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『ことばとことばが結婚❓』

主イエスの語られたみことばは、永久(とわ)に生きて働かれるペルソナ、人格者。

みことばは紙面に閉じ込められた活字にあらず、情報伝達の信号にあらず、イエスの全人格、生き様を“表す”、イエスそのものであられます。

2000年前、ガリラヤ湖に投じられたみことばの波紋は、時を経れば減るほどその波紋が拡がり、まるで大波のように私たちを取り囲み、圧倒的な愛で私たちを抱き、キリストの愛へと私たち駆り立ててくださいます。

 

そしてなんと不可思議なことに・・主のお口から発せられた「恵み」溢れるみことばと、「まこと」なるみことばは、まるで夫婦のように互いに愛し合い、敬いあい、慰め合い、励まし合い、互いを高め合いつつ、私たちのもとへ訪れてくれるのです。

「恵み」は、時として単独でもたらせれると思われがちですが、主において「恵み」は、常に“まこと”と共にあります。

此の「恵み」と「まこと」は神の御摂理のもと“結婚”しているのです。

このような表現は、教義神学者から「あまりに擬人的、あまりに抒情的」と、お叱りを受けるかもしれませんが・・次なる詩篇をご覧ください。

 

「恵みとまことは互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけをしています」詩篇85篇10節

イエスのなかで、「恵み」とご性質と「まこと」というご性質は表裏一体、「二性一人格」と言ってもよろしいでしょう。

「まこと」は「誠実」に他なりませんが、日本語的に「まこと」は「真(ま)事(こと)」という想いが籠められています。

つまり主の「恵み」と「ま事」とは、具体的な出来事、行動、心配りを伴う「恵み」ということになりましょう。

主よりもたらされる「恵み」は、ものの味方、考え方、教義では決してなく、実に具体的かつ、全人格にもたらされる「現実」であります。

 

また上記、詩篇のみことばにあるように、「義」の伴侶は「平和」です。

私たちが平和を欲するのであれば、主の御前に「義」であることを求められましょう。

神は神として「平和」とともに「義」を全うせずにはいられない御方です。

では、いかにして義たりうるのか?

ズバリ・・それはイエスの十字架を信じることにおいてです。

イエスの十字架とは・・・主から戴いたかけがえのないいのちと、いのちの羽ばたきを釘付けにしてしまった私たちの“罪”を、我が事にように共に苦しみ、その苦しみの分かち合いをとおして、新しいいのちの関わりへとお招きなされんとする主イエスのパッション(情熱)の極みです。

神の「義」と「平和」は十字架において口づけをして、夫婦のごとく結び合わされているのです。

 

主の「みことば達」は、互いに愛し合い、関わらずにはいられない「方々」。

この「みことば達」の関わりの世界に、私は心身を投ぜずにはいられないのであります。(所感)

~2026年1月25日~

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先日、SNS上で「宣教の必要性・有無」に関しての討議に参加を促す記事が掲載されていました。

大方、このような内容です。

~神は気まぐれや思い付きで人をお救いになられる方ではない。神は深遠な摂理の中で、あらかじめ救う人をお決めになっておられる。そうであれば、人が懸命に宣教をする意味が果たしてあるのか、否か?~

これはカルヴァンの予定説を基にした発想でしょう。

予定説(Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教神学思想。カルヴァンによれば、救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとしています(二重予定説)。

 

私は此の討論会に参加する意向はありませんが・・・この場で当方の想いを申し述べさせていただきましょう。

結論から申し上げると、神の側から地獄落ちを“ご予定”している人は、誰一人いないということです。

そして宣教・伝道は絶対必要です。

 

私たちはよく思い違いをします。

神は、私たちがどれだけよい子であったか、言うことを聞かない悪い子であったかで、天国へ送ったり地獄へ送ったりはなさらないでしょう。

神は愛であり、ただひたすらに愛であります。神には憎しみを復讐心もありません。私たちが罰せられるのを観て喜ばれる御方ではありません。神はひたすらに赦し、愛されるお方です。

しかし・・放蕩息子の父親が、息子が放蕩三昧をするのも、父の家に帰るのも、息子自身に決断させたように、神は私たちに「神の愛」を拒絶する自由も与えてくださいました。

父の家に帰り温かい食卓を囲むのか、父と父の言葉を不在にして果てるともなく続く放蕩、疎外、孤独に身を投じるのか、それはむしろ私たちにゆだねられた選択です。

神は私たちの自由意志を保証する、究極の自由であられます。

 

すでに天上のエルサレムの祝宴の招待状は、地の上に住む人すべてに届けられています。しかし、手元に届いている招待状に気付いていない人、開こうとしない人も多々おられましょう。

此の神の愛のメッセージたる「天上の婚宴の招待状」の存在に気付かせて差し上げること、これすなわち“宣教”ではないでしょうか。

 

宣教は、キリスト(教)に入信させるために、言葉を駆使して説き伏せるものではありません。

更に言えば宣教とは、キリスト(教)への入信に至らせることというよりむしろ、キリストと共に歩み行く、“天上のエマオ”へ向かっての旅路の醍醐味を分かち合う”キリスト道”の伝授、伝道ではないでしょうか。

キリストと共に歩む信仰の旅路、“キリスト道”の伝授、伝道は、生涯を通して継続されていくものでありましょう。

 

先日、宮中歌会始を視聴していました。『明』をテーマに、幾多の歌が創作されるさまに、感動を禁じえませんでした。

私たちキリスト者も、すでにお馴染みの聖句をお題として、その日、その時、その国の文化ならでは『新しい歌』を創作しお分ちする喜びを、互いに伝え合い、教え合わずにはいられません。

『新しい歌』(詩編96編)を、毎日毎日、重ね着をして、私たちの信仰の旅路を錦織りなすがごとく美しく彩っていくこと、これまさにキリスト道の伝授・伝道ではないでしょうか?

『歌いつつ歩まん。ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を』(所感)

~2026年1月22日~

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『御摂理は闇から創まる(はじまる)』

私たちは、1日は午前0時から始まる、あるいは、夜明けとともに始まると考えています。しかし、聖書の世界、とりわけユダヤの人々にとって一日は、夕方から始まります。 此れは創世記1章5節「夕があり、朝があった」とあるように、天地創造の順番に基づくものです。天地創造の第1日目の記述は、闇の存在から始まっています。次に、光が造られました。 人は朝から夕にかけて活動をします。朝日とともに活動を開始し、黄昏時に一日の労働の実りを味わいつつ家に帰ります。 しかし創造主の一日は、何と夕方から始まります。「夕があり、朝があった」のみことばのとおり、聖書全巻の冒頭から神の道と人の道との明確な違いが語りだされています。 夜の帳(とばり)のなか、神の栄光は次第に蓄積され、十二分に温存されたのち、刻々とその輝きを増してゆきます。つまり神の“おはたらき”は暗闇のただ中から始められ、次第に明らかにされていくのです。 よくクリスマス・イヴ(12月24日)は、クリスマス(12月25日)の前夜祭と思われがちですが、そうではありません。クリスマスの夕べ(イヴ二ング)からクリスマスの佳き日が始まっているのです。 讃美歌『ああ、ベツレヘム』の歌詞2番~人みな眠りて知らぬ間にぞ、御子なるキリスト生まれた もう~ 夜の帳のなか温存された栄光は、だれの目にも明らかな光輝くイエス・キリストとして現れ出でました。そう、栄光は“神の愛”と同義です。すなわち神の愛は、イエス・キリストにおいて結実し極致に達しました。 イースターとて然り!! 空の墓のしるしによって、私たちがキリストの復活の事実を知った「朝」、私たちはキリストのご復活を喜びお祝いしますが、キリストの復活は漆黒の闇の中ですでに始まっていました。 しかし、イエスの復活の瞬間を目撃したものは誰もおらず、福音記者の誰もこれを描写していません。 限りある生命(せいめい)から、永遠のいのちへの移行は、人の感覚で捉えられるものではありません。このキリストの復活は相も変わらず歴史を超越し凌駕するものとして信仰の神秘の核心を成しています。 カトリック教会の復活徹夜祭の『復活賛歌』では、「幸いな夜よ、お前だけがキリストの死者の国からのよみがえりの時を知ることができた」と詠っています。 今、世界は一触即発の軍事の脅威にさらされています。世界が暗闇に覆われています。 また、個人的に失意の暗闇のどん底にあろうとも、いや、そのさ中にこそ、創造の神の御手を、私たちの人生に認めずにはいられません。 そして、此の暗闇を過ぎ越し、いっさいが完結するであろう最期の日に『Lux Aeterna~永遠の光・大栄光』が現れ出でるを、今、先んじて望み観させていただけるのであれば、これに勝る幸いはありません。

~2026年1月19日~

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 水を分かつ、水辺の鳥たち(^^♪~自宅近くの「菅生沼」にて、白鳥、黒鳥、白鷺、鴨らの協奏・とりのオリンピック?

◆人や動植物は、地球規模の「水循環」によって生かされている‼

生きとし生けるものすべて、「水」がなければ生きていくことができません。

「水」は地球規模の「水循環(みずじゅんかん)」によって生成されます。

水循環とは・・太陽の光によって海水や地表面の水が蒸発し、上空で雲に変化し、やがて、雨や雪となって地表面に降り、それが水道や下水道、川を流れて海に戻ってきます。このように、水が絶えず循環する流れを云うとのことです。

水循環によって海水が蒸発する際に淡水化されることで、人や動植物に必要不可欠な淡水資源が常に作り出されています。

地球上の水の総量の内訳は、海水などの塩水が97.5%、河川や湖などの淡水が2.5%という比率。この淡水のほとんどが南極・北極の氷や氷河であり、人や動植物が利用できる河川や湖沼などの水は、地球上に存在する水の総量のわずか0.008%、およそ1万分の1にしかありません。まさに貴重な真清水といえましょう。

 

彼ら鳥たちは、ごく自然に素朴に此の「貴重な真清水」を分かち合っているではありませんか。

どんなにAI技術が発達し、科学が万能といわれる時代になっても、大自然と大自然を司る摂理だけは創造することができません。

まさにこれ、創造主なる御者の御業としか言いようがないではないですか。

人や動植物が、自ら生きているのではなく、生かされているものとして御摂理の恩恵を分かち合うさまこそ、真の平和と呼ぶに相応しいありさまであります‼

 

イザヤ書 11:6-9 (新共同訳)

狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。

 

御摂理の恩恵に与るに、強大な国(オオカミ・熊)も小国(小羊・子牛)も差異がありません。どちらも恩恵なしには自ら生きていくことができない存在。恩恵を分かち合わずにはいられない存在です・・いや、すでに分かち合っているのです。今、この文章を執筆しながら飲んでいるコーヒーは、地球の裏側のブラジルの方が流した汗でいれたコーヒーであるかもしれません。

 

平和は、武力による威嚇や、国家間の軍事力の均衡によって保たれるものではなく、世界を司る創造主を知る知識によってもたらされるのでありましょう(所感)
​~2026年1月12日~

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ウクライナ支援・東日本大震災支援“オクサーナ・ステパニック・チャリティーコンサート”の賛助出演をいたします。(仮チラシでのご案内)

私におきましては、オペラ「椿姫」のハイライトを担わせていただきます。長大な二重唱やアリア「プロヴァンスの海と陸」等の歌唱は、私にとって大きなチャレンジとなります。

 

ある意味、賛助出演とは、主役を真に主役たらしめる「黒子・くろこ」なのかもしれません。

この「黒子」は、もともとは黒い衣をまとった「黒衣・くろご」がその語源とのことです。

 

黒衣(くろご)、転じて黒子(くろこ)は、歌舞伎人形浄瑠璃で、後見として役者や人形遣いを助けたり、小道具を役者に渡したり舞台から下げたりする係。

「黒子」は、本来の「黒い衣を纏い、見えないことになっている者」「そこには居ないことになっている者」という側面から意味が転じて、現代語では「表には名を出さない者」「裏方に徹する者」といった意味で使われることがあります。

 

さて、この「黒子」・・あまり知られてはいませんが、大きな役割がひとつあります。

それは・・万が一舞台上で、主役がなんらかのトラブルで演唱できなくなった場合には、黒子はすぐさま「黒衣」を脱ぎ捨て、主役の代わりに踊りださなければならないという密命を帯びているのです。これは、文化庁オペラ研修所・研修生時代に日本舞踊の花柳千代先生からお教えいただきました。

千代先生は、歌舞伎界の黒子は役者見習いやスタッフがするものではなく、歌舞伎演目全体に精通した老練の役者がなすものであるとも仰っていました。

この歌舞伎界の「黒子」を観るだに、賛助出演とは、自分の果たすべき役割を誠実に果たすものであると同時に、公演全部を担ってゆくほどの気概と器量がなければ務まらないものであるとも云えましょうか?

昨今は、賛助出演の機会も多く頂戴いたしますが、賛助出演こそ自己にとって大きな課題ともチャレンジともなっているように想います。

 

また賛助出演は、キリスト者の私にとっては、“キリストに倣い、キリストの御足の跡を踏みしめる道”でもあります。

キリストこそ、私たちのために「黒子」に徹せられた御方。すなわち、主は豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた。ご自分を無にされた。それは、主の貧しさによって、私たちがが豊かになるためだったのです。(コリントⅡ8:9参照)

 

チャリティコンサートにおきましては、敬愛するプリマドンナ・オクサーナさんとウクライナの方々に、愛と平和を希求する歌声をご提供させていただきたく想います。

世界中のお苦しみの方々に、キリストの平和が満ち溢れますように‼

~2026年1月8日~

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長きにわたり信仰の旅路をご一緒させていただいている重見通典先生、グレイス合唱団の皆様方と「ヨハネ受難曲」を歌わせていただきます。(2026年5月6日・杉並公会堂大ホール)

私が担わせていただく役は、畏れ多くもイエス・キリストそのお方。

ヨハネ受難曲のイエス役の歌唱個所は、さほど多くはありません。

であれば、難儀なくお務めに臨ませていただけるのかと思われますが・・むしろ逆です。

 

「ヨハネ受難曲」、すなわちヨハネの福音書においてのイエスは、口数が少なかった云々ではなく、激しい尋問や拷問を、イエスは「沈黙」でこたえられていたのです。

此のイエスの沈黙の気勢たるや・・・屈強な男声千人の雄叫びに勝るものではないでしょうか?

 

イエスがなさった沈黙とは、圧迫者や迫害者の力に対して、力で報復することなく、ただ黙して大いなる御方に委ねまつるということに他なりません。

実にこの沈黙は、最も強く、雄々しいものであると云えましょう。

主イエスは、直ちに万軍の天使を呼び寄せることもできたでしょうが、ただ黙々と屠り場にひかれる子羊のごとくに徹せられ、カヤパごとき者の軍兵のなすがままにされました。

 

イエスには、大いなる御方の御摂理は遅れることなくふさわしいときにふさわしい形で完成・成就するという確信と期待がおありだったが故に、まったくもってご自身の自由意志として「沈黙」を貫くことがおできになられたのでしょう。

昨今の私はどうでしょう?

SNSのワンクリック文化のなかで、「目には目を、歯には歯を」という一線を踏み越えて、黙することなく、直ちに目に見える形での結末を求めてしまいます。

 

「へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しみを得る。」イザヤ29:19

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」コリントⅡ8:9

 

此の”へりくだる”と“貧しい”は、ただ単に腰が低いとか、弱々しいということではなく、黙して高き御手に委ねる在りようを云うのでしょう。

ヨハネ受難曲における、歌わずして“詠う”「沈黙」は、歌唱表現の極致!!自他ともに心身を豊かならしめるキリストの道。

願わくは、イエスの「沈黙」を詠う我となさしめたまえ!!

~2026年1月7日~

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*Anno Domini2026・詠い初め♪♪

大海原・太平洋に対峙する、白亜紀、ジュラ紀の地層からなる世界地質遺産・銚子市ジオパーク屏風ケ浦にて、波音と風声の伴奏で、平井康三郎「九十九里浜」を詠う

古今東西の名曲はすべて、情景描写のなかに深い想いが込められています。

それは「愛」に他なりません。別の言い方をすれば「愛」を詠わないものは「歌」ではありません。

「九十九里浜」も、作詞者の北見氏の想いに添えば、成就しえない「恋」を歌っていると云えましょうか。

さて此の「九十九里浜」、以下の自己解釈をお許しいただきとうございます・・・

~今、私たちの世界は、人をして造ってしまった民族、思想、政治の五百重(いほえ)の分断があります。

此の大きな隔たりは到底、克服することができない「成し難き」ことのように思われます。

しかし私たちは、大自然と大自然を司る御摂理のうちに生かされる「一つ地球家族」!

それを想えば、私たちはもっと自由に素朴に異質の他者と関わることができるはずです。いや、関わらずにはいられない思いに駆られます。

其の決然とした自由意思が、此の「九十九里浜」に込められているように想えてなりません(所感)

 

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平和台恵教会クリスマスコンサートのお分かち。(2025年12月7日)

平和台恵教会は自然豊かな江戸川の汀(みぎわ)に建つ愛らしい教会。

平和台恵教会チャペルの真中におられるご降誕のイエス・キリストに讃美を捧げものをさせていただきました。

🎶『久しく待ちにし』

~お暗きこの世に、み光をたまえ、主よ、主よ、み民を救わせたまえや~

主は天上高くから「私はあなたを救おう」と、厳かに仰ることが出来たかもしれません。

しかし主のお採りになられた方法は、主御自身が人として私たちの近くに寄り添い、私たちのこの世の旅路の行く道の「3歩先」を優しく照らし、導かれるというものでした。

十歩先ではなく3歩先です。

私たちの歩みに合わせ、私たちが躓かないように、私たちの足元を照らされます。

イタリアオペラの作曲家プッチーニ氏は「私の音楽は聴衆の3歩先んじることがあっても、10歩先んじることはない」と言われました。

特にクラシック領域の作曲家は、その時代のありふれた作風ではなく、時代を先取りする前衛音楽を作曲しなければなかなか世に認められない、というジレンマを抱えています。

しかし、プッチーニ氏は、世に認められることより、その時代の人々の中で、その時代の人々と共にある音楽を志向していました。

日本の諺に「三尺下がって師の影を踏まず」とありますが、これは弟子が先師に随行するとき、あまり近づくことは礼を失するので、三尺うしろに離れて従い、礼儀を失わないようにしなければならない、という意味に他なりません。

しかしこの諺・・私には、「『師』は私の三尺先を照らす優しきお方。それ故に、私は師に魅了され、心から師にお従いせずにはいられないのです。」と心に響きます。

私(たち)の行く道を照らす「光」!!。此の「光」は「愛」と同義です。

平和台恵教会で、聖暦2026年の信仰の旅路を照らす愛の光を、確かに観させていただいたように想います。

 

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流山音楽アカデミー予告編  2025.12.17 PM2:00~

「ああベツレヘムよ」

♪ああベツレヘムよ、などかひとり 星のみ匂いて 深く眠る 

 知らずや今宵 暗き空に 常世の光の 照り渡るを

ご周知、クリスマスキャロル「ああベツレヘム」一見、奇異に感じる歌詞があります。

星のみ匂いて・・星が匂う、とは如何なることでありましょうか。

結論から申し上げれば、日本語の古語で「匂う」は、“良いかおりがする”と、“美しく輝く”の二つの意味があります。

即ち、上記歌詞は、「星だけが美しく輝いている」という意味になります。

しかし、私には此の「匂う」と「輝く」は、同義ではないかと想えてなりません。聖書の世界では「神の栄光・光」と「愛」は同義です。

神の栄光とは・・主に愛される一人ひとりが、其の人ならではの花を咲かすようにと、主がそそがれる愛の光。人生の様々な出来事、言葉のうちに、主と主に繋がる方々とよりよく関わり合っていくための意味を見出し、明らかにしていく光です。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16

なおかつ、「光」は、「香り、匂い」でもあります。

只単に「光」と言っても、「太陽光」と「人工光」には、大きな違いがあるとのことです。

「太陽光」は、植物の光合成のための「光子」を豊富に提供していますが、「人工光」には此の「光子」がほとんどありません。植物の成長に、太陽光は必要不可欠です。太陽光は、いのちを育む“いのちそのもの”です。

私たち人間も、今、咲き誇る花々も「香り・匂い」を放っているではありませんか。

香り・匂いは、今ここに、いのち在ることの表れです。

神が注がれるいのちの光の香りと、今、御子イエスの赤ちゃんの甘い香りが相俟って、ベツレヘムの馬小屋は、天の花園にも似た麗しい香りに満ち溢れました。

(ベツレヘムは、パンの街の意。ベツレヘムは、いのちの糧なるパン・御子イエスの香ばしさに溢れる街)当方の三博士も、この香りを寿がんが為、黄金の他に「乳香」「没薬」という最高の香料を携え、御子イエスのもとに馳せ参じたではありませんか。

クリスマスの原風景は、「光」と「愛」と「匂い」の三位の協奏によって醸し出されたのであります。(所感)

 

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声楽家、牧師の二刀流を生業とさせていただいて久しいですが、自分の声は長いキャリアの中で、著しく変遷してまいりました。

オペラデビューは藤原歌劇団「ルチア」のライモンド。バスの役柄です。以後、バス歌手としてのキャリアが続き、昨今はバスバリトンで落ち着いてまいりました。

しかし来年2026年に「椿姫」のジェルモンを歌うことと相成りました。(演奏会場は後日公開)。ジェルモンはバリトンの難役。文化庁オペラ研修所時代、東敦子先生の薫陶に与らせていただいたジェルモン役ですが、それ以来となりますでしょうか。

男声は加齢とともに、男性ホルモンの減少により声が中性化し、多少音色・音域が高くなるとされています。(女声はその逆)。

私にとっては一大挑戦ですが、せっかく実年齢でジェルモン役を詠えるのに、ここで歌わずんば、私の声楽家人生が完結しないようにも思われます。

 

ところで、イタリアの声楽のマエストロは学生に対し、このように仰る方がいます。

「あなたはどの声種を歌いたい?」~意外な言葉に一瞬、戸惑いを覚えますが・・余程高い声、低い声でない限り、声種は自分でお決めなさい、ということです。

自分の自由意思によって決めた声種に相応しい音色・音域に整えていくのがある意味、レッスンなのです。

 

信仰の世界もこれと全く同じ。いや信仰は、最も自由意思が尊重される世界であります。

キリストから“貴方”のもとに既に届けられている「天上のエルサレムのキリストの婚宴」の招待状を、手に取って開き返答をする自由もあれば、見ないで破棄する自由もあります。

主が最もお嫌いになられるのは、命令や恫喝です。

主は一人ひとりから、心から慕われたいとお思いであられるが故、人の自由なる呼応をご期待なさっておられましょう。

そして、私たちが成す宣教も、キリスト教に強制的に帰依させるためのプロパガンダでは決してありません。

既に手元に届けられている「キリストの婚宴への招待状」に気付いていない方に、其の招待状の存在を気付かせて差し上げること、ではないかと想わされます。いやむしろ、そこまでに留め、あとは聖霊のおはたらき(Missio Dei)と其の方の自由意思にお委ねしていくべきでしょう。宣教は熱き心と、全きお委ねのコントラスト‼

ちなみに私はクリスチャン、ノンクリスチャンという言い方はあまり好きではありません。

何か人の側で設定した「ランク付け」のような印象を持ってしまいます。

「キリストの婚宴に招かれし人」、「キリストの婚宴へのご招待に気付いていない人」・・少々長いですが、このような言い回しが宜しかろうと常日頃、想わさるるものであります。

 

Video:1995年(丁度30年前)ヴェルディ「レクイエム」バスソロ

Confutatis maledictis flammis acribus addictis,~呪われ黙された者は激しい炎に身を投じられる、と詠っていますが、決して此れは恫喝ではありません。いのちの招待状に気付かせようとする「万軍の主のご熱心」!!

~2025年12月8日~

 

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みことばは自由自在に、神と人を行き来して‼

バッハのカンタータ140番「起きよとさけべる」は、別名・結婚カンタータと呼ばれています。

同カンタータの二重唱アリアは、キリストと其の花嫁の対話となっていますが、大変熱い言葉が呼び交わされています。

🎶 花嫁(ソプラノ)「わが愛するものは、わがもの」& キリスト(バス)「われは汝のとりこ‼」

一見この歌詞、花嫁とキリストが逆ではないかと思わされます・・キリストが篤い愛をもって花嫁を捉えてくださり、花嫁はキリストの捉われ人(とりこ)となった、とするのが良かろうかと思われますが、バッハ先生は、歌詞の割り当てを逆転させています。

此のカンタータの花嫁は、さながら受胎告知に与ったマリアのようです。「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38

マリアのこの言葉は、限りなく謙遜であると同時に、「主よ、あなたのすべて、おことばもお心も行いも生き様もすべて私のものですので、わたしはあなたご自身を自由自在に生きることができるのです」という、マリアの自由かつ大胆な信仰告白でもあります。

マリアは、主のことばを自由自在にマリア自身のことばとなさっておられました。 

此処で云う「ことば」とは、語る人自身のペルソナ(人格)。あるいは、関わり合う人を究極の愛の完成へと導く「摂理」でもあります。

私たちもマリアに倣って、神のことばを自分自身のことばとさせていただければ、これに勝る幸いはありません。これまさに信仰の極みです。

幸いなるかな・・私たちは、聖書に記された神のことばそのものを、自分のことばとして祈ることが出来ます。祈りを通して、神と関わりを一層深め、主と一つ心になるように召されています。

反面、まことに不可思議なことに、人間の魂の吐露(懇願、感謝、讃美)を、主ご自身が啓示なされた「聖書のことば」としていただいています。(詩編はそのもっとも顕著な例)

神のことばが人の言葉であり、人の言葉が神のことばであるという、この有り得ない、いや、この有り難き現実こそ信仰の醍醐味‼

以下、カテキズムからの引用です。(日本語訳が難解でしたので、少し自己の文言で言い換えました)

「詩編の書は神のことばが人間の祈りとなっている書です。

 詩編の書では、詩編作者のことばは、神に歌をささげながら、神の救いのわざ、“神のみ旨、神のみこころ”を表しています。

詩編の数々の歌は、神のわざ、“神のみ旨、神のみこころ”をいよいよ高鳴る調べとし、更には人間の共感・共鳴にも力を与えて、両者を美しい調和へと導いてくれます。」

「“主の祈り”の、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』ということばは、神の契約を表す“神のことば”でもあります。私たちは御父のものであり、御父は私たちのもの、私たちのためのものなのです。」 

~2025年11月17日~

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*昨今、政界に「特大ブーメラン」なる言葉が飛び交っています。

「特大ブーメラン」は、相手を批判した内容がそのまま自分にも当てはまり、相手への批判や非難が、結果的に自分自身に、より大きなダメージとなって返ってくることを意味しているようですが、あまり品の良い言い回しではありませんね。

しかしながら、「特大ブーメラン」と言い表されているように、「ことば」とは一方通行の情報ではなく、「関わり合うペルソナ」。言葉は、言葉を交わし合う二者間を、自由自在に行き来する「ことのは」です。言葉の授受といいますが、授と受は同義。まさに授は受であり、受は授です。

 

ところで聖書の「罪」と「罰」は、ヘブライ語でアーボンחֵטְא 。「罪」と「罰」は同じ言葉で表されています。

私たちは「罪」と「罰」は分けて考えます。「罪」は自分が犯した悪い言動であり、「罰」は他者が下す罪の懲らしめと、両者は相対するものであると認識しています。

ところが聖書の世界における此の「アーボン」は、「罪から罰に至る流れ全体」としています。

聖書学者の中には、「日本語とヘブライ語にはこのような大きな隔たりがあるので、完璧な日本語訳聖書などあり得ない」、と仰る方もおられます。

よって日本語訳聖書は、訳者が文脈をどのように判断するかによって、様々な訳がなされてきました。

 

例えば、弟アベルを殺したカインは、神に罪を指摘され、罰を告知されたとき「私のアーボンは重すぎて負いきれません。」(創世記4:13)と答えていますが、新共同訳では「私の罪は重すぎて負いきれません。」としています。かたや、口語訳聖書では「私の罰は重くて負いきれません。」と訳しています。

しかし私は、この訳の違いにこそ、深遠な摂理が込められているように想います。

罰は、他者が犯罪者に下す懲らしめというより、罪を犯した人みずからが招いた結果であるということです。

ブーメランが投げた人のところに戻ってくるように、罪は罰となって罪人のところに戻ってくることを、「アーボン」が一言で言い表しているのではないでしょうか?

 

神は罪人を罰せられる厳しい御方であると、私たちは思いがちです。

しかし、神は愛であられます。ただ愛によってのみ存在なされる御方ゆえ、神なのです。

神は、私たちが罰せられるのを観て喜ぶお方ではありません。

むしろ私が負うことができない「罪」、自ら招き入れてしまった「罰」を、御身をもって贖い、いついつまでも私たちを赦し、癒し、回復することを望んでおられます。

私の「罪と罰」を通して、神であるキリストが十字架に付けられた愛の意義深さが、新しい光で観えてくるような気がいたします。(所感)

~2025年11月16日~

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新聖歌102番「主はいのちを与えませり」

主は命を 与えませり

主は血潮を 流しませり

その死によりてぞ われは生きぬ

われ何をなして 主に報(むく)いし

 

我が家の庭の「ハナミズキ」が、とうとう伐採されることとなりました。

春は愛らしい花で、秋は紅葉で、わが狭庭を彩ってくれた「ハナミズキ」でしたが、昨今の異常気象に耐えきれず、枯れてしまいました。

今年の流行語の候補に「二季」なる言葉があるそうです。もはや日本の気候は四季ではなく、異常高温の後にはいきなり冬が来るといったさまに、日本の動植物・生態系は明らかに痛手を被っています。

木を伐採するとき、植木屋さんは木の周りに「塩」をまき、頭(こうべ)を垂れてから伐採に及びました。「塩」には、お清めの意味合いが込められていましょう。と同時に、「これから、かけがえのない命を頂戴いたします」、ということでしょうか、大自然と自然の動植物に対する畏怖の念に、目頭が熱くなりました。

「いのちを頂戴いたします」とは、「凛として其処に存在した木の“気勢”を、今より後、私の心身の糧とさせていただとうございます」、と同義でありましょう。

 

西洋の騎士道には、騎士同士の戦いでいのちを落とした騎士の魂が勝者の魂に宿り、勝者をますます強からしめる、という思想があります。

騎士が用いるサーベルの柄(つか)は、十字架の文様となっています。もちろん柄は拳を護るということでありますが、「祈る」ためでもあります。

今しも死にゆく相手に、十字架の柄の部分を差し向けて「確かに貴方のいのちを戴きます。安かれ、汝が魂よ」と、祈るのです。人をあやめることの是々非々は別として、崇高な騎士道精神には深い感銘を受けます。

確かに、聖書の世界でも「死」とは、魂が肉体という衣を脱ぎ、自由自在に関わる自己となっていくこと、いのちを与うる自己になることに他なりません。

「死」による別離はつらく悲しいものです。天国で再会できるのだという希望があっても、矢張り一時の死による別離は、悲しいの一語に尽きます。

しかし「死」を魂のレベルで観るならば、「死」はむしろ、自由なるいのちの授受を実現するものであって、より佳くいのちを生きることに繋がってまいりましょう。

 

西方教会では、11月は「死者の月」と呼称しています。

死して私たちにいのちをお与えになられたイエスに倣い、私も佳き「死」を想わずにはいられません。

▷11月17日(月)12:15~東京プレヤーセンターにて「Memento Mori~死を静想する」と題してメッセージと独唱讃美をさせていただきます。

~2025年11月15日~

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グレイス合唱団・バッハ「ヨハネ受難曲」公演、合唱団員募集‼

指導者の重見通典先生は、指揮者・ホルン奏者・そして牧師の三刀流を駆使するお方です。

「ヨハネ受難曲」は、「ヨハネによる福音書」のみことばそのものを詠う楽曲です。

重見先生による、みことばの正統的、伝統的解釈のもと、バロック音楽の様式に則った深遠な「ヨハネ受難曲」となりましょう。

この伝統とか様式は、かの時代に作品を留め置くものではなく、むしろ今、この時代に生かすための仕組みと申しましょうか、術(すべ)ではないかと思います。

ゆえに、特に古典の作品には、伝統や様式は必要不可欠なのです。

 

主の御業とおことばは完成・成就いたしました。

バッハの音楽も偉大な文化の遺産として完結いたしております。

しかしこれらの完成とは、博物館に骨董品として陳列され、納められたということではありません。

永久不変、即ち,変わることなく“今”に深い意味と意義を与え続ける“ことのは”、“生けるペルソナ”に成ったと申せましょう。

 

我々演奏家は、かの時代に人々が感じ味わったこころのそよぎを、今の時代にお運びをさせていただく“架け橋”です。

如何に時代が移り過ぎようとも、みことばに相対する感動は変わろうはずがありません。と同時に、みことばは、私たちにその日、其の時ならではの新しい息吹を送り続けてくれます。

主のみことばは、そして「ヨハネ受難曲」も、いつの時代の人々にも、「深遠で新しい」‼

皆様のご来会、ご来団を心からお待ちいたしております。

~2025年10月31日~

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詩篇22:篇3節(新改訳) けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

「賛美」は「祝福」と一対になったことば。両者は(エウ・ロギア/Ευλογία~よく言い合う)と表されます。

エウ・ロギアは神と人との対話。神はいつも私たちをご自身との対話にお招きくださっています。

さて、此の“イスラエル”ですが、其の語源は創世記32章に観ることができます。

 

策を弄してイサクから長子の権利を奪ったヤコブ。(ヤコブは押しのける者の意)

不安に駆られる中、兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡しで神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられました。これが後のイスラエルの国名の由来となりました。

この格闘は、熱心な祈りの力は神をも打ち負かすことを教えていると、私たちは理解しています。

 

“イスラエル”は、“神に勝たれるもの”なのですが、不可思議なことに私には、此の「神と闘う」ことには、闘争的なイメージは湧き出てきません。

神が、ヤコブの不安、嘆き、自責の念、懇願をすべて御身にお引き受けになられたがゆえに、ヤコブは神によって、こころ安らかにせられ、即ち「神に在って勝利を得させていただいた者」となったのではないでしょうか。

ヤコブから数えて数千年後、イエス・キリストによってそれが更に“具体的”な表れとなります。

イエスはしばしば、悪霊にとりつかれ口がきけなくなった人から、悪霊を追い出され、其の人の心身を回復なされました(マタイ9章他)

これは文字通り、悪霊を追い出したと理解して宜しいのですが・・悪霊の目的は唯一つ~神と神のみことばとの永遠の断絶~です。

人をして造ってしまった大きな隔ての溝・・人の側からは到底修復ができない大きな溝を、イエスが御身をもってその架け橋となり、神との対話を回復なさってくだされました。

即ち、悪霊の業と企みを、イエスが御身にお引き受けになられたがゆえに、私たちは自由なるものとせられたのです。

神が私の負け(負債)を受け入れて下さり、「神によって勝利を与えられしもの」と成ったのです。

これまさに、神にしか出来ない御業ではないでしょうか?

他者の不都合、負債、責任をすべて受け入れて下さるがゆえに、“神”なのではないでしょうか?

 

私は、あるいは他者の痛み、負債、責任を“受け止める”ことは出来るかもしれませんが、それらを受け入れ、弁済してさしあげることは到底、出来ようはずはありません。

他者の責任を負うことは出来なくても、他者に対する責任だけは果たしていこうと、想わさるるものであります。

即ち此れ、神によって勝利の栄冠を授けられた“イスラエルの民”の使命ではないでしょうか。

イスラエルは、武力や策略で勝利をもぎとる“ヤコブ”ではありません。

対話と友愛によって、調和の美しさを醸し出すべく召された、神のご期待、神のおよろこびです。
~2025年10月31日~

 

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新聖歌「シャロンの花」

1シャロンの花 イエス君きみよ わが内に開き給え

 良き香り麗うるわしさを われに分かち与えつつ

 シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え

4シャロンの花 イエス君よ 地の上を覆おおい給え

 地の人のみなひれ伏し なれを「主よ」と呼ぶまでに

 シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え

イエスとイエスのおことばは、シャロンの花にも勝り、香しく麗しい。

愛と赦しに富みたもうイエスのおことばは、そよ風に乗って世にあまねく、たおやかに届けられます。

地の人みなが、その“ことのは”に心惹かれずにはいられなくなります。

「シャロンの花」を詠うと、“キリストの愛のかおり”が、世に残り無く隅々にまで行き渡り、地の人の皆々がキリストの愛の支配に与るさまを垣間見させていただけます。世界が、“主のおよろこび”、“キリストの愛”として完成いたします。

即ち此れ、キリストが再びお出でになられる「再臨」の光景でもあります!!

ところで昨今、「クリスチャン・シオニズム」という言葉をよく耳にします。

クリスチャン・シオニズムとは、イスラエルによるパレスチナ地方の植民活動、国家建設を積極的に支持するキリスト教徒の運動です。現在クリスチャン・シオニストを主に構成するのは、「福音派」というプロテスタントのグループです。彼らは聖書に記されていると彼らが信じる預言、つまりイスラエルの地をユダヤ人が支配すれば、キリストの再臨と世界の終末がもたらされ、キリスト教徒は救済され、非キリスト教徒(イスラム教徒やユダヤ教徒を含む)は全滅するという信念をもっています。

1948年のイスラエルの建国は、彼らにとっては其の預言の成就であり、聖書に描かれた世界の終わり、つまりキリストの「再臨(Second Coming)」が近づいている兆候と理解されました。

現在も、実にアメリカの6割以上の福音派キリスト教徒が、イスラエルによるパレスチナの完全支配を支援しています。

武力でパレスチナを駆逐しようとする昨今のイスラエルの振る舞いに、国際社会は「あきらかな人種差別と人種差別の一形態」であると非難していますが、シオニズムに駆られたイスラエルと、特にアメリカの福音派の人々には、これら国際法が通用しません。イスラエルは国際法の治外法権ということでしょうか。それどころか、これら一連の軍事行動は「主の再臨を早めるもの」(Ⅱペテロ3:10~13)の一助であるとしています。

しかし本当に、戦いと殺戮の果てに、神の愛の国が完成・成就するのでしょうか。

神の国は、冒頭の「シャロンの花」のように、キリストの愛と赦し(キリストに在る共生、共感)が全地を覆い、いよいよ「時が満ちて」おのずと産出されるものではないでしょうか?

主は、其の愛の実りがたわわに実るのを「私は渇く」と言われんほどに、待ち望んでおられるのではないでしょうか。

あるいは、主の再臨とは、花婿キリストのお出でを花嫁・教会が、ときめきのうちにお迎えするような、このうえもない甘美な刹那であるに違いありません。

私は福音派の出身ですが、主の再臨は「イスラエルの地勢的な支配」によってもたらされるのではなく、「こころのイスラエル」が全地を覆うことで相成ると信じて止みません。

~2025年10月23日~

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新津福音キリスト教会Home Pageに「秋のチャペルコンサート」の記事が掲載されました。

 「アポロは一体何者か。パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:5-6)

新津福音キリスト教会(松永優牧師)の皆々様が、心を込めてご準備くださったチャペルコンサートという水田に、私たちも心を込めて「福音」という種を、音楽というフィルターを通して植えさせていただきました。

此のコンサートにご参集くださった方々の心の中に、確かに福音の“ことのは”がお入りくださいました。

主の御摂理のうちに、今回ご参集のお一人おひとりが、最もふさわしい時に信仰の告白へと導かれることでありましょう。

宣教なさるのは神ご自身であられます。米どころ、新潟・新津での「神の宣教(Missio Dei)」を大いなる期待のうちに観させていただきとうございます。

~2025年10月23日~~

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第60回 十字ヶ丘復活苑記念式

十字ヶ丘復活苑(愛知牧場)開堂60年を記念する式典は、天に召された方々の追悼礼拝であり、やがての日、天に召される私たちの「死への備え」を新たにする礼拝でもあります。

 

コリント二 3:18

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです

 

信仰の旅路において私たちは、キリストとキリストに繋がる方々との「愛の授受」を幾重にも心身に重ね着をし、聖化に聖化を重ね、やがて天つ御国に至るときには栄光の体へと変えられていきます。

 

天の御国には、主に愛されしすべての方々が、主の栄光のもとに集められます。

あるいは仲たがいをしたまま別れてしまった他者とも、永遠のときをご一緒しなければならないでしょう。

「死への備え」とはある意味、決着のついていない人間関係を残さないための最大限の努力といえます。

自分を傷つけた人を赦したのでしょうか?

また、自分が傷つけた人に赦しを乞うたのでしょうか。今生、残念ながらそのような方々との再会の機会がないのであれば、主なるキリストにお執り成しを願い、祈ったでしょうか?

 

此の「死への備え」があればこそ、私たちの「死」、あるいは「死別」は悲しみとなっても、平安、平和に心温められることでしょう。

生と死は、表裏一体。

死への備えができているなら、私たちはどんなときにも「生きる準備」が出来ていることになります。

 

詳細ご案内

https://fukkatsuen.jp/

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スロー・スロー・クイック・クイック~Shall we dance?

社交ダンスの「スロー・スロー・クイック・クイック」は、ゆっくり・ゆっくり・速く・速く、ではないとのことですね。

例えば4拍子の楽曲の場合、スローでは2拍でワンステップ+体重移動、クイックでは1拍ごとにステップ+α、といったように、リズムの感じ方と其のアクションの違いが、スロー・スロー・クイック・クイックとなります。

 

舞踏と音楽は同じ根から生じた二本の幹ですが、歌も全くこれと同じことが云えましょうか。

細かく一拍ごとにリズムを感じながら歌うのと、2拍を大きなゆらぎとして感じながら歌うのでは、全く異なる表現となります。

更に云えば、歌唱においても、スローとクイックとの二者の程よいバランスが大切ではないかと思います。

“スロー・たおやかな大きなそよぎ”でありながら、それが前へ前へと進み行くクイック・・雄大さと促進性と申しましょうか。

雄大さと促進性、この二者のうちどちらが主役か、と敢えて言うならば、やはり雄大さ・スローでしょう。

 

大きな「ノアの箱舟」が、滔々と前に進み行く光景は、万人共感の心地良さ。

クイック・クイックで息せき切って走り続ける為の「休憩・スロー」ではありません。

 

前回の投稿で「Pianoはforteに勝る」と記しましたが・・今回も「スローの為のクイックであり、クイックの為のスローではない」と申し述べさせていただきたいと存じます。

~2025年10月25日~

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ピアノ(優しさ)はフォルテ(気丈さ、堅固な意志)に勝る。

音楽表現上、「ピアノは小さく」、「フォルテは大きく」、とされていますが、これらは音量の大小というよりも心の状態といえましょう。

優しさは、読んで字の如し、「人」を「百回」「愛する」と書きます。

「優しさ」を、人の言葉に置き換えるなら、「あなたといついつまでも共にいられることを、ありがとう」「あなたがいてくれて、ありがとう」と、なりましょうか。

「気丈さ」は、「君を絶対に生かしてみせる」「君は凛として在れ」という、渾身のエールです。

「ピアノ・優しさ」は女性性・母性に富む愛。「フォルテ・気丈さ」は男性性・父性に富む愛です。

 

冒頭、「ピアノはフォルテに勝る」と記しましたが、ピアノがあればフォルテは不要であると申し上げているのではありません。

“フォルテ/気丈さ”は、”ピアノ/優しさ”を、より優しさたらしめるためであって、“フォルテ/力強さ”に”ピアノ/優しさ”を従属させるものでは決してありません。それを言い表さんが為、「ピアノはフォルテに勝る」と記した次第です。

 

イエス・キリストは、公生涯をお始めになられる前、マリアとヨセフのもとで30年間、人として生きること、人と関わり合うことの美しさを学ばれました。

「聖母子」を描いた幾多の西欧の絵画を見ますと、幼子イエスの養育者はマリア其の方に限定されていると錯覚を起こしがちですが、父母揃ってこその全人格教育です。イエスの人性を育むのにヨセフの存在も不可欠でありました。

ヨセフの「君は凛として在れ」という渾身のエールが、マリアの「あなたがいてくれて、ありがとう」を、無限の溢れんばかりの愛と成すことができたのではないでしょうか。

 

私も様々な分野の音楽に携わってまいりましたが、昨今は奇を衒わない素朴でやさしい讃美歌を歌うことを「佳し」とするようになってまいりました。

此のやさしいは「易しい」ではなく、「優しい」です。

此の「優しさ」を真に「優しさ」たらしめ表現するために、今後も「凛として」様々な表現技術を学んでまいりたいと思います。

 

▷スペインのキャロル~カザルス編曲「鳥の歌」

御母マリアに優しく抱かれるイエス。自然で素朴なクリスマスの原風景です。

小鳥たちもピース、ピースと歌い、平和のきみなるイエスのご降誕を寿いでいます。

「鳥の歌」は、チェロ奏者パブロ・カザルスの編曲・演奏によって、世界的に知られるようになりました。カザルス氏は、1971年、世界国際平和デーに国際連合本部で演奏会を行った際にも、この曲を無伴奏(アカペラ)で独奏されました。
カザルス氏は国連本会議場を瞬時に、平和を祈るa cappella、即ちチャペルと成したのです。
~2025年10月23日~

 

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▷『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』 より

ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duetto致しました。

『Total Praise』・・“Totalは”即ち知性・感情・意志の“全人格”。「全人格をもて主を賛美せよ」、となりますでしょうか?

イエス・キリストもおことばをもって、行動をもって、そして情熱(Passion)をもって私たちを愛し、祝福してくださっています。まさにTotal Benediction ‼

 

主と私たちの全人格の対峙は、かぎりなく甘美なエウロギア・Ευ Λόγια(佳く言い合うの意)。

十キリストに讃美

~2025年10月14日

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ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』10月13日(月・祝)

『Total Praise』~心と声と行いと生き様をもて、主をほめよ

ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duettoを致します。(コンサートは全11~12曲の予定)

『Total Praise』・・あえて日本語で云うならば“Total”、「全人格で主を賛美せよ」、となりますでしょうか?

さらに詩的な表現をするのであれば・・「心と声と行いと生き様をもて、主を褒めよ」、となりましょう。

歌詞は詩編121編1~2節を基としています。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」

私は「新曲」に臨む際、楽曲のアナリーゼに先立ち、歌詞である“みことば”を観想せずにはいられなくなります。これも牧師の性(さが)と申せましょうか。

「私は山に向かって目を上げる」。この山は,もはや地上の一か所、特定の山(シオンの山)に限定されてはいません。

人々が主の御名によって集い讃美をするところ、それが「主の山」に他なりません。 

四面楚歌となり、心身共に行き詰ってしまったとき・・人は、主と主のことばと主に繋がる方々との関わりのなかで、思いもかけぬ方法で解決へと導かれることがあります。

人は関わる存在。いや、人はいのちといのちを生きる意味を与えたもうた主に関わらずにはいられない存在です。主に愛されし兄姉とともに、主と「ことば」を詠い交わすとき、本当の自己を見出すことが出来るのではないでしょうか。

それが即ち「私は山に向かって目を上げる。~私の助けは、天地を造られた主から来る」なのです。

カテキズムに「世界は教会のために造られた」とあります。

世界は「ものみなこぞりて、相集い、神を賛美する教会」であるということでしょうか。

『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』もジャンルの違いを乗り越えて、自由自在に賛美を詠い交わす、一期一会の教会・「主の山」で在りたいと願っています。

皆様のご来会を心からお待ちいたしております。

 

~2025年10月2日~

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季節の変わり目は、みことばを注視

歌曲の独唱・重唱は別として・・オーケストラを伴う歌唱、あるいは合唱には、指揮者の存在は不可欠です。

私は合唱の指揮をすることもあれば、歌手として指揮者のコンダクトに与ることもあります。

演奏者は当然、指揮者を見ながら歌い、奏でるわけですが、指揮者に対して「良い見方」と「良くない見方」があります。

私は、歌いつつ指揮者を見る際、指揮者の一挙手一投足を凝視しているわけではありません。もちろん指揮者の指揮棒や手は、絶えず視界に入ってはいますが、一挙手一投足を凝視しようものなら、声が凝り固まってしまい演奏が委縮してしまいます。

むしろ、やんわりと、たおやかに指揮者の“ゆらぎ”を感じ味わわせていただいています。

しかし「ここぞ」と云うときには、指揮者を「注視」します。

ここぞと云うときとは・・D・A・Tの"変わり目”に他なりません。

D~ダイナミクス 音の強弱

A~アゴーギグ 旋律のそよぎ

T~トーン 音色

私たち演奏家は、特に指揮者を注視しなければいけない箇所、いや、注視せずにはいられない箇所に、メガネマークO-Oを楽譜上に記しておきます。

音楽を美しく変容させるためには、その変り目といいましょうか、動機をしっかりと共有する必要があります。

それ以外は、指揮者を感じつつも、のびやかに音楽を闊歩させていただきたいと思っています。

そして指揮者としても、演奏家に対して「よい見させ方」があります。

指揮者は、演奏者に自分を注視させる決然とした理由と態度と示す一方、演奏家を自由自在に闊歩して差し上げる「寛容さ」の両面が必要となります。

いつも自分を「見ろ。見ろ」という指揮者は、良い指揮者であるとは言えません。

此れはまさに、魂の指揮者であるキリストと、キリスト者の関係にも云えることではないでしょうか。

人生の季節の変わり目、曲がり角に差しかかったときには、安全にカーブハンドルをきることが出来るよう、主と主のことばを注視せずにはいられません。

まっ直ぐな道を歩むときには、お優しい主と主のことばが、まるでシャロンの花の香りのように私の心身を覆ってくださっているので、たおやかに自由に信仰の旅路を歩んでゆくことができましょう。

主と主のことばは、間違いのない道しるべであると同時に、私たちの自由なる信仰の旅路を保障する「究極の自由」であられます。

~2025年9月29日~

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『漢字変換の妙』~ゆるーい文章ですので、スルーしてくださって結構です。

東京プレヤーセンターから、お昼の礼拝でのメッセージのお入用をいただき、来る11月17日(月)、今年2回目のご用をさせていただきます。

応諾の意向をお伝えする際、メールでこのように返信いたしました。

「11月17日のお昼の礼拝では、ご参集の皆様方と共に、主をおよろこびさせていただく礼敗となりますよう、祈りのうちに臨ませていただきます!!」

もうお気づきでしょうか。礼拝と書くべきところ礼敗と書いてしまいました。漢字変換ミスです。

東京プレヤーセンター様には、公共のこの場を通して、お詫びを申し上げます。

 

文明の利器とは全く便利なものでありながら、意外なところに落とし穴があります。

私はまさか、間違えて漢字変換しているはずはないと思い込み、そのまま送信してしまうことも暫し。

 

でも間違えて送信してしまった「礼敗」ですが・・。取りようによっては言い得て妙。

私は・・イサクの息子ヤコブが、長子の権利を弟に奪われ復讐に燃える兄エサウから逃れんとしてヤボクの川を渡河する際に、神の天使と相撲をとったあの件(くだり)を連想します。

ここでの相撲とは、全身全霊で神に対峙し祈る「心のありよう」です。

ヤコブの祈りの切実さと粘り強さに、神は根負けして「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」と天使を通して言われました。

神を根負けさせ、敗れさせるほどに、篤く祈る(プレヤー)ことを、礼拝、いや、礼敗では求められるのかもしれませんね。

 

漢字変換のミスの思い出といえば・・敬愛する森一弘司教様を思い出します。

四谷のニコラバレで、クリスマスコンサートのお入用を戴いた際、司教様のメールには「典礼聖歌やクリスマスキャロルは、聞き慣れていますので、出来ればオペラを沢山歌ってください。これは悪魔でも私見ですが、よろしくご拳闘ください」と記されていました。

変換ミスが2か所ありますが、特に“あくまでも”を、“悪魔でも”と記された箇所には、思わず吹いてしまいました。

いや、却って私は、これを送信された司教様の豪放磊落(ゴウホウライラク)なお人柄にすっかり魅せられてしまい、心からお慕いしたいと思わされました。

「悪魔でも」も、取りようによっては、「クリスマスコンサートの夕べは、悪魔の入り込む一点の曇りもなく、ご降誕の主の栄光に輝くでしょう!!」と言い得るやもしれませんね(^^♪

~2025年9月23日~

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NHK朝ドラ「あんぱん」も佳境に入ってまいりました。

主人公のやなせたかし氏、暢さんと温かい仲間たちは、本当に「少年・少女の心を持つ大人たち」ですね。

ドラマを見入るごとに、ほのぼのとした優しい気持ちにさせられます。

 

少年・少女は「遊ぶ」ことが仕事ですが、よく「動物は大人になったら遊ばないが、人は大人になっても遊ぶ・・」と言われます。

いや、いや、母ライオンが子ライオンと無邪気に戯れているではないか、と言いたくもなりましょうが、あれは母ライオンが子ライオンを遊んであげているのであって、親ライオン同志では決して遊ばないとのことです。

 

これは私見ですが、・・「遊ぶ」とは「関り」そのものを楽しみ、深めていくことではないでしょうか。

「関わる」ことが一大目的であり、何かのための手段ではないということです。

此れ、まさに子供の心です。

 

反面、「関り」を、経済を会得するため、テリトリーを拡大するための手段としている人々は、「遊ぶことを知らない大人たち」と云えましょうか。

「少年の心を持つ大人」と「幼稚な大人」は、似て非なるものです。

心が幼く、自己中心的であり、自己の欲求の実現のために、他者を利用し、其の関りを手段とせんとするは、「幼稚な大人」です。

 

キリストも永遠の少年の心を持たれたお方であられました。

イエスは、キリスト者に対して「懸命に努力をすれば、あなた方を『地の塩、世の光』と呼び、ご褒美として天の御国に招いて差し上げよう」、とは仰っていません。                         

「あなた方は、既に地の塩、世の光として召されています。貴重な食物に塩味をつけたのち、自らが消えて無くなる地の塩のように、この世に暮らす人々の役に立つ人であれ・・世の光のように、この世に暮らす人々を照らす人であれ。この地を天の御国に勝るとも劣らぬ、愛とときめきで満たしなさい」と仰っています。

「地の塩、世の光として、もっともっと人々と深く、優しく関わりあっていきなさい」とのお言葉が、いついつまでも心にエコーし続けます。

 

キリストに倣い、私も折々に「少年の心」に立ち返ってまいりたいと想っています。(所感)

~2025年9月23日~

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「メサイア」オーケストラ合わせ、で改めて思い巡らしました。

「メサイア」の“ことのは”は、私(たち)にとってあまりに深遠で、あまりに親しく近しい。この大きなダイナミクスは、到底、人の声で表現できるものでありません。

むしろ、キリストを生きる演唱者から、自ずと醸し出されるものです。いや、みことばそのものが生きる人格者として、演唱者を通して顕れ出でていただけるものです。

演唱者は、キリストに二匹の魚と五つのパンをお持ちした,あの少年のように、「*心と口(声)と行いと生きざま」を主と主の“おことば”の前にお持ちさせていただけば、あとはみことばそのものが、自由自在に時空を超えてお働きくださるのではないでしょうか。

人は皆、少年・少女時代がありました。折々に少年のこころに立ち帰りさえすれば、人は誰しも容易に、「二匹の魚と五つのパンの少年」に成ることができます。と同時に、少年のように純粋かつ素朴にならなければ、深遠な信仰の神秘を垣間見させていただくことはできません。

*バッハの教会カンタータ147番 ( BWV147)の表題

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『メサイア』公演。2025年9月22日(月)

17:30開場 18:00開演

めぐろパーシモン大ホール

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イスラエルは今「ラッパの祭り」です。イスラエルの秋の例祭であるラッパの祭りは、現在ではロシュ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年祭)と呼ばれています。

 

コリント信徒への手紙第一15章52節~53節~この深遠なみことばを観想する。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 

神が主イエス・キリストという形で「受肉」されたとき、創造主と創られし者、死と不死、霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合されました。

 

さて、肉的なものとは・・肉欲に捉われているということよりも、神との関りを欠き、人間的な判断を中心する生き方です。

霊的なものとは、生活世界の経験、判断、ノウハウよりまず、神との関りを中心に据える生き方です。

 

霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合された、とは・・霊的な生き方が肉的な生き方を支配して、肉的なものが霊的な御者の“配下”となり、“主人”をより“主人”たらしめる立場に変えられた、と申せましょうか。肉的なものの在りようを変えたのであって、全面否定ではありません。

 

人間的な努力、経験は尊いものです。目的達成のための不断の努力は、人間力向上に必要不可欠です。

ただ、信仰の世界は「初めに結果ありき」の世界です。

既に私(たち)には、「永生(主と主に繋がる方々との永久の関り)」が約束され、与えられているがゆえに、人間的な様々な経験や努力、そして友愛を、此の永生を指向する“奏で”とせずにはいられないのが、信仰・信心の世界です。

主は、「わたしは渇く」と言われんほどに、其の“奏で”を聴くことを渇望なさっておられるのではないでしょうか。

 

此の死ぬもの(肉的なもの)と不死(霊的なもの・永生)の繋がりが、上記みことば「死ぬものは、必ず不死を着なければなりません。」ということに他ならないかと想います。

 

上記みことばの続き~

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

~2025年9月23日~

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​​​『メサイア』公演のご案内。

メサイアの ことのは我に 先立ちて

エマオへ向こう 標(しるべ)とならん

 

一週間後に「メサイア」公演を控え、心身はいよいよ「メサイア」モードに。

「メサイア」に臨む緊張感は、一種独特のものである。

この緊張感は、バッハの受難曲やカンタータに臨む際の、“みことばをお通しする献身者”としての緊張とは異なるし、体力・気力を駆使する「オペラ」に臨むものとも異なる。

「メサイア」はいわば、アスリートと宗教家の二刀を携え、馳場(はせば)に赴くようなものかもしれない。

 

メサイアは毎年のように詠わせていただいているので、ようやくと場慣れして、昨今は緊張しなくなった・・と言いたいところだが、むしろ年を重ねるごとに緊張感が増してきたと言わざるを得ない。

全く、困ったものだと言いたくもなる。

 

ただ私は常日頃、「プレッシャー・pressure」と「緊張・tension」は違うのではないかと思っている。

プレッシャーは、重圧に心身が押しつぶされてしまう状況・状態である。

緊張は、心身の程よい「張り」、と云えようか。

弦楽器も弦も、程よく張っていなければ、佳い音を奏でることができない。

緊張が過ぎると,弦は切れてしまう。

かといって弦を和らげ過ぎると、音も弛んでしまい、愚鈍な音色となってしまう。

これまさに、歌手の心身のありようにも云えることではないだろうか。

 

そして「メサイア」の音楽と歌詞(みことば)にこそ、私(たち)は、程よい緊張を感じ味うことができる。

「メサイア」の歌詞(みことば)は、私たちの思慮・分別を遥かに凌駕する深遠な摂理である。深遠なみことばは、ただただ恐れ多く、畏怖の念しかない。

且つ又、みことばは妻・子・両親に勝るとも劣らぬ親しさ・優しさがある。

此の「畏怖」と「優しさ」が、緊張と弛緩の程よい「張り」を私たちにもたらし、いよいよ私たちが、みことばに共鳴し、みことばを奏で詠う者とせらるる。

 

「メサイア」公演では、ご参集の皆様方と、今に凛として活きる「メサイア」の調べを、たおやかに味わい合うことができますように!!

~2025年9月15日~

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讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を詠おう

①ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ

 み栄えの輝きに 罪の雲消えにけり

(くりかえし)

 昼となく夜となく 主の愛にまもられて

 いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ

②主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも

 現し世にあらじかし いずこにもみ跡見ゆ

この曲も次回「流山音楽アカデミー」“合唱の集い”で唱和する予定です。

何も事前に演習内容を周知し、「ネタばれ」としなくても宜しいのでは・・とお思いになられるやもしれませんが、いや、むしろ「ネタばれ」した方が良いのです。

以下の演習内容を設計図として、ご参集の皆様とともに合唱という時空間を構築してゆきます。更には此の合唱に天上の天使たちの合唱が呼応すれば、まさに礼拝堂は四次元空間と相成りましょう。

それには、ご参集の皆々様が、共通認識としての同じ設計図を持参された方が、より良いのではないかと想わされます。

さて、この歌詞で云う「死」とは、神と人との関わりの断絶。というよりも、人をして、神を不在とし、自らを疎外と孤独へと追いやってしまった状態を云います。

神を不在にするということは、神によって与えられし「いのち」と「いのちを生きる意味」を否定するということに他なりません。

いのちの羽ばたきを釘付け、氷室に閉じ込めてしまった悲惨極まりない自分のもとに、何とキリスト御自らお尋ねくださり、釘を取り外し(←ご自分がお引き受けになられ)、温かい愛の息吹で氷室を溶かしてくださいました。

キリストの愛の息吹に与ることは、この上もなく「甘美」な体験です。

此の讃美歌が、ロマンチックな抒情にあふれているのは、この「甘美」を表わさんがためです。

しかし此の甘美さは、没我的な溺愛ではなく、永遠の愛、すなわち天の御国を目指す「行動する甘美さ」です。

主イエスご自身のエスコートで、天の御国にむかってバージンロードを歩みゆく甘美さです。

よく、「すべての宗教は、天国・極楽往生を指向しますが、なぜあなたはキリスト教を選ばれたのですか?」と問われることがあります。

私は、「キリスト教は、○○教に比べて、教義的、倫理的にこの点が優れている、というよりも、キリストとキリストのおことばが、私にとって最も親しく温かいお方・おことばであったが故です。」と、お答させていただいています。

そして何よりも、キリストが自分を選んでくださり、究極の愛の完成を目指し、共に歩んでゆきたいとご決意なさってくださった、と申し述べずにはいられません(所感)

~2025年9月15日~

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2025新津福音キリスト教会チャペルコンサート

 2016年以来、二度目のお伺いです。

 新潟・新津の皆様に再び御目文字賜りますこと、心待ちにいたしております。

 

▷牧師が読み解くご当地ソング「砂山」

「砂山」作詞:北原白秋 作曲:中山晋平

  • 海は荒海、向うは佐渡よ、すずめ啼け啼け、もう日はくれた。みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

  • 暮れりや、砂山、汐鳴りばかり、すずめちりぢり、また風荒れる。みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

  • かへろかへろよ、茱萸(ぐみ)原わけて、すずめさよなら、さよなら、あした。海よさよなら、さよなら、あした。

 文字通り、荒れた海の向こうに佐渡島が見える情景が描かれています。日が暮れると砂山には波の音(汐鳴り)だけが響き、雀たちは散り散りになり、風が荒れる中で誰もいなくなる寂しさが表現されています。

 

 私には、この歌詞は日本版のOld Black Joe.に想えてならないのです。

 人生の黄昏時、お友達はみな、天の故郷へ帰って行きました。

 もうお外で遊んでいるのは僕だけです。

 懐かしい母の声が彼岸(向こう岸)から聞こえます

「ほら僕、もう晩餐の支度が整ったわよ。イエス様も着座なさったわよ。いつまでお外で遊んでいるの。

早くお家に帰っていらっしゃい!!」

 

 母や友らの呼ぶ声に、

「I'm coming, I'm coming~今、直ぐに帰るよ」と、Old Black Joeの如く、応えずにはいられなくなります。

 

 新潟の寄居浜に横たわる荒海は、さながらヨルダン川。ヨルダンの荒波の向こうに見える佐渡が島は、天の御国。

 人生の旅路の最期に、今生に悔いなしと森羅に別れを告げて、夜を知らない天つ御国の永遠の朝(あした)に出でたつ光景を観る想いがいたします。

 3番の歌詞は「雀さよなら、さよならあした」ではなく、「雀さよなら、さよならVあした」です。此のV・ブレスは、永遠の朝(あした)に出で行く復活の息吹です。

 

 自己解釈が過ぎるでしょうか?

 しかし、私たちがどのようなイメージで楽曲と楽曲の「ことのは」に臨もうとも、楽曲の方が遥かに寛容で優しいので、楽曲の方から私たちのイメージに寄り添ってくれるのではないかと想います。(所感)

~2025年9月8日~

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「手のひらを太陽に」を詠う

作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく

ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ

ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ

手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)

ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ   友だちなんだ (2,3番は省略)

 

 次回の流山音楽アカデミー「合唱の集い」で、「手のひらを太陽に」をお歌いになりたいとのリクエストが寄せられました。

 私も幼少期より、「手のひらを太陽に」を何気に歌っていましたが、改めてこの歌詞を“静想”し、予習してみようと思います。

 

上記歌詞

「手のひらを太陽に透かしてみれば、真赤に流れる僕の血潮。」

ただ単に血が血管を流通しているのではありません。脈打ち流れています。即ち、脈動しているのです。更に云えば・・心ときめきつつ血が流れています。

 

 人には、日々のときめきは必要不可欠です。ときめきがなければ、人生は色褪せた、色のない世界となってしまいましょう。

 ときめきは、刺激的、活動的イメージですが・・いや、むしろ「ときめき」と静けさは最も近しい親友同志ではないでしょうか。

 家族・妻と食卓を囲みながら、語りあう静けさ。

 釣りに興じ、大自然と関わり、森羅と対話する静けさ。

 一人、みことばと対話をする静想。

 

 これら静けさには、一つとして同じ静けさはありません。

 昨日と違う静けさから、他者に語り、伝えずにはいられないエピソードが沢山、産出されます。他者に伝えずにはいられない「ときめき」を禁じえなくなります。

 語り伝え、“詠う”ことで、感動(喜怒哀楽)を追創造し、他者との関わりの美しさとすることができます。

 静けさは、自分を最も活動的な、真に雄弁な自己にする秘めたる力があるように想います。

 

 新規なもの、刺激的なものを求め東奔西走するよりも、日常の素朴な出来事や自然や静けさのなかにこそ、今、ここに生きている、いや自他共に生かされている“ときめき”を感じ味わうことができるのではないでしょうか。

 まさに、「静中に動あり」です。(所感)

​~2025年9月8日~

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