
Missio Dei
Toshiya Inagaki Music Mission
祈りのパートナー:中野バプテスト教会
「ヨハネ受難曲」公演が終わり、一週間が経ちました。
公演の後の「お打ち上げ会」では、重見先生、ソリストの方々、オーケストラ、合唱団員の皆様方と旧交を温めることができました。
特にグレイス合唱団の方々とは、「ヨハネ」の“ことのは”を、深く共有することができた感動を分かち合いましたが、意外や意外・・話題の一つに挙がったのは、20年前の同合唱団主催のメンデルスゾーン「エリヤ」公演の出来事でした。
「エリヤ」と云えば・・私の声楽家生涯のなかで最も大きな“失敗”をした“彼(か)の公演”です。
第一部の締めのアリア歌唱の際、エリヤ役の私は貧血と吐き気を覚え、声が出なくなってしまったのでした。
第一部と第二部の幕間で、団長の園山氏に連れられ、近くの医院に行き、点滴を打っていただき第二部に臨ませていただきました。幕間の時間は20分と設定されていましたが、一時間に延長していただきました。
全く生きた心地がしませんでしたが、奇跡的に声が復活(+α)し、お務めを果たすことができました。
其の「エリヤ」の話題が出た際、私は、「彼の公演の出来事は、私の心の深い傷になっていますので、その話は止めませんか?」と申し述べたところ、皆様、まるで往時のことを昨日のことのように“リアルタイム”でお話を続けるのです。
決して茶化したり、ふざけたりするのではなく、真剣にお話をなさる様に、「失敗」を共有することは、「大成功」を共有することに勝るとも劣らぬ感銘であると、改めて想わされたのです。
本当に声楽家は、繊細な仕事をしています。体調が芳しくない状態で公演に臨めば、パヴァロッティであろうとマリア・カラスであろうと、途中降板を余儀なくされます。
たった一か所のミスボイスで、声が出なくなってしまうこともあります。
舞台上で辛酸をなめることは、声楽家、演奏家の宿命と言っても宜しいかと思います。
私は想うのです・・・どうしても飲まなければならない「苦い杯」であれば、それを深く共有し、「共苦」して戴ける方々として、主は、重見通典先生とグレイス合唱団の方々を選んでくださったのです。
自分のことを「強い」人間であると断言できる人は、一人もいません。
皆何かしら、弱さといいましょうか、「貧しさ」を持っています。
「貧しさ」・・文字通り、お金がないことでもありますし、感情が安定していなことでもありましょう。愛し合う相手がいないこと、心に平安がないこと、自信がないことも「貧しさ」でしょう。
人は誰しも「貧しさ」を持っています。
しかし、そこがまさに神が宿ろうとしておられるところです。
「貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)
即ち、貧しさのなかに祝福が秘められています。
彼の「エリヤ」公演の際には、確かに神は私の「貧しさ」にお宿り下さいました。
そして、かけがえのない信仰の師であり友である、重見先生とグレイス合唱団の方々は、私の貧しさの中に御宿りになる神にまみえんがため、私の心のうちにお出かけくださったのではないかと、20年の時を経て改めて想わされるのであります(所感)
~2026年5月14日~
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この一か月間は、まさに好対照な三つの公演に出演いたしました。
おかげさまで健康も無事に守られ、心身充実のうちにご用させていただくことができました。
◆ウクライナ支援、東日本大震災復興支援コンサート(パルテノン多摩大ホール)
プリマドンナ/オクサーナ・ステパニュックさんとの「La Traviata~椿姫」ハイライト。
ジェルモン役はバリトンの難役ですが、実年齢で同役を詠わせていただける幸いに、歌い手として“武者震い”せずにはいられませんでした。
◆関野直樹氏リサイタル~心に届ける音の祈り~(船橋市民文化創造館・きららホール)
日本歌曲・モーツァルトの名曲を携えてのゲスト出演。
特にアンコールで、“真剣に”詠わせていただいた「アンパンマンのマーチ」は、やなせたかし氏の弟・千尋氏が出征をする前に兄に語った最後のことばを歌詞としていまして、平和を祈念する歌そのものでありました。
◆J.S.バッハ「ヨハネ受難曲」イエス役+アリア(グレイス合唱団チャリティコンサート・杉並公会堂大ホール)
ご周知「ヨハネ受難曲」は、バッハの代表的な宗教音楽作品。
バッハは一般音楽史上では「音楽の父」と呼称されていますが・・これはバッハを「父」として西洋音楽が発出したということよりも、バッハが“バッハ以前”の様々な音楽様式、すなわち中世のグレゴリオ聖歌から始まりルネサンス期に開花したブルゴーニュ楽派の音楽様式、フランドル楽派の音楽様式、ヴェネツィア楽派の音楽様式,等を統合、集大成し、後の世の礎と成したがため「父」とされています。
確かに、バッハの音楽には、構造的精緻さを重視する厳格な演奏様式がありますが・・・反面、イタリア・オペラのような、美しく流れるような旋律やアリア風の緩徐楽章も多々あります。バッハ音楽には、いずれの歌唱様式もって演唱に臨んでも受け入れもらえるような「父の懐の深さ」があります。
声楽領域では、ドイツ音楽とイタリア音楽には接点が無いと、よく言われますが、私はそうは思いません。
なぜかと言えば・・・これら好対照の一連の公演の最後を、バッハの「ヨハネ受難曲」で総括させていただくことが出来たがゆえ、であります。(所感)
~2026年5月7日~
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『ヨハネ受難曲』公演~キリストと 死の影の谷 過ぎ越して 新たないのちに 召されしわれら~
篤いご共演を賜りました重見通典先生(指揮)、鳥海寮先生(福音史家)、遠藤久美子先生(Sop)、広川恵先生(Alt)、濱松孝行先生(Ten)、中川郁太郎先生(Bs)のソリストの方々、そしてグレイス合唱団の皆様方に心から感謝を申し上げます。
コロナ禍以来、グレイス合唱団の本公演は、実に7年間途絶えてしまいました。
その間に合唱団員は激減し、グレイス合唱団存続の危機となりましたが、重見先生はじめ、合唱団員のキリストにある信仰と従順と熱心によって見事、「死の影の谷の暗闇」を過ぎ越し、この度の公演と相成りました。
コロナ禍では皆様、どれほど沢山の無念の涙を流されたことでしょうか。
しかし“死の影の谷間の切り立った崖”を過行くとき、牧者(キリスト)は羊(キリスト者)を一人づつ背に負って歩まれます。
暗闇の谷間で、途方に暮れ流した涙は、実はキリストが最も近しく親しく自分に臨んでくださったという“感涙”であり、恵み(グレイス)の“しるし”でもあったのです。
詩編23編より
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
死して死に勝ち、新たないのちへと招かれるキリストは、とこしなえに私たちのご同伴者であられます!!
十ご受難のキリストに讃美
~2026年5月6日~
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関野直樹コンサート~想Classic~ 敬愛する関野直樹氏コンサートの友情出演!! 古今東西の名曲で綴った“音の祈り”。祈りの“メッセージ”は、意外にもアンコールで詠わせていただいた“アンパンマンのマーチ”にこそ籠められていたように想います。 “アンパンマンのマーチ”の歌詞は、「アンパンマン」の作者・やなせたかし氏の弟・千尋氏が出征前に兄に語った最後のことばがモチーフとなっています。 「何のために生まれて、何のために生きるのか、分からないまま終わる。そんなのは嫌だ。」 千尋氏は続けました~戦争さえなければ世界が一つ地球家族として愛しあうことができるのに!!戦争さえなければ愛する人に、愛の告白もできるのに!!」 千尋氏は、若くして人生を終えるその瞬間まで“よりよく生きること”を希求して止みませんでした。 「アンパンマンのマーチ」の歌唱中に気付かされたことですが・・ 通常、ヒーローはまず最初に登場して「我こそは〇〇マンなり!!」と宣言しますが、アンパンマンは、最後のフレーズでようやく自分は「アンパンマン」であることを宣言します。 これはアンパンマンが、人自らが希求する“より良く生きたい”、“生かし合いたい”という想いを尊重して、その背後からエール(気)を送ることを佳しとしているのではないでしょうか? 日本語は、語尾に「気」がある言葉は皆、佳い言葉ではないですか。勇気、熱気、覇気、元気!!
(「気」が前面に出過ぎてしまいますと、まさに強引となり、日本語もよい言葉にはなっていないようです~気に病む、気がかり、気が重い~)
我々音楽家が醸し出す「音の祈り」も、アンパンマンのような“たおやかな”エールであらねばと、改めて想わされた次第です。
~2026年4月29日~
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『ヨハネ受難曲』公演に向けて 敬愛する重見通典先生とのリハーサル。 重見牧師とは1995年の常盤台バプテスト教会・メサイア公演以来、30余年、信仰の旅路と舞台での共演をご一緒させていただいています。
この度の『ヨハネ受難曲』公演では“イエス役”を詠わせていただきますが、イエスがご死去なさった場面で、「一信仰者としてアリア『わが大切な救い主よ、問わせたまえ 』を詠ってくださいますか?」との重見先生のご所望に、同アリアもご用させて戴くことと相成りました。
此のアリアは、救い主イエスに「永遠の救い、死から解放」の可否を問い、主に在る“永遠のいのち”を懇願する切実なアリアですが、バッハ先生は何とも陽の気に満ち溢れる“パストラーレ~牧歌風”でお書きになられました。
まさに詩篇23篇1、2節の牧歌的光景「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を彷彿とさせます。
詩篇とは、神のことばが人間の祈りになっている書です。詩篇のことばは、神に歌をささげながら同時に「救いの業」をあらわすものとなっています。すなわち、神に対する人間の讃美、感謝、執り成し、告白、懇願と、「神の救い」が一つに統合されているのです。 つまり、懇願の祈りは、既にそれを神がお聞きとどけくださったという「神の応答」であります 。・・「あなた方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネ4.10)
祈りは、私たちの心の奥底から注ぎだす魂の吐露!!キリストと共に在る“生”を選ぶのか、キリストを不在にする“死”を選ぶのか、信仰者の一大決心の場です。 祈りは、神と人が真正面から見つめ合い、いのちといのちが対峙する場。つまり「契約を交わす場」であります。
「懇願は、神の救いの契約のしるし」 詩篇23篇6節~ まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
~2026年4月28日~
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「ヨハネ受難曲」~十字架上のことば
イエスは十字架上で7つのことばを語られました。
①「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」 (ルカ 23:34) -②「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 (ルカ 23:43) – 強盗(悔い改めた者)への救いの約束
③「女よ、見なさい。これはあなたの子です。(ヨハネへ)見なさい。これはあなたの母です」 (ヨハネ 19:26-27)
④「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」 (マタイ 27:46, マルコ 15:34) –
⑤「私は渇く」 (ヨハネ 19:28)
⑥「成し遂げられた」 (ヨハネ 19:30) – 救いの業の完了
⑦「父よ、私の霊をあなたの手に委ねます」 (ルカ 23:46)
バッハ先生は此の福音書の記述のとおりに「ヨハネ受難曲」では、「私は渇く」と「成し遂げられた」をイエスの最後のおことばとしました。
此の「私は渇く」と「成し遂げられた」ですが・・私には、対を成す一つのことばとして迫ってまいります。
即ち、イエスのおことば、みこころはご受難の死をもって完成、完結しましたが、今もなおイエスは天つ(あまつ)御国において「渇いて」おられる、ということです。イエスは、私たちがイエスの“いのちのことば”なる「真清水」をこそ飲み干すとすることを「渇望」なさっておられます。
「福音」はよく「荒れ野の宗教」と形容されます。
荒れ野を旅する旅人が心身ともに渇き切ったとき、旅人はビフテキを食したいとは思わないでしょう。コップ一杯の水をこそ欲するものです。
心身の渇きに対して、コップ一杯の真清水は、何にもまして重要なものです。
祈りはイエスとの対話ですが、いのちを育み高める、いのちそのものであります。祈りは私たちが意識しようとしまいと、イエスの渇きと私たちの渇きとの出会いの場であります。
イエスは、私たちがご自身を渇望することに渇いておられます。
また一般的にも・・水を取らずに食事をすると、消化不良で胃に負担がかかり、便秘や血液濃縮(血栓リスク)を招く可能性があります。食道が通りにくく、飲み込みづらい(嚥下困難)場合もあります。食事前には、基本はコップ1杯程度、汁物は必要不可欠と言われています。
今生の様々な出来事に対峙する前にも、まずはイエスとみことばを飲み干すことが肝要です。イエスのみことばが、今生のあらゆる出来事の流通を良くし、それぞれに深い意味を与えてくれましょう。
ヨハネの福音書“「ヨハネ受難曲」”のイエスの死に際してのおことばは、私たちが“より良き生”を全うするための「いのちへの招き」です‼
~2026年4月27日~
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国会では未だに速記を用いている・・その訳は? 速記とは、簡単な線や点でできた符号などを使って、人が話す言葉をすぐさま書き取る技術です。速記符号を用いると、しゃべるスピードに負けない速さで文字を書くことができます。ただ、そのままでは暗号のようになっているので、それを解読し、きちんと整った文章に書き直す作業までが「速記」であるとのことです。 音響機器が充実している昨今にあって、なぜ国会では、“遠山の金さんのお白洲”のように、「議事録を紙に記す」という作業をしているのでしょうか?
確かに録音・録画は、音声として正確無比に記録することができますが、紙に記す文章は、符号・文字の筆圧、角度、間隔、等で「話者の意識、志向性」をも記録することができるのです。
そして驚くことに、議長や議員が、「あの議員が語った、○○なる文言とその前後の答弁を検索して欲しい!!」と速記者に問えば、速記者は瞬時にその個所を提示できるとのことです。
速記者によれば・・“その文言を記した時の指の感覚”が、其の個所をも正確に憶えているとのことです。 ある意味、五感の記憶ほど確かなのものはないということでしょうか。
とある劇場でのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」公演の際、ドン・オッターヴィオ役の新人歌手はすっかりあがってしまい、第一幕のアリア歌唱の際、第二幕のアリアを歌い始めてしまったそうです。 指揮者は直ぐさまオーケストラに向かって、第二幕アリアの出だしの歌詞、「Il mio Tesoro」と言い放ったところ、奏者は一斉に楽譜を手ずから捲り、数十ページ先の歌唱個所を探し当て奏で始めたということです。ほんの数拍、無伴奏部分があったものの何事もなく歌唱が始まったので、聴衆は「何か訳があって一幕と二幕のアリアを入れ替えたのだ!!」と思い、誰もミスとは気付かなかったということです。 これは、マエストロとオーケストラ団員が、長きにわたり「紙の楽譜」に親しみ、リハーサルを重ねたが故に成し得たのではないでしょうか?
ところで・・・紙は、パルプから作られます。パルプ(英:pulp)とは、製紙に用いるために分離した植物繊維です。草・藁・竹などの原料からパルプが抽出されます。 植物は植物生体液 が通った生き物です。第二の人生を与えられた“紙”である植物もまた、立派に生きています。 いのち在る紙に触れ親しむ・・と云うことは即ち、いのちといのちの触れ合いになっているのです。
昨今、聖書もスマホやタブレット等の「デジタル聖書」がお勧めとなっています・・確かに入用の“みことば”の「情報」を瞬時にして得ることができますが・・・しかし、あの分厚い紙の聖書を手にとって読んだ体感、行間に綴った書き込み等は、まさに、いのちといのちの触れ合いを経た本物の“みことば体験”であろうかと想います。
実際、私は(紙の)聖書を読む時、みことばを指でなぞるように(点字をなぞるように)しています。そうすると紙の弾力とみことばの温かさが自分の指先から入りこみ、全身に血流のごとくみなぎっていくような感動を覚えさせられるのです。(所感)
~2026年4月26日~
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流山音楽アカデミーコンサート
2026年4月18日 日本キリスト合同教会江戸川台教会
流山音楽アカデミー声楽個人レッスンを受講されている方々の発表会がメインでありましたが・・+讃美歌のワークショップ、+メッセージ、+講師歌唱等、実に自由な一つの音楽礼拝ではなかったかと存じます。
▷バロック音楽のバロックとは「歪な真珠」と訳されていますが、「定義を設けない」というのが本来的な意味です。
つまり器楽曲を声楽曲に転用しても良し、声楽曲を器楽曲に転用しても構わないという意。
バロック期の器楽曲に「カンツォーナ」と題するものが多々ありますが、これは元々声楽曲であったことを表しています。
更には、世俗曲を聖楽曲に転用しても良し、聖楽曲を世俗曲としても構わないとしました。
「マタイ受難曲」中のコラールは、何と当時流行った恋愛歌からの転用です。
礼拝も此のバロックの精神と同様に、式文を用いるリタジカル(儀式的)な礼拝も佳し、自由な様式の礼拝もまた“神のおよろこび”ではないかと想わされるのであります(所感)
~2026年4月23日~
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『うるわしきかな主の住まい』S.Lddle
詩編84編を基とした歌曲。昨今、中野音楽アカデミーでは、同曲がまるでテーマ曲のように礼拝堂に満ち溢れています(同曲を演唱する方々多し!!)
私たちは地球という大きな箱舟に養われ、互いの“いのち”を喜び合い、寿ぎ合いつつ、滔々と天の御国を指向しています。此の箱舟は、天空を円蓋とした地球家族教会でもあります。
まさにカテキズムの「世界は教会のために作られた」なる文言を彷彿とさせます。
『うるわしきかな主の住まい』はそのような在りようを詠いながら、中間部は天の御国で直接、イエスと語らう場面が”未来完了形”で表されています。
少々難しい言い方になりますが・・、これは神学用語では至福直観(しふくちょっかん、羅: visio beatifica)と云います。すなわち、天国で神を直接、顔と顔を合わせるように仰ぎ見る究極の幸福な状態を指します。
主のみことばは、今に生きてはたらく人格者。みことばは紙面に閉じ込められた活字に非ず。キリスト者は、此の生きる人格者と対話に日々招かれています。
しかしながら、今生においても直接、イエスにお目にかかりお声をお聞きしたいという衝動に駆られることがあります。これは人の心が欲するごく自然な情動でありましょう。
しかし私たちがそれを欲する以上に、イエスこそ、私たちの息のように私たちの近くにいることを望んでおられます。イエスは私たちのうちで息をしようと欲せられています。
即ち、私たちの想い、ことば、行いが既に、神によって息を吹き込まれたものとなっているのです。
息・息吹はヘブル語で「רוּחַ(ルアハ)」ギリシャ語では「Πνεῦμα(プネウマ)」ですが、これは“聖霊”でもあります。
イエスは十字架のご受難で御身を捧げられましたが、ご受難ののち肉体という衣を脱ぎ、“聖なる霊~聖霊”として、私たちの息吹のうちにある神となられました。
讃美歌、讃美は“息のそよぎ、息の交わし”そのものです。讃美歌は、私たち一人ひとりが“聖霊の交わり”招かれているという確かな“しるし”です。
これは、今生において味わわせていただけるもう一つの“至福直観”といっても宜しいでしょう。
私たちの息吹のうちにある神(イエス)。私たちもまた、主と主のおことばを自らの住まいとせずにはいられません。
「私はイエスを信じます」は、英語でI believe in Jesus.~伊語ではIo credo in Gesu. いずれも「in」と表されます。「in」は、私の全人格が、他者の内(in)に在る!!という想いの表れです。
イスラエルの讃美を住まい(In)とされたもうキリストに讃美‼
~2026年4月23日~
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『今し咲く さくらの花々 愛でつつも
Memento Moriの Sacra(聖・ひじり)なるとき』
日本人がこよなく愛するさくら!! 人々をお花見に向かわせるのは、今に咲き誇る花のいのちに与らんが為、と云われています。
と同時に、今に咲く花は、いつかは散りぬべき花であることを想うと、自分の心が自然に“死の黙想~Memento Mori”へと向かわせられます。
さながら、細川ガラシャの辞世の句、『散りぬべき 時知りてこそ世の中の、花も花なれ 人も人なれ』でありましょうか。
今に燦然と咲き誇る花であろうと、いつかは必ず散る!!これは人の世の常でありながら、しかし其の“いつか”は“いつ”であるか分からない・・・であればこそ、自分が生かされている此の日、此の時代に唯一無二の花を咲かせずにはいられません。
時代とは・・その時々ならではの「独特」のものであります。と同時に、時代は時代へと受け継がれていく“繋がり”でもあります。
此の認識は、宣教に携わる者にとっても大切なことでありましょう。
キリストが語られたみことばの“薫り”を、自分の思い、ことば、行いをもってますます薫り高きものとなし、その薫りを次世代へと伝承していく・・いわば、みことば(福音)の其の時代ならではの“一回性”と、果つるともなく永続する“連脈性”と申せましょうか?
キリストの花の香りが如し“みことば”が、風に流され“風化”しないよう、その時代、時代のキリスト者が各々のやり方で、薫りを養い保持し、流布させていただく・・さくらの木の下で、そんな神(イエス)のご期待に想いをめぐらした2026年のお花見でありました。(所感)
~2026年4月10日~
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『うるわしきかな主の住まい』S.Lddle
詩編84編を基とした歌曲。昨今、中野音楽アカデミーでは、同曲がまるでテーマ曲のように礼拝堂に満ち溢れています(同曲を演唱する方々多し!!)
私たちは地球という大きな箱舟に養われ、互いの“いのち”を喜び合い、寿ぎ合いつつ、滔々と天の御国を指向しています。此の箱舟は、天空を円蓋とした地球家族教会でもあります。
まさにカテキズムの「世界は教会のために作られた」なる文言を彷彿とさせます。
『うるわしきかな主の住まい』はそのような在りようを詠いながら、中間部は天の御国で直接、イエスと語らう場面が”未来完了形”で表されています。
少々難しい言い方になりますが・・、これは神学用語では至福直観(しふくちょっかん、羅: visio beatifica)と云います。すなわち、天国で神を直接、顔と顔を合わせるように仰ぎ見る究極の幸福な状態を指します。
主のみことばは、今に生きてはたらく人格者。みことばは紙面に閉じ込められた活字に非ず。キリスト者は、此の生きる人格者と対話に日々招かれています。
しかしながら、今生においても直接、イエスにお目にかかりお声をお聞きしたいという衝動に駆られることがあります。これは人の心が欲するごく自然な情動でありましょう。
しかし私たちがそれを欲する以上に、イエスこそ、私たちの息のように私たちの近くにいることを望んでおられます。イエスは私たちのうちで息をしようと欲せられています。
即ち、私たちの想い、ことば、行いが既に、神によって息を吹き込まれたものとなっているのです。
息・息吹はヘブル語で「רוּחַ(ルアハ)」ギリシャ語では「Πνεῦμα(プネウマ)」ですが、これは“聖霊”でもあります。
イエスは十字架のご受難で御身を捧げられましたが、ご受難ののち肉体という衣を脱ぎ、“聖なる霊~聖霊”として、私たちの息吹のうちにある神となられました。
讃美歌、讃美は“息のそよぎ、息の交わし”そのものです。讃美歌は、私たち一人ひとりが“聖霊の交わり”招かれているという確かな“しるし”です。
これは、今生において味わわせていただけるもう一つの“至福直観”といっても宜しいでしょう。
私たちの息吹のうちにある神(イエス)。私たちもまた、主と主のおことばを自らの住まいとせずにはいられません。
「私はイエスを信じます」は、英語でI believe in Jesus.~伊語ではIo credo in Gesu. いずれも「in」と表されます。「in」は、私の全人格が、他者の内(in)に在る!!という想いの表れです。
イスラエルの讃美を住まい(In)とされたもうキリストに讃美‼
~2026年4月10日~
**************************************************************************************************わせて
主の年2026年のイースターを心よりお喜びを申し上げます。
イエスのご復活は、新しいいのちの始まりです。
このいのちは、「関わり合ういのち」です。(漢字の『命』は、身体としての命。平仮名の『いのち』は、命を生きる人の“人格”“生きざま”)
関わり合ういのちとは、いつまでもどこまでも「関わり合い、愛し合わずにはいられないいのち」です。
イエスは、私たちと共なる神、インマヌエルです。いつまでも私たちと共にある、“友”なる神です。
神が神でありながら人となられたという事実は、全くもって神秘としか言いようがありませんが・・イエスもまた人を愛すだけではなく、“人として”人から愛されることを望んでおられた、ということではないでしょうか。
イエスは、人に頼らざるを得ない弱い人となることで、神と人との間にある、あらゆる隔たりを取り除こうとなされました。
人祖アダムとエヴァは、神と神のことばを不在として、神の保護領域である“エデンの園”の外で暮らすこととなりました。結果、自分たちは繊細で傷つきやすく、弱くもろい“丸裸”の人間であることに気付かされました。
弱く傷ついた人を癒し、励ます唯一の手段は、弱さや痛みを共有し分かち合うこと以外あり得ません。弱さが強さに出会ってしまうと、弱く傷ついた人はますます疎外と孤独に陥ってしまいましょう。
そのことを重々ご存じであられたイエスは、ご自分もまた弱く、傷つく存在となられました。
そして弱さ、痛みの極みである「死」をも人とご共有くださいました。
私たちの神に対するイメージは、頼るきれる力に満ちた全能の神を思い浮かべます。しかし、神(イエス)は、私たちと喜怒哀楽を分かち合わずにはいられない、無力でか弱い神になることを望まれました。
肉体の死は、いかに人智を尽くそうとも避けることはできません。しかし、イエスがご提供くださった、神と人との全人格的な交わりは、切っても切れない永遠の交わりです。
私たちは今生にありながら、肉体の死の先に拡がる「永遠の交わり」の前味に与らせていただいています。
主の年2026年のイースターも、そのことを更に味わい、深めてまいりたいと想います。(所感)
~2026年4月7日~
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『みことばを演唱する』
人は元来、演じずにはいられない存在です。
演じ、歌うことの原点は幼児期の「ごっこ遊び」です。
「ごっこ遊び」は、1〜2歳頃から始まり、幼児期(4〜5歳)にピークを迎えます、想像力や社会性を育む重要な遊びです。
3歳頃は、「なりきり・ヒーローごっこ 」。好きなアニメのキャラクター、消防士、医者などになりきります。
4〜5歳頃になると、「ごっこ遊び」は更に成熟します。友達同士で「お母さん」「子ども」など役割を決め、ストーリー性のある遊びを展開します。ごっこ遊びを通して見立てる力、役割意識、言語・コミュニケーション能力、感情表現、そして『創造力』が発達します。
「ごっこ遊び」は、例えば「お母さん」を演じる際、「このような状況下、お母さんであれば、どのような言動をするのか?」と、他者のこころを想像し、その状況下に相応しい表現を試みます。まさに典礼聖歌「🎵キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛さそう🎵」の原点ではないでしょうか?
更に、お母さん役を演じることで、“お母さんの心とまなこに、自分はどのように映っているのか?”と、いうことを垣間見させていただけます。これもまた、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43章4節 )の原点なのです。
さて、
主のご受難を静想する「受難週」。特にご受難に臨まれる前の「最後の晩餐」のみことばを演唱すると、イエスは只ひたすらに「愛」であり、「愛」に溢るるまなざしで私たちをご覧になっていることが無条件に分かってきます。
神は愛であり、ただ「愛」であられます。神には憎しみも復讐心もありません。私たちが罰せられるのを観て喜ぶお方ではありません。神はひたすらに赦し、愛されるお方です。
天上の祝宴と其の前味である“主の晩餐式”に参加できる「有資格者」は、神が選ばれるのではありません。
放蕩三昧をした息子が父の家に帰ったように、温かい食卓を囲むのを良しとするのか、父と父の言葉を不在にして、果てるともなく続く放蕩と疎外に身を投じるのか、むしろそれは私たちの選択です。
「最後の晩餐」のみことばを詠うと、イエスは「万人」に、心からなる自由な晩餐への参加をおすすめくださっているさまを観ることが出来ます。
イエスであれば、十字架以外の方法で人々を救うこともお出来になられたことでありましょう。しかしイエスは,あえて十字架の道行きをご自分の自由意志でお選びになられました。
神と人との断絶の溝を、御身をもって「架け橋」となられました。その架け橋を渡るも、渡らぬもまた私たちの自由意志。
此の自由と自由の出会いと“対話”こそがご受難の奥義、信仰の神秘‼
~2026年4月3日~
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去る2月の、興風会館「平和を祈念するコンサート~ウクライナのオペラ歌手とともに」公演以来、2026年はオペラに携わる機会が多くなってきました。
法律区分では私も「高齢者」のお仲間入り。しかし、バリトンは齢(よわい)六十五を過ぎてこそ詠える諸役が多々あります。
早春譜の歌詞を拝借して、次のように言わずんばいられません。
「春(旬)と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か」
私は、久しく二刀流(宣教者・声楽家)を生業とさせていただいていますが・・・
オペラ歌手として活動盛んなりし頃、特に1998年から2000年の間に、母をはじめ大切な方々を幾人も天国に見送ったことが動機となりオペラ歌手“よりも”、もっと魂の救済に関わること、永遠・永生なることに携わりたいという思いがいや増し、聖職の道を志すこととなりました。
さて、ここで聖書のことばをひとつ。
ルカによる福音書14章26節 イエスのことば
「私のもとに来ても、自分の父や母、妻や子、兄弟や姉妹、さらに自分の命までも憎まない者は、誰も私の弟子(宣教者)になることは出来ない。また自分の十字架を担って、わたしの跡について来るものでなければ、わたしの弟子となることが出来ない。」
非常に難解な箇所です。なんと無理難題をイエスは自分に要求なさるのか、と思いたくもなります。
しかしこれは、中近東独特の言い回しなのです。
中近東では比較級を表すのにしばしば対立する観念(愛と憎しみ)を用いることがあります。
よって此のみことばは、文字通りの「憎む」ではなく、「より少なく愛する」という意味になります。
「より少なく愛する」とは、無用なものとして放棄してしまうということではありません。
宣教の働きに心身を投じることで、却って父・母・妻・子・兄弟・姉妹との関わりに、新しい意義を見出すことができるのです。「より少なく愛する」は、実に積極的で、創造的な動機に満ち溢れる言葉と云っても良いでしょう。
主によって命といのちを生きる意義を与えられし自分であれば、同じ主によって命を与えられし大切な方々、父・母・妻・子・兄弟・姉妹を、主のまなざしで愛さずにはいられないという想いに高められます。
二刀流の私にとって・・大刀は“宣教のはたらき”であり、小刀は”声楽家”であることは言うまでもありません。
しかし大刀が、堅固で揺るぎないものであればあるほど、小刀もまた限りなく愛おしく、親しく感じられるのであります(所感)
~2026年4月1日~
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『二期会』は、ご周知のオペラ団体ですが、何故に”二期"会と呼称されているのでしょうか?
明治維新のころ、日本には五線譜の読める人は一人もいませんでした。日本音楽界の先達、滝廉太郎氏や山田耕作氏らが、日本の地に西洋音楽を導入し、植えつけた時期が日本音楽界の「第一期」とされています。
そして戦後、西洋音楽様式の研鑽に励み、音楽のアカデミズムを確立せんとした時期を「第二期」としています。まさにこの「第二期」に産声を上げたオペラ研究団体であったが故、「二期会」と呼称されているのであります。
オペラのアカデミズム確立とは、音楽様式に則り、楽譜に忠実な上演を行うことであり、声楽家の発声テクニック・演唱の向上でありました。
しかし戦後80年、「研究・研鑽」の段階はとうに通り越し、時代は第三期・第四期へと向かわねばなりません。
第三期とは即ち、西洋音楽の一般文化化(エンカルチュレーション・ enculturation) と申せましょうか。しかし、日本のオペラ界は一般文化化にはほど遠い、まだまだ「第二期」の様相を呈しているように思えてなりません。
以下、全くの私見ですが・・
キリスト宣教の世界にも、これと同様の現象を観ることができます。
大変残念なことに昨今、ミッション系の大学や教育機関、また修道院まで次々と閉鎖・閉校されつつあります。
明らかにこれは、宣教世界の衰退であると思わされもしますが、果たしてそうでしょうか?
あるいはこのことは、研究・研鑽・教育に特化した宣教が収束し、キリスト者一人ひとりが、福音という鍬を携えて生活世界へと耕作に出で行く「第三期」に移行しているということではないでしょうか?
大学・教育機関の閉校をネガティブに捉えることもできれば、閉校を「第二期」の完成・卒業であると、未来志向で考えることもできます。
ある意味、信仰とは「負」の事実を、「正」「聖」へと向かう動機に変える力です。
ペトロがキリストを裏切ったという事実は、未来永劫変わりようもありませんが、しかしペトロの信仰は、裏切りの事実を、生涯キリストに従いぬかずにはいられないという自由意思に変えることができました。
Missio Dei(神の宣教)は、「第二期」を後にして、福音宣教の「第三期」、すなわち福音の土着化・文化内開花(インカルチャーレーション・ inculturation)をこそ欲し、ご期待なさっておられるのではないでしょうか?
~2026年3月25日~
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世界中の為政者たちよ、「アンパンマンのマーチ」を聴け
関野直樹コンサート~心に届ける音の祈り~ リハの風景
「何のために生まれて、何のために生きるのか?答えられないなんて、そんなのは嫌だ 今を生きることで、熱い心萌える。だから君は行くんだ、微笑んで 」
アンパンマンのマーチは、この歌詞を幾度も繰り返しつつ、ヴァリエーションをしていく。音楽的にも実に秀抜な曲である。
子供のみならず、万人共感のメッセージであると云えよう。
この歌詞は、アンパンマンの作者・やなせたかし氏の弟で海軍士官であった千尋氏が戦地に赴く際、兄に語った言葉である。
いわば千尋氏の「辞世の句」が、ご周知「アンパンマンのマーチ」となっている。
いつの時代も、戦争の犠牲になるのは一般市民や子供たち、そして若い兵士たちである。
個人的に彼らは、相手国の人に対して何の恨みも憎しみもない。
千尋氏も、なにゆえに今、自分がこの時代に生き、生かされているのか、意味を見出そうと苦悶した。そして断腸の思いで紡ぎだしたのが、上記のことばに他ならない。
為政者たちは安全なシェルターのなかから指示を出し戦果報告を聞くだけで、戦火の中で、幾多のいのちが失われているという実感がない。
いのちとは・・関わり合う“いのち”。為政者は、関わりの美と調和を導くために選ばれし「アンパンマン」ではないのか。(もちろん、私たち一人ひとりも“アンパンマン”になるよう召されている!!)
改めて、いや、新ためて「アンパンマンのマーチ」を深く味わいたいものである。
~2026年3月23日~
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『なぐさめと 優しさあふるる チェロの音は 森羅支える 通奏低音 』
来る4月12日(日)、パルテノン多摩大ホールにて、ウクライナ支援、東日本大震災復興支援のチャリティーコンサートが催されます。
公演に先んじ、『チーム・オクサーナ』が一同に会し、篤いリハーサルをいたしました。
今、世界は渾沌としています。世界中に戦火が広がりつつあります。戦争とは、人と人との関わりの断絶です。
人は関わる存在です。関わってこその人です。関わりのなかで、人は本当の自己を見出し、自己を自己たらしめることができましょう。
ある意味、戦争とは人間として生きることの拒否。人自らをして造ってしまった、地獄のような心身のありようです。
反面、天国は友愛と調和に満ち溢れるところ、ですが・・天国も場所というより、こころのありようでしょう。
個人的に私は、天国に一番近似する言葉は「音楽」と想っていますが・・・音楽は美しい楽の音のみならず、互いに愛し合い、敬い合い、慰め合い、支え合う、こころのありようでもあります。
世界が今、極限に達しようとするとき主は、私たちがどちらの“ありよう”を選ぶのか注視なさっておられるように想えてなりません。
それこそ、主は力で相手を屈服させたり、恫喝なさるお方ではありません。私たちの自由をお認めくださる、“自由”そのものであられます。
であればこそ、私(たち)も自らの自由意思をもって、「主によって与えらしいのちを悦び合い、寿ぎ合わずにはいられない」と、詠い叫ばずにはいられません。
~2026年3月15~
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『雛祭り ひとがた文化の 継承に
イエスの贖い 観る想いして』
3月3日の「ひな祭り」は、中国の影響を受けて宮中で始まった「上巳(じょうし)の節句」の行事です。
紙を人間の形に切り取った人形(ひとがた)を、自分の身体に密着させ、擦りつけたのち火で燃やし、川や海に流して災厄を除去しようとする“習俗”です。
「ひな祭り」を行事としている神社や寺社もありますが、もともとは神道や仏教に由来するものではありません。
時代とともに紙片が藁になり、衣装を着けるなどして、次第にリアルな形に変化してきましたが、もともとは人間の身代わりということでした。ゆえに「ひとがた」と言われていました。
しかし公家の時代から武家の時代に移り変わると、宮中の上巳の節句の厄除けから、邸内の飾りへと変化します。一個の「ひとがた」から一対の「にんぎょう」となり、三人官女ができ五人囃子も加わり、更には着物もそろい、三段飾りから五段飾り、七段飾りへと整ってきました。もはや人間の身代わりという意味は消え、人の目を楽しませる「飾りもの」に変わりました。まさに「捨てるひとがた」から「飾るにんぎょう」への変容です。
従来、日本の教会は「ひな祭り」に対しては否定的な態度、あるいは異文化の行事として無視をしてきました。ひな人形を「神像」と誤解した宣教師らによって「ひな祭り」を祝うことを禁止したことに端を発っした思われますが、ひな人形は神でもなければ神の偶像でもありません。
むしろ日本人の「ひな祭り」寄せる深い動機を慮り、これらをこそ通してキリストのあがないを宣べ伝えていくことが真の伝道、即ち「福音の文化内開花」ではないかと想わされます。
まさに西欧の「福音の文化内開花」に倣え、です。
12月25日のクリスマスは、もともとは異教の冬至祭から来ています。ローマの農耕神・サトゥルヌスの祭りや、ゲルマンの冬至祭・ユール、ミトラス教の太陽神・ミトラスの祭りが起源です。一日の日の最も短い冬至祭を境に、これからまことの義なるキリストの光が 訪れることを示唆しました。
そして、何と驚くことに「イースター」は、「春の女神」の名前であるということです。
キリスト教のイースターは、女神・イースターの春の大祭を、キリストに取り組んだというものです。
これらは決して、キリスト“教”と土着宗教との「混合宗教化」ということではありません。
昨今の痛ましい世界情勢を見ても分かりますが、宗教・イデオロギーは異質の他者を排除します。しかし、『キリストの福音』は、福音の本質を何ら変えることなく(福音の本質を損なうことなく)、異質の他者との共生、共存を佳しとするということであります。まさに神の業『福音』であるがゆえ、これが成せるのです。(所感)
~2026年3月3日~
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アッシジの聖フランチェスコのように‼
自宅近くの菅生沼の白鳥たち。2月の最終週にはシベリアに旅立ってしまいますので、暫しのお別れの挨拶に行ってまいりました。
「来年また、元気に相まみゆることができますように」と、話しかけるや、深くうなずいてくれているような気が致しました。
小鳥たちに話しかけると言えば・・アッシジの聖フランチェスコを想い出さずにはいられません。
「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、アッシジのフランチェスコに伝わる逸話ですが、多くの芸術作品や音楽の題材となっています。
フランツ・リストは、ピアノ曲集『2つの伝説』の第1曲として、この逸話を題材とした「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を作曲しました。この曲は、小鳥のさえずりを表現する技巧的なピアノの旋律が特徴ですね。
アッシジの聖フランチェスコは、集まった小鳥たちを「私の姉妹である小鳥たち」と呼び、彼らがいかに神から多くの恵みを受けているかを説き、「創造主である神を愛し、常に感謝を捧げなさい」と語りかけたとされています。
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この感謝は、三様の感謝ともいうべきものです。
▷自分で種まきも刈り入れもしないのに食べ物を与え、糸を紡ぐこともないのに羽毛という衣服を与え、巣を作るための高い木や飲み水としての川を用意してくれた神の慈しみへの感謝。
▷飛び回るための自由(翼)と、澄んだ空気を与えてくれた事に対する感謝。
▷ノアの箱舟によって、かけがえのない種として守られたことに対する感謝。
この説教の間、小鳥たちは逃げることなく首を伸ばし、翼を広げて熱心に聞き入り、説教のあと、フランチェスコが十字を切って祝福を与えるや、四方に飛び去ったと伝えられています。
此れら「三様の感謝」は即ち、神の愛の語りかけに対する、私たちのなすべき、いや、なさずにはいられない“感謝の応答”ではないでしょうか?
▷いのちは自分では会得することはできない。天の御摂理によっていのちといのちを生きる意味が与えられていることに対する感謝。
▷主は、私たちが自己のいのちを高らかに飛翔する“自由”を保障してくださる究極の”自由”であられる。
自由自在にみことばを生き、みことばを詠う「唇と声」が、与えられていることへの感謝。
▷特に私たちは日本人として生(種・しゅ)を授かり、国際社会にあっては、日本人ならではの貢献が期待されています。日本人として生を授かったことに対する誇りと感謝。
(自国を尊ぶことは、すなわち他国の方々を尊ぶことと同義)
◆2026年は、聖フランチェスコの帰天800周年。カトリック教会によって特別な年として定められています。
私も「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」に憧れ目指すものでありますが、到底、聖フランチェスコには及ばす、逆に大自然に生きる白鳥たちから「説教」をされたように想うのであります。
~2026年2月25日~
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教会音楽家・半田智英子先生ご企画のコンサートのお招きに与りました
東京基督教大学教会音楽専攻科にて教鞭を執らせていただいたという深い縁もありまして、今回、半田先生が音楽主事をなさっておられる所沢聖書教会にて共演をさせていただくことと相成りました。共演者としてお入用をいただくことは、まさに教師冥利に尽きるというものであります。
昨日のリハーサルの際に思いついたコンサートの副題です。
『三園(みその)のアリア 』
プログラムされた曲目は、なんと「エデンの園」「ゲッセマネの園」「天上の小羊の婚宴のバラ園」で繋がっているではありませんか。
♪「くちなし」♪「秋桜」♪「野の花を見よと」で、神が造りたもうたエデンの園の原初の美しさを表し・・
♪「十字架の愛」で、ゲッセマネの園のイエスの祈りに心を合わせ・・
♪教会カンタータ「目覚めよと呼ぶ声あり」~「わが愛する者はわが属(とりこ)となれり」では、天上のエルサレムのバラ園” in Himmels Rosen weiden” の薫りを分かち合います。
『三園のアリア』をたおやかにお分ちするコンサートとなりますよう、ご案内申し上げます。
~2026年2月18日~
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休日の午後のコンサート
2026年2月23日(月・祝)午後2時開演。
所沢聖書教会は、木造・山荘風の温かな礼拝堂の教会です。
同教会にお伺いさせていただくのは3度目です。
最初は、今は亡き敬愛する内藤仁美(ないとうきみよし)牧師の「お歌の会」。
2度目は、もう十年前になりますでしょうか・・今回のご共演者・半田智英子先生ご企画によるチャペルコンサートでした。
久しぶりにお伺いする教会は、美しい書によって壁が彩られ、会堂いっぱいに「みことば」が嬉々として飛び交っているような心地すらしました。
いや、礼拝堂は、「書」として目に見えるみことばのみならず、幾年月も呼び交わされ、歌い交わされたみことばを幾重にも重ね着した美しさに満ちているように想えました。
2月1日の佳き日、所沢聖書教会とご参集の皆様方に、みことばの単衣(ひとえ)を、お加えさせていただければと想います。
Photo:「恵みシャレー軽井沢・讃美セミナー」の当方のレッスン風景をお詠みくださった、内藤先生のお歌。
Video;GPの一コマ。みことばの重ね着!!。
~2026年2月20日~
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休日の午後のコンサート
於:日本長老教会・所沢聖書教会
春を思わせる陽光の中、会堂いっぱいのお客様と共に、一足はやい春の薫りを味わわせていただきました。
前回も投稿させていただきましたが、コンサートは神学校の同窓生“竹馬の友”の半田智英子先生のご企画でした。
ところで・・日本語で、歌や器楽の奏でを、「一曲・二曲」と数えるのでなければ、どのような表現がよろしいでしょうか?
一愛・二愛(確かにイタリア語ではUna Romanza ,Due Romanzeと呼称しています)、一不思議・二不思議、一天使・二天使・・どれも趣がありますが、私は「一花、二花」が宜しいのではないかと想っています。
音楽は今をさかりに咲く“花”、いや、とこしなえに「今」を花と咲かせるもの!!
オペラ・オラトリオ・ミュージカルでは独唱を「Aria」といいます。「Aria」、そう、エアーです。
イエス・キリストが“詠うように語られた”そのAria・エアーのそよぎと薫りは、いついつまでも時空間に薫り続けています。
いや、時が経てば経つほど、ますますその薫りが増すばかりであります。これまさにAriaの一不思議・二不思議です。
私たちも春の陽光の中、キリストの語られたAriaを幾重にも重ね着をして、十二単の如くキリストとキリストのことばをあでやかに纏い、そぞろ歩きをしたいものです。
イエスが語られたAria、先に天に召された愛する父母・友人の語られたAriaを、心を込めて詠えば、それは“今に花咲く”私のAriaとなります。
Video:『十字架の愛』~市販のVideoカメラは映像こそ鮮明なものの、音質的には限界があるため、友人ご恵贈のPR7を外付けをして連動させてみたところ、自然に近い音色を得ることができました。遅まきながら、この方法に気付かされた次第です。
~2026年2月23日~
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詩編19:1~3 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。~天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。~
写真は、千葉県館山の地層断崖です。白亜紀、ジュラ紀の地層からなる断崖で、しかも海風を受けて地層が斜めに変形をしているとのことです。
此の大いなる天地創造の美に、思わず*「天は神の栄光を語り」を口ずさんでしまいました。
さて・・物理学、数学、天文学 の大家、アイザック・ニュートンを知らぬ人はいないかと存じますが、彼は敬虔なクリスチャンでもありました。
ある時、ニュートンは、室内競技場いっぱいに精巧な宇宙の模型を作りました。
友人の天文学者に見せたところ、その天文学者は大変な感銘を受け、「このような精密な模型を作るのに幾日も要したことでしょう。君と君の研究グループがこしらえたのか?」
ニュートン曰く「いや、自然にできたようです。」と尋ねました。
天文学者曰く「冗談を言っちゃいけない。このような精密は宇宙模型が自然に勝手にできるわけがない。綿密な計画のもと意図をもって作り上げる者がいなければ、できるわけがない!!」
ニュートン曰く「では逆に君に尋ねるが、この宇宙模型に遥かに勝る“宇宙”はどうなのだ?何となく自然発生したのかね?創造主なる御方の綿密な計画とご意思がなければ、出来ようはずもない 」
ニュートンはまた、次のようにも語っています。「この最も美しい太陽、惑星、彗星のシステムは、知性ある存在の英知と支配からしか生まれない。この存在は、世界の魂としてではなく、万物を支配する主として支配し、その支配のゆえに『主なる神』… あるいは『万物の支配者』と呼ばれる。…いと高き神は、永遠で、無限で、完璧な存在である。」
ニュートンは創世記に書かれた6日間の天地創造を文字どおりに信じていました。
現代科学では地球の歴史は約46億年とされていますが、聖書の字義通りに天地創造を解釈するなら、地球の歴史はせいぜい数万年ということになりましょう。46億年かけて生成される鉱物も、神の御手の業をもってすれば一夜にして生成されるとニュートンは考えたのでしょうか。
また、ある聖書学者は、上記の白亜紀、ジュラ紀、三畳紀等の地質年代をそれぞれ一日、と数えるのが妥当であると主張しています。
いずれにしても、私たち人もまた神の御手による「被造物」。いや、天地創造の御摂理は、アダムとエヴァの創造をもって極に達しました。人として創造され、生かされていることは、圧倒的な大自然の悠久の歴史に勝るとも劣らぬ素晴らしきことであると、感謝の讃美を捧げずにはいられません。~2026年2月31日~
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平和を祈念するコンサート」終演後の記念写真撮影の際、オリンピック・アスリートのように日本国旗を何気に身に纏ってみました。
すると・・なんとも不可思議なことに、母に抱かれるような平和に満たされました。
わたしの母もそうでしたが、母は決して恫喝をしたり命令はしません。
「あなたと共に居られることを有難う」「あなたがいてくれて有難う」「あなたがあなたであることを有難う」と、いつも優しい母でした。(誤解のなきよう・・父もまた優しい父でした)
確かに、日本語では母を頭とする大切な言葉が沢山あります。
「母国」「母校」「母船」「母音」「母教会」・・
母は「平安」「平和」「愛」「はぐくみ」を一言で言い表すことば。
世界の兄姉同が、各々の「母国」の子とされた喜びと誇りをもって、「あなたと共に居られることを有難う」と言葉を交わし行動するとき、私たちの生活世界は平和に満たされていくことでしょう‼
~2026年2月6日~
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「流山音楽アカデミー・合唱の集い」~於:江戸川台教会
毎月第3水曜日は、“流山音楽アカデミー合唱の集い”の定期開講日。
毎回のように思いもかけない方々との、素敵な出会いがあります。
先日は、大友宗麟公のご末裔の方と、ご友人がご来会くださいました。(個人情報遵守の立場から、フルネームでの表記は控えます)
流石、其のお方は直系のご末裔ゆえに、お顔が宗麟公にそっくり!!。氏の一言ひとことが臨場感に溢れ、其のお言葉に大いに魅せられた次第です。
大友宗麟と言えば・・云わずと知れたキリシタン大名です。
デウスを頭(かしら)として、理想のキリシタン国家を建設しようとした大名です。
戦国大名でもあった大友宗麟は、西洋の「十字軍」さながらの「十字の御旗」を軍旗としていました。
その宗麟が、キリシタン国家の首都に選びし地は、温暖で風光明媚な無鹿町(むしかまち)。現在の宮崎県延岡市に位置します。
この“むしか”は、ラテン語の“音楽~Musica~ムズィカ”から採られたとのことです。
宗麟公は、南蛮寺のミサで、西洋の古楽器を用いた妙なる調べに大変な感銘を受けました。宗麟公にとっての「理想郷」を一語で言い表すとすれば、それは”楽の音の調和と平和に満ち溢れる”“Musica~ムズィカ”であるということでしょう。
また“Musica”は「信仰」、さらには「福音」に最も近似する言葉、いや同義とさえ言い得る言葉ではないでしょうか。
宗教改革者ルターは、「(福音を)語ることと、歌うことは同義!!」としました。
宗教は違いますが・・儒教の大家、老子・荘子・孔子はみな「子」と名乗られています。此の「子・し」は「子・ね」であり、「音・ね」でもあります。古(いにしえ)の儒教の大家は、まるで楽の音(ね)のように、真理をたおやかに語り、紐解いたとされています。
Musicaは、天つ御国の薫りを生活世界に運ぶ架け橋、いや天の香りそのものと云ってもよいでしょう。
私たちのささやかな「合唱の集い」も、今回の大友様との出会いを通して、更に「Musica」に溢れる集いとなりますよう、祈って止みません。
~2026年2月6日~
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主の息吹に満たされて!!
「愛するみなさん、このことだけは忘れないでください。主の前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」ペトロの第二の手紙3章8節
「一日は千年のようである」・・もし主がお望みであれば、千年かかることを、たった一日で成し遂げられましょう。であれば・・何故にこのような表現がなされているのでしょうか。
神の啓示である「聖書」は旧約聖書・新約聖書をもって完結しています。
しかし、たとえ啓示は完結したとしても、明白にしつくされてはいません。言い換えるのであれば、私たちのうちに啓示が完全に生活化・文化化されてはいません。
信仰とは神と人との関わりであり対話でもあります。
「授受」の双方が在ってこその信仰です。神の「授」に対しての私たちの「受」とは、その日、その時代に神の啓示を十全に生き抜くための知恵であり気概であり、創意工夫です。
幾世紀にもわたる此の「授受」のいとなみの積み重ねが、私たちの歴史そのものであります。
私たちは此の「授受」の完成に「向かう途上」にあります。
神は、ゆっくりと確実に此の「授受」が完成に至らんことをご期待し、お導きくださっています。此の神の導き、お計らいのことを『摂理」といいます。
私が今日過ごす一日は、幾世紀にもわたる主の「御摂理」の上に成り立つ一日であり、何千年分の重み・価値がある一日なのです。そのことをして、 「主の前では一日は千年のようである」と言うのではないでしょうか。
また反面、「千年は一日のようです」とは・・
私たちは、「主のご受難、ご復活から既に二千年も経てしまった、」と嘆息をもらします。
しかし神の御目には、十字架のご受難も、眩いばかりのご復活の朝もきのうの朝の出来事でしかありません。神の息吹は時空を自由自在に駆け巡ります。
二千年も一呼吸となされる神の息吹!!
そう!!。私たちには「讃美歌」を詠うという素晴らしい術(すべ)が与えられています。
讃美は息の芸術です。「讃美のことのは」を詠うことで私たちは、「一日は千年。千年は一日」と時空を自由自在に飛び交われる「神の息吹」を味わわせていただけるのです。
~2026年2月6日~
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『ことばとことばが結婚❓』
主イエスの語られたみことばは、永久(とわ)に生きて働かれるペルソナ、人格者。
みことばは紙面に閉じ込められた活字にあらず、情報伝達の信号にあらず、イエスの全人格、生き様を“表す”、イエスそのものであられます。
2000年前、ガリラヤ湖に投じられたみことばの波紋は、時を経れば減るほどその波紋が拡がり、まるで大波のように私たちを取り囲み、圧倒的な愛で私たちを抱き、キリストの愛へと私たち駆り立ててくださいます。
そしてなんと不可思議なことに・・主のお口から発せられた「恵み」溢れるみことばと、「まこと」なるみことばは、まるで夫婦のように互いに愛し合い、敬いあい、慰め合い、励まし合い、互いを高め合いつつ、私たちのもとへ訪れてくれるのです。
「恵み」は、時として単独でもたらせれると思われがちですが、主において「恵み」は、常に“まこと”と共にあります。
此の「恵み」と「まこと」は神の御摂理のもと“結婚”しているのです。
このような表現は、教義神学者から「あまりに擬人的、あまりに抒情的」と、お叱りを受けるかもしれませんが・・次なる詩篇をご覧ください。
「恵みとまことは互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけをしています」詩篇85篇10節
イエスのなかで、「恵み」とご性質と「まこと」というご性質は表裏一体、「二性一人格」と言ってもよろしいでしょう。
「まこと」は「誠実」に他なりませんが、日本語的に「まこと」は「真(ま)事(こと)」という想いが籠められています。
つまり主の「恵み」と「ま事」とは、具体的な出来事、行動、心配りを伴う「恵み」ということになりましょう。
主よりもたらされる「恵み」は、ものの味方、考え方、教義では決してなく、実に具体的かつ、全人格にもたらされる「現実」であります。
また上記、詩篇のみことばにあるように、「義」の伴侶は「平和」です。
私たちが平和を欲するのであれば、主の御前に「義」であることを求められましょう。
神は神として「平和」とともに「義」を全うせずにはいられない御方です。
では、いかにして義たりうるのか?
ズバリ・・それはイエスの十字架を信じることにおいてです。
イエスの十字架とは・・・主から戴いたかけがえのないいのちと、いのちの羽ばたきを釘付けにしてしまった私たちの“罪”を、我が事にように共に苦しみ、その苦しみの分かち合いをとおして、新しいいのちの関わりへとお招きなされんとする主イエスのパッション(情熱)の極みです。
神の「義」と「平和」は十字架において口づけをして、夫婦のごとく結び合わされているのです。
主の「みことば達」は、互いに愛し合い、関わらずにはいられない「方々」。
この「みことば達」の関わりの世界に、私は心身を投ぜずにはいられないのであります。(所感)
~2026年1月25日~
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先日、SNS上で「宣教の必要性・有無」に関しての討議に参加を促す記事が掲載されていました。
大方、このような内容です。
~神は気まぐれや思い付きで人をお救いになられる方ではない。神は深遠な摂理の中で、あらかじめ救う人をお決めになっておられる。そうであれば、人が懸命に宣教をする意味が果たしてあるのか、否か?~
これはカルヴァンの予定説を基にした発想でしょう。
予定説(Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとしています(二重予定説)。
私は此の討論会に参加する意向はありませんが・・・この場で当方の想いを申し述べさせていただきましょう。
結論から申し上げると、神の側から地獄落ちを“ご予定”している人は、誰一人いないということです。
そして宣教・伝道は絶対必要です。
私たちはよく思い違いをします。
神は、私たちがどれだけよい子であったか、言うことを聞かない悪い子であったかで、天国へ送ったり地獄へ送ったりはなさらないでしょう。
神は愛であり、ただひたすらに愛であります。神には憎しみを復讐心もありません。私たちが罰せられるのを観て喜ばれる御方ではありません。神はひたすらに赦し、愛されるお方です。
しかし・・放蕩息子の父親が、息子が放蕩三昧をするのも、父の家に帰るのも、息子自身に決断させたように、神は私たちに「神の愛」を拒絶する自由も与えてくださいました。
父の家に帰り温かい食卓を囲むのか、父と父の言葉を不在にして果てるともなく続く放蕩、疎外、孤独に身を投じるのか、それはむしろ私たちにゆだねられた選択です。
神は私たちの自由意志を保証する、究極の自由であられます。
すでに天上のエルサレムの祝宴の招待状は、地の上に住む人すべてに届けられています。しかし、手元に届いている招待状に気付いていない人、開こうとしない人も多々おられましょう。
此の神の愛のメッセージたる「天上の婚宴の招待状」の存在に気付かせて差し上げること、これすなわち“宣教”ではないでしょうか。
宣教は、キリスト(教)に入信させるために、言葉を駆使して説き伏せるものではありません。
更に言えば宣教とは、キリスト(教)への入信に至らせることというよりむしろ、キリストと共に歩み行く、“天上のエマオ”へ向かっての旅路の醍醐味を分かち合う”キリスト道”の伝授、伝道ではないでしょうか。
キリストと共に歩む信仰の旅路、“キリスト道”の伝授、伝道は、生涯を通して継続されていくものでありましょう。
先日、宮中歌会始を視聴していました。『明』をテーマに、幾多の歌が創作されるさまに、感動を禁じえませんでした。
私たちキリスト者も、すでにお馴染みの聖句をお題として、その日、その時、その国の文化ならでは『新しい歌』を創作しお分ちする喜びを、互いに伝え合い、教え合わずにはいられません。
『新しい歌』(詩編96編)を、毎日毎日、重ね着をして、私たちの信仰の旅路を錦織りなすがごとく美しく彩っていくこと、これまさにキリスト道の伝授・伝道ではないでしょうか?
『歌いつつ歩まん。ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を』(所感)
~2026年1月22日~
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『御摂理は闇から創まる(はじまる)』
私たちは、1日は午前0時から始まる、あるいは、夜明けとともに始まると考えています。しかし、聖書の世界、とりわけユダヤの人々にとって一日は、夕方から始まります。 此れは創世記1章5節「夕があり、朝があった」とあるように、天地創造の順番に基づくものです。天地創造の第1日目の記述は、闇の存在から始まっています。次に、光が造られました。 人は朝から夕にかけて活動をします。朝日とともに活動を開始し、黄昏時に一日の労働の実りを味わいつつ家に帰ります。 しかし創造主の一日は、何と夕方から始まります。「夕があり、朝があった」のみことばのとおり、聖書全巻の冒頭から神の道と人の道との明確な違いが語りだされています。 夜の帳(とばり)のなか、神の栄光は次第に蓄積され、十二分に温存されたのち、刻々とその輝きを増してゆきます。つまり神の“おはたらき”は暗闇のただ中から始められ、次第に明らかにされていくのです。 よくクリスマス・イヴ(12月24日)は、クリスマス(12月25日)の前夜祭と思われがちですが、そうではありません。クリスマスの夕べ(イヴ二ング)からクリスマスの佳き日が始まっているのです。 讃美歌『ああ、ベツレヘム』の歌詞2番~人みな眠りて知らぬ間にぞ、御子なるキリスト生まれた もう~ 夜の帳のなか温存された栄光は、だれの目にも明らかな光輝くイエス・キリストとして現れ出でました。そう、栄光は“神の愛”と同義です。すなわち神の愛は、イエス・キリストにおいて結実し極致に達しました。 イースターとて然り!! 空の墓のしるしによって、私たちがキリストの復活の事実を知った「朝」、私たちはキリストのご復活を喜びお祝いしますが、キリストの復活は漆黒の闇の中ですでに始まっていました。 しかし、イエスの復活の瞬間を目撃したものは誰もおらず、福音記者の誰もこれを描写していません。 限りある生命(せいめい)から、永遠のいのちへの移行は、人の感覚で捉えられるものではありません。このキリストの復活は相も変わらず歴史を超越し凌駕するものとして信仰の神秘の核心を成しています。 カトリック教会の復活徹夜祭の『復活賛歌』では、「幸いな夜よ、お前だけがキリストの死者の国からのよみがえりの時を知ることができた」と詠っています。 今、世界は一触即発の軍事の脅威にさらされています。世界が暗闇に覆われています。 また、個人的に失意の暗闇のどん底にあろうとも、いや、そのさ中にこそ、創造の神の御手を、私たちの人生に認めずにはいられません。 そして、此の暗闇を過ぎ越し、いっさいが完結するであろう最期の日に『Lux Aeterna~永遠の光・大栄光』が現れ出でるを、今、先んじて望み観させていただけるのであれば、これに勝る幸いはありません。
~2026年1月19日~
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水を分かつ、水辺の鳥たち(^^♪~自宅近くの「菅生沼」にて、白鳥、黒鳥、白鷺、鴨らの協奏・とりのオリンピック?
◆人や動植物は、地球規模の「水循環」によって生かされている‼
生きとし生けるものすべて、「水」がなければ生きていくことができません。
「水」は地球規模の「水循環(みずじゅんかん)」によって生成されます。
水循環とは・・太陽の光によって海水や地表面の水が蒸発し、上空で雲に変化し、やがて、雨や雪となって地表面に降り、それが水道や下水道、川を流れて海に戻ってきます。このように、水が絶えず循環する流れを云うとのことです。
水循環によって海水が蒸発する際に淡水化されることで、人や動植物に必要不可欠な淡水資源が常に作り出されています。
地球上の水の総量の内訳は、海水などの塩水が97.5%、河川や湖などの淡水が2.5%という比率。この淡水のほとんどが南極・北極の氷や氷河であり、人や動植物が利用できる河川や湖沼などの水は、地球上に存在する水の総量のわずか0.008%、およそ1万分の1にしかありません。まさに貴重な真清水といえましょう。
彼ら鳥たちは、ごく自然に素朴に此の「貴重な真清水」を分かち合っているではありませんか。
どんなにAI技術が発達し、科学が万能といわれる時代になっても、大自然と大自然を司る摂理だけは創造することができません。
まさにこれ、創造主なる御者の御業としか言いようがないではないですか。
人や動植物が、自ら生きているのではなく、生かされているものとして御摂理の恩恵を分かち合うさまこそ、真の平和と呼ぶに相応しいありさまであります‼
イザヤ書 11:6-9 (新共同訳)
御摂理の恩恵に与るに、強大な国(オオカミ・熊)も小国(小羊・子牛)も差異がありません。どちらも恩恵なしには自ら生きていくことができない存在。恩恵を分かち合わずにはいられない存在です・・いや、すでに分かち合っているのです。今、この文章を執筆しながら飲んでいるコーヒーは、地球の裏側のブラジルの方が流した汗でいれたコーヒーであるかもしれません。
平和は、武力による威嚇や、国家間の軍事力の均衡によって保たれるものではなく、世界を司る創造主を知る知識によってもたらされるのでありましょう(所感)
~2026年1月12日~
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ウクライナ支援・東日本大震災支援“オクサーナ・ステパニック・チャリティーコンサート”の賛助出演をいたします。(仮チラシでのご案内)
私におきましては、オペラ「椿姫」のハイライトを担わせていただきます。長大な二重唱やアリア「プロヴァンスの海と陸」等の歌唱は、私にとって大きなチャレンジとなります。
ある意味、賛助出演とは、主役を真に主役たらしめる「黒子・くろこ」なのかもしれません。
この「黒子」は、もともとは黒い衣をまとった「黒衣・くろご」がその語源とのことです。
黒衣(くろご)、転じて黒子(くろこ)は、歌舞伎や人形浄瑠璃で、後見として役者や人形遣いを助けたり、小道具を役者に渡したり舞台から下げたりする係。
「黒子」は、本来の「黒い衣を纏い、見えないことになっている者」「そこには居ないことになっている者」という側面から意味が転じて、現代語では「表には名を出さない者」「裏方に徹する者」といった意味で使われることがあります。
さて、この「黒子」・・あまり知られてはいませんが、大きな役割がひとつあります。
それは・・万が一舞台上で、主役がなんらかのトラブルで演唱できなくなった場合には、黒子はすぐさま「黒衣」を脱ぎ捨て、主役の代わりに踊りださなければならないという密命を帯びているのです。これは、文化庁オペラ研修所・研修生時代に日本舞踊の花柳千代先生からお教えいただきました。
千代先生は、歌舞伎界の黒子は役者見習いやスタッフがするものではなく、歌舞伎演目全体に精通した老練の役者がなすものであるとも仰っていました。
この歌舞伎界の「黒子」を観るだに、賛助出演とは、自分の果たすべき役割を誠実に果たすものであると同時に、公演全部を担ってゆくほどの気概と器量がなければ務まらないものであるとも云えましょうか?
昨今は、賛助出演の機会も多く頂戴いたしますが、賛助出演こそ自己にとって大きな課題ともチャレンジともなっているように想います。
また賛助出演は、キリスト者の私にとっては、“キリストに倣い、キリストの御足の跡を踏みしめる道”でもあります。
キリストこそ、私たちのために「黒子」に徹せられた御方。すなわち、主は豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた。ご自分を無にされた。それは、主の貧しさによって、私たちがが豊かになるためだったのです。(コリントⅡ8:9参照)
チャリティコンサートにおきましては、敬愛するプリマドンナ・オクサーナさんとウクライナの方々に、愛と平和を希求する歌声をご提供させていただきたく想います。
世界中のお苦しみの方々に、キリストの平和が満ち溢れますように‼
~2026年1月8日~
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長きにわたり信仰の旅路をご一緒させていただいている重見通典先生、グレイス合唱団の皆様方と「ヨハネ受難曲」を歌わせていただきます。(2026年5月6日・杉並公会堂大ホール)
私が担わせていただく役は、畏れ多くもイエス・キリストそのお方。
ヨハネ受難曲のイエス役の歌唱個所は、さほど多くはありません。
であれば、難儀なくお務めに臨ませていただけるのかと思われますが・・むしろ逆です。
「ヨハネ受難曲」、すなわちヨハネの福音書においてのイエスは、口数が少なかった云々ではなく、激しい尋問や拷問を、イエスは「沈黙」でこたえられていたのです。
此のイエスの沈黙の気勢たるや・・・屈強な男声千人の雄叫びに勝るものではないでしょうか?
イエスがなさった沈黙とは、圧迫者や迫害者の力に対して、力で報復することなく、ただ黙して大いなる御方に委ねまつるということに他なりません。
実にこの沈黙は、最も強く、雄々しいものであると云えましょう。
主イエスは、直ちに万軍の天使を呼び寄せることもできたでしょうが、ただ黙々と屠り場にひかれる子羊のごとくに徹せられ、カヤパごとき者の軍兵のなすがままにされました。
イエスには、大いなる御方の御摂理は遅れることなくふさわしいときにふさわしい形で完成・成就するという確信と期待がおありだったが故に、まったくもってご自身の自由意志として「沈黙」を貫くことがおできになられたのでしょう。
昨今の私はどうでしょう?
SNSのワンクリック文化のなかで、「目には目を、歯には歯を」という一線を踏み越えて、黙することなく、直ちに目に見える形での結末を求めてしまいます。
「へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しみを得る。」イザヤ29:19
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」コリントⅡ8:9
此の”へりくだる”と“貧しい”は、ただ単に腰が低いとか、弱々しいということではなく、黙して高き御手に委ねる在りようを云うのでしょう。
ヨハネ受難曲における、歌わずして“詠う”「沈黙」は、歌唱表現の極致!!自他ともに心身を豊かならしめるキリストの道。
願わくは、イエスの「沈黙」を詠う我となさしめたまえ!!
~2026年1月7日~
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*Anno Domini2026・詠い初め♪♪
大海原・太平洋に対峙する、白亜紀、ジュラ紀の地層からなる世界地質遺産・銚子市ジオパーク屏風ケ浦にて、波音と風声の伴奏で、平井康三郎「九十九里浜」を詠う
古今東西の名曲はすべて、情景描写のなかに深い想いが込められています。
それは「愛」に他なりません。別の言い方をすれば「愛」を詠わないものは「歌」ではありません。
「九十九里浜」も、作詞者の北見氏の想いに添えば、成就しえない「恋」を歌っていると云えましょうか。
さて此の「九十九里浜」、以下の自己解釈をお許しいただきとうございます・・・
~今、私たちの世界は、人をして造ってしまった民族、思想、政治の五百重(いほえ)の分断があります。
此の大きな隔たりは到底、克服することができない「成し難き」ことのように思われます。
しかし私たちは、大自然と大自然を司る御摂理のうちに生かされる「一つ地球家族」!
それを想えば、私たちはもっと自由に素朴に異質の他者と関わることができるはずです。いや、関わらずにはいられない思いに駆られます。
其の決然とした自由意思が、此の「九十九里浜」に込められているように想えてなりません(所感)
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平和台恵教会クリスマスコンサートのお分かち。(2025年12月7日)
平和台恵教会は自然豊かな江戸川の汀(みぎわ)に建つ愛らしい教会。
平和台恵教会チャペルの真中におられるご降誕のイエス・キリストに讃美を捧げものをさせていただきました。
🎶『久しく待ちにし』
~お暗きこの世に、み光をたまえ、主よ、主よ、み民を救わせたまえや~
主は天上高くから「私はあなたを救おう」と、厳かに仰ることが出来たかもしれません。
しかし主のお採りになられた方法は、主御自身が人として私たちの近くに寄り添い、私たちのこの世の旅路の行く道の「3歩先」を優しく照らし、導かれるというものでした。
十歩先ではなく3歩先です。
私たちの歩みに合わせ、私たちが躓かないように、私たちの足元を照らされます。
イタリアオペラの作曲家プッチーニ氏は「私の音楽は聴衆の3歩先んじることがあっても、10歩先んじることはない」と言われました。
特にクラシック領域の作曲家は、その時代のありふれた作風ではなく、時代を先取りする前衛音楽を作曲しなければなかなか世に認められない、というジレンマを抱えています。
しかし、プッチーニ氏は、世に認められることより、その時代の人々の中で、その時代の人々と共にある音楽を志向していました。
日本の諺に「三尺下がって師の影を踏まず」とありますが、これは弟子が先師に随行するとき、あまり近づくことは礼を失するので、三尺うしろに離れて従い、礼儀を失わないようにしなければならない、という意味に他なりません。
しかしこの諺・・私には、「『師』は私の三尺先を照らす優しきお方。それ故に、私は師に魅了され、心から師にお従いせずにはいられないのです。」と心に響きます。
私(たち)の行く道を照らす「光」!!。此の「光」は「愛」と同義です。
平和台恵教会で、聖暦2026年の信仰の旅路を照らす愛の光を、確かに観させていただいたように想います。
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流山音楽アカデミー予告編 2025.12.17 PM2:00~
「ああベツレヘムよ」
♪ああベツレヘムよ、などかひとり 星のみ匂いて 深く眠る
知らずや今宵 暗き空に 常世の光の 照り渡るを
ご周知、クリスマスキャロル「ああベツレヘム」一見、奇異に感じる歌詞があります。
星のみ匂いて・・星が匂う、とは如何なることでありましょうか。
結論から申し上げれば、日本語の古語で「匂う」は、“良いかおりがする”と、“美しく輝く”の二つの意味があります。
即ち、上記歌詞は、「星だけが美しく輝いている」という意味になります。
しかし、私には此の「匂う」と「輝く」は、同義ではないかと想えてなりません。聖書の世界では「神の栄光・光」と「愛」は同義です。
神の栄光とは・・主に愛される一人ひとりが、其の人ならではの花を咲かすようにと、主がそそがれる愛の光。人生の様々な出来事、言葉のうちに、主と主に繋がる方々とよりよく関わり合っていくための意味を見出し、明らかにしていく光です。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16
なおかつ、「光」は、「香り、匂い」でもあります。
只単に「光」と言っても、「太陽光」と「人工光」には、大きな違いがあるとのことです。
「太陽光」は、植物の光合成のための「光子」を豊富に提供していますが、「人工光」には此の「光子」がほとんどありません。植物の成長に、太陽光は必要不可欠です。太陽光は、いのちを育む“いのちそのもの”です。
私たち人間も、今、咲き誇る花々も「香り・匂い」を放っているではありませんか。
香り・匂いは、今ここに、いのち在ることの表れです。
神が注がれるいのちの光の香りと、今、御子イエスの赤ちゃんの甘い香りが相俟って、ベツレヘムの馬小屋は、天の花園にも似た麗しい香りに満ち溢れました。
(ベツレヘムは、パンの街の意。ベツレヘムは、いのちの糧なるパン・御子イエスの香ばしさに溢れる街)当方の三博士も、この香りを寿がんが為、黄金の他に「乳香」「没薬」という最高の香料を携え、御子イエスのもとに馳せ参じたではありませんか。
クリスマスの原風景は、「光」と「愛」と「匂い」の三位の協奏によって醸し出されたのであります。(所感)
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声楽家、牧師の二刀流を生業とさせていただいて久しいですが、自分の声は長いキャリアの中で、著しく変遷してまいりました。
オペラデビューは藤原歌劇団「ルチア」のライモンド。バスの役柄です。以後、バス歌手としてのキャリアが続き、昨今はバスバリトンで落ち着いてまいりました。
しかし来年2026年に「椿姫」のジェルモンを歌うことと相成りました。(演奏会場は後日公開)。ジェルモンはバリトンの難役。文化庁オペラ研修所時代、東敦子先生の薫陶に与らせていただいたジェルモン役ですが、それ以来となりますでしょうか。
男声は加齢とともに、男性ホルモンの減少により声が中性化し、多少音色・音域が高くなるとされています。(女声はその逆)。
私にとっては一大挑戦ですが、せっかく実年齢でジェルモン役を詠えるのに、ここで歌わずんば、私の声楽家人生が完結しないようにも思われます。
ところで、イタリアの声楽のマエストロは学生に対し、このように仰る方がいます。
「あなたはどの声種を歌いたい?」~意外な言葉に一瞬、戸惑いを覚えますが・・余程高い声、低い声でない限り、声種は自分でお決めなさい、ということです。
自分の自由意思によって決めた声種に相応しい音色・音域に整えていくのがある意味、レッスンなのです。
信仰の世界もこれと全く同じ。いや信仰は、最も自由意思が尊重される世界であります。
キリストから“貴方”のもとに既に届けられている「天上のエルサレムのキリストの婚宴」の招待状を、手に取って開き返答をする自由もあれば、見ないで破棄する自由もあります。
主が最もお嫌いになられるのは、命令や恫喝です。
主は一人ひとりから、心から慕われたいとお思いであられるが故、人の自由なる呼応をご期待なさっておられましょう。
そして、私たちが成す宣教も、キリスト教に強制的に帰依させるためのプロパガンダでは決してありません。
既に手元に届けられている「キリストの婚宴への招待状」に気付いていない方に、其の招待状の存在を気付かせて差し上げること、ではないかと想わされます。いやむしろ、そこまでに留め、あとは聖霊のおはたらき(Missio Dei)と其の方の自由意思にお委ねしていくべきでしょう。宣教は熱き心と、全きお委ねのコントラスト‼
ちなみに私はクリスチャン、ノンクリスチャンという言い方はあまり好きではありません。
何か人の側で設定した「ランク付け」のような印象を持ってしまいます。
「キリストの婚宴に招かれし人」、「キリストの婚宴へのご招待に気付いていない人」・・少々長いですが、このような言い回しが宜しかろうと常日頃、想わさるるものであります。
Video:1995年(丁度30年前)ヴェルディ「レクイエム」バスソロ
Confutatis maledictis flammis acribus addictis,~呪われ黙された者は激しい炎に身を投じられる、と詠っていますが、決して此れは恫喝ではありません。いのちの招待状に気付かせようとする「万軍の主のご熱心」!!
~2025年12月8日~
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みことばは自由自在に、神と人を行き来して‼
バッハのカンタータ140番「起きよとさけべる」は、別名・結婚カンタータと呼ばれています。
同カンタータの二重唱アリアは、キリストと其の花嫁の対話となっていますが、大変熱い言葉が呼び交わされています。
🎶 花嫁(ソプラノ)「わが愛するものは、わがもの」& キリスト(バス)「われは汝のとりこ‼」
一見この歌詞、花嫁とキリストが逆ではないかと思わされます・・キリストが篤い愛をもって花嫁を捉えてくださり、花嫁はキリストの捉われ人(とりこ)となった、とするのが良かろうかと思われますが、バッハ先生は、歌詞の割り当てを逆転させています。
此のカンタータの花嫁は、さながら受胎告知に与ったマリアのようです。「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38
マリアのこの言葉は、限りなく謙遜であると同時に、「主よ、あなたのすべて、おことばもお心も行いも生き様もすべて私のものですので、わたしはあなたご自身を自由自在に生きることができるのです」という、マリアの自由かつ大胆な信仰告白でもあります。
マリアは、主のことばを自由自在にマリア自身のことばとなさっておられました。
此処で云う「ことば」とは、語る人自身のペルソナ(人格)。あるいは、関わり合う人を究極の愛の完成へと導く「摂理」でもあります。
私たちもマリアに倣って、神のことばを自分自身のことばとさせていただければ、これに勝る幸いはありません。これまさに信仰の極みです。
幸いなるかな・・私たちは、聖書に記された神のことばそのものを、自分のことばとして祈ることが出来ます。祈りを通して、神と関わりを一層深め、主と一つ心になるように召されています。
反面、まことに不可思議なことに、人間の魂の吐露(懇願、感謝、讃美)を、主ご自身が啓示なされた「聖書のことば」としていただいています。(詩編はそのもっとも顕著な例)
神のことばが人の言葉であり、人の言葉が神のことばであるという、この有り得ない、いや、この有り難き現実こそ信仰の醍醐味‼
以下、カテキズムからの引用です。(日本語訳が難解でしたので、少し自己の文言で言い換えました)
「詩編の書は神のことばが人間の祈りとなっている書です。
詩編の書では、詩編作者のことばは、神に歌をささげながら、神の救いのわざ、“神のみ旨、神のみこころ”を表しています。
詩編の数々の歌は、神のわざ、“神のみ旨、神のみこころ”をいよいよ高鳴る調べとし、更には人間の共感・共鳴にも力を与えて、両者を美しい調和へと導いてくれます。」
「“主の祈り”の、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』ということばは、神の契約を表す“神のことば”でもあります。私たちは御父のものであり、御父は私たちのもの、私たちのためのものなのです。」
~2025年11月17日~
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*昨今、政界に「特大ブーメラン」なる言葉が飛び交っています。
「特大ブーメラン」は、相手を批判した内容がそのまま自分にも当てはまり、相手への批判や非難が、結果的に自分自身に、より大きなダメージとなって返ってくることを意味しているようですが、あまり品の良い言い回しではありませんね。
しかしながら、「特大ブーメラン」と言い表されているように、「ことば」とは一方通行の情報ではなく、「関わり合うペルソナ」。言葉は、言葉を交わし合う二者間を、自由自在に行き来する「ことのは」です。言葉の授受といいますが、授と受は同義。まさに授は受であり、受は授です。
ところで聖書の「罪」と「罰」は、ヘブライ語でアーボンחֵטְא 。「罪」と「罰」は同じ言葉で表されています。
私たちは「罪」と「罰」は分けて考えます。「罪」は自分が犯した悪い言動であり、「罰」は他者が下す罪の懲らしめと、両者は相対するものであると認識しています。
ところが聖書の世界における此の「アーボン」は、「罪から罰に至る流れ全体」としています。
聖書学者の中には、「日本語とヘブライ語にはこのような大きな隔たりがあるので、完璧な日本語訳聖書などあり得ない」、と仰る方もおられます。
よって日本語訳聖書は、訳者が文脈をどのように判断するかによって、様々な訳がなされてきました。
例えば、弟アベルを殺したカインは、神に罪を指摘され、罰を告知されたとき「私のアーボンは重すぎて負いきれません。」(創世記4:13)と答えていますが、新共同訳では「私の罪は重すぎて負いきれません。」としています。かたや、口語訳聖書では「私の罰は重くて負いきれません。」と訳しています。
しかし私は、この訳の違いにこそ、深遠な摂理が込められているように想います。
罰は、他者が犯罪者に下す懲らしめというより、罪を犯した人みずからが招いた結果であるということです。
ブーメランが投げた人のところに戻ってくるように、罪は罰となって罪人のところに戻ってくることを、「アーボン」が一言で言い表しているのではないでしょうか?
神は罪人を罰せられる厳しい御方であると、私たちは思いがちです。
しかし、神は愛であられます。ただ愛によってのみ存在なされる御方ゆえ、神なのです。
神は、私たちが罰せられるのを観て喜ぶお方ではありません。
むしろ私が負うことができない「罪」、自ら招き入れてしまった「罰」を、御身をもって贖い、いついつまでも私たちを赦し、癒し、回復することを望んでおられます。
私の「罪と罰」を通して、神であるキリストが十字架に付けられた愛の意義深さが、新しい光で観えてくるような気がいたします。(所感)
~2025年11月16日~
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新聖歌102番「主はいのちを与えませり」
主は命を 与えませり
主は血潮を 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ何をなして 主に報(むく)いし
我が家の庭の「ハナミズキ」が、とうとう伐採されることとなりました。
春は愛らしい花で、秋は紅葉で、わが狭庭を彩ってくれた「ハナミズキ」でしたが、昨今の異常気象に耐えきれず、枯れてしまいました。
今年の流行語の候補に「二季」なる言葉があるそうです。もはや日本の気候は四季ではなく、異常高温の後にはいきなり冬が来るといったさまに、日本の動植物・生態系は明らかに痛手を被っています。
木を伐採するとき、植木屋さんは木の周りに「塩」をまき、頭(こうべ)を垂れてから伐採に及びました。「塩」には、お清めの意味合いが込められていましょう。と同時に、「これから、かけがえのない命を頂戴いたします」、ということでしょうか、大自然と自然の動植物に対する畏怖の念に、目頭が熱くなりました。
「いのちを頂戴いたします」とは、「凛として其処に存在した木の“気勢”を、今より後、私の心身の糧とさせていただとうございます」、と同義でありましょう。
西洋の騎士道には、騎士同士の戦いでいのちを落とした騎士の魂が勝者の魂に宿り、勝者をますます強からしめる、という思想があります。
騎士が用いるサーベルの柄(つか)は、十字架の文様となっています。もちろん柄は拳を護るということでありますが、「祈る」ためでもあります。
今しも死にゆく相手に、十字架の柄の部分を差し向けて「確かに貴方のいのちを戴きます。安かれ、汝が魂よ」と、祈るのです。人をあやめることの是々非々は別として、崇高な騎士道精神には深い感銘を受けます。
確かに、聖書の世界でも「死」とは、魂が肉体という衣を脱ぎ、自由自在に関わる自己となっていくこと、いのちを与うる自己になることに他なりません。
「死」による別離はつらく悲しいものです。天国で再会できるのだという希望があっても、矢張り一時の死による別離は、悲しいの一語に尽きます。
しかし「死」を魂のレベルで観るならば、「死」はむしろ、自由なるいのちの授受を実現するものであって、より佳くいのちを生きることに繋がってまいりましょう。
西方教会では、11月は「死者の月」と呼称しています。
死して私たちにいのちをお与えになられたイエスに倣い、私も佳き「死」を想わずにはいられません。
▷11月17日(月)12:15~東京プレヤーセンターにて「Memento Mori~死を静想する」と題してメッセージと独唱讃美をさせていただきます。
~2025年11月15日~
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グレイス合唱団・バッハ「ヨハネ受難曲」公演、合唱団員募集‼
指導者の重見通典先生は、指揮者・ホルン奏者・そして牧師の三刀流を駆使するお方です。
「ヨハネ受難曲」は、「ヨハネによる福音書」のみことばそのものを詠う楽曲です。
重見先生による、みことばの正統的、伝統的解釈のもと、バロック音楽の様式に則った深遠な「ヨハネ受難曲」となりましょう。
この伝統とか様式は、かの時代に作品を留め置くものではなく、むしろ今、この時代に生かすための仕組みと申しましょうか、術(すべ)ではないかと思います。
ゆえに、特に古典の作品には、伝統や様式は必要不可欠なのです。
主の御業とおことばは完成・成就いたしました。
バッハの音楽も偉大な文化の遺産として完結いたしております。
しかしこれらの完成とは、博物館に骨董品として陳列され、納められたということではありません。
永久不変、即ち,変わることなく“今”に深い意味と意義を与え続ける“ことのは”、“生けるペルソナ”に成ったと申せましょう。
我々演奏家は、かの時代に人々が感じ味わったこころのそよぎを、今の時代にお運びをさせていただく“架け橋”です。
如何に時代が移り過ぎようとも、みことばに相対する感動は変わろうはずがありません。と同時に、みことばは、私たちにその日、其の時ならではの新しい息吹を送り続けてくれます。
主のみことばは、そして「ヨハネ受難曲」も、いつの時代の人々にも、「深遠で新しい」‼
皆様のご来会、ご来団を心からお待ちいたしております。
~2025年10月31日~
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詩篇22:篇3節(新改訳) けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
「賛美」は「祝福」と一対になったことば。両者は(エウ・ロギア/Ευλογία~よく言い合う)と表されます。
エウ・ロギアは神と人との対話。神はいつも私たちをご自身との対話にお招きくださっています。
さて、此の“イスラエル”ですが、其の語源は創世記32章に観ることができます。
策を弄してイサクから長子の権利を奪ったヤコブ。(ヤコブは押しのける者の意)
不安に駆られる中、兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡しで神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられました。これが後のイスラエルの国名の由来となりました。
この格闘は、熱心な祈りの力は神をも打ち負かすことを教えていると、私たちは理解しています。
“イスラエル”は、“神に勝たれるもの”なのですが、不可思議なことに私には、此の「神と闘う」ことには、闘争的なイメージは湧き出てきません。
神が、ヤコブの不安、嘆き、自責の念、懇願をすべて御身にお引き受けになられたがゆえに、ヤコブは神によって、こころ安らかにせられ、即ち「神に在って勝利を得させていただいた者」となったのではないでしょうか。
ヤコブから数えて数千年後、イエス・キリストによってそれが更に“具体的”な表れとなります。
イエスはしばしば、悪霊にとりつかれ口がきけなくなった人から、悪霊を追い出され、其の人の心身を回復なされました(マタイ9章他)
これは文字通り、悪霊を追い出したと理解して宜しいのですが・・悪霊の目的は唯一つ~神と神のみことばとの永遠の断絶~です。
人をして造ってしまった大きな隔ての溝・・人の側からは到底修復ができない大きな溝を、イエスが御身をもってその架け橋となり、神との対話を回復なさってくだされました。
即ち、悪霊の業と企みを、イエスが御身にお引き受けになられたがゆえに、私たちは自由なるものとせられたのです。
神が私の負け(負債)を受け入れて下さり、「神によって勝利を与えられしもの」と成ったのです。
これまさに、神にしか出来ない御業ではないでしょうか?
他者の不都合、負債、責任をすべて受け入れて下さるがゆえに、“神”なのではないでしょうか?
私は、あるいは他者の痛み、負債、責任を“受け止める”ことは出来るかもしれませんが、それらを受け入れ、弁済してさしあげることは到底、出来ようはずはありません。
他者の責任を負うことは出来なくても、他者に対する責任だけは果たしていこうと、想わさるるものであります。
即ち此れ、神によって勝利の栄冠を授けられた“イスラエルの民”の使命ではないでしょうか。
イスラエルは、武力や策略で勝利をもぎとる“ヤコブ”ではありません。
対話と友愛によって、調和の美しさを醸し出すべく召された、神のご期待、神のおよろこびです。
~2025年10月31日~
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新聖歌「シャロンの花」
1シャロンの花 イエス君きみよ わが内に開き給え
良き香り麗うるわしさを われに分かち与えつつ
シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え
4シャロンの花 イエス君よ 地の上を覆おおい給え
地の人のみなひれ伏し なれを「主よ」と呼ぶまでに
シャロンの花イエスよ わが心に 咲き給え
イエスとイエスのおことばは、シャロンの花にも勝り、香しく麗しい。
愛と赦しに富みたもうイエスのおことばは、そよ風に乗って世にあまねく、たおやかに届けられます。
地の人みなが、その“ことのは”に心惹かれずにはいられなくなります。
「シャロンの花」を詠うと、“キリストの愛のかおり”が、世に残り無く隅々にまで行き渡り、地の人の皆々がキリストの愛の支配に与るさまを垣間見させていただけます。世界が、“主のおよろこび”、“キリストの愛”として完成いたします。
即ち此れ、キリストが再びお出でになられる「再臨」の光景でもあります!!
ところで昨今、「クリスチャン・シオニズム」という言葉をよく耳にします。
クリスチャン・シオニズムとは、イスラエルによるパレスチナ地方の植民活動、国家建設を積極的に支持するキリスト教徒の運動です。現在クリスチャン・シオニストを主に構成するのは、「福音派」というプロテスタントのグループです。彼らは聖書に記されていると彼らが信じる預言、つまりイスラエルの地をユダヤ人が支配すれば、キリストの再臨と世界の終末がもたらされ、キリスト教徒は救済され、非キリスト教徒(イスラム教徒やユダヤ教徒を含む)は全滅するという信念をもっています。
1948年のイスラエルの建国は、彼らにとっては其の預言の成就であり、聖書に描かれた世界の終わり、つまりキリストの「再臨(Second Coming)」が近づいている兆候と理解されました。
現在も、実にアメリカの6割以上の福音派キリスト教徒が、イスラエルによるパレスチナの完全支配を支援しています。
武力でパレスチナを駆逐しようとする昨今のイスラエルの振る舞いに、国際社会は「あきらかな人種差別と人種差別の一形態」であると非難していますが、シオニズムに駆られたイスラエルと、特にアメリカの福音派の人々には、これら国際法が通用しません。イスラエルは国際法の治外法権ということでしょうか。それどころか、これら一連の軍事行動は「主の再臨を早めるもの」(Ⅱペテロ3:10~13)の一助であるとしています。
しかし本当に、戦いと殺戮の果てに、神の愛の国が完成・成就するのでしょうか。
神の国は、冒頭の「シャロンの花」のように、キリストの愛と赦し(キリストに在る共生、共感)が全地を覆い、いよいよ「時が満ちて」おのずと産出されるものではないでしょうか?
主は、其の愛の実りがたわわに実るのを「私は渇く」と言われんほどに、待ち望んでおられるのではないでしょうか。
あるいは、主の再臨とは、花婿キリストのお出でを花嫁・教会が、ときめきのうちにお迎えするような、このうえもない甘美な刹那であるに違いありません。
私は福音派の出身ですが、主の再臨は「イスラエルの地勢的な支配」によってもたらされるのではなく、「こころのイスラエル」が全地を覆うことで相成ると信じて止みません。
~2025年10月23日~
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新津福音キリスト教会Home Pageに「秋のチャペルコンサート」の記事が掲載されました。
「アポロは一体何者か。パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:5-6)
新津福音キリスト教会(松永優牧師)の皆々様が、心を込めてご準備くださったチャペルコンサートという水田に、私たちも心を込めて「福音」という種を、音楽というフィルターを通して植えさせていただきました。
此のコンサートにご参集くださった方々の心の中に、確かに福音の“ことのは”がお入りくださいました。
主の御摂理のうちに、今回ご参集のお一人おひとりが、最もふさわしい時に信仰の告白へと導かれることでありましょう。
宣教なさるのは神ご自身であられます。米どころ、新潟・新津での「神の宣教(Missio Dei)」を大いなる期待のうちに観させていただきとうございます。
~2025年10月23日~~
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第60回 十字ヶ丘復活苑記念式
十字ヶ丘復活苑(愛知牧場)開堂60年を記念する式典は、天に召された方々の追悼礼拝であり、やがての日、天に召される私たちの「死への備え」を新たにする礼拝でもあります。
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです
信仰の旅路において私たちは、キリストとキリストに繋がる方々との「愛の授受」を幾重にも心身に重ね着をし、聖化に聖化を重ね、やがて天つ御国に至るときには栄光の体へと変えられていきます。
天の御国には、主に愛されしすべての方々が、主の栄光のもとに集められます。
あるいは仲たがいをしたまま別れてしまった他者とも、永遠のときをご一緒しなければならないでしょう。
「死への備え」とはある意味、決着のついていない人間関係を残さないための最大限の努力といえます。
自分を傷つけた人を赦したのでしょうか?
また、自分が傷つけた人に赦しを乞うたのでしょうか。今生、残念ながらそのような方々との再会の機会がないのであれば、主なるキリストにお執り成しを願い、祈ったでしょうか?
此の「死への備え」があればこそ、私たちの「死」、あるいは「死別」は悲しみとなっても、平安、平和に心温められることでしょう。
生と死は、表裏一体。
死への備えができているなら、私たちはどんなときにも「生きる準備」が出来ていることになります。
詳細ご案内
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スロー・スロー・クイック・クイック~Shall we dance?
社交ダンスの「スロー・スロー・クイック・クイック」は、ゆっくり・ゆっくり・速く・速く、ではないとのことですね。
例えば4拍子の楽曲の場合、スローでは2拍でワンステップ+体重移動、クイックでは1拍ごとにステップ+α、といったように、リズムの感じ方と其のアクションの違いが、スロー・スロー・クイック・クイックとなります。
舞踏と音楽は同じ根から生じた二本の幹ですが、歌も全くこれと同じことが云えましょうか。
細かく一拍ごとにリズムを感じながら歌うのと、2拍を大きなゆらぎとして感じながら歌うのでは、全く異なる表現となります。
更に云えば、歌唱においても、スローとクイックとの二者の程よいバランスが大切ではないかと思います。
“スロー・たおやかな大きなそよぎ”でありながら、それが前へ前へと進み行くクイック・・雄大さと促進性と申しましょうか。
雄大さと促進性、この二者のうちどちらが主役か、と敢えて言うならば、やはり雄大さ・スローでしょう。
大きな「ノアの箱舟」が、滔々と前に進み行く光景は、万人共感の心地良さ。
クイック・クイックで息せき切って走り続ける為の「休憩・スロー」ではありません。
前回の投稿で「Pianoはforteに勝る」と記しましたが・・今回も「スローの為のクイックであり、クイックの為のスローではない」と申し述べさせていただきたいと存じます。
~2025年10月25日~
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ピアノ(優しさ)はフォルテ(気丈さ、堅固な意志)に勝る。
音楽表現上、「ピアノは小さく」、「フォルテは大きく」、とされていますが、これらは音量の大小というよりも心の状態といえましょう。
優しさは、読んで字の如し、「人」を「百回」「愛する」と書きます。
「優しさ」を、人の言葉に置き換えるなら、「あなたといついつまでも共にいられることを、ありがとう」「あなたがいてくれて、ありがとう」と、なりましょうか。
「気丈さ」は、「君を絶対に生かしてみせる」「君は凛として在れ」という、渾身のエールです。
「ピアノ・優しさ」は女性性・母性に富む愛。「フォルテ・気丈さ」は男性性・父性に富む愛です。
冒頭、「ピアノはフォルテに勝る」と記しましたが、ピアノがあればフォルテは不要であると申し上げているのではありません。
“フォルテ/気丈さ”は、”ピアノ/優しさ”を、より優しさたらしめるためであって、“フォルテ/力強さ”に”ピアノ/優しさ”を従属させるものでは決してありません。それを言い表さんが為、「ピアノはフォルテに勝る」と記した次第です。
イエス・キリストは、公生涯をお始めになられる前、マリアとヨセフのもとで30年間、人として生きること、人と関わり合うことの美しさを学ばれました。
「聖母子」を描いた幾多の西欧の絵画を見ますと、幼子イエスの養育者はマリア其の方に限定されていると錯覚を起こしがちですが、父母揃ってこその全人格教育です。イエスの人性を育むのにヨセフの存在も不可欠でありました。
ヨセフの「君は凛として在れ」という渾身のエールが、マリアの「あなたがいてくれて、ありがとう」を、無限の溢れんばかりの愛と成すことができたのではないでしょうか。
私も様々な分野の音楽に携わってまいりましたが、昨今は奇を衒わない素朴でやさしい讃美歌を歌うことを「佳し」とするようになってまいりました。
此のやさしいは「易しい」ではなく、「優しい」です。
此の「優しさ」を真に「優しさ」たらしめ表現するために、今後も「凛として」様々な表現技術を学んでまいりたいと思います。
▷スペインのキャロル~カザルス編曲「鳥の歌」
御母マリアに優しく抱かれるイエス。自然で素朴なクリスマスの原風景です。
小鳥たちもピース、ピースと歌い、平和のきみなるイエスのご降誕を寿いでいます。
「鳥の歌」は、チェロ奏者パブロ・カザルスの編曲・演奏によって、世界的に知られるようになりました。カザルス氏は、1971年、世界国際平和デーに国際連合本部で演奏会を行った際にも、この曲を無伴奏(アカペラ)で独奏されました。
カザルス氏は国連本会議場を瞬時に、平和を祈るa cappella、即ちチャペルと成したのです。
~2025年10月23日~
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▷『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』 より
ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duetto致しました。
『Total Praise』・・“Totalは”即ち知性・感情・意志の“全人格”。「全人格をもて主を賛美せよ」、となりますでしょうか?
イエス・キリストもおことばをもって、行動をもって、そして情熱(Passion)をもって私たちを愛し、祝福してくださっています。まさにTotal Benediction ‼
主と私たちの全人格の対峙は、かぎりなく甘美なエウロギア・Ευ Λόγια(佳く言い合うの意)。
十キリストに讃美
~2025年10月14日
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ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』10月13日(月・祝)
『Total Praise』~心と声と行いと生き様をもて、主をほめよ
ご共演のKUZUHAさん(葛葉美奈子さん)から、これぞゴスペルのなかのゴスペル『Total Praise』をご提案いただき、Duettoを致します。(コンサートは全11~12曲の予定)
『Total Praise』・・あえて日本語で云うならば“Total”、「全人格で主を賛美せよ」、となりますでしょうか?
さらに詩的な表現をするのであれば・・「心と声と行いと生き様をもて、主を褒めよ」、となりましょう。
歌詞は詩編121編1~2節を基としています。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」
私は「新曲」に臨む際、楽曲のアナリーゼに先立ち、歌詞である“みことば”を観想せずにはいられなくなります。これも牧師の性(さが)と申せましょうか。
「私は山に向かって目を上げる」。この山は,もはや地上の一か所、特定の山(シオンの山)に限定されてはいません。
人々が主の御名によって集い讃美をするところ、それが「主の山」に他なりません。
四面楚歌となり、心身共に行き詰ってしまったとき・・人は、主と主のことばと主に繋がる方々との関わりのなかで、思いもかけぬ方法で解決へと導かれることがあります。
人は関わる存在。いや、人はいのちといのちを生きる意味を与えたもうた主に関わらずにはいられない存在です。主に愛されし兄姉とともに、主と「ことば」を詠い交わすとき、本当の自己を見出すことが出来るのではないでしょうか。
それが即ち「私は山に向かって目を上げる。~私の助けは、天地を造られた主から来る」なのです。
カテキズムに「世界は教会のために造られた」とあります。
世界は「ものみなこぞりて、相集い、神を賛美する教会」であるということでしょうか。
『ゴスペルとオペラ~妙なる調べ』もジャンルの違いを乗り越えて、自由自在に賛美を詠い交わす、一期一会の教会・「主の山」で在りたいと願っています。
皆様のご来会を心からお待ちいたしております。
~2025年10月2日~
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季節の変わり目は、みことばを注視
歌曲の独唱・重唱は別として・・オーケストラを伴う歌唱、あるいは合唱には、指揮者の存在は不可欠です。
私は合唱の指揮をすることもあれば、歌手として指揮者のコンダクトに与ることもあります。
演奏者は当然、指揮者を見ながら歌い、奏でるわけですが、指揮者に対して「良い見方」と「良くない見方」があります。
私は、歌いつつ指揮者を見る際、指揮者の一挙手一投足を凝視しているわけではありません。もちろん指揮者の指揮棒や手は、絶えず視界に入ってはいますが、一挙手一投足を凝視しようものなら、声が凝り固まってしまい演奏が委縮してしまいます。
むしろ、やんわりと、たおやかに指揮者の“ゆらぎ”を感じ味わわせていただいています。
しかし「ここぞ」と云うときには、指揮者を「注視」します。
ここぞと云うときとは・・D・A・Tの"変わり目”に他なりません。
D~ダイナミクス 音の強弱
A~アゴーギグ 旋律のそよぎ
T~トーン 音色
私たち演奏家は、特に指揮者を注視しなければいけない箇所、いや、注視せずにはいられない箇所に、メガネマークO-Oを楽譜上に記しておきます。
音楽を美しく変容させるためには、その変り目といいましょうか、動機をしっかりと共有する必要があります。
それ以外は、指揮者を感じつつも、のびやかに音楽を闊歩させていただきたいと思っています。
そして指揮者としても、演奏家に対して「よい見させ方」があります。
指揮者は、演奏者に自分を注視させる決然とした理由と態度と示す一方、演奏家を自由自在に闊歩して差し上げる「寛容さ」の両面が必要となります。
いつも自分を「見ろ。見ろ」という指揮者は、良い指揮者であるとは言えません。
此れはまさに、魂の指揮者であるキリストと、キリスト者の関係にも云えることではないでしょうか。
人生の季節の変わり目、曲がり角に差しかかったときには、安全にカーブハンドルをきることが出来るよう、主と主のことばを注視せずにはいられません。
まっ直ぐな道を歩むときには、お優しい主と主のことばが、まるでシャロンの花の香りのように私の心身を覆ってくださっているので、たおやかに自由に信仰の旅路を歩んでゆくことができましょう。
主と主のことばは、間違いのない道しるべであると同時に、私たちの自由なる信仰の旅路を保障する「究極の自由」であられます。
~2025年9月29日~
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『漢字変換の妙』~ゆるーい文章ですので、スルーしてくださって結構です。
東京プレヤーセンターから、お昼の礼拝でのメッセージのお入用をいただき、来る11月17日(月)、今年2回目のご用をさせていただきます。
応諾の意向をお伝えする際、メールでこのように返信いたしました。
「11月17日のお昼の礼拝では、ご参集の皆様方と共に、主をおよろこびさせていただく礼敗となりますよう、祈りのうちに臨ませていただきます!!」
もうお気づきでしょうか。礼拝と書くべきところ礼敗と書いてしまいました。漢字変換ミスです。
東京プレヤーセンター様には、公共のこの場を通して、お詫びを申し上げます。
文明の利器とは全く便利なものでありながら、意外なところに落とし穴があります。
私はまさか、間違えて漢字変換しているはずはないと思い込み、そのまま送信してしまうことも暫し。
でも間違えて送信してしまった「礼敗」ですが・・。取りようによっては言い得て妙。
私は・・イサクの息子ヤコブが、長子の権利を弟に奪われ復讐に燃える兄エサウから逃れんとしてヤボクの川を渡河する際に、神の天使と相撲をとったあの件(くだり)を連想します。
ここでの相撲とは、全身全霊で神に対峙し祈る「心のありよう」です。
ヤコブの祈りの切実さと粘り強さに、神は根負けして「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」と天使を通して言われました。
神を根負けさせ、敗れさせるほどに、篤く祈る(プレヤー)ことを、礼拝、いや、礼敗では求められるのかもしれませんね。
漢字変換のミスの思い出といえば・・敬愛する森一弘司教様を思い出します。
四谷のニコラバレで、クリスマスコンサートのお入用を戴いた際、司教様のメールには「典礼聖歌やクリスマスキャロルは、聞き慣れていますので、出来ればオペラを沢山歌ってください。これは悪魔でも私見ですが、よろしくご拳闘ください」と記されていました。
変換ミスが2か所ありますが、特に“あくまでも”を、“悪魔でも”と記された箇所には、思わず吹いてしまいました。
いや、却って私は、これを送信された司教様の豪放磊落(ゴウホウライラク)なお人柄にすっかり魅せられてしまい、心からお慕いしたいと思わされました。
「悪魔でも」も、取りようによっては、「クリスマスコンサートの夕べは、悪魔の入り込む一点の曇りもなく、ご降誕の主の栄光に輝くでしょう!!」と言い得るやもしれませんね(^^♪
~2025年9月23日~
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NHK朝ドラ「あんぱん」も佳境に入ってまいりました。
主人公のやなせたかし氏、暢さんと温かい仲間たちは、本当に「少年・少女の心を持つ大人たち」ですね。
ドラマを見入るごとに、ほのぼのとした優しい気持ちにさせられます。
少年・少女は「遊ぶ」ことが仕事ですが、よく「動物は大人になったら遊ばないが、人は大人になっても遊ぶ・・」と言われます。
いや、いや、母ライオンが子ライオンと無邪気に戯れているではないか、と言いたくもなりましょうが、あれは母ライオンが子ライオンを遊んであげているのであって、親ライオン同志では決して遊ばないとのことです。
これは私見ですが、・・「遊ぶ」とは「関り」そのものを楽しみ、深めていくことではないでしょうか。
「関わる」ことが一大目的であり、何かのための手段ではないということです。
此れ、まさに子供の心です。
反面、「関り」を、経済を会得するため、テリトリーを拡大するための手段としている人々は、「遊ぶことを知らない大人たち」と云えましょうか。
「少年の心を持つ大人」と「幼稚な大人」は、似て非なるものです。
心が幼く、自己中心的であり、自己の欲求の実現のために、他者を利用し、其の関りを手段とせんとするは、「幼稚な大人」です。
キリストも永遠の少年の心を持たれたお方であられました。
イエスは、キリスト者に対して「懸命に努力をすれば、あなた方を『地の塩、世の光』と呼び、ご褒美として天の御国に招いて差し上げよう」、とは仰っていません。
「あなた方は、既に地の塩、世の光として召されています。貴重な食物に塩味をつけたのち、自らが消えて無くなる地の塩のように、この世に暮らす人々の役に立つ人であれ・・世の光のように、この世に暮らす人々を照らす人であれ。この地を天の御国に勝るとも劣らぬ、愛とときめきで満たしなさい」と仰っています。
「地の塩、世の光として、もっともっと人々と深く、優しく関わりあっていきなさい」とのお言葉が、いついつまでも心にエコーし続けます。
キリストに倣い、私も折々に「少年の心」に立ち返ってまいりたいと想っています。(所感)
~2025年9月23日~
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「メサイア」オーケストラ合わせ、で改めて思い巡らしました。
「メサイア」の“ことのは”は、私(たち)にとってあまりに深遠で、あまりに親しく近しい。この大きなダイナミクスは、到底、人の声で表現できるものでありません。
むしろ、キリストを生きる演唱者から、自ずと醸し出されるものです。いや、みことばそのものが生きる人格者として、演唱者を通して顕れ出でていただけるものです。
演唱者は、キリストに二匹の魚と五つのパンをお持ちした,あの少年のように、「*心と口(声)と行いと生きざま」を主と主の“おことば”の前にお持ちさせていただけば、あとはみことばそのものが、自由自在に時空を超えてお働きくださるのではないでしょうか。
人は皆、少年・少女時代がありました。折々に少年のこころに立ち帰りさえすれば、人は誰しも容易に、「二匹の魚と五つのパンの少年」に成ることができます。と同時に、少年のように純粋かつ素朴にならなければ、深遠な信仰の神秘を垣間見させていただくことはできません。
*バッハの教会カンタータ147番 ( BWV147)の表題
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『メサイア』公演。2025年9月22日(月)
17:30開場 18:00開演
めぐろパーシモン大ホール
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イスラエルは今「ラッパの祭り」です。イスラエルの秋の例祭であるラッパの祭りは、現在ではロシュ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年祭)と呼ばれています。
コリント信徒への手紙第一15章52節~53節~この深遠なみことばを観想する。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
神が主イエス・キリストという形で「受肉」されたとき、創造主と創られし者、死と不死、霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合されました。
さて、肉的なものとは・・肉欲に捉われているということよりも、神との関りを欠き、人間的な判断を中心する生き方です。
霊的なものとは、生活世界の経験、判断、ノウハウよりまず、神との関りを中心に据える生き方です。
霊的なものと肉的なもの、これらが一つに統合された、とは・・霊的な生き方が肉的な生き方を支配して、肉的なものが霊的な御者の“配下”となり、“主人”をより“主人”たらしめる立場に変えられた、と申せましょうか。肉的なものの在りようを変えたのであって、全面否定ではありません。
人間的な努力、経験は尊いものです。目的達成のための不断の努力は、人間力向上に必要不可欠です。
ただ、信仰の世界は「初めに結果ありき」の世界です。
既に私(たち)には、「永生(主と主に繋がる方々との永久の関り)」が約束され、与えられているがゆえに、人間的な様々な経験や努力、そして友愛を、此の永生を指向する“奏で”とせずにはいられないのが、信仰・信心の世界です。
主は、「わたしは渇く」と言われんほどに、其の“奏で”を聴くことを渇望なさっておられるのではないでしょうか。
此の死ぬもの(肉的なもの)と不死(霊的なもの・永生)の繋がりが、上記みことば「死ぬものは、必ず不死を着なければなりません。」ということに他ならないかと想います。
上記みことばの続き~
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
~2025年9月23日~
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『メサイア』公演のご案内。
メサイアの ことのは我に 先立ちて
エマオへ向こう 標(しるべ)とならん
一週間後に「メサイア」公演を控え、心身はいよいよ「メサイア」モードに。
「メサイア」に臨む緊張感は、一種独特のものである。
この緊張感は、バッハの受難曲やカンタータに臨む際の、“みことばをお通しする献身者”としての緊張とは異なるし、体力・気力を駆使する「オペラ」に臨むものとも異なる。
「メサイア」はいわば、アスリートと宗教家の二刀を携え、馳場(はせば)に赴くようなものかもしれない。
メサイアは毎年のように詠わせていただいているので、ようやくと場慣れして、昨今は緊張しなくなった・・と言いたいところだが、むしろ年を重ねるごとに緊張感が増してきたと言わざるを得ない。
全く、困ったものだと言いたくもなる。
ただ私は常日頃、「プレッシャー・pressure」と「緊張・tension」は違うのではないかと思っている。
プレッシャーは、重圧に心身が押しつぶされてしまう状況・状態である。
緊張は、心身の程よい「張り」、と云えようか。
弦楽器も弦も、程よく張っていなければ、佳い音を奏でることができない。
緊張が過ぎると,弦は切れてしまう。
かといって弦を和らげ過ぎると、音も弛んでしまい、愚鈍な音色となってしまう。
これまさに、歌手の心身のありようにも云えることではないだろうか。
そして「メサイア」の音楽と歌詞(みことば)にこそ、私(たち)は、程よい緊張を感じ味うことができる。
「メサイア」の歌詞(みことば)は、私たちの思慮・分別を遥かに凌駕する深遠な摂理である。深遠なみことばは、ただただ恐れ多く、畏怖の念しかない。
且つ又、みことばは妻・子・両親に勝るとも劣らぬ親しさ・優しさがある。
此の「畏怖」と「優しさ」が、緊張と弛緩の程よい「張り」を私たちにもたらし、いよいよ私たちが、みことばに共鳴し、みことばを奏で詠う者とせらるる。
「メサイア」公演では、ご参集の皆様方と、今に凛として活きる「メサイア」の調べを、たおやかに味わい合うことができますように!!
~2025年9月15日~
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讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を詠おう
①ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ
み栄えの輝きに 罪の雲消えにけり
(くりかえし)
昼となく夜となく 主の愛にまもられて
いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ
②主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも
現し世にあらじかし いずこにもみ跡見ゆ
この曲も次回「流山音楽アカデミー」“合唱の集い”で唱和する予定です。
何も事前に演習内容を周知し、「ネタばれ」としなくても宜しいのでは・・とお思いになられるやもしれませんが、いや、むしろ「ネタばれ」した方が良いのです。
以下の演習内容を設計図として、ご参集の皆様とともに合唱という時空間を構築してゆきます。更には此の合唱に天上の天使たちの合唱が呼応すれば、まさに礼拝堂は四次元空間と相成りましょう。
それには、ご参集の皆々様が、共通認識としての同じ設計図を持参された方が、より良いのではないかと想わされます。
さて、この歌詞で云う「死」とは、神と人との関わりの断絶。というよりも、人をして、神を不在とし、自らを疎外と孤独へと追いやってしまった状態を云います。
神を不在にするということは、神によって与えられし「いのち」と「いのちを生きる意味」を否定するということに他なりません。
いのちの羽ばたきを釘付け、氷室に閉じ込めてしまった悲惨極まりない自分のもとに、何とキリスト御自らお尋ねくださり、釘を取り外し(←ご自分がお引き受けになられ)、温かい愛の息吹で氷室を溶かしてくださいました。
キリストの愛の息吹に与ることは、この上もなく「甘美」な体験です。
此の讃美歌が、ロマンチックな抒情にあふれているのは、この「甘美」を表わさんがためです。
しかし此の甘美さは、没我的な溺愛ではなく、永遠の愛、すなわち天の御国を目指す「行動する甘美さ」です。
主イエスご自身のエスコートで、天の御国にむかってバージンロードを歩みゆく甘美さです。
よく、「すべての宗教は、天国・極楽往生を指向しますが、なぜあなたはキリスト教を選ばれたのですか?」と問われることがあります。
私は、「キリスト教は、○○教に比べて、教義的、倫理的にこの点が優れている、というよりも、キリストとキリストのおことばが、私にとって最も親しく温かいお方・おことばであったが故です。」と、お答させていただいています。
そして何よりも、キリストが自分を選んでくださり、究極の愛の完成を目指し、共に歩んでゆきたいとご決意なさってくださった、と申し述べずにはいられません(所感)
~2025年9月15日~
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2025新津福音キリスト教会チャペルコンサート
2016年以来、二度目のお伺いです。
新潟・新津の皆様に再び御目文字賜りますこと、心待ちにいたしております。
▷牧師が読み解くご当地ソング「砂山」
「砂山」作詞:北原白秋 作曲:中山晋平
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海は荒海、向うは佐渡よ、すずめ啼け啼け、もう日はくれた。みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。
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暮れりや、砂山、汐鳴りばかり、すずめちりぢり、また風荒れる。みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。
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かへろかへろよ、茱萸(ぐみ)原わけて、すずめさよなら、さよなら、あした。海よさよなら、さよなら、あした。
文字通り、荒れた海の向こうに佐渡島が見える情景が描かれています。日が暮れると砂山には波の音(汐鳴り)だけが響き、雀たちは散り散りになり、風が荒れる中で誰もいなくなる寂しさが表現されています。
私には、この歌詞は日本版のOld Black Joe.に想えてならないのです。
人生の黄昏時、お友達はみな、天の故郷へ帰って行きました。
もうお外で遊んでいるのは僕だけです。
懐かしい母の声が彼岸(向こう岸)から聞こえます
「ほら僕、もう晩餐の支度が整ったわよ。イエス様も着座なさったわよ。いつまでお外で遊んでいるの。
早くお家に帰っていらっしゃい!!」
母や友らの呼ぶ声に、
「I'm coming, I'm coming~今、直ぐに帰るよ」と、Old Black Joeの如く、応えずにはいられなくなります。
新潟の寄居浜に横たわる荒海は、さながらヨルダン川。ヨルダンの荒波の向こうに見える佐渡が島は、天の御国。
人生の旅路の最期に、今生に悔いなしと森羅に別れを告げて、夜を知らない天つ御国の永遠の朝(あした)に出でたつ光景を観る想いがいたします。
3番の歌詞は「雀さよなら、さよならあした」ではなく、「雀さよなら、さよならVあした」です。此のV・ブレスは、永遠の朝(あした)に出で行く復活の息吹です。
自己解釈が過ぎるでしょうか?
しかし、私たちがどのようなイメージで楽曲と楽曲の「ことのは」に臨もうとも、楽曲の方が遥かに寛容で優しいので、楽曲の方から私たちのイメージに寄り添ってくれるのではないかと想います。(所感)
~2025年9月8日~
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「手のひらを太陽に」を詠う
作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく
ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ (2,3番は省略)
次回の流山音楽アカデミー「合唱の集い」で、「手のひらを太陽に」をお歌いになりたいとのリクエストが寄せられました。
私も幼少期より、「手のひらを太陽に」を何気に歌っていましたが、改めてこの歌詞を“静想”し、予習してみようと思います。
上記歌詞
「手のひらを太陽に透かしてみれば、真赤に流れる僕の血潮。」
ただ単に血が血管を流通しているのではありません。脈打ち流れています。即ち、脈動しているのです。更に云えば・・心ときめきつつ血が流れています。
人には、日々のときめきは必要不可欠です。ときめきがなければ、人生は色褪せた、色のない世界となってしまいましょう。
ときめきは、刺激的、活動的イメージですが・・いや、むしろ「ときめき」と静けさは最も近しい親友同志ではないでしょうか。
家族・妻と食卓を囲みながら、語りあう静けさ。
釣りに興じ、大自然と関わり、森羅と対話する静けさ。
一人、みことばと対話をする静想。
これら静けさには、一つとして同じ静けさはありません。
昨日と違う静けさから、他者に語り、伝えずにはいられないエピソードが沢山、産出されます。他者に伝えずにはいられない「ときめき」を禁じえなくなります。
語り伝え、“詠う”ことで、感動(喜怒哀楽)を追創造し、他者との関わりの美しさとすることができます。
静けさは、自分を最も活動的な、真に雄弁な自己にする秘めたる力があるように想います。
新規なもの、刺激的なものを求め東奔西走するよりも、日常の素朴な出来事や自然や静けさのなかにこそ、今、ここに生きている、いや自他共に生かされている“ときめき”を感じ味わうことができるのではないでしょうか。
まさに、「静中に動あり」です。(所感)
~2025年9月8日~