとする聖テレジアは、法悦、恍惚に満ち溢れています。(Photo:『聖テレジアの法悦』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作)

 バッハ芸術然り・・シェメッリ歌曲集「Komm, süßer Tod・甘き死よ、来たれ」 ,マタイ受難曲アリア「Komm, süßes Kreuz・来たれ、甘美なる十字架よ」で、イエスに在って死する我は、甘美とさえ詠っています。

 

 ボナヴェントゥーラ(Bonaventura, 13世紀イタリアの神学者、枢機卿)の「三様の道」”神との愛をいよいよ深める六段階”で、第三段階「飽和」に続いて生じるのが「酩酊」であると説いています。

 もはや慰めよりも責め苦を求めます。キリストへの愛ゆえに、使徒パウロのように、苦痛、恥辱、そして鞭打たれることをも悦びとしています。

 此れ即ち「聖なる息吹」が全身を支配し、聖霊に酔っている「酩酊状態」と云えましょう。

「酩酊状態」の人は、痛みを感じません。あまり良い譬えではありませんが・・年末、お酒によったオジサンが駅のホームで転んで、額から血を流しているのにニコニコ笑っている風景を思い出します。

 この「酩酊」は外からくる痛みを完全に克服している状態のように思えます。

 

 確かに「酩酊」は、痛みを感じなくなるという効果がありますが、「酩酊」とは、どんな心痛にも、主は「甘美」なる意味をお与えくださっていることを悟らせていただける「心のありよう」ではないでしょうか。

 意味をなさない出来事に、人は対峙する気概を持つことはできません。しかしいずれの出来事も、「永遠」に繋がる架け橋であることが分かるや、むしろ進んで対峙せずにはいられなくなります。主と主のことばに酔うとは、このようなことを云うのでしょう。

 いや、人が引き起こす最悪の過ち「戦争」で非業の死を遂げることに、何の意味があるのかと異を唱えたくもなりますが・・無意味、無価値と思えることや、人の究極の限界である「死」にさえも深遠な意義を与えることができるが故に(その時々には分からなくても)、主が主であると私は信じて止みません。

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 ボナヴェントゥーラ「三様の道」神との愛をいよいよ深める六段階、第五段階「安心~平和」

 第四段階の「酩酊」から生じ出でるのが、「主の平和」に他なりません。

 もはや恐れは外に投げ出され、恐れではなくなりました。

 いかなる時も、イエスの優しい眼差しは私を見つめ続け、イエスの優しき御腕は私を捉えて離さないという確信に満ち溢れます。

「誰がキリストの愛から私を引き離すことができようか・・・私は確信している。死も命も・・私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを離すことはできない」(ローマ8:35~39)

 

 此のローマ書のみことばの「私」は、決して「自分」のみの没我的な「私」ではありません。世界中の「私」を代弁するところの「私」です。

 世界中の「私」が、神の愛であり、神の御摂理に生かされているのであります。

 それ故に、人と人との関わりを「開離」するのもまた、安心・平和のうちに成すことができるのです。(要注意:開離であり乖離ではありません。「開離」は和声学用語~*下に記す)

 

「開離」を想起させるみことば・マタイ 10:12~14 「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。その家がふさわしければ、あなたがたの願う平和がそこを訪れるようにしなさい。ふさわしくなければ、その平和があなたがたに返って来るようにしなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」

 

 足の埃を払い落すとは、別離を示し表す行為です。

 しかしこの「別離」は絶縁状をたたきつけるということではありません。自己と他者のこの日、この時の関わりは、形ある実りを観ることはできませんでした。しかし交わし合った「ことのは」は、互いの心身に深く刻印され、みこころであれば、ふさわしい時にふさわしい形で実を結ぶこととなりましょう。他者も自己も共に神の御摂理のうちにあるもの。それ故に安心・平和のうちに一時の別離をも成すことができるのです。そして、みこころであれば、また相まみえさせていただけましょう。

 

「開離」は個々人間においても、国家間においてもなされるべきことでありましょう。

 特に国家間においての決別は、即ち戦争状態であると断じ、軍事行動に訴えるは、人の愚かさ以外のなにものでもありません。

 人には積極的、創造的「開離」をなす信仰と理性があるはずです。

 親密に交わるもよし、互いを静観するもよし。むしろ後者をこそ佳きになすことを、主はご期待なさっておられるのではないでしょうか。

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*開離配置

四声体の和声で、バスを除く上三声が1オクターヴより広いもの。広く深遠な和声が実現する。

*密集配置

四声体の和声で、バスを除く上三声が1オクターヴより狭いもの。親密かつ研ぎ澄ました和声となる。

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ボナヴェントゥーラ「三様の道」神との愛をいよいよ深める六段階、最終第六段階「平安」

「在って在るお方」と共に在る平安。天の摂理に与りし「天的な平安」です。

以下、(毎回の投稿もそうですが)、ボナヴェントゥーラ師の霊操から生じ出でた、自己の所感となります。

 

▷ヨハネによる福音書20:19~20

 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

・20節の「手とわき腹を彼らにお見せになって」は、御傷を残したまま復活なされた主イエスのご様子があらわされています。

 

 主イエスは、私たちの罪をご自身の御苦しみとしてお受け取り下さいました。御傷は、私の罪を十字架のうえにて贖ってくださった、確かな「しるし」です。

「神の家族」として「常しえの神の家」に招かれたが故の“平安”に与らせていただきました。

さて、復活の主イエスは、人に更なる「平安」を与えて止みません。

 

▷ヨハネによる福音書20:21

 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 イエスはお弟子たちに対して、同じ場面で「平安・シャローム。平安・シャローム」と2回続けて語られました。まさしく、二重の平安なのです。

 一つは、先ほどの「手とわき腹をお見せになり」贖われ、買い戻され、義とされた平安です。

そして、もう一つは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と外に向かって出る、即ち宣教に赴く「平安」です。

 

 キリスト者が与る「平安」は、永遠の神の家族とされた「天的な平安」に他なりませんが、かといってキリスト者は「世捨て人」ではありません。

 カトリック教会では、イースター主日の次の主日(復活節第二主日)を「白衣(びゃくえ)の主日」としています。

 復活祭で洗礼を受けた新しいクリスチャンが、新しい信者のしるしである「白衣」を取り外し、教役者と同じように、新しい生活を始める日とされています。罪許されしものから、罪をゆるすものに、更には聖霊の息吹を駆って、罪を赦す福音を宣べ伝えるものとして成長していくことを表します。

 これこそが、今生に在って「天の御国」を先どって体験をする「平安」です。

 天の御国のプレリュード・前奏曲を奏でるところの「平安」です。

~キリストに讃美~

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▷今回の投稿は、です・ます調ではなく、である調で~

 ごく親しい先輩牧師から直に聞いた話だが、其の牧師が所属する教区では、AI(人口知能)による説教作成と其の活用法を、教区の代表自らが勧めているとのことである。

 一瞬、何ということだと、我が耳を疑った。心の大切さを説く牧師が、非人格的な文明の利器に心奪われようとは・・

 確かに、説教は、間違えのない説き明かし、正確であることが求められる。そしてAIは牧師のために、完全に正統的で、聖書に基づいた、抗しがたく議論された説教をたった6秒で制作してくれる。

 

 音楽宣教者たる私から一言~スタジオに出入りする作曲家から直に聞いた話である。

 スタジオを本拠とするスタジオプレーヤーは卓越した技術をもっている。

 とあるドラマのテーマ曲の録音の際、ヴァイオリンパートを15名の奏者で録音に臨んだことがあった。彼らは、「初見」で一糸乱れぬ演奏をしたため一発OKであったのだが、あまりに完璧であったので、却ってまるで一人で弾いているかのような演奏となってしまった。尚且つ、正確無比な演奏であったのだが、其処には情熱と言おうか「心の篤さ」が感じられず、皮肉なことに録音技師は、一度収録した音源を微妙にずらしつつ幾度も重ね合わせて、人工的に厚みを加えていったとのことである。

 私はよく演奏会やレッスンでお歌を聴かせていただく。その際、其の人がどのくらいの長い年月をかけてその歌に親しんできたか、あるいは初見に近いのか、意外と分かってしまうものである。

 

 話をもとに戻そう。

 たった6秒で制作された説教原稿を、読み上げたとしても、本当に会衆の琴線に触れることができるのであろうか?それは唯単に、正確に文言を連ねた「空念仏」でしかない。

 説教者がどのくらい永く、熱く其のみことばに親しみ、携わってきたかは、意外にも会衆には分かってしまうものである。

 

 牧師は「先生」と呼ばれているが、先生は、生徒にほんの2.3歩「先」んじる「生徒」。先生自らも学び、迷い戸惑いながらも尚、みことばに委ね、みことばを生きようとしている。其の生きざまを示し明かすことが、即ち説教ではないか。

 

 この不細工な文章800字を記すのに、あれこれと思索しながら1時間20分を費やしてしまった。

 私は今後も、6秒の正確無比よりも、1時間20分の不器用を選んでいきたい。

~2025年7月21日~

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♪「神の御子は今宵しも」~とこしなえのみことばは、いまぞ人となりたもう~
 昨今のAIの研究はまさに日進月歩です。先ほどNHKで「タモリと山中伸弥のびっくり、はてな」なる番組で、対話型AIが披露されました。
 人によって生成された対話型AIは、一般的な人の語り口、特定の過去の偉人の語り口を兆単位のパターンで学習して、現実の人間と対等に対話をいたします。
 いや、対等どころかAIは過去の事例を鑑みて、新しいアイデアも提供してくれるとのことです。
 新しいアイデアの提供・・ある意味、これは人の創造性、自由意思に酷似していますが・・・AI研究者は、人の創造性や心とは、「言葉の予測」であるとしています。
 人の言葉は、単語のみで成り立っているのではなく、主語の後には助詞、形容詞、副詞、最後に動詞(文末決定性の日本語)と、パターンが決まっています。この配列に則り、AIは主題の後に続く言葉を過去の学習から予測し、次々と算出していくとのことです。
 これには大変驚き入りましたが、反面、安堵もしました。
 なぜかといえば・・信仰、信心の世界は、神との“言葉を超えることばの対話”であるからです。数理的な言葉の算出であるAIが決して立ち入ることができない領域が、信仰の世界であるからです。
「聖書」、それは神のみこころ、み旨が語られた唯一無二のことばであります。
 しかしその聖書の言葉は、神の限りない慈愛を人間に啓示するため、人間の言葉で語られた書物であります。
 人間の用語で表わされた言葉は、いついつまでも人に寄り添い、人に優しいことばであります。
 そして、此の聖書の文字としての言葉をとおして、神はただ一つの「ことば」を語られます。それは唯一のみことばであり、神はその中でご自分のすべてを説明なされます。それこそが、人となられた神のことば(御摂理)、イエス・キリスト其のお方に他なりません。


「思い出してください。聖書の始めから終りまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つのみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」~聖アウグスチヌス『詩編講解』
 

 人となられた神、イエス・キリストは、もちろん人に優しい音節を伴う言葉で話されました。しかし言語としての言葉がイエスのすべてではなく、イエスの生きざま、ご人格、すべてが神のことば(御摂理)であるのです。
 私たちキリスト者は聖書の中に、常にその糧と力を見出します。なぜなら私たちは音節、文法を伴う人の言葉をとおして、イエス・キリストたる神のことばそのものを受け取っているからです。
 聖書を読むと、聖書の行間には、なにかしら心地良いそよ風がそよいでいるように感じられることがあります。これまさに聖霊の息吹ではありませんか。
 聖書は単なる書物ではありません。言語・文字としての言葉を、神のことばに向かわしめる聖なる息吹に満ち満ちています。
 聖書を読むことは、聖書を詠むこと。~これはAIが1000兆の言語パターンを学習しようとも到達することができない神の領域です。
 現代科学の進歩は、却って神と、神との対話である信仰の孤高さを際立たせることになるのでないかと想わされるのであります。(所感)

~2025年7月14日~

 

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『音楽は、天文学を超える四次元領域?』

 中世のヨーロッパ社会では、古代ギリシャ文明からの音楽論を重要な遺産として引き継ぎました。古代ギリシャでは、かのピタゴラスが、世界の根源は「数」にあると考え、数学的な音楽論を展開しました。

 例えば、音程の協和、不協和を弦の長さの比で説明するというものでした。

 中世の大学のリベラルアーツ・自由7科目では、学士課程で言語に関する3科目(文法・修辞学・弁証法)、修士課程では数学科目(代数・幾何学・天文学・音楽)を修めました。(ちなみに博士課程は法学・医学・神学)

 そうです、音楽はれっきとした数学科目であったのです。

 そして、これら数学科目は、代数では「点」の世界(一次元)、幾何学では「平面」の世界(二次元)、天文学は「立体」の世界(三次元)、音楽は「四次元」の世界、と世界の生成を次元ごとに理解するというものです。

 古来合唱などでは、本来聞こえるはずのない高い声がしばしば聞かれる現象が知られており、「天使の声」などと呼ばれて神秘的、即ち四次元的に語られていました。これらは倍音を聴取していたものだと考えられています。

 倍音(ばいおん、独: Oberton、英: overtone)とは、元となる音、「基音」の周波数に対し、2以上の整数倍の周波数を持つ音の成分です。倍音は整数倍にて「無限」に発生するのです。

 確かに・・一つの音から無限に産出される「倍音」によって、広大な宇宙に勝る拡がりを感じずにはいられません。

 まさに音楽は生活世界に在りながら、それを超越するものであることが、数理的にも良く理解できます。

 

 そして幸いなるかな、私たち人には「ことば」と「音楽」が与えられています。

「ことば」は人のみがもつ素晴らしい表象であります。しかし此の人間的表象である「ことば」を百万語駆使しようとも、神の神たるをすべて言い表すことはできないでしょう。

 人は「ことば」によって深遠、広大な世界を想像し、創造することができます。と同時に、人のことばには当然、限界もあります。私たち人間のことばは、常に神の神秘以下です。

 

 しかし其の人のことばを「音楽」という術(すべ)を用い”詠えば“如何なることとなりましょうか?

宇宙大に勝る無限の”そよぎ“に「ことば」を乗せ、朗唱すれば、自分自身のことばと能力の限界を超えて神を知り、愛することができるようにさせていただけるのではないでしょうか。

 まさに音楽は「神を知り、神を語り、神と語るための架け橋」

~2025年7月14日~

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マタイ6:7~13(文語訳)

また祈るとき、異邦人のごとくいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。

さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。

この故に汝らは斯く祈れ。~『主の祈り』に続く~

 

 くどくど祈ってはならない。

 実際、天の御父は、私の願い事が私の口にのぼる前から其れをご存じであられるので、多くの言葉を駆使して、懇願する必要はありません。いや、してはならないでしょう。

 祈りは神を説得することではありません。

また「主よ、わたしは○○がかなえられなければ、死んでしまいましょう!!」と神を脅迫することでもありません。

 祈りは”対話“です。もちろん祈りには”懇願”も含まれますが、祈りとは、神と自己の対話をとおして、主と主のことばと、よりよく関わり合っていくことに他なりません。

 

 しかし、此処で矛盾を感じます。

 おおよそすべての讃美歌は、同じ歌詞を何度も「反復」し、多くの言葉を駆使し懇願しているではありませんか。

 

 結論から申し述べましょう。くどくど祈ることと、祈り続けることは全く違います。

 日々祈り続けること、日々讃美のみことばを反芻することで、イエスとイエスのことばとの関りを深め、新しくしていくことと成ります。

 私は関りを”深める“ことと、”新しく”していくことは同義ではないかと想います。

 確かに、新しさ・・とは、まだ知らなかったことを識っていく新しさもあれば、体験していなかったことを体験する新しさもあります。

 と、同時に、すでに分かっていることを深めていく新しさもあります。

 既に分かっていること・・それは主と主のことばは生涯をとおして私の師であり、友であるということ。

 祈りによる対話は同じ言葉を用いようとも、同じ讃美歌で同じ歌詞を繰りかえし讃美しようとも、そのあり様は、その日ならではの唯一無二のものであります。

 その日、其の時ならではの”新しい愛のことのは“を、幾重にも心身に”重ね着”をして、やがての日、主とそっくりの姿に変容せらるることと相成ります。これ即ち信仰の神秘!!

 

讃美歌352番「あめなるよろこび」

3節 われらをあらたに つくりきよめて

   さかえにさかえを いや増しくわえ

   御国にのぼりて 御前に伏す日

   みかおのひかりを 映させたまえ

 

 Photo:我が家の庭に、種を植えた覚えのないところに「ひまわり」が咲きました。おそらくシジュウカラが種を何処から運んできたのでしょう。「ひまわり」の起源は北米大陸とされていますが、今年のひまわりは、何百年もの先祖の遺伝を引き継いだ、深くて新しい美しさ。

~2025年7月4日~

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 牧師と牧仕?

 昨今、教職者の中で自らを「牧師」と名乗らず、「牧仕」と呼称している方を多く見かけます。

「牧仕」という言葉は、日本語としては周知されていない言葉ですが、ある意味「言い得て妙」ではないかと思います。

 福音の見方からすれば・・「仕える」ということと、自らのあり様を佳しとするプライドと云いましょうか「自尊心」は確かに一致はしませんが、両立はしています。

 事実、此の二者は「親友」でありまして、私たちの信仰生活は、此の二者の授受の中でいとなまれているといっても宜しいのではないかと想います。

 二者は「親友」でありながら、大きな隔たり(ジレンマ)もあります。しかし「仕えること・謙遜」のために「プライド・自尊心」を捨てるべきではなく、むしろ調和・統合することをイエスは御身をもってお示しになられています。イエスは、ご自分が主人の役割と僕(しもべ)の役割の両方を体験され、両者が統合できることを示されました。

 イエスは孤高としてそびえたつ「主」であられます。イエスはそのことをご存じであり、そのように仰っています。

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。」マタイ10:24

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」ヨハネ10:14

 しかしイエスが主であるということは、ご自身が謙虚になり、僕の厳しい仕事をなされたがゆえであります。

「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自らの命を捧げるため来た」マタイ20:28

 

 イエスは、天の御父と同等の絶対的な主人であり、また絶対的な僕であります。

 カール・バルトは、「イエスは僕としての主であり、主としての僕である」と表現しています。

 

 我々、教会音楽家も此のイエスの在りように倣わずにはいられません。

 演奏者は、古(いにしえ)より在りし”みことば“と、偉大な先人の作品の忠実な再現者であります。

 「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」のとおり、自分は古のみことばをお通しする”通りよき管“であり、作曲者の思いを代弁する”再現芸術家“であります。どこまでも、みことばと作曲家に対して謙遜でなければなりません。

 と同時に、今日このところで「自分」を通して醸し出される”ことのは“は、唯一無二「一日一生」の、「今に咲き誇るみことば」であります。生涯、二度と相まみえることがない「*一日の美」です。

そして、其れに携わる「私」もまた、今に咲き誇る”主のおよろこび”!!! “ 自分は、主のおよろこび“であることを誇り、高らかに表さずにいられなくなります。

 この謙遜(自己譲渡)と、自尊心(自己の肯定)の間に行き来する緊張こそが、むしろ私たちの信仰生活を創造的、能動的なものと成してくれるのではないでしょうか(所感)

 *我が家の庭の「ヘメロカリス」。ギリシャ語で「一日の美」の意。AIによって再現することができない、永遠の一日の美。

~2025年7月2日~

 

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「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」の違い!!

 この違いを語るにあたり、まずはその元となっている福音書を観てまいりたいと思います。

「共観福音書」(マタイ・マルコ・ルカ)と「ヨハネによる福音書」との大きな違いは・・

「ヨハネによる福音書」は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」という、あの荘厳な表現から始まっているように、人となられたイエスを福音書冒頭から、真の神として”告知“しています。

「共観福音書」は、イエスが神であることを人々の信仰の成長に合わせて、少しずつ知らしめています。イエスが十字架上で壮絶な死を遂げられた際、そのお姿を見て、イエスの正面に立っていた百人隊長をして「本当に、此の人は神の子であった」(マルコ15:39)と言わしめています。

 また共観福音書では、たとえばイエスが奇跡をおこなうまえに、まず人々に信仰を求め、確認をなさっておられますが、ヨハネによる福音書では、まず奇跡が信仰を呼び、さらに其の信仰が浄化され完成されるという形式を採っています。

 共観福音書は、人々の信仰の成長に主眼が置かれ・・(主眼~まさに主のまなこが投じられ)、ヨハネによる福音書は「告知」が一大テーマとなっています。

 

 バッハ先生は、この対をなす福音書の在りように合わせ、「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」を作曲なさっておられます。~私は音楽学者でもなく、また神学研究者でもありません。一牧師として感じるところを記します~

 《マタイ受難曲》では、一人称・”私“による霊想的な内容であるコラールやアリアが、受難曲全体を織りなしています。特にアリアの主体・”一人称・私”によって詠われる歌詞は、個人的、霊想的な内容です。

 アリアの歌唱と共に、イエス・キリストが十字架へと至る道を、私たちもまた霊想的に追体験することで、いよいよ自己の信仰を深め、”刷新“することができましょう。

 

《ヨハネ受難曲》では、一人称の霊操的なアリアは少なく、むしろ合唱が主体となります。つまり衆人が周知する客観的な内容、ドグマティック(教理的)な面が強いと言えます。つまり「教理を告知する」ことが、主眼になっているということです。

 

 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)に対し「ヨハネによる福音書」。此の3:1の割合にも、深遠なみこころが感じられてなりません。

▷共観福音書~いつまでも、どこまでも人に優しく寄り添われる”女性性に富む“イエスのご性質。

▷ヨハネによる福音書~十字架の道行きに毅然と立ち向かわれる、堅固なご意志の表れ。どこまでも人を活かし生かそうとなさる”男性性・父性に富む“イエス。

 此の両者の3:1の調和こそが、すなわち神(イエス)の人に対する関わり方ではないかと想うのです。(所感)

~2025年6月30日~

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 新聖歌397「神の御子にますイエス」

① 神の御子にます イエスのために 罪を敵として 立つは誰(たれ)ぞ

すべてを捨てて 従いまつらん わがすべてにます 王なる主イエスよ

② 富の楽しみと 地の位(くらい)に 目もくれずイエスに つくは誰(たれ)ぞ

すべてを捨てて 従いまつらん わがすべてにます 王なる主イエスよ

 

 アニー・ローリーの信仰と恋愛、献身の歌の讃美歌転用です。

 宗教改革の理念の一つ「万人祭司」は、会衆讃美という文化を生み出しました。

 宗教改革以前までは、神の言葉を語り、歌うという行為は、聖職者、聖歌隊に独占され、会衆は簡素な応答のみを許されていました。

 会衆が心を一にして、神の言葉そのものを詠い、神に”直に“讃美を捧げることは、「万人祭司」の理念にかなうものでした。

 宗教改革期は、音楽の時代区分としての「バロック期」とほぼ重なります。

 「バロック」は、「いびつな真珠」と周知されていますが、厳密には「定義を設けない」です。

 器楽曲を声楽曲として転用することも、世俗曲を讃美歌に転用することも可なり、としました。

 異質の他者や異分野との境を何ら問題とせず、自由自在に流通することを良しとしたのが「バロック」です。

「バロック」にて、「聖」は「聖」、「俗」は「俗」とした人間の判断と状況が覆され逆転しました。これ即ち、神の国の予期しない「ご介入」とも云えるのではないでしょうか。

 

 そして、まさに「福音」は、神の国の予期しない「ご介入」、逆説(パラドクス)です。

 福音は、固定化し形骸化した人の判断や価値に、思いもかけない在りようを与えてくれます。

 上記、讃美歌の歌詞の通り、いのちを捨てる人が其れを得るということです。

 このパラドクスは、日常の生活の中ではっきりしています。

 もし、毎日洪水のように流れるSNS情報に心身を寄せるなら、それら情報は其の人の生活を豊かならしめる!!と思いきや・・いや、むしろそれらのSNS情報は其の人の心を奪い、不自由にしてしまうでしょう。

 また探し求めているものが富や名声、地位であれば、それらは得た途端に消え失せてしまいましょう。

 逆に、自分の充足のみに生きることを捨て、イエスとのいのちの対話に生きるなら、イエスのみならず、イエスに繋がる「すべて」の方々を友とすることができるはずだ・・此の意外性、パラドクスは、「神のユーモア」とも云えましょう。

 

 先日或る方が、流山音楽アカデミー独唱レッスンで「神の御子にますイエス」を歌われました。

 へそ曲がりの私は、「すべてを捨てて、したがいまつらん~わがすべてにます 王なる主イエスよ」の歌詞を、「すべて携え、ィエスに持てゆかん~イエス、我がすべてのすべてとならん」と部分的に変えて歌っていただきました。(もちろん、レッスンの時だけ)

 捨てることは破棄することではなく、それらをイエスとイエスに愛されし人々にお持ちし、お分かちすること。此れ、ささやかな神様へのユーモア返し?

~2025年6月27日~

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 バッハのモテット3番「イエス、わが喜び~Jesu, meine Freude」

 第1曲コラール

イエスよ、わが喜びよ、 わが心の楽しむ牧、

イエス、私の誉れよ、ああ、いく久しく、げに久しく

わがこころもだえ きみをば慕いしか

神の子羊、わが花婿、 きみ,いまさずばこの世にて

わが心をひきとむるもの絶えてなし。

 

 バッハのモテット3番「イエス、わがよろこび」は、全11曲からなるア・カペラ合唱曲。

 モテットはフランス語の「Le mot~ことばを説明する、釈義する」を語源としています。

 特に上記コラールの歌詞はモテット全体のテーマ詩句となります。

 

 40年前、藝大の「オラトリオ集中講座」で、講師の岳藤豪希師から熱い指導受けたことを思い出します。岳藤師は、各パート一名ずつを選抜し、全曲をア・カペラで歌わせるというご指導方法を採られました。一音でも狂おうものなら、厳しい指導がなされるという、私にとってはア・カペラ養成ギブスのような曲でした。

 

 上記の歌詞は堅固な信仰告白であると同時に、まるで花嫁が花婿に愛を告白する恋愛歌のような詩でもあります。

 キリストとキリスト者は、花婿と花嫁に例えられますが、私たちキリスト者は男性であってもキリストの花嫁です。

 夫婦は無限に自由に関わりあう存在!!天の御国は性別を超越していますので、キリストとキリスト者は、夫婦の関わりのように、いや、夫婦の関わり以上に熱い、篤い関わりです。

 キリストは、私たちに無限に自由に関わり合うことを保証する、究極の自由であられます。

 

 夫婦愛といえば・・、「釣りバカ日誌」で浜ちゃんがみちこさんにプロポーズしたときの言葉が大変印象的でした。(天国の岳藤師から、コメディー映画を聖書の譬え話にすることに対してお叱りを受けることを覚悟で・・)

「みちこさん、私はあなたを幸せにする自信はありません。しかし、あなたと一緒であれば、私が幸せになる自信があります。」

みちこさんは、此の言葉に感銘を受け、結婚を承諾しました。

 一見、「自分本位」ともとれる言葉に、どうしてみちこさんは感銘を受けたのでしょうか?

それは、「みちこさん。貴方が嬉しいときは、私も嬉しい。貴方が悲しい時は私も悲しい。私の心は、貴方の心の“映し”なのです。だから、私が幸せな時は、貴方が幸せであるに違いありません!!」という想いが込められていたのではないかと思うのです。

 一見、自分の充足を語っているような言葉でも実は、その「本源」はあくまでも他者にあり、他者ゆえの自己であるという思いの表れなのです。

「Jesu,meine Freude~イエス、わがよろこび」は、何ら臆することなく、自由に自己を謳歌させていただける、珠玉の「ことのは」ではないでしょうか(所感)

~2025年6月22日~

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 ものを書いて一日を非日常にする!!

『筆をとり 手ずから文字を 書きつくれば

 われならぬわれ あらわれ出でぬ』

 昨今、私にとりまして「ものを書くこと」は、日々の糧となっています。

 ものを書くことは、日々のディボーション・静想にもなります。

 

 書くことは、自分の想いをはっきりさせてくれますし、自分が体験した出来事に潜む宝を発見させてもくれます。

 日々の暮らしに少しだけ芸術的な表現を加えるだけで、唯一無二の大切な思い出として心に納めることもできましょう。

 

 つらくイライラする日も、其れを書くことで、却って自分が「救われる」気がします。

 書くという表現をすることで、体験してきたことをまさに本物の体験にすることが出来、未来に向かっての確かな「布石」にすることができます。

 

 しかしながら、パソコンのキーボードで文字を表すより、「手書き」の方がより良いかと思います。

 手は、「飛び出した脳」と言われています。手は脳の働きを代弁し、自他に知らしめる、脳の「全権大使」です。

 手書きによる文字は、その時々の思いによって、筆圧(堅固な圧~柔らかな圧)、字形(流れるような字形~滞った字形)が様々に変化(へんげ)し、一つとして同じものにはなりえません。

 紙面に手書きで一筆投じてみると、自分では気付かなかった想いが自らの「手」によって明らかにされます。

 

 楽譜もまた然り。作曲者の手書きの楽譜(またはそれを直にコピーした楽譜)の方が、綺麗にPCで清書された楽譜より良いように思います。

 たとえ手書きの楽譜は見にくくても、手ずから表した音符の形や音符の圧に、作曲者の「知・情・意」が余すところなく示されます。

 手書きの楽譜は、音符の間隔も一様ではありませんが、それが却って、行間から醸し出される多彩なメッセージとなっています。

 

 文字を書き表すことは、人にのみ為せる業。ことばと文字を与えたもうた主に感謝。

~2025年6月22日~

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『アンパンマンのマーチ』

なんのために生まれて なにをして生きるのか 答えられないなんて そんなのはいやだ!

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ!

今を生きることで 熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで

忘れないで夢を こぼさないで涙 だから君はとぶんだどこまでも

 

 やなせたかし氏の実体験をもとに制作された、テレビドラマ「あんぱん」が大変な感動を呼んでいます。

 特に、たかし氏の弟・千尋が、出征を前に兄に語った言葉は、上記「アンパンマンのマーチ」そのものです。

 私の父母もそうでしたが、往時は軍国教育一色の時代。往時の若者は時代の流れに抗うことは”許されず“、それに従うしかありませんでした。

 彼の時代は日本だけでなく、世界全体が「帝国主義に駆られる」という過ちを犯し合った時代です。アメリカもまたフィリピンを植民地化し、中国大陸での権益を譲らず、国際連盟を提唱しておきながら自らはモンロー主義を掲げて、関わろうとしなかったのです。

 しかし、千尋たち若者は、このような時代の流れに決して”洗脳“されてはいませんでした。

 国体の不条理に激しい憤りを覚えつつも、自分たちが未来への一石になることを信じて、断腸の思いで一身を投じていったのです。

 安全な場所からは何とでも言えます~「当時の日本は、マインドコントロールの時代。特攻は自爆テロ・・」そんな安易な言葉で片付けてしまうのは、先人たちに対する侮辱でしかありません。

 

「なんのために生まれて、なにをして生きるのか?」

 人間の魂の根源的な叫びです。

 私たちはよく、自分は働くために生まれてきたのだと思いがちです。そのため、仕事が無いと不安になり、自分は能力のない人間であると思い込んでしまいます。

 あるいは、お金を稼ぐため? 確かにお金が無ければ生計を立てることができません。

 しかしこのように、働くためやお金を稼ぐために生まれてきたと考えるのは、明らかに聖書の教えから外れています。(労働は目的達成の手段であり、目的そのものではありません)

 

◆聖書によれば、私たちは以下の三つの目的をもって生まれてきました。

・愛されるため

・愛されることを喜ぶため

・受け取った愛を他者と分かち合うため

 

◆これを教理の言葉で言い換えると以下のようになりましょう。~ウエストミンスター小教理問答集第1番より~

・私たちは愛の源である神の栄光をあらわすため

 (栄光は”愛“と同義。神の栄光をあらわすとは、『神は愛』であること、『自分は神の愛』であることを表すこと)

・永遠に神と神に繋がる方々を喜ぶため

此の「いのちを生きる意味」を感謝のうちに深めていくことが、いや、「新しく」していくことが、険しくも喜ばしい信仰の旅路ではないでしょうか。(妻と成す”那須“ 旅路遥けく 天(あめ)にまで
~2025年6月17日~

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 イタリアの名テノール歌手・:ウィリアム・マッテウッツィ氏曰く、「声楽家は身体的にはアスリートように、精神的には宗教家のようでなければならない。」

 いずれのスポーツも、其れを成すにふさわしい身体を創り上げるのですが、声楽家もまた自らの身体を、自由自在に歌唱技術を駆使する楽器と化すことが肝要となりましょう。

 声楽家にとって、まず大切なのは自分の身体に歌唱技術を刻印させること。

 技術の会得をすること無しに歌を歌うというのは、練習や鍛錬を全然しないでマラソンに参加するようなものです。

逆に歌唱技術の会得には関心があっても、演奏本番をしないというのは、マラソンの為に修練しているのに、決してマラソンには参加しないようなものです。

 

 人の前で歌うということは、自己の全人格をさらけ出すようなものです。

 そしてまた、其れに聞き入る聴衆の反応もまたシビアなものです。

 歌い手の歌が、聴衆の琴線に触れれば、彼らは惜しみない拍手を送ってくれます。

 しかし一たび、聴衆の面前で失敗をしようものなら、歌い手は聴衆の総ブーイングにさらされます。

 私もかつて、新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」公演で執拗なブーイングを受けたことがあります。(昨今、ブーイングはあまりにも品格に欠けるということで、禁止している劇場もあるとのことですが・・)

 確かに・・私も本番の前は身震いするほど恐ろしくなることがあります。しかし、これまたイタリアの格言に「舞台の塵(ちり)が歌手を育てる」とありますが、歌手にとっては、舞台の塵こそが日々の糧なのです。舞台の塵を吸わなければ、歌手の身体は”死に体“の楽器を化してしまいましょう。

 願わくは私も生涯、舞台(講壇)に在って”生き続ける“歌い手でありたい思っています。

 

「精神的には宗教家のようでなければならない。」

 声楽家は「言葉」を歌います。言葉は、決して紙面に閉じ込められた「活字」ではなく、今に生きて働く”人格者“です。

 ガリラヤ湖畔で語られたキリストのことばは、今尚湖面にエコーし続け、聖霊の息吹を駆ってそよいでいます。

「言葉」・・とりわけキリストの”ことば“は、キリスト其のお方の人格、行い、生きざまそのものを表しています。

 今に生ける人格者としての「ことば」を感じ取るセンス、”霊的まなこ“こそが、即ち宗教的であると云えましょう。

 私たちはキリストのことばが記された「聖書」を、高らかに詠うことで、まさに「言~ことば」を「永~今より後、永遠に」生ける”ことば“とさせていただけましょう。

 これまさに宗教的ではありませんか。

 

「心・技・体」の”三位“の充実は日本の武道でも云われていることですが、マッテウッツィ氏に感化よろしきを得て、「信(信仰)・技・体」と言い直すのも宜しかろうかと存じます(所感)

~2025年6月15日~

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『ウクライナ国歌』オクサーナ・ステパニュックさん&稲垣俊也、ピアノ:田口靖子さん(平和音楽祭~2025年5月3日/紀尾井ホール)

 お互い対岸にいる他者の為に、進んで向こう側へ渡ろうと進み出でるとき、私たちは真の隣人となりましょう。世界にはたくさんの分離と隔離があります。

 人自らをして造ってしまった隔ての壁、分断の溝に架け橋をかけるとき、私たちは隣人としての友愛を回復することが出来ましょう。

 音楽はまさしく此の「架け橋をかけること」そのものではありませんか。

 魂の鼓動(リズム)とたおやかな旋律は、小節線という隔ての壁を飛び越え、他者のもとへと出で向かう架け橋です。

 平和の奏でが、私たちがひとつ地球家族であることを覚えさせてくれます。

「お互い対岸にいる他者の為に、進んで向こう側へ渡ろうと進み出でるとき、私たちは真の隣人となりましょう。」

 

 私がイタリア留学をした際、ミラノ郊外のイタリア人ご家庭に1年間ホームステイをさせていただきました。

 其のイタリア人夫妻は丁度、私の両親と同じ世代の方でした。

 ホームステイの初日、私に「世界中の何処においても、自分の子のことを思わない親は誰ひとりいない。遠く離れたToshiの両親の代わりを私たちが務めさせていただきます。どうぞ、ご休心くださいと、Toshiからご両親に伝えて欲しい」と言われました。

 当時、インターネットはまだ普及していませんでしたので、週一度の国際電話でそのことを母に話すと、母は感銘のあまり電話口で嗚咽をもらしていました。

 これまさに血縁に勝るとも劣らぬ、まことの”隣人“のありようではないでしょうか。

 「私たちはToshiの両親ではないが、Papa,Mammaと呼んで欲しい」とも仰っていただきました。

確かに、実の親以外の人を父・母と呼ぶのはおかしいという考えもありましょうが、私にとって彼らは、主が会わせたもうたもう一人のパパ・ママであり続けました。

 

 昨今、世界の情勢は・・異文化の人々を異質の他者とみなし、彼らを偏見で覆い、関りを避けるどころか「敵」とみなしています。

 領土欲、権威欲に駆られた一部の為政者は別として・・世界のいずこに暮らす人々も、そのほとんどが素朴で自然な人々です。

 私たちが恋愛をするように彼らも人を愛し、親が子どもを慈しみ育てるように、彼らも親子の情愛を深め、やがて私たちが死んでゆくように、彼らも死んでゆきます。

 向こう側にいる人を「敵」とみなすことで、私たちは彼らを、好き勝手に壊すことができる「もの」のように扱ってしまいます。

 

 勇気をもって向こう側にわたるとき、私たちは同じ神の子供であり、かけがえのない隣人であることが分かりましょう。イタリアのパパとママが、全身全霊でそのことを教え、伝えてくれました。

  

「内輪」は、血縁・血族として生まれながらにご縁のある人々ですが、「隣人」は、自らの気概と自由意思で関わっていく人々。ある意味、「隣人」との関りのほうがより深遠であるとも想わされます。
​~2025年6月10日

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 Panis Angelicus~C.Franck

~裂かれたる主の体、流されし主の血潮こそ・・主に背き、主を捨てし我がためなり。

 忘れ易き愚か者に、パンを裂き葡萄飲むごとに・・汝が苦しみしのばしめよ。

 わが世を去る日までは。わが主にまみゆる日までは~

(中田羽後師の名訳です。)

 

 イエスは十字架上で御身を引き裂かれました。

 イエスが御身を裂かれたのは、ご自身を与える為でした。

 イエスの生と死は、人の死と生です。

 即ち、引き裂かれたパンの中のイーストが、硬く固まり閉塞してしまった種無しパンのような人の心身に注入されることで、柔らかでたおやかな心身(パン)へと変えられていきます。

 私たちは、確かに福音のイーストを植え付けられたものとして生かされている「現実」を、全身全霊・全人格で感じ”味わわせて“いただけます。

 そしてイエスに倣い、私たちもまた、この世のパンとならなければなりません。いや、ならずにはいられません。

 福音のイーストが植え付けられた私が、自身を裂き他者に与えるのであれば、他者をも福音の香ばしい薫りに包み込んで差し上げることとなりましょう。自己から他者へ、他者から他者へ、福音のイーストは、その日、其の時ならではの味わいを伝授しつつも、世代から世代へと無限に実を結び続けます。

 イーストが無限に拡がるように、自己を裂く“分かち合いの徳“は、成せば為すほどますます拡がっていきます。

これに勝る充実は他にはありますまい。

 自己の人生は、他者の人生へと繋がり、他者の人生ともなります。

 自分だけの限定された数十年の人生だけでなく、其の何倍もの人生を生き抜くことができます。それゆえに、自己を裂き与えるパンと成らずにはいられないのです。

 

 少年がたった五つのパン(+二匹の魚)を裂き与えることで、五千人以上の人々を食べ飽かしめた彼の(かの)奇跡を、自己の体験と成させていただけます。何という恵みでありましょうか。

 

 イエスご自身がそうであったように、自己を引き裂く際には大きな痛みが伴いましょう。しかし、其れにいや勝る実りがもたらされることを想えば、自己を引き裂くこともまた甘美なる体験へと変えられていくのではないでしょうか。(所感)

 

Photo:わが身を削り他者に与えるアンパンマン。イエスの精神にも通じる此の国民的作品に、私も大変共感いたします。

そういえば、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」に出演したとき、フランス語指導者から、ナザール(鼻母音)の訓練にMon Anpanman(モン・アンファンマン~私のアンパンマン)を用いるメソード提示していただきました。ナザールはただ単に鼻に詰まった音ではなく、むしろ声が鼻腔を通り越し、天に響き渡ったときに初めて鼻母音となります。ナザール会得に「モン・アンファンマン」はまことに有益でありました(^^♪

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 結婚式では、新郎新婦は神と会衆の前で結婚の誓約をし、其のしるしとして結婚証明書に自身の名前を記します。

 新郎新婦が交わす約束は「誓約」であり、決して「契約」ではありません。

 契約とは、当事者たちが合意の上で、法的な権利や義務を発生させる約束事のことを指します。法律によって保証された約束事で、破れば法によって罰を受けます。

 かたや誓約とは、誰かが別の誰かに対して何かを固く誓う形の約束事です。誓約はする側が一方的に行うもので、誓約される側の同意は必要ありません。もし万が一、約束した側が破っても罰を受けないこともあります。

 これだけを鑑みると、誓約というのは保証のない不安定な約束関係のように思われるかも知れませんが、いやむしろ、これほど堅固な想いの取り交わしは他には無いといっても宜しいかと想います。

 誓約とは「貴方があなたであるが故に、いついつまでも貴方と共に在らずにはいられません」という、自己の決定的かつ自由な意志の表れです。そして、他者もまた同じ篤い愛を持って自己に対峙してくれるであろうことを信じる、いわば他者に対する全き信頼の表明です。

 これは、十字架上で一方的、犠牲的愛をお示しになられた、キリストそのお方の愛の“うつし”ではありませんか。それ故に、新郎新婦は、神と参集の証人の前で、「我らもまた生涯を通して、このキリストの愛に倣うものと成さしめたまえ」と宣言・告白するのであります。

 

 ちなみにキリスト教で、神と人間の間で取り交わす約束(約束事)は、英語では「コヴェナント・covenant」と表現されます。

 しかし此のコヴェナントですが・・英和辞典では「契約」としか表記されていません。

「契約」と云うと大方、法的義務や権利の伴うコントラクト・contractの方を連想してしまいます。

 私は常々、此のコヴェナントを、一言で言い切る日本語はないものかと思案をしていました。

 

 そんな中ある日、大河ドラマ「独眼竜政宗」を英語の字幕付きで視聴していましたら、「血判状」が、まさにコヴェナントと訳されていました。

 血判状(けっぱんじょう)は、連判状の一種で、誓いの文章に署名し、その誓いの強固さの表れとして指の一部を切り自らの血液で捺印したものです。

 成程、此れは言い得て妙!!そしてこれはキリストの御血の贖いにも通じるではありませんか。

 キリストは人に対し、「貴方はキリストの十字架の贖いによって救い出だされたお人です。キリストの十字架の贖いは永久不変です。その確かな”しるし“が、十字架にくぎ付けにされた御手の傷と、此の血判状に“キリストの血”をもって書き記されたみことばに他なりません!!!」と仰っておられるかのようです。

 そして結婚の誓約と結婚証明書への署名は、まさにこのキリストの差し出された血判状に自分たちの名を書き連ねることなのやもしれません。

 即ち、「貴方はキリストが十字架におかかりになられるほど、キリストに愛されたお人です。キリストの愛である貴方を“キリストゆえに“愛さずにはいられません。キリストがなされたように、私も自らの血をもって、わが想いを此の証明書に記します。」と‼

 日本文化の中にも、そして結婚の礼典のなかにも、しかとキリストがお住まいになっているさまを、また観させていただいたように想います。(所感)~2025年5月27日

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 讃美のみことばは、実寸大のイエスのおことば‼

 本日、流山音楽アカデミー「合唱の集い」で、「儒教」を一つの話題とさせていただきました。

「儒教」は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系です。儒教は仏教に先駆け日本に伝来しました。今尚、日本人の精神性に大きな影響を及ぼしています。

 孔子、孟子、老子 、荘子 ・・いわずと知れた中国の思想家はみな、「子」と名乗っているではありませんか。

「子」 は「ね」とも読みます。実はこの「ね」は、「音・ね」でもあるのです。

 孔子は、まるで楽の音を奏でるが如く、人々に語り「仁・義・礼・智:信」を紐解かれたとのことです。

歌うように語るその言葉は、たおやかに優しく人々の耳に届けられます。

 

 さて、イエスはどのようなお声で、人々に語られたのでしょうか。

特にイエスが大勢の人々に語られた場面、「山上の垂訓」では、ガリラヤ湖畔の丘には「男だけで五千人」参集したと聖書に記されています。

 もちろん当時はマイクなどありません。約一万人に対しては、どんな強靭な声で叫ぼうとも、その言葉を皆々に知らしめることはできないでしょう。

 しかし「語り歌い」、と申しましょうか、Recitativo・レチタティーヴを駆使するなら、一万人であろうと二万人であろうと、その言葉を万遍なく届けることが可能となります。

 ヴェローナ野外劇場の収容人数は16,000人ですが、オペラ歌手はマイク無しで声と言葉を聴衆に届けることを常としています。

歌手によって解き放たれた言葉は、音楽という息吹(=聖霊の息吹)を駆って、まるで生ける人格者のように自由自在に空間に飛び交います。

 これ以上は説明出来ませんが・・音楽にはそのような不可思議な、いや霊的な力があるとしか言いようがありません。

 イエスは、孔子に勝る「語り歌い」をなされたお方ではないかと想うのであります。

 

 イエスは大勢の人々に語られただけではなく、むしろお一人おひとりと優しくおことばを交わされました。

 その際も、イエスは個々人の心身を包み込むかのような、言い換えれば、楽の音のようにお話になられたことでしょう。

 

 ゆえに私は、讃美歌で詠われる言葉、特にイエスのみことばは、まさにイエスが往時語られた「実寸大のおことば」ではないかと想わずにいられないのであります。

 

 祈りの中の祈り・「主の祈り」は、イエスのおことばが人間の祈りになっています。

(詩編の書等も、神のことばが人間の祈りになっている書です)

 私たちは叫ぶことなく、弁舌巧みになることなく、ゆっくりと歌うように祈りのことばを反芻するなら、往時のイエスのおことばを「今」に「実寸大」で、感じ味わわせていただくことになるのです。(自己の所感)
~2025年5月21日~

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 『光を撮る』

 写真とは・・「被写体を撮影する」ことに他なりませんが、厳密にいえば、被写体を撮るというよりも、被写体への「光の当たりよう」、即ち「光」を撮ることなのです。

 被写体も大切ながら、それより更に大切なのは、光がどのように被写体を照らしているかということになりましょう。

 その最たる例は「能面」です。

 能面への光の当たりようによって醸し出される表情は、まさに千変万化‼

 正面からの光、斜め上方からの光は、おもてを照らします。

 おもてを曇らす時には、光の角度を変えます。おもてを切るときの残影や、刻々と変わりゆく主役の心情は、光を当てる角度によって調整をします。

 現代の能は、照明設備の行き届いた能楽堂内で上演されていますが、屋外で上演していたころ、最も上演に適した時間帯は、能面に影ができる斜陽の夕刻とのことです。さながらレンブラントの絵画のように能面も陰影に富み綺麗に見えるのだそうです。

 能の上演の時間帯や、天候によって、能面の影も変化しますので、その時間帯・天候に相応しい御顔立ちの能面をその都度、選んで上演するとのことです。

本当に能の世界は奥深いですね!!

 

 写真はまさに此の能面のように、如何に光が被写体に及んでいるのかを切り取ります。

 光が無ければ、其処に被写体が存在していることすら分かりません。

 光があってこその被写体となりましょう。

 そして被写体は光を受けるだけではなく、その光を屈折、反射して此の生活世界を美しく彩ることができます。雨の水滴が、降り注ぐ光を自由自在に反射し、七色の虹の文様を描いていくが如し‼です。

 写真は、此の光を被写体との「対話」を切り取っているのです。

 

 ところで・・聖書の世界では、神の栄光(光)と神の愛は、同義であります。

 神の愛の光合成により、私たちはおのおのの花を存分に咲かすことができましょう。

 そして、神の此の唯一無二の愛の光を、各々が心のプリズムで反射し、此の生活世界を七色の虹のように彩らせていただけます。なんと神は私たちに、「第二の光」を追創造する喜びと気概をお与えになっておられるのです。

 

 私たちは、神の光(愛)を指向し、光(愛)を屈折・反射し、此の生活世界を多彩な光(愛)で彩らせていただく“主の嘉せられる被写体”なのです。(所感)
~2025年5月21日~

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『話す力に与る』

 聖なる息吹・聖霊は私たちに話す力を与えてくれます。

 衆人注視の中、弁明を求められたとき、恐れの中、話さなければならないとき、また”説教”に臨むとき、しばしば私はあがってしまったり、逆に自信過剰になったりもします。

 しかし以下のみことばは、何を言おうかと心配することはない、と語っています。

 

「権力者のところに連れていかれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」ルカ12:11~12

 

 此れは何かが憑依したように、思いもかけない言葉をペラペラとしゃべり始めるということでは決してありません。

 むしろ、これまで心の中に培い養わせていただいた「みことば」のうちから、主と主に繋がる方々と交わし合った美しい対話のうちから、その時々に相応しいことばを、聖なる息吹が掘り起こし、思い出させて戴ける、ということではないでしょうか。

 愛と慈しみに富みたもうみことば(対話)、慰めと励ましに富みたもうみことば(対話)、そして”軽い“叱責のみことばから、その時々に相応しいことばを聖霊が自由自在にお選びくださるという体感は、まさに至福の時と云えましょう。

 

 聖霊がその時々に相応しい”ことのは“をお選びいただくさまは、オルガンのストップ操作にさも似たり‼

オルガン(パイプオルガン)におけるストップとは、オルガンの音色選択機構です。これによってピッチや音色の異なる複数のパイプ列から発音するパイプ列を選択します。

また複数のストップを同時に作動させることによって、音色を合成することができ、単体のストップ音色にはない音色を多彩に生み出すことができます。

赤・青・黄色の三原色が無限の色を造り出すことができるように、ストップの組み合せによって醸し出される音色もまた実に多彩です。

 

 信仰・希望・愛、のみことばは、それぞれに美しい光彩を放っていますが、聖霊の導きによって、それらが組み合わされ、醸し出されるところの”ことのは“は正に無限大。

其れゆえに、話す前に自分の蓄えの足らなさを憂う必要はないのです。

 

 話す力に与ること~言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる~とは、日ごろの自己のみことば体験と、聖なる息吹の協働と言っても宜しいのではないでしょうか(所感)

​~2025年5月18日~

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