
Missio Dei
Toshiya Inagaki Music Mission
祈りのパートナー:中野バプテスト教会
グレイス合唱団・バッハ「ヨハネ受難曲」公演、合唱団員募集‼
指導者の重見通典先生は、指揮者・ホルン奏者・そして牧師の三刀流を駆使するお方です。
「ヨハネ受難曲」は、「ヨハネによる福音書」のみことばそのものを詠う楽曲です。
重見先生による、みことばの正統的、伝統的解釈のもと、バロック音楽の様式に則った深遠な「ヨハネ受難曲」となりましょう。
この伝統とか様式は、かの時代に作品を留め置くものではなく、むしろ今、この時代に生かすための仕組みと申しましょうか、術(すべ)ではないかと思います。
ゆえに、特に古典の作品には、伝統や様式は必要不可欠なのです。
主の御業とおことばは完成・成就いたしました。
バッハの音楽も偉大な文化の遺産として完結いたしております。
しかしこれらの完成とは、博物館に骨董品として陳列され、納められたということではありません。
永久不変、即ち,変わることなく“今”に深い意味と意義を与え続ける“ことのは”、“生けるペルソナ”に成ったと申せましょう。
我々演奏家は、かの時代に人々が感じ味わったこころのそよぎを、今の時代にお運びをさせていただく“架け橋”です。
如何に時代が移り過ぎようとも、みことばに相対する感動は変わろうはずがありません。と同時に、みことばは、私たちにその日、其の時ならではの新しい息吹を送り続けてくれます。
主のみことばは、そして「ヨハネ受難曲」も、いつの時代の人々にも、「深遠で新しい」‼
皆様のご来会、ご来団を心からお待ちいたしております。
~2025年10月31日~
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詩篇22:篇3節(新改訳) けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
「賛美」は「祝福」と一対になったことば。両者は(エウ・ロギア/Ευλογία~よく言い合う)と表されます。
エウ・ロギアは神と人との対話。神はいつも私たちをご自身との対話にお招きくださっています。
さて、此の“イスラエル”ですが、其の語源は創世記32章に観ることができます。
策を弄してイサクから長子の権利を奪ったヤコブ。(ヤコブは押しのける者の意)
不安に駆られる中、兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡しで神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられました。これが後のイスラエルの国名の由来となりました。
この格闘は、熱心な祈りの力は神をも打ち負かすことを教えていると、私たちは理解しています。
“イスラエル”は、“神に勝たれるもの”なのですが、不可思議なことに私には、此の「神と闘う」ことには、闘争的なイメージは湧き出てきません。
神が、ヤコブの不安、嘆き、自責の念、懇願をすべて御身にお引き受けになられたがゆえに、ヤコブは神によって、こころ安らかにせられ、即ち「神に在って勝利を得させていただいた者」となったのではないでしょうか。
ヤコブから数えて数千年後、イエス・キリストによってそれが更に“具体的”な表れとなります。
イエスはしばしば、悪霊にとりつかれ口がきけなくなった人から、悪霊を追い出され、其の人の心身を回復なされました(マタイ9章他)
これは文字通り、悪霊を追い出したと理解して宜しいのですが・・悪霊の目的は唯一つ~神と神のみことばとの永遠の断絶~です。
人をして造ってしまった大きな隔ての溝・・人の側からは到底修復ができない大きな溝を、イエスが御身をもってその架け橋となり、神との対話を回復なさってくだされました。
即ち、悪霊の業と企みを、イエスが御身にお引き受けになられたがゆえに、私たちは自由なるものとせられたのです。
神が私の負け(負債)を受け入れて下さり、「神によって勝利を与えられしもの」と成ったのです。
これまさに、神にしか出来ない御業ではないでしょうか?
他者の不都合、負債、責任をすべて受け入れて下さるがゆえに、“神”なのではないでしょうか?
私は、あるいは他者の痛み、負債、責任を“受け止める”ことは出来るかもしれませんが、それらを受け入れ、弁済してさしあげることは到底、出来ようはずはありません。
他者の責任を負うことは出来なくても、他者に対する責任だけは果たしていこうと、想わさるるものであります。
即ち此れ、神によって勝利の栄冠を授けられた“イスラエルの民”の使命ではないでしょうか。
イスラエルは、武力や策略で勝利をもぎとる“ヤコブ”ではありません。
対話と友愛によって、調和の美しさを醸し出すべく召された、神のご期待、神のおよろこびです。
~2025年10月31日~
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新聖歌「シャロンの花」
1シャロンの花 イエス君きみよ わが内に開き給え
良き香り麗うるわしさを われに分かち与えつつ
シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え
4シャロンの花 イエス君よ 地の上を覆おおい給え
地の人のみなひれ伏し なれを「主よ」と呼ぶまでに
シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え
イエスとイエスのおことばは、シャロンの花にも勝り、香しく麗しい。
愛と赦しに富みたもうイエスのおことばは、そよ風に乗って世にあまねく、たおやかに届けられます。
地の人みなが、その“ことのは”に心惹かれずにはいられなくなります。
「シャロンの花」を詠うと、“キリストの愛のかおり”が、世に残り無く隅々にまで行き渡り、地の人の皆々がキリストの愛の支配に与るさまを垣間見させていただけます。世界が、“主のおよろこび”、“キリストの愛”として完成いたします。
即ち此れ、キリストが再びお出でになられる「再臨」の光景でもあります!!
ところで昨今、「クリスチャン・シオニズム」という言葉をよく耳にします。
クリスチャン・シオニズムとは、イスラエルによるパレスチナ地方の植民活動、国家建設を積極的に支持するキリスト教徒の運動です。現在クリスチャン・シオニストを主に構成するのは、「福音派」というプロテスタントのグループです。彼らは聖書に記されていると彼らが信じる預言、つまりイスラエルの地をユダヤ人が支配すれば、キリストの再臨と世界の終末がもたらされ、キリスト教徒は救済され、非キリスト教徒(イスラム教徒やユダヤ教徒を含む)は全滅するという信念をもっています。
1948年のイスラエルの建国は、彼らにとっては其の預言の成就であり、聖書に描かれた世界の終わり、つまりキリストの「再臨(Second Coming)」が近づいている兆候と理解されました。
現在も、実にアメリカの6割以上の福音派キリスト教徒が、イスラエルによるパレスチナの完全支配を支援しています。
武力でパレスチナを駆逐しようとする昨今のイスラエルの振る舞いに、国際社会は「あきらかな人種差別と人種差別の一形態」であると非難していますが、シオニズムに駆られたイスラエルと、特にアメリカの福音派の人々には、これら国際法が通用しません。イスラエルは国際法の治外法権ということでしょうか。それどころか、これら一連の軍事行動は「主の再臨を早めるもの」(Ⅱペテロ3:10~13)の一助であるとしています。
しかし本当に、戦いと殺戮の果てに、神の愛の国が完成・成就するのでしょうか。
神の国は、冒頭の「シャロンの花」のように、キリストの愛と赦し(キリストに在る共生、共感)が全地を覆い、いよいよ「時が満ちて」おのずと産出されるものではないでしょうか?
主は、其の愛の実りがたわわに実るのを「私は渇く」と言われんほどに、待ち望んでおられるのではないでしょうか。
あるいは、主の再臨とは、花婿キリストのお出でを花嫁・教会が、ときめきのうちにお迎えするような、このうえもない甘美な刹那であるに違いありません。
私は福音派の出身ですが、主の再臨は「イスラエルの地勢的な支配」によってもたらされるのではなく、「こころのイスラエル」が全地を覆うことで相成ると信じて止みません。
~2025年10月23日~
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新津福音キリスト教会Home Pageに「秋のチャペルコンサート」の記事が掲載されました。
「アポロは一体何者か。パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:5-6)
新津福音キリスト教会(松永優牧師)の皆々様が、心を込めてご準備くださったチャペルコンサートという水田に、私たちも心を込めて「福音」という種を、音楽というフィルターを通して植えさせていただきました。
此のコンサートにご参集くださった方々の心の中に、確かに福音の“ことのは”がお入りくださいました。
主の御摂理のうちに、今回ご参集のお一人おひとりが、最もふさわしい時に信仰の告白へと導かれることでありましょう。
宣教なさるのは神ご自身であられます。米どころ、新潟・新津での「神の宣教(Missio Dei)」を大いなる期待のうちに観させていただきとうございます。
~2025年10月23日~~
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第60回 十字ヶ丘復活苑記念式
十字ヶ丘復活苑(愛知牧場)開堂60年を記念する式典は、天に召された方々の追悼礼拝であり、やがての日、天に召される私たちの「死への備え」を新たにする礼拝でもあります。
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです
信仰の旅路において私たちは、キリストとキリストに繋がる方々との「愛の授受」を幾重にも心身に重ね着をし、聖化に聖化を重ね、やがて天つ御国に至るときには栄光の体へと変えられていきます。
天の御国には、主に愛されしすべての方々が、主の栄光のもとに集められます。
あるいは仲たがいをしたまま別れてしまった他者とも、永遠のときをご一緒しなければならないでしょう。
「死への備え」とはある意味、決着のついていない人間関係を残さないための最大限の努力といえます。
自分を傷つけた人を赦したのでしょうか?
また、自分が傷つけた人に赦しを乞うたのでしょうか。今生、残念ながらそのような方々との再会の機会がないのであれば、主なるキリストにお執り成しを願い、祈ったでしょうか?
此の「死への備え」があればこそ、私たちの「死」、あるいは「死別」は悲しみとなっても、平安、平和に心温められることでしょう。
生と死は、表裏一体。
死への備えができているなら、私たちはどんなときにも「生きる準備」が出来ていることになります。
詳細ご案内
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スロー・スロー・クイック・クイック~Shall we dance?
社交ダンスの「スロー・スロー・クイック・クイック」は、ゆっくり・ゆっくり・速く・速く、ではないとのことですね。
例えば4拍子の楽曲の場合、スローでは2拍でワンステップ+体重移動、クイックでは1拍ごとにステップ+α、といったように、リズムの感じ方と其のアクションの違いが、スロー・スロー・クイック・クイックとなります。
舞踏と音楽は同じ根から生じた二本の幹ですが、歌も全くこれと同じことが云えましょうか。
細かく一拍ごとにリズムを感じながら歌うのと、2拍を大きなゆらぎとして感じながら歌うのでは、全く異なる表現となります。
更に云えば、歌唱においても、スローとクイックとの二者の程よいバランスが大切ではないかと思います。
“スロー・たおやかな大きなそよぎ”でありながら、それが前へ前へと進み行くクイック・・雄大さと促進性と申しましょうか。
雄大さと促進性、この二者のうちどちらが主役か、と敢えて言うならば、やはり雄大さ・スローでしょう。
大きな「ノアの箱舟」が、滔々と前に進み行く光景は、万人共感の心地良さ。
クイック・クイックで息せき切って走り続ける為の「休憩・スロー」ではありません。
前回の投稿で「Pianoはforteに勝る」と記しましたが・・今回も「スローの為のクイックであり、クイックの為のスローではない」と申し述べさせていただきたいと存じます。
~2025年10月25日~
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ピアノ(優しさ)はフォルテ(気丈さ、堅固な意志)に勝る。
音楽表現上、「ピアノは小さく」、「フォルテは大きく」、とされていますが、これらは音量の大小というよりも心の状態といえましょう。
優しさは、読んで字の如し、「人」を「百回」「愛する」と書きます。
「優しさ」を、人の言葉に置き換えるなら、「あなたといついつまでも共にいられることを、ありがとう」「あなたがいてくれて、ありがとう」と、なりましょうか。
「気丈さ」は、「君を絶対に生かしてみせる」「君は凛として在れ」という、渾身のエールです。
「ピアノ・優しさ」は女性性・母性に富む愛。「フォルテ・気丈さ」は男性性・父性に富む愛です。
冒頭、「ピアノはフォルテに勝る」と記しましたが、ピアノがあればフォルテは不要であると申し上げているのではありません。
“フォルテ/気丈さ”は、”ピアノ/優しさ”を、より優しさたらしめるためであって、“フォルテ/力強さ”に”ピアノ/優しさ”を従属させるものでは決してありません。それを言い表さんが為、「ピアノはフォルテに勝る」と記した次第です。
イエス・キリストは、公生涯をお始めになられる前、マリアとヨセフのもとで30年間、人として生きること、人と関わり合うことの美しさを学ばれました。
「聖母子」を描いた幾多の西欧の絵画を見ますと、幼子イエスの養育者はマリア其の方に限定されていると錯覚を起こしがちですが、父母揃ってこその全人格教育です。イエスの人性を育むのにヨセフの存在も不可欠でありました。
ヨセフの「君は凛として在れ」という渾身のエールが、マリアの「あなたがいてくれて、ありがとう」を、無限の溢れんばかりの愛と成すことができたのではないでしょうか。
私も様々な分野の音楽に携わってまいりましたが、昨今は奇を衒わない素朴でやさしい讃美歌を歌うことを「佳し」とするようになってまいりました。
此のやさしいは「易しい」ではなく、「優しい」です。
此の「優しさ」を真に「優しさ」たらしめ表現するために、今後も「凛として」様々な表現技術を学んでまいりたいと思います。
▷スペインのキャロル~カザルス編曲「鳥の歌」
御母マリアに優しく抱かれるイエス。自然で素朴なクリスマスの原風景です。
小鳥たちもピース、ピースと歌い、平和のきみなるイエスのご降誕を寿いでいます。
「鳥の歌」は、チェロ奏者パブロ・カザルスの編曲・演奏によって、世界的に知られるようになりました。カザルス氏は、1971年、世界国際平和デーに国際連合本部で演奏会を行った際にも、この曲を無伴奏(アカペラ)で独奏されました。
カザルス氏は国連本会議場を瞬時に、平和を祈るa cappella、即ちチャペルと成したのです。
~2025年10月23日~
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▷『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』 より
ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duetto致しました。
『Total Praise』・・“Totalは”即ち知性・感情・意志の“全人格”。「全人格をもて主を賛美せよ」、となりますでしょうか?
イエス・キリストもおことばをもって、行動をもって、そして情熱(Passion)をもって私たちを愛し、祝福してくださっています。まさにTotal Benediction ‼
主と私たちの全人格の対峙は、かぎりなく甘美なエウロギア・Ευ Λόγια(佳く言い合うの意)。
十キリストに讃美
~2025年10月14日
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ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』10月13日(月・祝)
『Total Praise』~心と声と行いと生き様をもて、主をほめよ
ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duettoを致します。(コンサートは全11~12曲の予定)
『Total Praise』・・あえて日本語で云うならば“Total”、「全人格で主を賛美せよ」、となりますでしょうか?
さらに詩的な表現をするのであれば・・「心と声と行いと生き様をもて、主を褒めよ」、となりましょう。
歌詞は詩編121編1~2節を基としています。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」
私は「新曲」に臨む際、楽曲のアナリーゼに先立ち、歌詞である“みことば”を観想せずにはいられなくなります。これも牧師の性(さが)と申せましょうか。
「私は山に向かって目を上げる」。この山は,もはや地上の一か所、特定の山(シオンの山)に限定されてはいません。
人々が主の御名によって集い讃美をするところ、それが「主の山」に他なりません。
四面楚歌となり、心身共に行き詰ってしまったとき・・人は、主と主のことばと主に繋がる方々との関わりのなかで、思いもかけぬ方法で解決へと導かれることがあります。
人は関わる存在。いや、人はいのちといのちを生きる意味を与えたもうた主に関わらずにはいられない存在です。主に愛されし兄姉とともに、主と「ことば」を詠い交わすとき、本当の自己を見出すことが出来るのではないでしょうか。
それが即ち「私は山に向かって目を上げる。~私の助けは、天地を造られた主から来る」なのです。
カテキズムに「世界は教会のために造られた」とあります。
世界は「ものみなこぞりて、相集い、神を賛美する教会」であるということでしょうか。
『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』もジャンルの違いを乗り越えて、自由自在に賛美を詠い交わす、一期一会の教会・「主の山」で在りたいと願っています。
皆様のご来会を心からお待ちいたしております。
~2025年10月2日~
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季節の変わり目は、みことばを注視
歌曲の独唱・重唱は別として・・オーケストラを伴う歌唱、あるいは合唱には、指揮者の存在は不可欠です。
私は合唱の指揮をすることもあれば、歌手として指揮者のコンダクトに与ることもあります。
演奏者は当然、指揮者を見ながら歌い、奏でるわけですが、指揮者に対して「良い見方」と「良くない見方」があります。
私は、歌いつつ指揮者を見る際、指揮者の一挙手一投足を凝視しているわけではありません。もちろん指揮者の指揮棒や手は、絶えず視界に入ってはいますが、一挙手一投足を凝視しようものなら、声が凝り固まってしまい演奏が委縮してしまいます。
むしろ、やんわりと、たおやかに指揮者の“ゆらぎ”を感じ味わわせていただいています。
しかし「ここぞ」と云うときには、指揮者を「注視」します。
ここぞと云うときとは・・D・A・Tの"変わり目”に他なりません。
D~ダイナミクス 音の強弱
A~アゴーギグ 旋律のそよぎ
T~トーン 音色
私たち演奏家は、特に指揮者を注視しなければいけない箇所、いや、注視せずにはいられない箇所に、メガネマークO-Oを楽譜上に記しておきます。
音楽を美しく変容させるためには、その変り目といいましょうか、動機をしっかりと共有する必要があります。
それ以外は、指揮者を感じつつも、のびやかに音楽を闊歩させていただきたいと思っています。
そして指揮者としても、演奏家に対して「よい見させ方」があります。
指揮者は、演奏者に自分を注視させる決然とした理由と態度と示す一方、演奏家を自由自在に闊歩して差し上げる「寛容さ」の両面が必要となります。
いつも自分を「見ろ。見ろ」という指揮者は、良い指揮者であるとは言えません。
此れはまさに、魂の指揮者であるキリストと、キリスト者の関係にも云えることではないでしょうか。
人生の季節の変わり目、曲がり角に差しかかったときには、安全にカーブハンドルをきることが出来るよう、主と主のことばを注視せずにはいられません。
まっ直ぐな道を歩むときには、お優しい主と主のことばが、まるでシャロンの花の香りのように私の心身を覆ってくださっているので、たおやかに自由に信仰の旅路を歩んでゆくことができましょう。
主と主のことばは、間違いのない道しるべであると同時に、私たちの自由なる信仰の旅路を保障する「究極の自由」であられます。
~2025年9月29日~
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『漢字変換の妙』~ゆるーい文章ですので、スルーしてくださって結構です。
東京プレヤーセンターから、お昼の礼拝でのメッセージのお入用をいただき、来る11月17日(月)、今年2回目のご用をさせていただきます。
応諾の意向をお伝えする際、メールでこのように返信いたしました。
「11月17日のお昼の礼拝では、ご参集の皆様方と共に、主をおよろこびさせていただく礼敗となりますよう、祈りのうちに臨ませていただきます!!」
もうお気づきでしょうか。礼拝と書くべきところ礼敗と書いてしまいました。漢字変換ミスです。
東京プレヤーセンター様には、公共のこの場を通して、お詫びを申し上げます。
文明の利器とは全く便利なものでありながら、意外なところに落とし穴があります。
私はまさか、間違えて漢字変換しているはずはないと思い込み、そのまま送信してしまうことも暫し。
でも間違えて送信してしまった「礼敗」ですが・・。取りようによっては言い得て妙。
私は・・イサクの息子ヤコブが、長子の権利を弟に奪われ復讐に燃える兄エサウから逃れんとしてヤボクの川を渡河する際に、神の天使と相撲をとったあの件(くだり)を連想します。
ここでの相撲とは、全身全霊で神に対峙し祈る「心のありよう」です。
ヤコブの祈りの切実さと粘り強さに、神は根負けして「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」と天使を通して言われました。
神を根負けさせ、敗れさせるほどに、篤く祈る(プレヤー)ことを、礼拝、いや、礼敗では求められるのかもしれませんね。
漢字変換のミスの思い出といえば・・敬愛する森一弘司教様を思い出します。
四谷のニコラバレで、クリスマスコンサートのお入用を戴いた際、司教様のメールには「典礼聖歌やクリスマスキャロルは、聞き慣れていますので、出来ればオペラを沢山歌ってください。これは悪魔でも私見ですが、よろしくご拳闘ください」と記されていました。
変換ミスが2か所ありますが、特に“あくまでも”を、“悪魔でも”と記された箇所には、思わず吹いてしまいました。
いや、却って私は、これを送信された司教様の豪放磊落(ゴウホウライラク)なお人柄にすっかり魅せられてしまい、心からお慕いしたいと思わされました。
「悪魔でも」も、取りようによっては、「クリスマスコンサートの夕べは、悪魔の入り込む一点の曇りもなく、ご降誕の主の栄光に輝くでしょう!!」と言い得るやもしれませんね(^^♪
~2025年9月23日~
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NHK朝ドラ「あんぱん」も佳境に入ってまいりました。
主人公のやなせたかし氏、暢さんと温かい仲間たちは、本当に「少年・少女の心を持つ大人たち」ですね。
ドラマを見入るごとに、ほのぼのとした優しい気持ちにさせられます。
少年・少女は「遊ぶ」ことが仕事ですが、よく「動物は大人になったら遊ばないが、人は大人になっても遊ぶ・・」と言われます。
いや、いや、母ライオンが子ライオンと無邪気に戯れているではないか、と言いたくもなりましょうが、あれは母ライオンが子ライオンを遊んであげているのであって、親ライオン同志では決して遊ばないとのことです。
これは私見ですが、・・「遊ぶ」とは「関り」そのものを楽しみ、深めていくことではないでしょうか。
「関わる」ことが一大目的であり、何かのための手段ではないということです。
此れ、まさに子供の心です。
反面、「関り」を、経済を会得するため、テリトリーを拡大するための手段としている人々は、「遊ぶことを知らない大人たち」と云えましょうか。
「少年の心を持つ大人」と「幼稚な大人」は、似て非なるものです。
心が幼く、自己中心的であり、自己の欲求の実現のために、他者を利用し、其の関りを手段とせんとするは、「幼稚な大人」です。
キリストも永遠の少年の心を持たれたお方であられました。
イエスは、キリスト者に対して「懸命に努力をすれば、あなた方を『地の塩、世の光』と呼び、ご褒美として天の御国に招いて差し上げよう」、とは仰っていません。
「あなた方は、既に地の塩、世の光として召されています。貴重な食物に塩味をつけたのち、自らが消えて無くなる地の塩のように、この世に暮らす人々の役に立つ人であれ・・世の光のように、この世に暮らす人々を照らす人であれ。この地を天の御国に勝るとも劣らぬ、愛とときめきで満たしなさい」と仰っています。
「地の塩、世の光として、もっともっと人々と深く、優しく関わりあっていきなさい」とのお言葉が、いついつまでも心にエコーし続けます。
キリストに倣い、私も折々に「少年の心」に立ち返ってまいりたいと想っています。(所感)
~2025年9月23日~
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「メサイア」オーケストラ合わせ、で改めて思い巡らしました。
「メサイア」の“ことのは”は、私(たち)にとってあまりに深遠で、あまりに親しく近しい。この大きなダイナミクスは、到底、人の声で表現できるものでありません。
むしろ、キリストを生きる演唱者から、自ずと醸し出されるものです。いや、みことばそのものが生きる人格者として、演唱者を通して顕れ出でていただけるものです。
演唱者は、キリストに二匹の魚と五つのパンをお持ちした,あの少年のように、「*心と口(声)と行いと生きざま」を主と主の“おことば”の前にお持ちさせていただけば、あとはみことばそのものが、自由自在に時空を超えてお働きくださるのではないでしょうか。
人は皆、少年・少女時代がありました。折々に少年のこころに立ち帰りさえすれば、人は誰しも容易に、「二匹の魚と五つのパンの少年」に成ることができます。と同時に、少年のように純粋かつ素朴にならなければ、深遠な信仰の神秘を垣間見させていただくことはできません。
*バッハの教会カンタータ147番 ( BWV147)の表題
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『メサイア』公演。2025年9月22日(月)
17:30開場 18:00開演
めぐろパーシモン大ホール
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イスラエルは今「ラッパの祭り」です。イスラエルの秋の例祭であるラッパの祭りは、現在ではロシュ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年祭)と呼ばれています。
コリント信徒への手紙第一15章52節~53節~この深遠なみことばを観想する。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
神が主イエス・キリストという形で「受肉」されたとき、創造主と創られし者、死と不死、霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合されました。
さて、肉的なものとは・・肉欲に捉われているということよりも、神との関りを欠き、人間的な判断を中心する生き方です。
霊的なものとは、生活世界の経験、判断、ノウハウよりまず、神との関りを中心に据える生き方です。
霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合された、とは・・霊的な生き方が肉的な生き方を支配して、肉的なものが霊的な御者の“配下”となり、“主人”をより“主人”たらしめる立場に変えられた、と申せましょうか。肉的なものの在りようを変えたのであって、全面否定ではありません。
人間的な努力、経験は尊いものです。目的達成のための不断の努力は、人間力向上に必要不可欠です。
ただ、信仰の世界は「初めに結果ありき」の世界です。
既に私(たち)には、「永生(主と主に繋がる方々との永久の関り)」が約束され、与えられているがゆえに、人間的な様々な経験や努力、そして友愛を、此の永生を指向する“奏で”とせずにはいられないのが、信仰・信心の世界です。
主は、「わたしは渇く」と言われんほどに、其の“奏で”を聴くことを渇望なさっておられるのではないでしょうか。
此の死ぬもの(肉的なもの)と不死(霊的なもの・永生)の繋がりが、上記みことば「死ぬものは、必ず不死を着なければなりません。」ということに他ならないかと想います。
上記みことばの続き~
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
~2025年9月23日~
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『メサイア』公演のご案内。
メサイアの ことのは我に 先立ちて
エマオへ向こう 標(しるべ)とならん
一週間後に「メサイア」公演を控え、心身はいよいよ「メサイア」モードに。
「メサイア」に臨む緊張感は、一種独特のものである。
この緊張感は、バッハの受難曲やカンタータに臨む際の、“みことばをお通しする献身者”としての緊張とは異なるし、体力・気力を駆使する「オペラ」に臨むものとも異なる。
「メサイア」はいわば、アスリートと宗教家の二刀を携え、馳場(はせば)に赴くようなものかもしれない。
メサイアは毎年のように詠わせていただいているので、ようやくと場慣れして、昨今は緊張しなくなった・・と言いたいところだが、むしろ年を重ねるごとに緊張感が増してきたと言わざるを得ない。
全く、困ったものだと言いたくもなる。
ただ私は常日頃、「プレッシャー・pressure」と「緊張・tension」は違うのではないかと思っている。
プレッシャーは、重圧に心身が押しつぶされてしまう状況・状態である。
緊張は、心身の程よい「張り」、と云えようか。
弦楽器も弦も、程よく張っていなければ、佳い音を奏でることができない。
緊張が過ぎると,弦は切れてしまう。
かといって弦を和らげ過ぎると、音も弛んでしまい、愚鈍な音色となってしまう。
これまさに、歌手の心身のありようにも云えることではないだろうか。
そして「メサイア」の音楽と歌詞(みことば)にこそ、私(たち)は、程よい緊張を感じ味うことができる。
「メサイア」の歌詞(みことば)は、私たちの思慮・分別を遥かに凌駕する深遠な摂理である。深遠なみことばは、ただただ恐れ多く、畏怖の念しかない。
且つ又、みことばは妻・子・両親に勝るとも劣らぬ親しさ・優しさがある。
此の「畏怖」と「優しさ」が、緊張と弛緩の程よい「張り」を私たちにもたらし、いよいよ私たちが、みことばに共鳴し、みことばを奏で詠う者とせらるる。
「メサイア」公演では、ご参集の皆様方と、今に凛として活きる「メサイア」の調べを、たおやかに味わい合うことができますように!!
~2025年9月15日~
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讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を詠おう
①ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ
み栄えの輝きに 罪の雲消えにけり
(くりかえし)
昼となく夜となく 主の愛にまもられて
いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ
②主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも
現し世にあらじかし いずこにもみ跡見ゆ
この曲も次回「流山音楽アカデミー」“合唱の集い”で唱和する予定です。
何も事前に演習内容を周知し、「ネタばれ」としなくても宜しいのでは・・とお思いになられるやもしれませんが、いや、むしろ「ネタばれ」した方が良いのです。
以下の演習内容を設計図として、ご参集の皆様とともに合唱という時空間を構築してゆきます。更には此の合唱に天上の天使たちの合唱が呼応すれば、まさに礼拝堂は四次元空間と相成りましょう。
それには、ご参集の皆々様が、共通認識としての同じ設計図を持参された方が、より良いのではないかと想わされます。
さて、この歌詞で云う「死」とは、神と人との関わりの断絶。というよりも、人をして、神を不在とし、自らを疎外と孤独へと追いやってしまった状態を云います。
神を不在にするということは、神によって与えられし「いのち」と「いのちを生きる意味」を否定するということに他なりません。
いのちの羽ばたきを釘付け、氷室に閉じ込めてしまった悲惨極まりない自分のもとに、何とキリスト御自らお尋ねくださり、釘を取り外し(←ご自分がお引き受けになられ)、温かい愛の息吹で氷室を溶かしてくださいました。
キリストの愛の息吹に与ることは、この上もなく「甘美」な体験です。
此の讃美歌が、ロマンチックな抒情にあふれているのは、この「甘美」を表わさんがためです。
しかし此の甘美さは、没我的な溺愛ではなく、永遠の愛、すなわち天の御国を目指す「行動する甘美さ」です。
主イエスご自身のエスコートで、天の御国にむかってバージンロードを歩みゆく甘美さです。
よく、「すべての宗教は、天国・極楽往生を指向しますが、なぜあなたはキリスト教を選ばれたのですか?」と問われることがあります。
私は、「キリスト教は、○○教に比べて、教義的、倫理的にこの点が優れている、というよりも、キリストとキリストのおことばが、私にとって最も親しく温かいお方・おことばであったが故です。」と、お答させていただいています。
そして何よりも、キリストが自分を選んでくださり、究極の愛の完成を目指し、共に歩んでゆきたいとご決意なさってくださった、と申し述べずにはいられません(所感)
~2025年9月15日~
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2025新津福音キリスト教会チャペルコンサート
2016年以来、二度目のお伺いです。
新潟・新津の皆様に再び御目文字賜りますこと、心待ちにいたしております。
▷牧師が読み解くご当地ソング「砂山」
「砂山」作詞:北原白秋 作曲:中山晋平
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海は荒海、向うは佐渡よ、すずめ啼け啼け、もう日はくれた。みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。
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暮れりや、砂山、汐鳴りばかり、すずめちりぢり、また風荒れる。みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。
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かへろかへろよ、茱萸(ぐみ)原わけて、すずめさよなら、さよなら、あした。海よさよなら、さよなら、あした。
文字通り、荒れた海の向こうに佐渡島が見える情景が描かれています。日が暮れると砂山には波の音(汐鳴り)だけが響き、雀たちは散り散りになり、風が荒れる中で誰もいなくなる寂しさが表現されています。
私には、この歌詞は日本版のOld Black Joe.に想えてならないのです。
人生の黄昏時、お友達はみな、天の故郷へ帰って行きました。
もうお外で遊んでいるのは僕だけです。
懐かしい母の声が彼岸(向こう岸)から聞こえます
「ほら僕、もう晩餐の支度が整ったわよ。イエス様も着座なさったわよ。いつまでお外で遊んでいるの。
早くお家に帰っていらっしゃい!!」
母や友らの呼ぶ声に、
「I'm coming, I'm coming~今、直ぐに帰るよ」と、Old Black Joeの如く、応えずにはいられなくなります。
新潟の寄居浜に横たわる荒海は、さながらヨルダン川。ヨルダンの荒波の向こうに見える佐渡が島は、天の御国。
人生の旅路の最期に、今生に悔いなしと森羅に別れを告げて、夜を知らない天つ御国の永遠の朝(あした)に出でたつ光景を観る想いがいたします。
3番の歌詞は「雀さよなら、さよならあした」ではなく、「雀さよなら、さよならVあした」です。此のV・ブレスは、永遠の朝(あした)に出で行く復活の息吹です。
自己解釈が過ぎるでしょうか?
しかし、私たちがどのようなイメージで楽曲と楽曲の「ことのは」に臨もうとも、楽曲の方が遥かに寛容で優しいので、楽曲の方から私たちのイメージに寄り添ってくれるのではないかと想います。(所感)
~2025年9月8日~
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「手のひらを太陽に」を詠う
作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく
ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ (2,3番は省略)
次回の流山音楽アカデミー「合唱の集い」で、「手のひらを太陽に」をお歌いになりたいとのリクエストが寄せられました。
私も幼少期より、「手のひらを太陽に」を何気に歌っていましたが、改めてこの歌詞を“静想”し、予習してみようと思います。
上記歌詞
「手のひらを太陽に透かしてみれば、真赤に流れる僕の血潮。」
ただ単に血が血管を流通しているのではありません。脈打ち流れています。即ち、脈動しているのです。更に云えば・・心ときめきつつ血が流れています。
人には、日々のときめきは必要不可欠です。ときめきがなければ、人生は色褪せた、色のない世界となってしまいましょう。
ときめきは、刺激的、活動的イメージですが・・いや、むしろ「ときめき」と静けさは最も近しい親友同志ではないでしょうか。
家族・妻と食卓を囲みながら、語りあう静けさ。
釣りに興じ、大自然と関わり、森羅と対話する静けさ。
一人、みことばと対話をする静想。
これら静けさには、一つとして同じ静けさはありません。
昨日と違う静けさから、他者に語り、伝えずにはいられないエピソードが沢山、産出されます。他者に伝えずにはいられない「ときめき」を禁じえなくなります。
語り伝え、“詠う”ことで、感動(喜怒哀楽)を追創造し、他者との関わりの美しさとすることができます。
静けさは、自分を最も活動的な、真に雄弁な自己にする秘めたる力があるように想います。
新規なもの、刺激的なものを求め東奔西走するよりも、日常の素朴な出来事や自然や静けさのなかにこそ、今、ここに生きている、いや自他共に生かされている“ときめき”を感じ味わうことができるのではないでしょうか。
まさに、「静中に動あり」です。(所感)
~2025年9月8日~