Missio Dei
Toshiya Inagaki Music Mission
祈りのパートナー:中野バプテスト教会
「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」の違い!!
この違いを語るにあたり、まずはその元となっている福音書を観てまいりたいと思います。
「共観福音書」(マタイ・マルコ・ルカ)と「ヨハネによる福音書」との大きな違いは・・
「ヨハネによる福音書」は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」という、あの荘厳な表現から始まっているように、人となられたイエスを福音書冒頭から、真の神として”告知“しています。
「共観福音書」は、イエスが神であることを人々の信仰の成長に合わせて、少しずつ知らしめています。イエスが十字架上で壮絶な死を遂げられた際、そのお姿を見て、イエスの正面に立っていた百人隊長をして「本当に、此の人は神の子であった」(マルコ15:39)と言わしめています。
また共観福音書では、たとえばイエスが奇跡をおこなうまえに、まず人々に信仰を求め、確認をなさっておられますが、ヨハネによる福音書では、まず奇跡が信仰を呼び、さらに其の信仰が浄化され完成されるという形式を採っています。
共観福音書は、人々の信仰の成長に主眼が置かれ・・(主眼~まさに主のまなこが投じられ)、ヨハネによる福音書は「告知」が一大テーマとなっています。
バッハ先生は、この対をなす福音書の在りように合わせ、「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」を作曲なさっておられます。~私は音楽学者でもなく、また神学研究者でもありません。一牧師として感じるところを記します~
《マタイ受難曲》では、一人称・”私“による霊想的な内容であるコラールやアリアが、受難曲全体を織りなしています。特にアリアの主体・”一人称・私”によって詠われる歌詞は、個人的、霊想的な内容です。
アリアの歌唱と共に、イエス・キリストが十字架へと至る道を、私たちもまた霊想的に追体験することで、いよいよ自己の信仰を深め、”刷新“することができましょう。
《ヨハネ受難曲》では、一人称の霊操的なアリアは少なく、むしろ合唱が主体となります。つまり衆人が周知する客観的な内容、ドグマティック(教理的)な面が強いと言えます。つまり「教理を告知する」ことが、主眼になっているということです。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)に対し「ヨハネによる福音書」。此の3:1の割合にも、深遠なみこころが感じられてなりません。
▷共観福音書~いつまでも、どこまでも人に優しく寄り添われる”女性性に富む“イエスのご性質。
▷ヨハネによる福音書~十字架の道行きに毅然と立ち向かわれる、堅固なご意志の表れ。どこまでも人を活かし生かそうとなさる”男性性・父性に富む“イエス。
此の両者の3:1の調和こそが、すなわち神(イエス)の人に対する関わり方ではないかと想うのです。(所感)
~2025年6月30日~
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新聖歌397「神の御子にますイエス」
① 神の御子にます イエスのために 罪を敵として 立つは誰(たれ)ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん わがすべてにます 王なる主イエスよ
② 富の楽しみと 地の位(くらい)に 目もくれずイエスに つくは誰(たれ)ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん わがすべてにます 王なる主イエスよ
アニー・ローリーの信仰と恋愛、献身の歌の讃美歌転用です。
宗教改革の理念の一つ「万人祭司」は、会衆讃美という文化を生み出しました。
宗教改革以前までは、神の言葉を語り、歌うという行為は、聖職者、聖歌隊に独占され、会衆は簡素な応答のみを許されていました。
会衆が心を一にして、神の言葉そのものを詠い、神に”直に“讃美を捧げることは、「万人祭司」の理念にかなうものでした。
宗教改革期は、音楽の時代区分としての「バロック期」とほぼ重なります。
「バロック」は、「いびつな真珠」と周知されていますが、厳密には「定義を設けない」です。
器楽曲を声楽曲として転用することも、世俗曲を讃美歌に転用することも可なり、としました。
異質の他者や異分野との境を何ら問題とせず、自由自在に流通することを良しとしたのが「バロック」です。
「バロック」にて、「聖」は「聖」、「俗」は「俗」とした人間の判断と状況が覆され逆転しました。これ即ち、神の国の予期しない「ご介入」とも云えるのではないでしょうか。
そして、まさに「福音」は、神の国の予期しない「ご介入」、逆説(パラドクス)です。
福音は、固定化し形骸化した人の判断や価値に、思いもかけない在りようを与えてくれます。
上記、讃美歌の歌詞の通り、いのちを捨てる人が其れを得るということです。
このパラドクスは、日常の生活の中ではっきりしています。
もし、毎日洪水のように流れるSNS情報に心身を寄せるなら、それら情報は其の人の生活を豊かならしめる!!と思いきや・・いや、むしろそれらのSNS情報は其の人の心を奪い、不自由にしてしまうでしょう。
また探し求めているものが富や名声、地位であれば、それらは得た途端に消え失せてしまいましょう。
逆に、自分の充足のみに生きることを捨て、イエスとのいのちの対話に生きるなら、イエスのみならず、イエスに繋がる「すべて」の方々を友とすることができるはずだ・・此の意外性、パラドクスは、「神のユーモア」とも云えましょう。
先日或る方が、流山音楽アカデミー独唱レッスンで「神の御子にますイエス」を歌われました。
へそ曲がりの私は、「すべてを捨てて、したがいまつらん~わがすべてにます 王なる主イエスよ」の歌詞を、「すべて携え、ィエスに持てゆかん~イエス、我がすべてのすべてとならん」と部分的に変えて歌っていただきました。(もちろん、レッスンの時だけ)
捨てることは破棄することではなく、それらをイエスとイエスに愛されし人々にお持ちし、お分かちすること。此れ、ささやかな神様へのユーモア返し?
~2025年6月27日~
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バッハのモテット3番「イエス、わが喜び~Jesu, meine Freude」
第1曲コラール
イエスよ、わが喜びよ、 わが心の楽しむ牧、
イエス、私の誉れよ、ああ、いく久しく、げに久しく
わがこころもだえ きみをば慕いしか
神の子羊、わが花婿、 きみ,いまさずばこの世にて
わが心をひきとむるもの絶えてなし。
バッハのモテット3番「イエス、わがよろこび」は、全11曲からなるア・カペラ合唱曲。
モテットはフランス語の「Le mot~ことばを説明する、釈義する」を語源としています。
特に上記コラールの歌詞はモテット全体のテーマ詩句となります。
40年前、藝大の「オラトリオ集中講座」で、講師の岳藤豪希師から熱い指導受けたことを思い出します。岳藤師は、各パート一名ずつを選抜し、全曲をア・カペラで歌わせるというご指導方法を採られました。一音でも狂おうものなら、厳しい指導がなされるという、私にとってはア・カペラ養成ギブスのような曲でした。
上記の歌詞は堅固な信仰告白であると同時に、まるで花嫁が花婿に愛を告白する恋愛歌のような詩でもあります。
キリストとキリスト者は、花婿と花嫁に例えられますが、私たちキリスト者は男性であってもキリストの花嫁です。
夫婦は無限に自由に関わりあう存在!!天の御国は性別を超越していますので、キリストとキリスト者は、夫婦の関わりのように、いや、夫婦の関わり以上に熱い、篤い関わりです。
キリストは、私たちに無限に自由に関わり合うことを保証する、究極の自由であられます。
夫婦愛といえば・・、「釣りバカ日誌」で浜ちゃんがみちこさんにプロポーズしたときの言葉が大変印象的でした。(天国の岳藤師から、コメディー映画を聖書の譬え話にすることに対してお叱りを受けることを覚悟で・・)
「みちこさん、私はあなたを幸せにする自信はありません。しかし、あなたと一緒であれば、私が幸せになる自信があります。」
みちこさんは、此の言葉に感銘を受け、結婚を承諾しました。
一見、「自分本位」ともとれる言葉に、どうしてみちこさんは感銘を受けたのでしょうか?
それは、「みちこさん。貴方が嬉しいときは、私も嬉しい。貴方が悲しい時は私も悲しい。私の心は、貴方の心の“映し”なのです。だから、私が幸せな時は、貴方が幸せであるに違いありません!!」という想いが込められていたのではないかと思うのです。
一見、自分の充足を語っているような言葉でも実は、その「本源」はあくまでも他者にあり、他者ゆえの自己であるという思いの表れなのです。
「Jesu,meine Freude~イエス、わがよろこび」は、何ら臆することなく、自由に自己を謳歌させていただける、珠玉の「ことのは」ではないでしょうか(所感)
~2025年6月22日~
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ものを書いて一日を非日常にする!!
『筆をとり 手ずから文字を 書きつくれば
われならぬわれ あらわれ出でぬ』
昨今、私にとりまして「ものを書くこと」は、日々の糧となっています。
ものを書くことは、日々のディボーション・静想にもなります。
書くことは、自分の想いをはっきりさせてくれますし、自分が体験した出来事に潜む宝を発見させてもくれます。
日々の暮らしに少しだけ芸術的な表現を加えるだけで、唯一無二の大切な思い出として心に納めることもできましょう。
つらくイライラする日も、其れを書くことで、却って自分が「救われる」気がします。
書くという表現をすることで、体験してきたことをまさに本物の体験にすることが出来、未来に向かっての確かな「布石」にすることができます。
しかしながら、パソコンのキーボードで文字を表すより、「手書き」の方がより良いかと思います。
手は、「飛び出した脳」と言われています。手は脳の働きを代弁し、自他に知らしめる、脳の「全権大使」です。
手書きによる文字は、その時々の思いによって、筆圧(堅固な圧~柔らかな圧)、字形(流れるような字形~滞った字形)が様々に変化(へんげ)し、一つとして同じものにはなりえません。
紙面に手書きで一筆投じてみると、自分では気付かなかった想いが自らの「手」によって明らかにされます。
楽譜もまた然り。作曲者の手書きの楽譜(またはそれを直にコピーした楽譜)の方が、綺麗にPCで清書された楽譜より良いように思います。
たとえ手書きの楽譜は見にくくても、手ずから表した音符の形や音符の圧に、作曲者の「知・情・意」が余すところなく示されます。
手書きの楽譜は、音符の間隔も一様ではありませんが、それが却って、行間から醸し出される多彩なメッセージとなっています。
文字を書き表すことは、人にのみ為せる業。ことばと文字を与えたもうた主に感謝。
~2025年6月22日~
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『アンパンマンのマーチ』
なんのために生まれて なにをして生きるのか 答えられないなんて そんなのはいやだ!
なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ!
今を生きることで 熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで
忘れないで夢を こぼさないで涙 だから君はとぶんだどこまでも
やなせたかし氏の実体験をもとに制作された、テレビドラマ「あんぱん」が大変な感動を呼んでいます。
特に、たかし氏の弟・千尋が、出征を前に兄に語った言葉は、上記「アンパンマンのマーチ」そのものです。
私の父母もそうでしたが、往時は軍国教育一色の時代。往時の若者は時代の流れに抗うことは”許されず“、それに従うしかありませんでした。
彼の時代は日本だけでなく、世界全体が「帝国主義に駆られる」という過ちを犯し合った時代です。アメリカもまたフィリピンを植民地化し、中国大陸での権益を譲らず、国際連盟を提唱しておきながら自らはモンロー主義を掲げて、関わろうとしなかったのです。
しかし、千尋たち若者は、このような時代の流れに決して”洗脳“されてはいませんでした。
国体の不条理に激しい憤りを覚えつつも、自分たちが未来への一石になることを信じて、断腸の思いで一身を投じていったのです。
安全な場所からは何とでも言えます~「当時の日本は、マインドコントロールの時代。特攻は自爆テロ・・」そんな安易な言葉で片付けてしまうのは、先人たちに対する侮辱でしかありません。
「なんのために生まれて、なにをして生きるのか?」
人間の魂の根源的な叫びです。
私たちはよく、自分は働くために生まれてきたのだと思いがちです。そのため、仕事が無いと不安になり、自分は能力のない人間であると思い込んでしまいます。
あるいは、お金を稼ぐため? 確かにお金が無ければ生計を立てることができません。
しかしこのように、働くためやお金を稼ぐために生まれてきたと考えるのは、明らかに聖書の教えから外れています。(労働は目的達成の手段であり、目的そのものではありません)
◆聖書によれば、私たちは以下の三つの目的をもって生まれてきました。
・愛されるため
・愛されることを喜ぶため
・受け取った愛を他者と分かち合うため
◆これを教理の言葉で言い換えると以下のようになりましょう。~ウエストミンスター小教理問答集第1番より~
・私たちは愛の源である神の栄光をあらわすため
(栄光は”愛“と同義。神の栄光をあらわすとは、『神は愛』であること、『自分は神の愛』であることを表すこと)
・永遠に神と神に繋がる方々を喜ぶため
此の「いのちを生きる意味」を感謝のうちに深めていくことが、いや、「新しく」していくことが、険しくも喜ばしい信仰の旅路ではないでしょうか。(妻と成す”那須“ 旅路遥けく 天(あめ)にまで)
~2025年6月17日~
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イタリアの名テノール歌手・:ウィリアム・マッテウッツィ氏曰く、「声楽家は身体的にはアスリートように、精神的には宗教家のようでなければならない。」
いずれのスポーツも、其れを成すにふさわしい身体を創り上げるのですが、声楽家もまた自らの身体を、自由自在に歌唱技術を駆使する楽器と化すことが肝要となりましょう。
声楽家にとって、まず大切なのは自分の身体に歌唱技術を刻印させること。
技術の会得をすること無しに歌を歌うというのは、練習や鍛錬を全然しないでマラソンに参加するようなものです。
逆に歌唱技術の会得には関心があっても、演奏本番をしないというのは、マラソンの為に修練しているのに、決してマラソンには参加しないようなものです。
人の前で歌うということは、自己の全人格をさらけ出すようなものです。
そしてまた、其れに聞き入る聴衆の反応もまたシビアなものです。
歌い手の歌が、聴衆の琴線に触れれば、彼らは惜しみない拍手を送ってくれます。
しかし一たび、聴衆の面前で失敗をしようものなら、歌い手は聴衆の総ブーイングにさらされます。
私もかつて、新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」公演で執拗なブーイングを受けたことがあります。(昨今、ブーイングはあまりにも品格に欠けるということで、禁止している劇場もあるとのことですが・・)
確かに・・私も本番の前は身震いするほど恐ろしくなることがあります。しかし、これまたイタリアの格言に「舞台の塵(ちり)が歌手を育てる」とありますが、歌手にとっては、舞台の塵こそが日々の糧なのです。舞台の塵を吸わなければ、歌手の身体は”死に体“の楽器を化してしまいましょう。
願わくは私も生涯、舞台(講壇)に在って”生き続ける“歌い手でありたい思っています。
「精神的には宗教家のようでなければならない。」
声楽家は「言葉」を歌います。言葉は、決して紙面に閉じ込められた「活字」ではなく、今に生きて働く”人格者“です。
ガリラヤ湖畔で語られたキリストのことばは、今尚湖面にエコーし続け、聖霊の息吹を駆ってそよいでいます。
「言葉」・・とりわけキリストの”ことば“は、キリスト其のお方の人格、行い、生きざまそのものを表しています。
今に生ける人格者としての「ことば」を感じ取るセンス、”霊的まなこ“こそが、即ち宗教的であると云えましょう。
私たちはキリストのことばが記された「聖書」を、高らかに詠うことで、まさに「言~ことば」を「永~今より後、永遠に」生ける”ことば“とさせていただけましょう。
これまさに宗教的ではありませんか。
「心・技・体」の”三位“の充実は日本の武道でも云われていることですが、マッテウッツィ氏に感化よろしきを得て、「信(信仰)・技・体」と言い直すのも宜しかろうかと存じます(所感)
~2025年6月15日~
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『ウクライナ国歌』オクサーナ・ステパニュックさん&稲垣俊也、ピアノ:田口靖子さん(平和音楽祭~2025年5月3日/紀尾井ホール)
お互い対岸にいる他者の為に、進んで向こう側へ渡ろうと進み出でるとき、私たちは真の隣人となりましょう。世界にはたくさんの分離と隔離があります。
人自らをして造ってしまった隔ての壁、分断の溝に架け橋をかけるとき、私たちは隣人としての友愛を回復することが出来ましょう。
音楽はまさしく此の「架け橋をかけること」そのものではありませんか。
魂の鼓動(リズム)とたおやかな旋律は、小節線という隔ての壁を飛び越え、他者のもとへと出で向かう架け橋です。
平和の奏でが、私たちがひとつ地球家族であることを覚えさせてくれます。
「お互い対岸にいる他者の為に、進んで向こう側へ渡ろうと進み出でるとき、私たちは真の隣人となりましょう。」
私がイタリア留学をした際、ミラノ郊外のイタリア人ご家庭に1年間ホームステイをさせていただきました。
其のイタリア人夫妻は丁度、私の両親と同じ世代の方でした。
ホームステイの初日、私に「世界中の何処においても、自分の子のことを思わない親は誰ひとりいない。遠く離れたToshiの両親の代わりを私たちが務めさせていただきます。どうぞ、ご休心くださいと、Toshiからご両親に伝えて欲しい」と言われました。
当時、インターネットはまだ普及していませんでしたので、週一度の国際電話でそのことを母に話すと、母は感銘のあまり電話口で嗚咽をもらしていました。
これまさに血縁に勝るとも劣らぬ、まことの”隣人“のありようではないでしょうか。
「私たちはToshiの両親ではないが、Papa,Mammaと呼んで欲しい」とも仰っていただきました。
確かに、実の親以外の人を父・母と呼ぶのはおかしいという考えもありましょうが、私にとって彼らは、主が会わせたもうたもう一人のパパ・ママであり続けました。
昨今、世界の情勢は・・異文化の人々を異質の他者とみなし、彼らを偏見で覆い、関りを避けるどころか「敵」とみなしています。
領土欲、権威欲に駆られた一部の為政者は別として・・世界のいずこに暮らす人々も、そのほとんどが素朴で自然な人々です。
私たちが恋愛をするように彼らも人を愛し、親が子どもを慈しみ育てるように、彼らも親子の情愛を深め、やがて私たちが死んでゆくように、彼らも死んでゆきます。
向こう側にいる人を「敵」とみなすことで、私たちは彼らを、好き勝手に壊すことができる「もの」のように扱ってしまいます。
勇気をもって向こう側にわたるとき、私たちは同じ神の子供であり、かけがえのない隣人であることが分かりましょう。イタリアのパパとママが、全身全霊でそのことを教え、伝えてくれました。
「内輪」は、血縁・血族として生まれながらにご縁のある人々ですが、「隣人」は、自らの気概と自由意思で関わっていく人々。ある意味、「隣人」との関りのほうがより深遠であるとも想わされます。
~2025年6月10日
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Panis Angelicus~C.Franck
~裂かれたる主の体、流されし主の血潮こそ・・主に背き、主を捨てし我がためなり。
忘れ易き愚か者に、パンを裂き葡萄飲むごとに・・汝が苦しみしのばしめよ。
わが世を去る日までは。わが主にまみゆる日までは~
(中田羽後師の名訳です。)
イエスは十字架上で御身を引き裂かれました。
イエスが御身を裂かれたのは、ご自身を与える為でした。
イエスの生と死は、人の死と生です。
即ち、引き裂かれたパンの中のイーストが、硬く固まり閉塞してしまった種無しパンのような人の心身に注入されることで、柔らかでたおやかな心身(パン)へと変えられていきます。
私たちは、確かに福音のイーストを植え付けられたものとして生かされている「現実」を、全身全霊・全人格で感じ”味わわせて“いただけます。
そしてイエスに倣い、私たちもまた、この世のパンとならなければなりません。いや、ならずにはいられません。
福音のイーストが植え付けられた私が、自身を裂き他者に与えるのであれば、他者をも福音の香ばしい薫りに包み込んで差し上げることとなりましょう。自己から他者へ、他者から他者へ、福音のイーストは、その日、其の時ならではの味わいを伝授しつつも、世代から世代へと無限に実を結び続けます。
イーストが無限に拡がるように、自己を裂く“分かち合いの徳“は、成せば為すほどますます拡がっていきます。
これに勝る充実は他にはありますまい。
自己の人生は、他者の人生へと繋がり、他者の人生ともなります。
自分だけの限定された数十年の人生だけでなく、其の何倍もの人生を生き抜くことができます。それゆえに、自己を裂き与えるパンと成らずにはいられないのです。
少年がたった五つのパン(+二匹の魚)を裂き与えることで、五千人以上の人々を食べ飽かしめた彼の(かの)奇跡を、自己の体験と成させていただけます。何という恵みでありましょうか。
イエスご自身がそうであったように、自己を引き裂く際には大きな痛みが伴いましょう。しかし、其れにいや勝る実りがもたらされることを想えば、自己を引き裂くこともまた甘美なる体験へと変えられていくのではないでしょうか。(所感)
Photo:わが身を削り他者に与えるアンパンマン。イエスの精神にも通じる此の国民的作品に、私も大変共感いたします。
そういえば、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」に出演したとき、フランス語指導者から、ナザール(鼻母音)の訓練にMon Anpanman(モン・アンファンマン~私のアンパンマン)を用いるメソード提示していただきました。ナザールはただ単に鼻に詰まった音ではなく、むしろ声が鼻腔を通り越し、天に響き渡ったときに初めて鼻母音となります。ナザール会得に「モン・アンファンマン」はまことに有益でありました(^^♪
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結婚式では、新郎新婦は神と会衆の前で結婚の誓約をし、其のしるしとして結婚証明書に自身の名前を記します。
新郎新婦が交わす約束は「誓約」であり、決して「契約」ではありません。
契約とは、当事者たちが合意の上で、法的な権利や義務を発生させる約束事のことを指します。法律によって保証された約束事で、破れば法によって罰を受けます。
かたや誓約とは、誰かが別の誰かに対して何かを固く誓う形の約束事です。誓約はする側が一方的に行うもので、誓約される側の同意は必要ありません。もし万が一、約束した側が破っても罰を受けないこともあります。
これだけを鑑みると、誓約というのは保証のない不安定な約束関係のように思われるかも知れませんが、いやむしろ、これほど堅固な想いの取り交わしは他には無いといっても宜しいかと想います。
誓約とは「貴方があなたであるが故に、いついつまでも貴方と共に在らずにはいられません」という、自己の決定的かつ自由な意志の表れです。そして、他者もまた同じ篤い愛を持って自己に対峙してくれるであろうことを信じる、いわば他者に対する全き信頼の表明です。
これは、十字架上で一方的、犠牲的愛をお示しになられた、キリストそのお方の愛の“うつし”ではありませんか。それ故に、新郎新婦は、神と参集の証人の前で、「我らもまた生涯を通して、このキリストの愛に倣うものと成さしめたまえ」と宣言・告白するのであります。
ちなみにキリスト教で、神と人間の間で取り交わす約束(約束事)は、英語では「コヴェナント・covenant」と表現されます。
しかし此のコヴェナントですが・・英和辞典では「契約」としか表記されていません。
「契約」と云うと大方、法的義務や権利の伴うコントラクト・contractの方を連想してしまいます。
私は常々、此のコヴェナントを、一言で言い切る日本語はないものかと思案をしていました。
そんな中ある日、大河ドラマ「独眼竜政宗」を英語の字幕付きで視聴していましたら、「血判状」が、まさにコヴェナントと訳されていました。
血判状(けっぱんじょう)は、連判状の一種で、誓いの文章に署名し、その誓いの強固さの表れとして指の一部を切り自らの血液で捺印したものです。
成程、此れは言い得て妙!!そしてこれはキリストの御血の贖いにも通じるではありませんか。
キリストは人に対し、「貴方はキリストの十字架の贖いによって救い出だされたお人です。キリストの十字架の贖いは永久不変です。その確かな”しるし“が、十字架にくぎ付けにされた御手の傷と、此の血判状に“キリストの血”をもって書き記されたみことばに他なりません!!!」と仰っておられるかのようです。
そして結婚の誓約と結婚証明書への署名は、まさにこのキリストの差し出された血判状に自分たちの名を書き連ねることなのやもしれません。
即ち、「貴方はキリストが十字架におかかりになられるほど、キリストに愛されたお人です。キリストの愛である貴方を“キリストゆえに“愛さずにはいられません。キリストがなされたように、私も自らの血をもって、わが想いを此の証明書に記します。」と‼
日本文化の中にも、そして結婚の礼典のなかにも、しかとキリストがお住まいになっているさまを、また観させていただいたように想います。(所感)~2025年5月27日
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讃美のみことばは、実寸大のイエスのおことば‼
本日、流山音楽アカデミー「合唱の集い」で、「儒教」を一つの話題とさせていただきました。
「儒教」は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系です。儒教は仏教に先駆け日本に伝来しました。今尚、日本人の精神性に大きな影響を及ぼしています。
孔子、孟子、老子 、荘子 ・・いわずと知れた中国の思想家はみな、「子」と名乗っているではありませんか。
「子」 は「ね」とも読みます。実はこの「ね」は、「音・ね」でもあるのです。
孔子は、まるで楽の音を奏でるが如く、人々に語り「仁・義・礼・智:信」を紐解かれたとのことです。
歌うように語るその言葉は、たおやかに優しく人々の耳に届けられます。
さて、イエスはどのようなお声で、人々に語られたのでしょうか。
特にイエスが大勢の人々に語られた場面、「山上の垂訓」では、ガリラヤ湖畔の丘には「男だけで五千人」参集したと聖書に記されています。
もちろん当時はマイクなどありません。約一万人に対しては、どんな強靭な声で叫ぼうとも、その言葉を皆々に知らしめることはできないでしょう。
しかし「語り歌い」、と申しましょうか、Recitativo・レチタティーヴを駆使するなら、一万人であろうと二万人であろうと、その言葉を万遍なく届けることが可能となります。
ヴェローナ野外劇場の収容人数は16,000人ですが、オペラ歌手はマイク無しで声と言葉を聴衆に届けることを常としています。
歌手によって解き放たれた言葉は、音楽という息吹(=聖霊の息吹)を駆って、まるで生ける人格者のように自由自在に空間に飛び交います。
これ以上は説明出来ませんが・・音楽にはそのような不可思議な、いや霊的な力があるとしか言いようがありません。
イエスは、孔子に勝る「語り歌い」をなされたお方ではないかと想うのであります。
イエスは大勢の人々に語られただけではなく、むしろお一人おひとりと優しくおことばを交わされました。
その際も、イエスは個々人の心身を包み込むかのような、言い換えれば、楽の音のようにお話になられたことでしょう。
ゆえに私は、讃美歌で詠われる言葉、特にイエスのみことばは、まさにイエスが往時語られた「実寸大のおことば」ではないかと想わずにいられないのであります。
祈りの中の祈り・「主の祈り」は、イエスのおことばが人間の祈りになっています。
(詩編の書等も、神のことばが人間の祈りになっている書です)
私たちは叫ぶことなく、弁舌巧みになることなく、ゆっくりと歌うように祈りのことばを反芻するなら、往時のイエスのおことばを「今」に「実寸大」で、感じ味わわせていただくことになるのです。(自己の所感)
~2025年5月21日~
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『光を撮る』
写真とは・・「被写体を撮影する」ことに他なりませんが、厳密にいえば、被写体を撮るというよりも、被写体への「光の当たりよう」、即ち「光」を撮ることなのです。
被写体も大切ながら、それより更に大切なのは、光がどのように被写体を照らしているかということになりましょう。
その最たる例は「能面」です。
能面への光の当たりようによって醸し出される表情は、まさに千変万化‼
正面からの光、斜め上方からの光は、おもてを照らします。
おもてを曇らす時には、光の角度を変えます。おもてを切るときの残影や、刻々と変わりゆく主役の心情は、光を当てる角度によって調整をします。
現代の能は、照明設備の行き届いた能楽堂内で上演されていますが、屋外で上演していたころ、最も上演に適した時間帯は、能面に影ができる斜陽の夕刻とのことです。さながらレンブラントの絵画のように能面も陰影に富み綺麗に見えるのだそうです。
能の上演の時間帯や、天候によって、能面の影も変化しますので、その時間帯・天候に相応しい御顔立ちの能面をその都度、選んで上演するとのことです。
本当に能の世界は奥深いですね!!
写真はまさに此の能面のように、如何に光が被写体に及んでいるのかを切り取ります。
光が無ければ、其処に被写体が存在していることすら分かりません。
光があってこその被写体となりましょう。
そして被写体は光を受けるだけではなく、その光を屈折、反射して此の生活世界を美しく彩ることができます。雨の水滴が、降り注ぐ光を自由自在に反射し、七色の虹の文様を描いていくが如し‼です。
写真は、此の光を被写体との「対話」を切り取っているのです。
ところで・・聖書の世界では、神の栄光(光)と神の愛は、同義であります。
神の愛の光合成により、私たちはおのおのの花を存分に咲かすことができましょう。
そして、神の此の唯一無二の愛の光を、各々が心のプリズムで反射し、此の生活世界を七色の虹のように彩らせていただけます。なんと神は私たちに、「第二の光」を追創造する喜びと気概をお与えになっておられるのです。
私たちは、神の光(愛)を指向し、光(愛)を屈折・反射し、此の生活世界を多彩な光(愛)で彩らせていただく“主の嘉せられる被写体”なのです。(所感)
~2025年5月21日~
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『話す力に与る』
聖なる息吹・聖霊は私たちに話す力を与えてくれます。
衆人注視の中、弁明を求められたとき、恐れの中、話さなければならないとき、また”説教”に臨むとき、しばしば私はあがってしまったり、逆に自信過剰になったりもします。
しかし以下のみことばは、何を言おうかと心配することはない、と語っています。
「権力者のところに連れていかれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」ルカ12:11~12
此れは何かが憑依したように、思いもかけない言葉をペラペラとしゃべり始めるということでは決してありません。
むしろ、これまで心の中に培い養わせていただいた「みことば」のうちから、主と主に繋がる方々と交わし合った美しい対話のうちから、その時々に相応しいことばを、聖なる息吹が掘り起こし、思い出させて戴ける、ということではないでしょうか。
愛と慈しみに富みたもうみことば(対話)、慰めと励ましに富みたもうみことば(対話)、そして”軽い“叱責のみことばから、その時々に相応しいことばを聖霊が自由自在にお選びくださるという体感は、まさに至福の時と云えましょう。
聖霊がその時々に相応しい”ことのは“をお選びいただくさまは、オルガンのストップ操作にさも似たり‼
オルガン(パイプオルガン)におけるストップとは、オルガンの音色選択機構です。これによってピッチや音色の異なる複数のパイプ列から発音するパイプ列を選択します。
また複数のストップを同時に作動させることによって、音色を合成することができ、単体のストップ音色にはない音色を多彩に生み出すことができます。
赤・青・黄色の三原色が無限の色を造り出すことができるように、ストップの組み合せによって醸し出される音色もまた実に多彩です。
信仰・希望・愛、のみことばは、それぞれに美しい光彩を放っていますが、聖霊の導きによって、それらが組み合わされ、醸し出されるところの”ことのは“は正に無限大。
其れゆえに、話す前に自分の蓄えの足らなさを憂う必要はないのです。
話す力に与ること~言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる~とは、日ごろの自己のみことば体験と、聖なる息吹の協働と言っても宜しいのではないでしょうか(所感)
~2025年5月18日~