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主の年2020年9月20日、 中野バプテスト教会主日礼拝
「カナの婚礼の奇跡」ヨハネ2:1~11 
 同箇所は、幾度も説教させていただきましたが、毎回のように新しい「みことばのそよぎ」に与からせていただけます。
以下、説教のほぼ全文言となります。
未だに礼拝・御ミサに与かれない方々の一助になれば幸いです。
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 中野バプテスト教会では、「中野音楽アカデミー」を定期的に催し、地域の方々に智・文化の提供をさせていただいています。(広義では宣教の一環です)
 中野音楽アカデミーの個人レッスンの休憩中、美しくおコーヒーを戴きながら皆様と歓談をしていた際、楽の音に誘われたのか、一人の紳士が入ってこられました。
 その紳士も歓談の輪の中に入り、しばらくお話が進んだところでこの紳士が、「神が確かにおられるという証拠はありますか?」とお尋ねになられました。
 私は咄嗟に「神が確かにおられる証拠は、今、ここに、私が存在をしているということです。いのちはどんなに努力しても自分で得ることは出来ません。いのちは尊い天からの授かりものであり、いのちを生きる意味もまた天からの授かりものです。いのちを生きる意味とは・・かかわるべき人とふさわしい時に、ふさわしい形で出会い、関わり合い、互いのいのちを悦び合うこと。更には、そのいのちを与えたもうた神を共にお喜びすることに他なりません」
 人と人の関わりの頂点は、ある意味「結婚」と云えましょうか。何千万人という異性の中から、たったひとりの〇〇さんと、ふさわしい時に、ふさわしい形で出会わせていただき、生涯を賭して仲睦まじくあるべくご配慮なさっていただける主のご計画は、まさしく「奇跡」と言ってもよろしいかもしれません。
 男女の出会いはもちろんのこと、おおよそ世の中には偶然は存在致しません、人の目に偶然と映ることも、神の眼差しには「必然」以外のなにものでもありません。私を天地の摂理と必然の中で活かしたもう主を信じ、認めずにはいられないのです。
 さて今朝の御言葉です。
 聖書は一貫して神と人の関りを、人が体感しうる最も深い関り、即ち「婚姻」の関係で例えています。創世記のアダムとエヴァの婚姻から始まり、花婿キリストとキリストが愛する花嫁・教会、そして黙示録の「天上のエルサレムの小羊の婚宴」で閉じられています。
 イエスが最初に行われた「奇跡」、カナの婚礼での奇跡ですが、私たちが「奇跡」を観ていくとき、自己の限られた経験とか知識によって判断することは止め、まずは字義通り詠んでいくことが肝要です。
 ある日、イエス様は、母マリアと弟子達とカナという町で行われた結婚式にでかけました。そこでは大勢の 人たちがお祝いに馳せ参じておりました。ご披露の宴もたけなわ、客ふるまうぶどう酒がなくなってしまいました。そこでイエス様は、その家にあった六つの大きな水がめに水を一杯に入れて宴会の世話役の所に持っていくように言われました。すると届けられた水は最良の葡萄酒に変わっていたのです。この奇跡で大切な事は結婚式で水 がぶどう酒に変えられたということにあります。神の手によって水がぶどう酒に変えられたように、私たちの生活も主と主のことばによって全く新しいものに変えられます。水が喜びと力を与えるぶどう酒に変えられたように、主と主のお言葉は、私たちの生活を喜びと力にあふれさせて下さいます。
 ある意味奇跡は、人の思いに先んじ、瞬時に結果をもたらす神の業、と云えましょう。人の努力や研鑽に応じてご褒美をご用になさるに非ず。主はまず答えを先にご用意なされます。
 主はこのように仰います。「わたしの目には,あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)。それ故に、「主に愛される"神の子”にふさわしい自己であるように」と、主は私たちにご期待を寄せられます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイ7:7-8。これも、「門は既に開かれているので、日々、主と主の御言葉との美しい関りを求め続けなさい!!」に他なりません。
 奇跡は、人々の心に気概と真の信仰を呼び起こさんとする 「万軍の主の熱心」(イザヤ9:7)なのです。

 そして「奇跡」のもう一つの側面ですが、それは私たちの生活そのものが、神の救いの経綸に組み込まれた「奇跡」に他ならないということです。
 カナを含むイスラエル・中近東の気候は、主に雨季と乾季に分けられます。
 雨季には、大麦と小麦が収穫されます。乾季には「葡萄」が収穫されます。「えっ、乾季に葡萄?」と思われるかもしれませんが、確かに乾季には雨がほとんど降りません。しかし乾季は寒暖差の激しい季節、それによって夜間、地表は「夜露」に覆われます。この新鮮な「夜露」の一滴一滴の水が、上質の葡萄を育てることと相成ります。
 それ故に、イスラエルの人々は此の「カナの婚礼の奇跡」の記事を読むと、「これは、私たちの生活そのものが神の恵み、天のご配剤である」と、ピーンとくると云います。
 今、私が此処に存在し、イエスの御言葉を生きるものとされていること、更にはイエスの御言葉を携え伝えるものとして、「歩く福音書」として"そぞろ歩き“をさせていただいていることは、奇跡としか言いようがありません。
 既に聖書は完結していますが、私の人生そのものを、聖書のエピローグ(聖書によってもたらされた葡萄の実り)として執筆させていただいていることは、何という恵みでありましょうか。

 みことばの解き明かしとしては順序が逆になってしまいましたが、イエスはマリアに「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、これは説教導入でもお話しした通り、天上のエルサレムの小羊の婚宴、即ち、キリストとその花嫁である教会の婚宴の日が近づいていることを示唆しています。
 今、キリストの花嫁である教会は、婚宴の日が近づいているというのに、葡萄酒が切れている状態です。カナの婚礼の奇跡は、十人の乙女のたとえと同じ意味の終末預言でもあります。終わりの日が近づいているのに、重要なものが無くなりかけているのです。教会に人は来ていますが、日本では100年間にわたってキリスト教は1%の壁をやぶれず、今や牧師になる人が足りないので、無牧の教会が急増しています。まさに、宴であるべき場所に、重要な葡萄酒が無くなっているのです。
(マリアと)聖霊は今、私たちに呼びかけておられます。「このかたが、あなたがたに言いつけることは何でもして下さい」と。
 私たちは「主よ、何をすればいいですか。何でもご命令に従います」と言わずにはいられません。
 主のご命令は決して難儀なものではありません。「あなたがたに新しいおきてを与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34。  
 主は、「私たちが、身近な夫、妻、親子、兄弟、そして“神の家族”と行いと業をもって愛し合い、愛の実りをたくさん産出して、上質の葡萄酒を造り置きなさい。」と仰っておられるのではないでしょうか。
キリストに賛美

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『平和の使者』ルカ10章25節~37節   2020年8月16日中野バプテスト教会

                            稲垣俊也牧師   
 私が神学生であったころ、世界宣教講座の一環として「平和」について考察する機会がありました。
 同じ神学校に在学していた、アフリカからの留学生にインタビューを致しました。
「あなたにとって"平和"とは」? いまだに内紛や銃声の絶えないアフリカであります故、当然「私たちにとって平和とは、戦争が無い状態」とお答えになられるのかと思いきや、「私たちにとって平和とは、教育を受けることが出来ること。ふさわしい教育を施されることによって、自己発展、自己開発が滞ることなく実現すること。自己実現によってこそ、他者理解もまた自ずとできるようになりましょう。言い換えれば、社会における自己の役割を的確に把握することができるようになります」
意外な答えに少々驚き入りましたが、教育こそが「平和」の一大キーワードであるということです。
 さて今朝の御言葉・・
 瀕死の人を前に、祭司もレビ人もサマリア人も、同じように心動かされたはずですが、介抱をするという実際の行動に及んだのはサマリア人だけでした。なぜならば、此のサマリア人は自由な心をいだいていたからです。自由な心がなければ隣人愛を抱くことができません。自由な心こそ、自発的に進んで隣人愛、兄弟愛を実行することができます。
 よいサマリア人は自由な人でしたが、レビ人や祭司はそうではありませんでした。だからと言って二人は悪い人ではありませんでした。ただ彼らは定めや律法の網に縛られた人でした。彼らは自由なこころを知らなかったし、真の宗教の意味を悟っていませんでした。言い換えれば、彼らの宗教の中心は律法でした。複雑な教義体系を網羅することで、信仰を維持できると考えていました。彼らにとって、単純素朴に信じることは、却って不安だったのかもしれません。
 レビ人と祭司は、神殿で供え物を捧げるためにエルサレムに上る途上でした。地面に倒れている人を見ると、どうしようかと迷いもしたでしょう。しかし、道の向こう側を通っていきました。死骸に触れると、神殿での奉仕が赦されないと、律法の取り決めが分かっていましたので、そのままにしておいて離れてゆきました。レビ人と祭司を動かした動機は、「律法」であって「兄弟愛」ではありませんでした。
 主イエスは、「憐れみ」と「愛」に富みたもう御方です。この善きサマリア人の物語において、道に倒れて死にそうになっている旅人こそ私たち自身の姿であり、その旅人を憐れに思い、手厚い介抱をしたサマリア人こそ私たちの救い主イエス・キリストです。
 自由競争の資本主義社会と云えば聞こえはいいのですが、実は、殺伐をした弱肉強食の世界。効率主義や結果重視のこの世の価値観を強いられ、それに打ちのめされ瀕死の状態になっている人を、イエスは優しく介抱をして、福音を“塗油”し癒してくださいました。そして、主と主のことばの育みのなか、新たないのちの関わりへとお招きくださいました。新しいいのちの関りとは・・主によって与えられしいのちと、“いのちを生きる”深い意味を、主にあって喜ぶことです。主によっていのち与えられし人たちが、互いのいのちの大切さを教え合い、尊び合い、悦び合うことに他なりません。私たちは、イエスとの関りにおいてこそ、本当の自己を見出すことができ、自己を自己たらしめることができます。イエスは私の真の教育者であり、その教育がもたらす実りは、究極の平和・平安であります。
◆神の教育は、私たちを「憐れみ」、私たち一人ひとりをご自身の「愛」と成す。
「神は私を憐れんでくださる」というと、神が私の欠点と弱さにも拘らず救って下さるということです。しかし「神が私を愛する」というと、もっと積極的で、私をかけがいのない傑作品としてつくり、神自身が私に魅かれるほどに素晴らしいものにしていただいているということを意味します。確かに私は自分の弱さと欠点ゆえに神様の憐れみを必要としますが、しかし神様は私にご自身の霊を与え、ご自分の子供と言われるほどに私を素晴らしいものにしてくださったのですから、神はありのままの私を愛してくださり、さらに良きものになさろうとしてお導き(教育)なさってくださいます。
 神の教育は、強制的、命令的ではありません。
 主は私の罪を叱責し、私の不都合や不具合を、強制的に正そうとなさる御方ではありません。むしろ、福音の恵みによって罪赦されし誇りと悦びをもって生きていないことを、正そうとなされます。もっと自己を花咲かせることが出来るのに、そしてもっと主に在って、神の家族として自他共に美しく関わり合ってゆくことが出来るのに、自ら手枷、足枷を課してしまっていることを正そうとなされます。
 
 さて私たちの信仰を支える三大要件と云えば・・①みことばの養い ②礼拝式典、ミサ(特にカトリックの方々は御聖体拝領) ③兄弟愛の実践。 どれも大切至極であります。しかしどれか一つ、と言われれば、それは③の「兄弟愛の実践」でありましょう。みことばの研鑽や、礼拝儀式への参加を、「兄弟愛の実践」を断る理由にしてはならないのであります。
「行ってあなたも同じようにしなさい」。まずは、愛に溢れる行動をこそ、イエスのこころで成す一人一人でありたいと想わされます。キリスト者がイエスのこころで互いに助け合い、励まし合い、そして教えあっていくことで、まさしく「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この生活世界が、「天上の平和」のプレリュード(前奏曲)となってまいりましょう。

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「イエスはまことの葡萄の木」ヨハネによる福音書15章1~8節  

          2020年7月19日/中野バプテスト教会    稲垣俊也牧師

 とあるチャペルコンサートの為に自宅で、「私はぶどうの木、あなたがたは枝~♪♪」と歌唱練習をしていましたら、お隣にお住まいにMさんが拙宅のチャイムを鳴らして曰く「今日、山梨の親戚から“巨峰”が贈られてきました。少しばかりですがお裾分けにまいりました!!」~賛美の“ことのは”は、かくもたおやかにお隣さんのおこころに届き、すみやかに当方に実りをもたらしてくれました??
(讃美の“ことのは”が、行動を呼び起こす。まさしく歌うことは、“お言葉どおりのこの身となりますように”と、祈ることに等しい)

 ぶどうの枝がその価値を発揮するためには、木に繋がっていなければなりません。繋がっていれば、必要な手入れがほどこされ、豊かな実を結ぶことができます。私たちが豊かな実を結ぶことができるのは、キリストに繋がっているときであります。

 Bach先生然り。ドイツ語のBachは“小川”。

~ベートヴェン曰く。バッハ氏は小川ではない。大河である。

Bachその方は、小川であるかもしれませんが、神という大海原に繋がることによって、今もなお神の源泉から得た清水が、とうとうと流れ続けている。時代と空間を超えて、バッハの音楽は人々の心身を潤わせ続けている・のであります。

 

 さて、今朝の福音に何度も出ている「実」とは、愛のわざ、愛の行いを意味します。主イエスがいつも願っておられるのは、行いをもって愛することです。「あなたがたに新しいおきてを与える、互いに愛し合いなさい」ヨハネ(13:34-35) 。主イエスは“愛し合いなさい”と義務を強調する動詞を使っています。即ち「愛し合わなければならない」です。主イエスは、あなたがたは互いに好きになりなさい・・とは仰いませんでした。感情は命令しても生まれるものではありません。命じることができるのは行動だけです。

 良い実を結ぶ木は、さらに主ご自身が手入れをなさり、更に良い実を結ばせていただけます。キリストなる木にしっかり繋ぎ留められている私たちキリスト者であっても、思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯すことで、鈍重な枝を張ってしまい、愛の実りを滞らせることがあります。そのような時には、父なる神がなされる“剪定”を甘んじて受けようではありませんか。適切な剪定がなされ身軽になった枝には、木から注がれる“聖霊”という樹液によって、更なる実りがもたらされましょう。

 

 木と枝が互いに繋がっているのは、いのちが木から枝に流れるという“いのちの関係”であるわけです。私たちがキリストに繋がっているということは、イエスが私たちを清め、贖ってくださった血が、今も私たちの上に注がれているということです。

 

 そして木と枝の関係で今一つ想わされることは、枝は枯れても木は枯れないということです。しかし木が枯れると枝も枯れます。そこには枝の木に対する絶対的信頼というものがあります。いのちを賭していのちそのものに依り頼み繋がること・・これこそが信仰ではないでしょうか。

 子が親の胸に力一杯しがみついても、やがて力尽きて落ちてしまいましょう。親が両の手で、しっかと子を支えなければ、胸に抱かれることができません。子は親に絶対的な信頼を寄せます~「私を抱く両腕は、決して離されることがない!!」「親に抱かれ、乳を与えられなければ赤ちゃんは生きることができません。枯渇してしまいます。まことの親である神は、赤子である私に乳を与えて止まない」・・親に対して、その養い(日ごとの糧をお与え下さること)を、信じて疑わないことこそ、信仰と呼ぶにふさわしいのであります。(ちなみに、乳と血は医学的には、同じであるとのことです。母の授乳は、自らの血を分け与えているに等しいことなのです。キリストの業に、さも似たり!!)

 今、私たちキリスト者の内に宿る“愛”は、イエス・キリストの御血と聖霊という樹液が、私たちの内に残りなく隅々にまで注がれ、沁み込んだ“キリストの愛”に他なりません。

~私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。(ローマ人5:5)

~生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)

 即ち、キリストによって知られ、キリストに愛され、キリストに接木され、キリストの愛を注油され、「キリストの愛が、私の心身から溢れんほどに湧き出でるようにされた」・・ということであります。

 

 さてそれでは、少し視点を変えて、今日の御言葉を観て参ります。

愛の賛歌として有名なコリント前書13章で語られている“愛”を、「私たちの内から湧き出でる“キリストの愛”」と読み替えて読んでみましょう。

 

キリストの愛は寛容であり、キリストの愛は親切です。

また人をねたみません。

キリストの愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、

自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに、真理を喜びます。

すべてを我慢し、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

キリストの愛は決して絶えることがありません。

 

 神に認められ、神によって愛しぬかれた私であれば、満ち溢れんほどに神の愛を注がれた私であればこそ、他者に対して寛容でいられます。他者に親切でいられます。自分を高ぶらせることも、卑下することもなく、誰とも素朴に自然に関わらせていただけます。自分の利益を優先することなく、他者のお入用を優先することができます。~となりましょうか?

 

 もっと深くこのことをご理解いただくには、この「愛の賛歌」を、日常の経済活動に置き換え観想してみると宜しいでしょう。

 例えば、人にあげても困らないくらいのお金が銀行に預金してあるなら、気前が良くなるのは当然のことです。自分の魂のバンクには、イエス・キリストの愛が無限大に預金されているので、たとえ一時、目の前の相手から愛情や優しさが感じられないとしても、その相手に対して寛容になれるのです。逆にその愛をお貸し出しすることもできるようになりましょうか。

 神に愛されているという実感、神に愛されるほど、自分には素晴らしい価値があることが実感できれば、目の前の相手から、愛が感じられない時、自分の愛を吸い取られてしまうような時でも、余裕でいられる。寛容で在り続けることができるのではないでしょうか。

 

 神の愛、聖霊に満たされると、自己中心性から解放され、相手の必要を優先させることが可能になってきます。

 残念ながら私も含めて、人の本性は、「自己中心」です。差異はあるものの、エゴイストでない人は、一人としていないのではないでしょうか。

 自己中心性を自分の力で変えることは不可能ですから、相手を優先するへりくだった姿勢は、人の力ではない“福音”に接ぎ木されることと、聖霊の油注ぎが必要となります。

 

 昨今世界は、まるで凍てつく大地の氷室(ひむろ)に閉じ込められた状況と云えましょう。

-40°の世界では、濡れタオルも一回ぐるりと回すだけで、まるで剣のように真っ直ぐに鋭く固まってしまいます。人が吐いた息も、すぐさま凍って星屑のようにキラキラと舞ってしまいます。

 しかし、人の体は決して凍ることがありません、なぜなら心臓から“熱い”血潮が全身に流れ、残りなく隅々にまで行き渡っているからです。

 私たちはキリストに接ぎ木され、キリストの“篤い”血潮に与かるキリスト者。公私にわたって、凍てつくような厳しい状況であろうとも、キリストに在って生き抜くことが、否、生かされ抜くことができましょう。 キリストに賛美

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聖霊の息吹を駆って」ヨハネによる福音書14章15~21節  

                     2020年6月21日/中野バプテスト教会

                              稲垣俊也牧師

先月の5月31日、ペンテコステ礼拝にて聖霊のご降臨をお悦びさせていただきました。以降、教会はクリスマスまで長い「三位一体節」に入ります。特に大きな行事や記念礼拝等はありません。その分、昨年末のクリスマスから行われた教会の様々な出来事、即ち、クリスマス、受難節、キリストの受難、キリストの復活、そして聖霊降臨(ペンテコステ)を思い起こし、その恵みをゆっくり反芻いたします。聖霊降臨をもって、私たちは三位一体の神様の業の完成・成就を観ました。今は、完熟した救いの実りを味わうときです。

 神様は、歴史全体をとおして、ご自身が「愛」であることを人々に知らしめられました。人をして造ってしまった、神との大きな隔ての溝。人の側からの修復は絶対不可能であるという絶望的な状況のなか、神ご自身が、イエス・キリストという肉体の梯子をもってこの地上世界にお出でになられました。主イエスが御身をもって、父なる神と人との友愛の「回復」の架け橋となられました。即ち、十字架の贖いと復活です。まことの神であると同時に「まことの人」でもあった主イエス・キリスト・・その肉体には限界がありました。イエスは肉体という衣をお脱ぎ棄てになられた後、ご自身の霊である聖霊を、私たち一人一人に注がれ今なお、私たちの心の真中にお住まいになっておられます。

 さて、聖霊の働きとして 主に二つあげることができます。

  • 2000年前のキリストがなされた出来事を、今このところで起こる私の出来事とします。

“三位一体節”は、ゆっくりとこれまでの恵みを反芻すると申し上げました。聖霊はまさしく、キリストのことば、出来事を「今」のことば、出来事として深く想い起し味わわせて戴けます

  • キリストのことばが、私の中にお住まいになり、キリストのことばを私自身のことばと成していただけるのも聖霊の働きです。

 このように神様の至れり尽くせりの救いの恵みに与からせていただいている私たちでありますが、聖霊が確実に私たちの中にお留まりになっていただくためには、私たちの果たすべき役割もあります

ヨハネ14:21「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人はわたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身(聖霊)を現す。」

 主イエスが私たちに示された掟とは、「心を尽くして神を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に他なりません。特に後者「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、自分に対する自己愛を、他者に反映せよ、ではありません。私がそうであるように、主によって他者にも同じように、尊いいのちと生きる意味が与えられています。主が愛する他者であればこそ、主ゆえに他者を愛さずにはいられない、その「愛」であります。

 そして聖霊の油そそぎによって、私たちの教会が誕生しました。(使徒言行録9:31)聖霊と共に、聖霊の息吹を駆って、信仰の喜びと誇りを分かち合いながら、天上を目指し航行をしつづける、“現代のノアの箱舟~中野バプテスト教会”でありたいですね。

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『ご復活の主の平安』ヨハネによる福音書20章19~23節     

                     2020年4月19日/中野バプテスト教会                                                                                                      稲垣俊也牧師

 死して死を滅ぼし、ご復活なされた主イエス。2020年復活節、私たちはご復活の主にまみえ、そのお関りを悦んでいます。

 ところで、ご復活の主との出会いとお関りを、究極の“ユーモア”と考えるのは不敬なことなのでしょうか?

 ユーモア研究の第一人者であるアルフォンス・デーケン氏によれば、ユーモアの定義は「~であるにもかかわらず成していく」、であります。わたくし流に言い直すとすれば「絶望の際とも思えるような状況でも、いのちといのちの関わりの美しさを、尚見出さずにはいられない」、となりましょうか。「えっ。このような硬直した状況や、固定化した観念にも、まだこのような関わり方、考え方があったとは・・・」ユーモアとはただ単に面白、可笑しいことを言うことではありません。

 

イエスは十字架上で、苦しみの極みを味わわれていたその時、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と言われました。敵するものとの関わりを断とうとはしませんでした。

 ユダがイエスを裏切ったその時、「友よ。何のために来たのか」と、「友よ、どうして神のときを待つことが出来なかったのか」と、ユダのことをなお“友”と呼ばれました。主イエスは、ユーモアの真の実践者であられました。

 またある意味、「歌」は最大のユーモアと云っても宜しいでしょう。教会は、会衆が心ひとつに讃美歌を歌うことを大切にしていますが、歌は、神と人、人と人が互いに呼び交わす“ことのは”であります。どのような状況下であろうとも、人として関り合うこと、人として在ることの美しさをたおやかに醸し出さずにはいられない・・歌を詠うことは、キリスト者として生きることそのものであります。

 

◇さて今日のみことばを観てまいりましょう。

ヨハネによる福音書

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 

20節~手とわき腹を彼らにお見せになって、これは御傷を残したまま復活なされた主イエスのご様子があらわされています。

主イエスは、私たちの罪をご自身の痛みとしてお受け取り下さいました。御傷は、私の罪を十字架のうえにて贖ってくださった、確かな「しるし」であります。

神様は決して人の欠点や罪をあげつらい、恫喝する方ではありません。かといって人の罪を大目に見る方ではあられません。むしろ、とことん人の罪に対峙し、共に苦しみ~共苦をなされる方です。苦しみ痛みを、共に背負い合うことで、未来に向かってこそ、新たなるいのちといのちの関りを見出されんとなされるお方です。

本当に神秘なことですが、神様は私たちの痛み、苦しみ、無気力、絶望、自暴自棄、ため息、憂鬱などを捧げものとしてお受け取りになられます。私たちにはこれらが恥ずかしく、醜いものと思えますが、これ以外に神様にお会いする術はありません。神様は、私たちの心の深いところで漏らす“ため息”とお会いになられます。

 聖アウグスティヌスはこう言いました。

 「ため息は人にとって大きな力であるが、神にとっては弱点である」

 そうです!私たちのため息は力なのです。しかし同時に、神は私たちのため息に一番弱いということでもあります。母親は子供の悲しそうな泣き声に一番弱いものです。悲しそうな泣き声を聞くと母親はすべてを犠牲にして子供を助けようとします。

主イエスは、私のため息を確かにご自身の食とされ、贖ってくださいました。確かに「神の家族」として「神の家」に招かれたが故の“平安”をお与えくださいました。

 

さて、復活の主イエスは、人に更なるいのちの息吹を与えて止みません。

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 

さて、このみことばに呼応する旧約聖書は、イザヤ書の26章1節から4節です。

お読みします。

イザヤ書(新改訳)

26:1 その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。

26:2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

26:4 いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。

 

3節の全き平安~は

この部分は、ヘブル語原語では、堅固にあなたに信頼するがゆえに、平安、平安。

シャローム、シャロームが2回続けて発語されています。大変興味深いことではありませんか。

まさしく二重の平安なのです。

 

あのご復活の夕、よみがえりの主は弟子たちに現れ、「平安があなた方にあるように」と祝福を二度なされました。

その一つは、先ほどの「手とわき腹をお見せになり」贖われ、買い戻され、義とされた平安であります。

そして、もう一つは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と外に向かって出る、即ち宣教に赴くが故の「平安」でした。

 私たちも社会生活で傷つき、疲れ果てて、帰宅した際には「内に憩う平安」に与かります。朝ともなれば、外に向かい、社会に討って出る平安をいただきます。

 どちらの平安も、両天秤のように大切な平安ですが、あえて申し上げるとすれば、外に向かう平安があるが故に、内なる平安がもたらされると云っても宜しいかと思います。外に向かう平安こそが、究極の平安なのです。 

 

イースター主日の次の主日(復活節第二主日)は、伝統的な教会では「白衣(びゃくい)の主日」と呼ばれています。

復活祭で洗礼を受けた新しいクリスチャンが、新しい信者のしるしである「白衣」を取り外し、教役者と同じように、新しい生活を始める日とされています。罪許されしものから、罪をゆるすものに、更には聖霊の息吹を駆って、罪を赦す福音を宣べ伝えるものとして成長していくことを表します。

 

緊急事態宣言が発令されている厳しい状況の中、今日ご参集の皆様方が、ユーモアたっぷりに“歌いつつ歩まん”と声も高らかに、主と主の御言葉を世にお運びをする“主の全権大使”としてお役目を果たされますように‼ 「平安が、皆様にありますように」

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『試みの世にあれど』    マタイによる福音書4章1~11節 

                      2020/3/29     中野バプテスト教会

本日は「受難節(レント)第5主日」です。イエス・キリストは、福音を宣べ伝える前、40日間断食をされ、試練の時を過ごされました(レントは“断食”の意)。イエス・キリストは、幾度も悪霊の誘惑に晒されました。その際、イエスが悪霊に対してとられた言動は、私たちにとっても強力な武具となります。私たちは聖霊の息吹を駆って、天上のエルサレムへ向かっての航行を楽しんでいますが、同時に悪霊の攻撃から身を守る術を身につけなければなりません。今朝のみことばは、まさに攻守に優れた信仰者となるための“道しるべ”です。
①まずは、第一の誘惑。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と答えられます。
 一見、悪霊は正論をかざしているようにも思えます。「寝食足りて礼節を知る」の言葉通り、人は最低限の文化的な生活が保障されない限り、人として尊厳をもって生きることができません。悪霊は、「生産物を沢山産出して、多くの人々がそれを分ち合う理想郷をお創りなさい」と言っているかのようです。しかし、いくら社会制度を整えようとも、“こころの問題”が解決されない限り、その理想郷は“絵にかいた餅”でしかありません。初代教会の人々も、共産主義的な共同生活を営んでいました。しかしアナニアとサフィラ夫妻は、土地の代金をごまかし私有財産を増やしたことが露見し、神に打たれて息が絶えたとあります(使徒行伝5章)。人は、制度ではなく“こころ”で生きるものです。神は一人一人にかけがえのないいのちと、生きる意味をお与えになられました。神の愛される一人一人であるが故に、私たちもまた“神のこころ”で、互いのいのちを悦び合い、活かし合わずにはいられません。「人はパンだけで生きるものではない」は、神に生かされていることへの感謝と共感を不在にした“パン”には意味を見出しえないと、イエスは仰っておられます。
②そして第二の誘惑。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたの為に天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」。悪霊は、神への全き信頼を勧めているかのようです。しかし、神への過度の信頼は、「神はどんな状況でも速やかにご利益をもたらしてくれるはずだ!!」と、神に対する脅迫、命令ともなりかねません。神は私たちを、賛美と祝福の授受を通して、ご自身の友としてお召しになられています。友と友の間に強制や命令があってはなりません。「あなたの神である主を試してはならない」とは、友としての真の信頼をこそ求める御言葉ではないでしょうか。
③更に第三の誘惑。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」。悪霊は、刹那的な快楽を与える名手です。「この一時を委ねてくれるなら、あなたをこの時代の偉人にして差し上げよう」とまことしやかに告げるのです。しかし福音は、幾多ある思想や、世界の偉人伝の一つではなく、生きて働く“永遠のみことば”です。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とは、「私たちの全歴史に、私の全生涯にみことばがゆっくりと確実に浸み込み、みこころが成就しますように」、と心身に響いてきます。

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分かち合いの徳」

 列王記下4:42~44  ヨハネ6:1~15     

                       2020.2.23  中野バプテスト教会

皆様、ご機嫌よう。

心身共健康が支えられ、守られ、幸いのうちに再びまた皆様に御目文字を賜ることができました。

そのことを主に在って心から感謝をいたします。

ご機嫌ようは、単なる挨拶ではなく、あなたもわたしもまた主のご恩寵のもとに生かされてきたのですね・・と主に在って互いの“いのち”を喜びあう祈りの言葉ではないかとも想わされます。

そのような思いを込めて、今一度、皆様、ご機嫌よう。

私達は、今朝元気に再会を悦びあっていますが、昨今、新型コロナウイルスが大流行しています。一日も早く収束して滞りのない日常生活に戻ることができますよう、心よりお祈りを申し上げます。

◆さて、今年もまた、あの3.11の日が巡ってまいります。東日本大震災では二万人超の方々がお亡くなりに、あるいは行方不明となられました。言葉では言い表すことが出来ないほどの悲しい出来事ですが、しかし今、“毎日”世界中で飢餓のため亡くなる方々が、東日本大震災で犠牲となられた方々とほぼ同数の二万人もおられるということを聞くと、言葉を失います。ニュースにはなりませんが毎日、世界中に大津波が押し寄せていることと同じことなのです。

神は地球上で生産される農産物、海産物では養うことが出来ないほど、人間を増やされ、飢餓で苦しめておられるのか・・神はなんと不条理なことをなさるのか・・と思いきや、実は地球上の生産物は、すべての人間を養うに(計算上は)十分に足りているとのことなのです。それが先進諸国にのみ集中して、発展途上国には流通しないが故に、飢餓状態に陥ってしまうとのことです。敢えて云うならば、分かち合うことを良しとしない私たちが、ある地域を飢餓状態にしてしまっていると云えましょう。

◆私の前任教会の、日本バプテスト連盟茗荷谷キリスト教会の代表執事の方は、関東圏でセブンイレブンを何十社も展開する経営者ですが、彼曰く、消費期限切れで処分をしてしまうお弁当を、発展途上国にお送りすれば、数字的には飢餓が解消されるということです。なるべくお弁当を過剰生産しないよう留意はしておられるそうですが、商品提供が滞ることがないよう“ある程度”の過剰生産はいたしかたがありません。しかし、その“ある程度”の過剰は飢餓を解消できるほどの量であることを思うと、いかに私たちは飽食~飽きるほどに食事をとり、余分なものを捨てているかということが分かります。

◆「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから」マタイ5・3

この真福八端がいう“貧しさ”とは、分かち合いの徳に他なりません。自分をのみ富ませることをやめ、他の人々の窮乏に役立つためには、強制によってではなく、愛によって、物的、霊的善を分かち合うようにという呼びかけともなりましょう。

◆さて、今朝の聖書のみことばですが、分かち合いの徳と題して二つの視点で、共に味わってまいりましょう。

◆さて、あまりにも有名な今夕の福音書の箇所・パンと魚の増加の記事ですが、まずは伝統的な周知の解釈といいますか、切り口でこのみことばを味わって参ります。

◆大勢の群衆はイエスのもとに集まって来ました。イエスは飼い主のいない羊のような有様を深くあわれみ、いろいろと話して慰められました。夕暮れになると弟子たちが群集を解散させようとしましたが、イエスは彼らを止めて「一日中、重荷を忍んだ群集を食べさせなさい」と言われました。これは弟子たちに対してのイエスの試みに他なりません。果たしてこんなに大勢の人々にどう対峙をしようか?

そして弟子たちは、イエスが増やした五つのパンを皆に配りました。人々は食べきれずに残すほどに満足、満腹を味わったという出来事です。

◆共観福音書では、パンを分配するのは弟子たちでありますが、ヨハネの福音書ではイエスご自身がパンをお配りになっています‼

これは、最後の晩餐でイエスがパンを取って裂き、弟子たちに配られたことの前表でありますし、イエスのご復活昇天後の、教会の形成~教会の礼典おいてのクライマックス、頂点である聖餐式を予表するものでもあります。また、「キリスト花婿」と、「教会花嫁」の天上のエルサレムの婚宴の食事風景を先どったものでもありましょう。

◆さて、乏しい食料資源と大勢の人々という、あまりに事をなし難い状況下ではありましたが、一人の少年が、自分の為に持参していた五つのパンと二匹の魚を惜しむことなく、イエス様のもとにもって来ました。この少年のように純粋に素朴にイエスのもとに、私も自分の能力、時間、経済、祈りをお持ちをさせていただくとき、イエスはこれを十二分にお用いになられ、自然的な力をはるかに上回る効果をもたらされます。このことこそ、このパン増加の出来事が物語っていることなのであります

◆私たちも、自分たちの生活世界において、ほのぼのとした奇を衒うことのない素朴な愛の実践をするならば、それは全世界の何十億の人々に福音をお配りすることと同じ「重み」があると、イエスは仰ってくださっているのではないでしょうか?

◆兄弟愛の実践で遠くに行く必要はありません。いや、むしろ今、このところでこそ成していくものでありましょう。

 私が牧会研修を行ったロスアンゼルス日系人教会の牧師は「私がLAで牧師をしているのは、私のそばに彼らがいたからです。主と主のお言葉を日本語でお届しなければならない彼らを無視して、遠くに出かけ宣教活動をすることはあり得ません」と仰っていました。

 人の能力にも時間にも限界があります。しかし私が、主が私に与え給うたかけがいのないこの機会に集中するとき、主はそれをこの上もなくお悦びになり、それを大きく用いてくだされます。

◆さて、ここで私の個人的なお証をさせて戴ければと存じます。

5年前、桶川福音自由教会にて音楽賛美礼拝のご用をさせていただきました。賛美礼拝が終わるや否や、小学5年生ぐらいの男の子が私の前に進み出てこのように言いました。

「先生。今日は、素敵なお歌とメッセージを有難うございました。僕は先日、鎌倉の親戚の家に行ってきましたが、このお饅頭は鎌倉のお土産です。先生に差し上げたいと思います」。少年が二つの鎌倉饅頭を私に差し出した瞬間、まさに全身が震えるほどの感動を覚えました。

 これはまさしく、パンの増加の出来事の再現であり、そして今尚、私の出来事にお住まいになっていただける主のお言葉、おこころに深く感動、感銘。涙が流れるのを禁じえませんでした。牧師自身が、少年の行動を通してみことばに与からせていただきました。往時の少年と何ら変わることのない、桶川の少年の純粋な信心に感動するとともに、牧師のこの一時のささやかな奉仕をも主がお喜びになり、十二分にお用いになられているのだという、主のおこころの触れさせていただきました。

 

◆さてそれでは、今朝の福音を二つ目の視点で共に観て参りましょう。

◆イエスはパンをとり感謝の祈りを唱えてから皆々に配りました。

男だけで5000人。当時、女性と子供は数のうちに入れなかったということ。女性、子供を合わせると10000人はいたのではないでしょうか?

◆ところで、教会の聖餐式の際、40人ぐらいの教会員に数名の役員さんが手分けをしてパンと杯を大急ぎで配餐したとしても1~2分はかかりましょう。(否1~2分では収まりません)

イエスの増やされたパンを弟子たちが手際よく配ったとしても、10000人の人々に行き渡る時間を計算してみましたが、40人を一分として、一万人では250分かかります。即ち4時間10分。

単純に計算するだけでも、全員が夕食を終えるのに深夜をまでかかってしまいます。否、深夜を越してしまいましょう。ましてや、ヨハネの福音書は、イエスご自身がお配りになったと記しています。

◆それ故に、このように観るのは如何でしょうか?

弟子たちが、イエスの増やしたパンを配るのを見た人々は、イエスの奇跡に感動をし、かつまた少年の純粋な信仰に感銘を受け、自分たちもまた持ってきた小さな袋から果物や、野菜や、卵などを出し始めました。イエスのお話をお聞きするために遠征をした彼らが、飲食の用意もせずに遠征に臨んだとは考えにくいところであります。

◆ある人は、余分に持っていたので、隣人と分かち合いました。

分かち合いながら、互いに「ご機嫌よう」と挨拶をしたり、町や村のいろいろなニュースや話題を交わしたことでしょう。

 現場がだんだんと友愛に満ち満ちてゆき、さながらお祭り、大晩餐会のような雰囲気になっていきました。主イエスはそれを見て大いに喜ばれました。この有り様こそ、主エスが望まれたことやもしれません。

◆このように観ると、パンの奇跡を行ったのは、主イエスと群集の協働の業であったのではないでしょうか? 少年の誠意溢れる行動に、イエスが奇跡をもって答え、群集がそれを成し遂げました

◆この一連の出来事を通して、主イエスは、人々が互いに分かち合うときは必ず「ワンダー(驚嘆・驚愕)にフル(満ち溢れる)」ワンダフルなことが起こるだと、主イエスはお教えなられたのではないでしょうか?

◆福島原発は、今回のような事故が起こらなくても、毎日、放射性物質を出し続け、世界中の方々に迷惑をかけています。また被曝する作業員がいて、はじめて稼働させることのできる原発はおかしいし、電力を造り出す方法は他にもあるはずです。 命に対する不安をおかしてまで、エネルギーを造り出さなければならないような環境を神はお創りになるはずはありません。地球上の人間を養う穀物は、この地上には十分あると先に述べましたが、その通り、神は一切不条理なことをなさるお方ではありません。むしろ、既に与えられている糧を、用いる人間の側に大きな問題、不条理があると云わざるを得ません。

 

◆分かち合いによって、ものは却って溢れるのであり、決して減るのではないことをも、主イエスは示されました。このことは、過去から現在に至るまで、そして未来永劫、何ら変ることのない真理であり続けます。

◆分かち合いの素晴らしさ(ワンダーフル)は、いにしえの預言者エリシャの出来事にて知らしめられました。 天上のエルサレムの子羊の婚宴での「とこしえ」の分かち合いを目指し、私達の生活世界を「分かち合いの徳」に満ち溢れるワンダフルな世界として参りましょう。イエス・キリストのよき協働者、協奏者となり、この生活世界を、天の御国の前奏曲として参りましょう。      

♰キリストに賛美

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「生活を濾過するみことば」                      

                 AD2020.1 中野バプテスト教会・稲垣俊也牧師

◇マルコによる福音書8章14節~21節

私ども夫妻はここ数年、富士山麓にある、とある修道院にて、新年を迎えさせていただいています。

規則正しい、静思を中心にした生活を送る中、深遠な呼吸を取り戻し、新年に臨ませていただくことができます。静思は、活動の動機であり源であります。静思があってこそ、活動を真に活動たらしめることができましょう。

さて、この富士山麓、あちらこちらからおいしい湧水が、こんこんとわき出でることはあまりにも有名です。富士山麓の名水として有名な湧水は、富士の高嶺に降り注いだ雨が、富士の複雑な地層、即ち岩、土、砂、石といった様々なフィルターを経て、浄化されて出来上がるものです。湧水として富士の大地から湧き上がるまで、何と100年の歳月を要するということであります。

富士に注いだ雨水がそのまま飲めるわけではありません。ありとあらゆるフィルター、地層を経て浄化されてこそ、おいしく戴くことが出来る名水と相成るわけであります。

さて、今日のみことばですが、ファリサイ派のパン種と、5000人の人々を食べ飽かしめたパンの増加の奇跡の追想が並行します。大変分かりにくい聖書箇所であります。

パン種は大きく膨らみ醗酵するように、神のみことばも際限なく膨らみ、人々の口から口へと拡がってゆきます。

反面、ファリサイ人的な価値観、世界観は、外見的、教条的です。打算的で効率を第一義とします。実績や業績、即ちdoingに対する期待と評価の世界です。内なる心と心の関わり、互いの存在そのものbeing

を喜び合い、育みあっていく世界とは正反対です。

両者は一見相いれないようにも感じます。しかし神のみことばと、みことばへの応答である“信仰”は、その一見相いれないと思われる生活世界、日々の実生活を通して、信仰は本物の信仰として浄化され、精製され、人々のこころの渇きをいやし、うるおいを与える名水となっていくのではないでしょうか?

私たちの生活と云う地層を通して完成する名水を、神はこのうえもなくお悦びになられるに違いありません。

相反する世界観は、実は本物の信仰を生成する為に、むしろ必要不可欠であるということ、両者は表裏一体であることを想わされます。降り注がれたみことばを、唯ものの見方とか、思想の一つとして受け止めるのであれば、実体のない信仰となり下がってしまいます。生活の中でこそ実践をし、浄化を経てこそ、まさしく生活に「土着化」した実体を伴う信仰となり得るのです。

 さあ、主がお創めになられた主の年2020年、初頭にあたり大胆にこのように宣言しようではありませんか。「主が私に注がれたみことばとおこころを、主がお創りになられたAD2020というかけがいのない生活世界へとお運びをさせていただき、過ぎ越しさせていただきとうございます。私たちの生活には、深い意味と意義があります。岩にぶつかるような困難の中で、自己が削り取られ丸くされ、砂のフィルターで浄化され、石のなかを通ってこそ醍醐味あふれる清水を精製することができるのです。この一年を主に在って、醍醐味溢れる最高の味わいとさせていただきたく想います。キリストに賛美。」
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「主のことば、我に成れかし」 ルカによる福音書1章26節~38節      

                AD2019.12 中野バプテスト教会・稲垣俊也牧師

み使いガブリエルを通して、神の御子をお宿しするという大いなる使命に与ったマリアは、「おことばどおり、この身になりますように」と答えます。たった「一言」ですが、全人類の歴史が、この一言に転換させられたといっても過言ではありません。「神は御子をお遣わしなられました」〈ガラテヤ4:4〉。しかしその「からだ」を備えるためには、神は一人の女性の自由な協力を求められました。マリアは実に自由に謙虚に、このお召しに応答しました。
 ガブリエルが告げるには、聖霊ご自身が、御子をマリアの胎に宿すというのです。全人類はみなアダムの子孫であり、アダムが犯した罪の性質を受け継いでいます。通常の分娩によって出産するのであれば、罪の性質をも遺伝することになりましょう。“原罪”の性質を受け継ぐことなく、“まことの神”であり“まことの人”である為には、聖霊による誕生で、しかも乙女を通しての誕生以外ありえなかったのです。人類の性質をリセットする必要があったのです。
 マリアは、自分がこのような祝福に与かる価値がないことを認めています。「私は主のはしためです。」と言いました。けれども、そう言うことによって、自分が主の器になることを受け入れています。 “はしため”ということばは、決して卑下ではありません。自分を低きに置き、主の油注ぎをお受け取りにならせていただくという、実に主体性に満ち満ちた心の態度であります。
 福音は、人をへりくだらせ、また同時に人を引き上げるものでもあります。
 人は、神に憐れまれなければ一分一秒として生きることが出来ない程、弱くもろい存在でありますが、神に繋がれば、内なる聖霊の息吹をかって美しく自己を“花咲かせ”、自由自在に神と神に繋がる人々と関わっていくことができます。マリアは“信仰の母”として、我らに先んじ信仰の正道(まさみち)を示し、歩んでくだされました。
 マリアの「おことばどおり、この身になりますように」は、文字どおり「主よ、あなたのおこころのままにこの身とこの心をお用いになられてください」なのですが、「主よ、あなたのすべては私のものですので、私はあなたを自由に生き抜くことができます」と、気概に満ち溢れるマリアの生き様を表す言葉でもあるのです。
 私たちもまたキリストのお言葉を携える、2019年に生きるキリストの全権大使。全権大使の発言は、即ち本国の発言そのものに他なりません。私たち一人ひとりは、キリストの言葉を携え、世に遣わされているキリストその方であると云っても過言ではありません。
 私たちは、強いられてではなく、自由なる神の協奏者として主のみことばを生きる時、神がみ使いを通してマリアに「喜びなさい。恵まれた方よ」(1章28節)と告げられたように、「○○さん、あなたは神の喜び!」と仰っていただけるのではないでしょうか。
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『行動する愛』 ヨハネによる福音書13章34,35節    

                AD2019.9 中野バプテスト教会・稲垣俊也牧師

唐突ながら質問です。相手のことが好きで好きでしょうがない故に、愛に溢れた行動を生み出していくのか?あるいは、愛に溢れる行動を繰り返すが故に、好きになってしまうのか、どちらでしょうか?

 一見、前者“お相手のことが好きで好きでしょうがない故に、愛に溢れた行動を生み出していく”とお思いになるかもしれませんが、実は後者“愛に溢れる行動を繰り返すが故に、好きになってしまう”のであります!!不可思議なことに、行動をすることによって感情が呼び起こされるのです。もちろん、感情が行動を呼び起こすことが無いわけではありません。しかし行動が感情を呼び起こすことの方が、圧倒的に多いのです。

今朝のみことば~ヨハネによる福音書13章34節35節「あなたがたに新しいおきてを与える、互いに愛し合いなさい」主イエスは“愛し合いなさい”と義務を強調する動詞を使っています。即ち「愛し合わなければならない」です。

主イエスは、あなたがたは互いに好きになりなさい・・とは仰いませんでした。感情は命令しても生まれるものではありません。命じることができるのは行動だけです。

ヨハネの福音書13章は有名な「洗足の記事」から始まっています「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(1節)とあります。主は、その弟子達を最後まで愛しぬき、その表れとして彼らの足を洗われました。

人の足を洗う~これは僕(しもべ)としての行動をとる、ということです。そのとき宴席では、弟子たちは誰が一番偉いかという論争が続いていましたから、私が足を洗うという申し出をすることは、自分は偉くない人間だと認めることを意味していました。だから、誰も席を立とうとしなかったのです。主は、その空気を見て取って、さっと、立ち上がられました。何も仰ることなく、まずは行動をなされました。

主イエスはこのように仰っているのではないでしょうか?「わたしは、隣人を本当に愛しているのだろうか」などと、くよくよ悩む暇があったら、まずは愛しているかのように行動をしなさい。そうした行動をとるや否や、重大な真理が明らかになってきましょう。だれかを愛しているかのように行動すると、本心から愛せるようになってくるのです。」

キリスト者の先人たちには尊敬される方々が沢山おられます。彼らは、最初から出来た人間であったのでしょうか?答えは、否であります。むしろ彼らの偉大さは、どのような状況下であろうとも、対峙しなければならない人々が好きであろうとなかろうと、愛する行動を止めなかったことではないでしょうか。その結果、ゆっくりと確実に、彼らの感情は行動に同化し、愛の人と変容していったのではないでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」 ヘルマン・ホイヴェルス神父が、このように仰っています。「キリストを信じられなければ、キリストを信じる人を信じましょう。」キリストを信じる人たちが、愛に溢れた行動を表し合っていくとき、キリストがそこにご臨在くださいます。そのことこそがキリストをお証ししお伝えする唯一無二の宣教となるのです。そして私たちの信仰も本物の体験となってまいります。

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『主の赦しに倣いて』マタイによる福音書18章21節~35節 

                      AD.2019.8.11 中野バプテスト教会

今朝の聖書は、主人に対し一万タラントンの借金がある家来の物語です。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。この家来は、借金を帳消しにしてもらったので、自分も妻も子も、また持ち物も売らずに済み、そのまま新しい出発ができるようになりました。それは、主君が借金を、「帳消し」、「御破算」にしてくれたおかげだからです。

わたしたちが罪の赦しを信じたり、理解したりするのが難しいのは、「帳消し」、あるいは、「御破算」にすることが難しいからです。通常の人間社会にはありえないことだからです。“情状酌量や譲歩はあっても、帳消しまでは・・”

私たちもある意味、“罪”を帳消しにしていただいていますが、主イエスが施される帳消しとは、御身をもって“贖い”“買い戻すこと”に他なりません。

神と人とは本来親しく近しく、愛を育み合う関係でありました。しかし、人(アダムとエヴァ)は神との関係を破壊してしまいます。すべての生命の源である神と共に生きることを良しとせず、神との関係の外で生きようとしました。神とのすべての関係を断った人類は、いのちの源から生ける息吹を注がれることもなく、自らのいのちといのちを育む環境をも破壊してしまいました。

 人類が招いてしまったこの絶望的な状況を、神は御自ら、十字架上で悲惨極まりないお姿をおとりになることで弁済、清算をされました。人が造りし「罪にみてる世界」・・主イエスはこれを大目に見て、無かったことにしたのでありません。むしろ、ご自分のこととしてお苦しみになり、人が造ってしまった損害を、御身をもってお支払いになられたのです。

神は、全知全能なるお方です。その全能とは、罪深い人間であるにも拘わらず、愛しぬき赦し抜く“力”です。私たちは、この神の完全なる赦しの恵みを信じるところから、信仰者としての第一歩を踏み出だすことができます。

そして、主がそうであられたように、私たちも主に倣い、赦すことのできる自分と成りたいものです。その為に心得ておくべきことは・・

①憎しみの悪循環を断つ。

憎しみとの決別は、他者だけではなく、自分自身をも解放します。 他者を赦すことのできない自分が、他ならない自分を縛ります。

②互いに犯しあった負の歴史、出来事を想起し、共に苦しむ。“共苦”する。

この共苦が「共感」を生みます。共感とは、どこまでもどこまでも(7の70倍まで)未来にこそ責任を負い合っていくことです。                 

日本人は、“水に流す”、すなわち“忘却”をする文化をもっています。日本国民の「忘却された記憶」として国内外から指摘されているのが「従軍慰安婦問題」であり、戦後沖縄の基地問題です。アメリカとて全く同じこと。原爆投下を正当化し歴史の記憶から忘却をさせてはいけません。互いに“負の遺産”を想起し共苦し続けることで、新しい共感、共生の関係が生まれてきましょう。

 

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」                        

これは、人を赦すことが天の父から赦されるための条件であると、教えているのではありません。むしろその逆です。まず天の父が私たちに先んじ究極の赦しをお示しになられました。自分が天の父からどれほど多くの罪を赦されたかを知っているなら、人を赦さずにはいられなくなります。

 

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『キリストを重ね着する』 ローマの信徒への手紙13:12-14    2019.6.23

                                                                                           中野バプテスト教会

私たちは5月、6月「聖書教育」でガラテヤの信徒への手紙を学びました。

律法と福音の違いと、またその連脈を理解することができました。私たちは律法の習得によって「地の塩」「世の光」(マタイ5章)にしていただくのではなく、主からもたらされた福音によって「既に、『地の塩』『世の光』としていただいているので、生涯を賭してそれにふさわしく在りたい」と、想い行動せずにはいられません。

 今朝の「ローマの信徒への手紙」には、生涯を通して“キリストを生きる”(キリストは“油注がれた者”の意)ように召されたキリスト者たちが、まるで十二単のように幾重にもキリストの品性・人格をまとい続け、「聖化」に「聖化」を重ねていく様が描かれています。

 中近東やヨーロッパの人々は、「~を上手に着こなしなさい」という表現を好みます。イタリアオペラ界には、「舞台の塵を吸いつつ、よいテクニックを背広のように着こなせ!」という格言があります。誰の目に観える明らかな「しるし」となさい・・ということです。

 私たちに今、いのちが与えられているのは、ゆっくりと確実に“キリストを着こなす”為であります。

 私たちには様々な願い事がありますが、究極の願い事は、主と主のことばを幾重にも心身にまとい、やがての日、主その方と見間違うほどのキリストに似た姿になっていくことです。

◆キリストを着こなすためには・・

①     キリストの愛に溢れるみことばに共鳴し、他者にお分ちをしていく。

教会が会衆讃美歌を大切にするのは、みことばを自己の充実のみに留めることなく、他者と分かち合い共鳴・共振する為です。私たちの生活世界をみことばに満ち溢れる豊穣なる大地と成す為であります。

人は“関わる存在”です。みことばによって生かされているもの同志が、主に在って互いを悦びあうことで、私たちの信仰は本物の体験となっていきます。

②     洗礼を受ける。

ガラテヤ3:26~27「あなたがたは、皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」

洗礼は、生涯、キリスト者として歩んでいく決意と気概を表明する、個々人に課せられた自由なる信仰の応答です。

しかし、洗礼を受けることは、この上もない神のお望みでありお悦びであります。キリスト者は“公人”として、愛の共同体・教会に加わることで、天上のエルサレムの子羊の婚宴の前味を味わわせていただけます。

⓷互いの罪を共苦(きょうく)しあう。

 「キリストを生きるもの」として召された私たちでありますが、依然として「罪」の性質(12.13節)は残ります。

互いの罪を、背負い合い苦しみ合い「共苦」することは、キリストのご受難の生涯を反芻することにもなります。罪を犯す人がいたならば、自分こそがまず主にあわれまれなければならない弱い存在であることを想い、その痛みをもって互いに勧告しあいましょう。この愛に溢れる兄弟的勧告が、未来に向かって互いの関りを発展させていくことになります。

コリントⅡ3:18「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」

ローマ8:29「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子と同じ姿にあらかじめ定められた」

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『神の成される契約』マタイによる福音書20章1~15節       2017年1月15日 

                        シャロンゴスペルチャーチ
 さて今夕は、ぶどう園の主人が労働者たちと交わした“契約”のたとえ話から、「神が成される契約」と題して、主のおこころを共に観させていただきたいと思います。

 私たちが生活を営む上で“不安”はたえず私たちに付きまとい、私たちをその支配下に置こうとします。
 私たちはこの将来に対する不安を少しでも軽減すべく、国家レベル、個人レベルに拘らず“契約”という形で安心を得ようとします。
 長らく話題になっています、「日米安全保障条約」もその一つです。
 日本が敗戦したとき、日本には軍隊はもちろんのこと、戦争に結びつく恐れのある産業、即ち“重工業”を持つことは禁じられました。
 それまで他国を攻めるほどの軍事力があった日本は、突然“丸腰”になってしまいました。
隣のソ連という大国に攻め入られるのではないかという不安は、当時の日本人すべてにあったことでしょう。そんな中、日米安保条約が成立しました。日本が攻撃を受けた場合には、アメリカが日本を守るというものでした。日本はその条約のおかげで安心して仕事に従事でき、国の繁栄を築くことが出来ました。確かに安保条約はたくさんの問題を抱えていますが、そのおかげで今日の日本があるという人もいます。

 旧約聖書の時代もユダヤ人は将来に対して大きな不安を抱えていました。神様はユダヤの民の不安を取り除くべく、ユダヤ人を絶対安全に守ることを“契約”という形であらわされました。ユダヤ人が不安になるたびに何回も彼らと“契約”を結んでくださったのです。

 有難いことに、神様は人の弱さを察して、神様の方から契約をしたいとの意向を示されています。神様は人の心が移ろいやすく、将来に対する不安も十二分にわかっておいででしたから、絶対に守ってあげたいという安心感をお与えになりたかったのでしょう。
 そのために神様は「非常に頑なな国民」といわれ、神様からの愛を何回も拒絶し、疑った国民をあえて選ばれ、その人たちを守りたいと決断を示されました。
人間の答えに先立って、その頑固さにも拘らず絶対に人間を守り愛するというご意向を示されました。
「出エジプト記」では、人々は何度も主の業、奇跡を目の当りにしながらも疑い、不平不満をつぶやき、あまつさえ“金の子牛”を像を造りそれを別の神として拝むという大罪を犯しました。
そのような国民とでも神様は契約を結ばれました。
それは神様の守りに対して私たちが大きな不安を覚えるとき、即ち自分たちが神を裏切って言うことを聞かなければ、神もまた私たちを見捨てられると思ったときにさえ、神様は私たちを変わらず愛し続け、守ってくださるという約束を思い出させ、意識させるためでした。
 
  日本の文化の中では、契約意識はさほど高くはありません。むしろ日本人は契約嫌いであると云えましょうが、イスラエルの人々のこのような契約の文化の中で“今夕のみことば”が展開されていることに想いをよせつつ、これから共にみことばを紐解いてまいりましょう。
 さて皆さんはこの“契約と其の履行しかた”のたとえを一読して、とのような感想を持つでしょうか。私は、やはり不公平だと思いました。朝早く働いた人と夕方5時から働いた人の賃金が同じであり、しかも、最後に来た者から賃金が支払われているからです。けれども、このたとえを理解するための鍵は、一番最初に出てくる言葉です。「天の御国」ですね。

1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

私たちの側、つまり人に側からこのたとえを読むと、実に不公平な取扱いであります。しかし、天の御国、つまり、神の側からこのたとえを読むと、神のみこころ、つまり神の考えておられることが実によく分かります。

このたとえでは、ぶとう園の主人は神を表しています。そして、労務者は私たち人間です。私たちが、神のために働く者たちとして描かれています。賃金は天国の報いであります。

更に、また夜明けから夕方までに流れる時間は、幼少から老年までの期間を表す表現であります。

 

 一日を、深夜12時から始まり、深夜12時で終わると仮定をすると、私は今何時頃?

3時のおやつ。奉職先の大学の学生諸君は何と未だ“明け方”。軽いショックを禁じ得ません・・・しかし一日の終わりは華やかな晩餐会!!心身ともに満ち満ちて、まどろみ始めるとき一日は終わるのではなく、完成をする。素敵ではありませんか!!
 さて、
神は、何とかしてひとりでも多く、罪から救われて神の国の一員になってほしいと願われているのです。私たちはそのために、何回も何回も福音を聞く機会を与えられました。したがって、雇われる時刻は、私たちがイエス・キリストの招きに答え、救いに与る時なのであります。救われる時期で考えるならば、朝早く雇われる労務者は、いわば、小学生の時にイエスを救い主として受け入れている人です。そして、12時は働き盛りの年代。3時は50代の中堅世代。5時に雇われている人は、老年になってイエスを救い主と告白した人と言えるでしよう。
また、5時過ぎは、人生の今際の床でイエスキリストの招きに答えた人とも云えるでしょう。 さながら、イエス・キリスト共にカルバリの丘で十字架につけられた犯罪人の人生最後のことばの如しです。

「イエスよ。あなたの御国に御出でになる時は私を思い出してください」

「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒にパラダイスにいる」

 

 イエス・キリストは人々が一日も早く神の呼び掛けに答え救いに与ることを望んでおられますが、これは無理にではなく、その人のペース、その人の最もふさわしい時を尊重したうえで絶えず招いておられます。

 

 さて本日のみことばのポイントとなりますが、朝から働いた労働者の不平、不満に対して、主人が言った言葉です。

 

13『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

 

 此のことばによって神と人間のはかり方は、決定的に違うということを知らしめるのです、その違いが知らしめられることで私達の心は開かれ、神の眼差しを持つものとなさせられます。

 

 それではここで、「契約」に関して、人の側の考え方、と神のおこころの違いを観てみましょう。

 

 まず人が交わす契約・・・少々難しい云い方になりますが、人が交わす契約は「消費者契約」と云うことができましょう。

 消費者契約とは、売り手が買い手の需要に納得できる価格で商品、労働を提供する間だけ続く関係です。もっと良いサービス、あるいは同じサービスを、より低価格で提供する売り手が現れれば、消費者は最初の売り手との関係に留まる義務はありません。消費者は、自分の必要を納得できる形で満たしてくれる消費者関係を求めて、絶えず新しい関係に移動をしていきます。消費中心の関係では、個人の必要、企業の有益が、売り手と買い手の個人的な人間関係よりも重要となります。

考えてみれば先程の「日米安全保障条約」にしても、その他私たちが日常交わす“契約”で“絶対的、無条件”なものは一つとして存在しません。
 “契約”結ぶ場合、人間同士の契約はすべて条件付で履行されます。即ちAがBを守らなくなったら、BはAを守らなくてもよいという前提です。すなわち其の契約が、双方に利潤をもたらさなくなれば、契約は破棄されることになります。

 

 かたや神と人が交わす契約・・これは、神と人との関係(かかわりが)、個々人の利益よりも優先する「関係性を優先する契約」です。

例えば、赤ちゃんを世話する親御さん。

親御さんは、一方的に愛情を注ぐばかりで、赤ちゃんからの見返りはほとんどありません。しかし大変で報われないという理由だけで、育児を放棄することはあってはなりませんし、あるいは、他人の赤ちゃんの方が、将来自分に利益をもたらしてくれるであろう才能を秘めているので、其の赤ちゃんの教育を請け負うべくスライドする・・・ということはありえません。何よりも契約者同志の関係、親と子であるという事を最優先にしていく関わり方です。

 

 先程の“喩え話”に戻りましょう。

神は、幼少期より救いに与り、神の協働者として宣教の御業に携わってくれた“元気な子”にも、老年になるまで福音を聞く機会に恵まれず、希望もなく、さまよいながらの人生を送っていた“悲しみの子”にも等しく同じように、おねぎらいを注がれたいとお思いになっておられるのではないでしょうか。

宣教の協力者としてどれだけご自身に利益をもたらされたかと云う観点ではなく、ご自分の子供たちがどのような状況、状態であろうとも、その子に功徳があってもなくても、業績が良かろうと悪かろうと、変わることとなく親と子であるという“関係”をお喜びになられたいのではないでしょうか。

 

 また、神と人の関わりはよく婚姻の関係に例えられますが、夫婦の関係も、個々人に利益をもたらす消費者契約ではなく、その人がその人であるが故に互いに関わりあっていく、即ち「関係性を優先する契約」です。

 残念ながら夫婦の関係は、異性としての魅力、経済的な豊かさで双方が潤う時のみ繋がる「消費者関係」に変わりつつあります。儲けがなくなれば「潮時」とみなして、其の関係から身を引いてしまうのです。これはコモディフィケーション(商品化)と呼ばれるもので、人間関係が、経済的な取引関係に成り下がり、結婚契約とか誓約という考え方そのものが私たちの文化から姿を消しつつあること示しています。

 結婚の契約は、二人だけの関係に限定し拘束するものであります。他の誰にもとって変わることのできない“お二人ならではの関わり”を構築する力があるように思います。

 

 私も結婚をして25年になりますが、婚約時代、あるいは結婚後1.2年は妻の手を握るだけでドキドキしてしまいました。25年たった昨今、妻の手を握ってもさすがにドキドキはしません。

それでは、そのようときめきが無くなってしまったのかと云うと、そうではありません。むしろ鐘を早く叩き続けるような“カンカンカン”という音が、パイプオルガンの太くてたおやかなパイプが共鳴、共振し合うような“ゴーン、ゴーン”という揺らぎ、そよぎに変容していったのです。

 それは家庭という台座に、しっかとパイプオルガンの太くてたおやかなパイプを据え付け、ゆっくり、しっかりと楽器を温め合うが故に奏でうる、交響楽のような、大オルガン協奏曲のような調べであると云えましょう。

 
 結婚式の契約は・・・二人だけの関わりに限定をし、それをたおやかに豊かに堅固にしていく人生を送るのか、高鳴る“ときめき”やその時々の利潤を求めて、あちらこちら彷徨うような人生を送りたいのか・・あなたはどちらを選択しますか・・という究極の迫りのように感じることがあります。

 

 私たちは、神様との関わりあい“契約”を考えるとき、私たちが世間で体験しているような消費者関係のように考えてはなりません。

 神に対して、自分の努力にふさわしい報いをください、其の報いは明らかに他者に抜きんでるものであるはずです・・・という不平、不満もあるかもしれませんが、むしろ逆に、私たちが契約を履行しなくなったら、神様もまたその契約を破棄されると考えてしまいます。弱い小さな私たちは神様の愛もそのようなレベルであると勝手に思い込んでしまいます。

神との契約関係も、「消費者関係」であると思ってしまうのです
 

 自分が神様とのお交わり際、自分が一番心配なのは、自分の弱さというよりも自分が契約を裏切ったときに神様は私を捨てるのではないかという恐れです。 それをよくご存知の神様は、一回限りの完璧な契約を結んでいただいただけでなく、礼拝、ミサという手段を私たちに与えてくださいました
礼拝、ミサは、形式的な行事ではなく、“契約の更新手続き”といえましょう。
 一度限りのこの契約は、永遠に更新されていくものです。何回でも、定期的にこの礼拝、ミサにあずかることによって恐れが取り除かれ、この地上では考えられない“契約的な愛の更新”に気付かせていただけます。礼拝、ミサのなかの様々な行事は、主ご自身の永遠のご決断と契約の表現であり、保証なのです。

 賛美歌は最も顕著に“神の愛の永遠の契約の更新”をあらわすものではないでしょうか。
なぜならば礼拝の中での賛美歌は、自分の一生涯の中で最も新しい息(即ち霊、精神=ルアフ・プネウマ)によって歌われるものです。最も新しい自分の身心に神様の愛がお宿りいただいていることを、歌うことによって確認させていただけるからです。

 

 神は人との関わりを、さながら夫婦の如く、此の上もなく親しく、近しく、永久(とわ)におよろこびになられたいとお思いになっておられます。私たちの今生の信仰生活は、やがて天にて催される天上のエルサレムの子羊の婚宴の前味、プレリュードであります。この地上の信仰の旅路を、神と共に楽しんで参ろうではありませんか!!

キリストに賛美

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  愛の経済活動          2016.4.17 

 

コリント前書13章4節~8節   

本日は、皆様ご周知の「愛の賛歌」(とよばれている聖書の“ことのは”を皆様と共に味わわせていただきたいと思います。

本日の説教題は「愛の経済活動」と題しました。

 愛は、ひたすら他者に貢献し、自分を他者の為に捧げる崇高な行為、~経済はひたすらに他者を駆逐し、自己の利益を追求する人の営み・・両者が反駁(はんばく)することはあっても、相まみゆることなどありえないとお思いになるやもしれませんが、実は「愛」と「経済」は、最も近しく親しく睦みあう“ことのは”と言っても差し支えありません。

今日は、その不可思議さを共に観てまいりましょう。

 

 キリスト教ブライダル宣教団は、ある意味、ブライダル事業と言う経済活動をとおして福音を宣べ伝えていくミ二ストリーであります。

福音~神がイエスキリストとしてこの世に御出でになられたという佳き知らせ~は、教会を通して最も力強く宣べ伝えられていきます。そのことに異論をはさむ余地はありません。

しかし神のお働きになられる場所、機会には際限がありません。 神はご自分のいのちの交わりに人々を招くべく、あらゆる手段や方法をおとりになられます。

 神がご自身の限りない愛をお示しになり、お与えになられる機会、場所は、人々が生きる現場、即ち経済活動の眞中と言ってもよろしいかと思います。

 

日本語の「経済」は英語の"economy"の訳語ですが、この語は古典ギリシャ語のオイコノミーア οικονομία(救いの経綸)に由来します。

私は在って在る者と~と燃える柴の中で、モーセにご自身を表された神。

神と神のおことばの不在を選んで、神の御守りを飛び出してしまい、エジプトの、バビロンの捕らわれ人となってしまったイスラエルの民を救いだされた神。

人自ら造ってしまった神との隔ての壁、人の側から決して回復、修復できないほどに傷ついてしまった神との関係を、神の側からイエス・キリストという肉体の梯子をもって地上に御出でになられ、御身をもって

「隔ての壁」の架け橋となられたイエス・キリストなる神。

そして今なお、聖霊として私たち一人一人のこころの中に臨み、お住まいになっていただける神。

「神のなさることは、時に適って美しい」

神はその時々の人々の状況に応じて、ご自身の救いの御業をなされるお方。人の理解や足並みにあわせて順次、み救いを提供なされるお方。人類の歴史を通して、ゆっくりと確実にご自身の救いを人々に沁み込ませ(さもなくば人類は火傷を負う?)完成なされる神のご計画の確かさ、「たおやかさ」これこそが救いの経綸であります。

 

経済は、家庭や共同体に対する“神のご配剤”を、その時々、折に適ったやり方で、豊かに分かち合うことが、“経済”の原意ではないでしょうか!

しかし、19世紀の産業革命以降、世の中は市場主義に傾倒しました。大量生産、大量消費を覚えた人々は、自分の利益を最大化するエコノミックアニマル(動物)と化してしまいました。

アダムスミスという経済学者は、「人は本来、自己の利益を追求する経済人(ホモ・エコノミクス)であり、経済もまた自己の利益の追求と言える。そこには利他主義(他者を優先し、他者に貢献する)という思想が入り込む余地は全くない・・としています。

人々がもともと持っていた、牧歌的な温かい関わりは、残念ながら現代の経済活動にはほとんど残っていない・・ということでありましょうか?

 

また道教の説く「経済」には、このような意味が籠められています・・・・

【経】とは、はた織り機の縦糸の事で、特に縦糸を強く真っ直ぐに張るのが經(後に経)、ゆるく余裕を持って張るのが【経】だそうです。
そこから、経(經)は「基準」や「常世に不変の理」を指すのに用いられる様になったのだとか。
【済】は、縦糸に横糸を織り込むことで、“完了・成し遂げる”という意味合いになります
 経(經)、即ち神が与え給う「常世に不変の理」「折に適った救いの経綸」という “たおやか”なる縦糸に対し、人々が、 “分かち合いの徳” “共通善の実践” という横糸を織り込むことで、今生の生活世界を、縦糸と横糸の織りなす美しい十時の文様に仕上げ、完成、成就することができよう・・十字はデザイン学的には“完全”という意味合いがあるそうです。

 今生の生活世界を、神の縦糸と、人々の横糸の織りなす美しい十時の文様に仕上げ、完成、成就することができよう・・とインスピレーションが湧いてきます。

 

 こうして観ると、福音~よき訪れ、救いのご計画の極み~は人々の生きる現場、経済活動の眞中のもたらされた、否、経済活動をより良き在り方に回復する為にもたらされた、といってもよろしいかと思います。

 

 さて今度は、此の福音について、しばし思いを巡らしてみましょう。

 福音によって、即ちイエスキリストの十字架の犠牲と、ご復活のいのちに与ることで、私もまた、キリストによってキリストと共に、神の新しいいのちの関わりに生かされる幸いを味わうことができるようになります。

 もちろん、福音の理解はそれで間違ってはいませんが、福音には二面性があることを、ここで改めて教えられたいと思います。

 福音は、人々を謙遜にさせ、また同時に人々を花と咲かせます

 福音が伝えられると、私は実に自己中心的な罪人であることが示されます。自分は他人とは違う善人だ、などと思いあがった幻想は打ち砕かれます。結局自分は、先ほどのホモ・エコノミクス、自己の利潤のみを追求する、自己満足、自己充足人間であることを痛いほどに示されます。

 と同時に、それまで想像もしなかった、もっと大きな愛と安心で満たされます。業績を重ねることで、自分の価値を獲得する必要はもはや無いのであります。ひたすらなる利潤追求に、自己のアイデンティティを見出だす必要もなくなります。

 イエスが十字架におかかりになられるほど、主が私のことを愛して下さっています。過剰な自己努力という手枷、足枷を主が御身をもって身代わりとなってくだされました。

また逆に、自己の可能性、素晴らしさに身切りをつけ、自らをしてその羽ばたきを釘づけにしてしまった私の為に、イエスが御身をもって身代わりとなってくださった。それほどまでに私のことを愛してくださっている。私が私ならでは、大輪の花を咲かすように・・もっと大空を羽ばたくことができるよう、神が私のことをご覧になってくださっている~そうして得られた安心はなにものにも変えられません。

また、神に「あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言われ、神に認められている賞賛は、誰にも奪われることはありません。

福音によって、私は最大の賞賛を自由に受け取れる存在になりました。

また、同じように神に愛され慈しまれている、高価で尊いものと神に認められた他者に対して、自由に賞賛を与えることができます。

 

 さて今夕のみことばです。

愛は寛容であり、愛は親切です。

また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、

自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに、真理を喜びます。

すべてを我慢し、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。

 

ここで語られている愛、人々が互いに交わし合う愛は、即ち“私の中に沁み込んだキリストの愛”であります。カール・バルトは“私たちの中に沁み込んだキリストの愛”を、次のみことばから導き出しています。

ローマ人への手紙5の5~私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。

ガラテヤ人への手紙2の20~生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。

即ち、キリストによって認められ、キリストに愛され、キリストに接木され、キリストの愛に満ち満ちた私・・ということでありましょうか。“愛”を“私たちの中に満ち満ちたキリストの愛”と読み替えて今一度詠んでみましょう。

 

キリストの愛は寛容であり、キリストの愛は親切です。

また人をねたみません。

キリストの愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、

自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに、真理を喜びます。

すべてを我慢し、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

キリストの愛は決して絶えることがありません。

 

神に認められ、神によって愛しぬかれた私であればこそ、他者に対して寛容でいられます。

他者に親切でいられます。

自分を高ぶらせることも、卑下することもなく、どちら様とも素朴に自然に関わらせていただけます。

自分の利益を優先することなく、他者のお入用を優先することができます。~となりましょうか?

 

 これを経済活動に置き換えてみましょう。

 例えば、人にあげても困らないくらいのお金が銀行に預金してあるなら、気前が良くなるのは当然のことです。自分の魂のバンクには、イエスキリストの愛が無限大に預金されているので、たとえ一時、目の前の相手から愛情や優しさが感じられないとしても、その相手に対して寛容になれるのです。逆にその愛をお貸し出しすることもできるようになりましょうか。

 神に愛されているという実感、神に愛されるほど、自分には素晴らしい価値があることが実感できれば、目の前の相手から、愛が感じられない時、自分の愛を吸い取られてしまうような時でも、余裕でいられる。寛容で在り続けることができるのではないでしょうか。

 

 神の愛、聖霊に満たされると、自己中心性から解放され、相手の必要を優先させることが可能になってきます。自己中心性を自分の力で変えることは不可能ですから、相手を優先するへりくだった姿勢は、人の力ではない“福音”のご介入、油注ぎが必要となります。

 

 それでは「自分の幸せよりの幸せを優先したら、自分には実際どんな得があるのか」と疑問が生じてまいりましょう。   ~どのような得があるのか?

 結論から申し上げますと、それは「本当の幸せを体験できる得」「相手に与えて得られる得」です。

確かに、自分だけを満足させ富ませることは、「もっと欲しい。もっと満足したい・・」と更なる渇望を呼び起こします。そのこころが満たされることは無いでしょう。

輪廻ということばをお聞きになったことがあるかと存じます。輪廻は、もともと仏陀の説いた教えにはありませんでしたが、インドの思想・文化を相俟って、仏教世界のなかで徐々に形成されていきました。

 ある意味輪廻転生は、永遠に続く“生き地獄”であると云えましょう。今生、成しえなかったことを、来世でもう一度やってみたい。今生、満足できなかったことを、来世でこそ満足を得たい。

「もっと、もっと、もっと」と永遠に満たされることのない、心の状態であります。

 しかしその仏教では、今生に対する煩悩が消え失せ、涅槃の境地に至った時、“輪廻”も終わるとしています。

しかし、分かち合うこと、与えることは如何でしょうか?~それがささやかな思いやり、親切であっても、ほのぼのとした喜びがあります。こころの満たしがあります。

 

キリストによって認められ、そのご愛に満たされ、尚且つ他者にその愛を分かつ自分とされたからには、何にも変えられがたい、こころの充実が得られましょう。

仮に輪廻があったとしても、私たちにはもはや必要ではありません。キリストによって生きる意味・意義を十二分に知らしめられ、キリストにおいて私の人生を充実のうちに完成させることができましょう。

 

♪♪キリストには変えられません。世の宝もまた富も。このお方が私に代わって死んだ故です。

 世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには変えられません。世のなにものも。

 

 キリストには変えられません。如何に美しいものも。このお方でこころの満たされてある今は。

の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには変えられません。世のなにものも。

此の歌詞は~

キリストの愛に接木され、キリストの愛に満ち満ちたものとされた私は、世の経済も、財産も、美も、自分を満足させる為ではなく、キリストとキリストに繋がる方々と豊かに分かち合い、より良く関わり合う為にこそ、用いていくことができます。いや、用いずにはいられません~と、私たちの心に共鳴をします。

 

お祈りをいたします。

天の父なる神様。今夕のみことばを感謝いたします

愛されている体験は、空気のように必要不可欠で、それがなければ人は生きることができません。幸いなるかな、私たちはキリストに知られ、キリストに愛されるものとされました。なにものにも代えられがたい心の満たしを得さえていただいた私たちなれば、それを豊かに分かち合い、日々、喜びに喜びを重ねる者と成さしめたまえ。イエスの御名によって祈ります。

 

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ルカ19章8節の意味。著者ルカの意図とは。

 

「エルサレムへの道」の最後を飾る「失われた人」(10)の救いの記事。主人公のザアカイ(2)は、徴税人頭としてユダヤ人社会から排除されているという点で物乞いの盲人の救い(18:35-43)と好一対をなしています。

 またザアカイは「金持ち」という点では、富める役人の物語(18:18-23)と好対照を示します。 ローマ人は、彼らの大帝国の資金を調達する為に、支配下にあるすべての民族に重い税を課しました。生まれながらのユダヤ人は、ローマ帝国の「取税人」として働くことを選ぶと、裏切り者と見なされました。そのうえ、取税人達が、同胞ユダヤ人たちから金を余分に取って、自分たちを富ませていたことは、誰もが知っていることでした。

 イエスが取税人ザアカイの家に行かれたとき、人々がつぶやいたのは少しも不思議ではありません。しかしザアカイが詐欺師であり、裏切り者であったと云う事実にもかかわらず、イエスは彼を愛しました。そしてそれに答えて、この取税人は回心したのでした。

 あらゆる社会において、政治的見解や不道徳な振る舞い、生き方の為に「触れてはいけない人々」と見なされている彼らをこそイエスは愛しておられ、彼らにはイエスの福音を聞く必要があるのです。

 5節のイエスのおことば「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」は、直訳すれば「泊まらなければならない」であり、〈今日〉とともに、あらゆる人々に救いが到来したことをイエスは告知されています。

 8節はザアカイの罪の告白と悔い改めである。〈立って〉イエスを〈主よ〉と呼ぶのは、公衆の前での信仰告白です。彼の決心は〈財産〉を〈貧しい人たち〉に施すことと、罪の償いに及びます。財産の〈半分〉を施すのは異例で、通常は3年ごとに10分の1(申14:28-29)でした。義人にとっての施しは不可欠の善行とされ、ラビたちは収入の5分の1を目安としました。〈だまし取った物〉は「ゆすり取った物」の意(3:14)。この語は「いちじくの実」と「明らかになる」の合成語で、「いちじくの桑の木」(4)との語呂合わせです。「いちじくの実」ならぬ「悔い改めの実」(3:8)をザアカイは結ぶこととなります。

〈4倍にして返す〉のも異例の償いです。通常は1.2倍(民5:7)。〈4倍〉は強盗の場合に適応されます(出エジプト22:1)。このような数値は、彼の悔い改めの徹底ぶりを表しています。ザアカイはこのような具体的な数値を示しつつ、外に向かって行動することで、内面の変化をはっきりと自他共に知らしめました。

 

 頭と観念だけでイエスに従うのでは不十分と言わざるを得ません。ある意味、行動が変えられることをもって信仰を示さなければなりません。私の信仰は行動に直結しているのでしょうか?

 信仰は、行動として他者に示し表すとき、否、示し表せばこそ、本当に自分の体験として所有することが叶いましょう。

 

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ルカ4章の「貧しい者の福音」の「貧しい者」とは誰のことか

 

  ルカの福音書4章18節19節は、ルカによる混合引用(イザヤ61:1、58:6、61:2a)であり、彼のメシア・イエス像の核心を成します。神の霊の注ぎを受け、また神から油注がれた者(キリスト)となったのは、“貧しい者に福音を告げ知らせるため”。

 “貧しい人”は〈捕らわれている人〉〈目の見えない人〉〈圧迫させられている人〉などの総称であり、それぞれがすべて社会的・経済的、更には宗教的に排除されるか、周縁化されている人々です。彼らに人間としての〈解放〉〈回復〉〈自由〉〈赦免〉を与えることが即ち〈福音〉であります。

 イエスが引用なされたイザヤ61:1、2では、イザヤは、バビロン捕囚からのイスラエルの救出を、ヨベルの年のように描いています。この年、すべての負債が取り消され、すべての奴隷が解放され、すべての財産が元の所有者に返されます(レビ25章)。

 しかし、バビロン捕囚からの解放は、期待された実現をもたらしませんでした。彼らは未だに征服され、迫害されていたのです。イザヤは更に、将来のメシヤの時代に言及しています。イエスは大胆に宣言しました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおりに実現しました。」(ルカ4:21)。

 イエスがユダヤ教会堂の中でイザヤ書61:1-2を音読しているとき、イエスは61:2の途中、「主の恵みの年・・」の部分で読むのを止めると、巻物を巻き「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおりに実現しました」と言われました。61:2の次の句「われわれの神の復讐の日・・」というのは、イエスが再び地に戻られるときに実現します。イエスの時代から現代に至るまで、私たちは“今”神の恵みのもとにあり、神の怒りはまだ訪れていないのです。救いの時、恵みの日である“今”こそ、救いに与らせていただくまたとない機会なのです。

 

 ところで「真福八端」がいう貧しさとは、「分かち合いの徳」のことです。それはある人々の豊かさがある人々の窮乏に役立つ為に、強制によってではなく、愛によって霊的な善を分かち合うようにとの呼びかけであります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」(マタイ4・4)。地上には「パンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主のことばを聞くことができぬ」(アモス8:11)飢えと渇きを持った人がいます。

 キリスト者は、すべからく“貧しい者”となり、これら「貧しい人々」に福音を告げ知らせるように、との迫りを感じずにはいられません。

 

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「人の子の到来は、いつ実現するのか」

                         

 マルコ14章62節は、大祭司の「あなたはほむべき方の子、キリストですか」との問いに、イエスの“そうです”、実際は「私が(それで)ある」に始まり、「(あなた方は)見るであろう、(つまり)人の子が力の右に座し、そして天の雲と共に来るのを」と続きます。「力」は神を賛美するときの術語であり(黙4・11)、またマルコ12・36の「私の右に座せ」に対応するので、「神」の言い換えと観てよいでしょう。故に、天上における神の右への即位と“終わりの日”の審判者としての到来が云われています。しかも「あなた方は見るであろう」は、今、イエスを裁く人が、やがて終末論的審判者として来るイエス自身によって裁かれることを告げます。

 

 同箇所の並行箇所である、マタイ26章64節、ルカ22章69節では、

「人の子」についての言葉は、詩篇110篇・1とダニエル7章13節の組み合わせで、今は屈辱の中にいるイエスが間もなく勝利者とし神の全権を委託されて出現することと述べています。

 そのダニエル7章13節は「見よ。人の子のような方が天の雲にのってこられ・・」とありますが、“人の子のような方”は伝統的にはメシアを指すと考えられ、新約聖書では“メシア”であることに議論の余地はありません。

 しかしながら、“人の子のような方”は、アラム語の「バル・エナシュ」、ヘブル語の「ベン・アダム」に相当します。これは単に「人の子」あるいは「一人の人間」ばかりでなく、「人間に似ているもの」を意味しており、ダニエル書7章3-7の文脈から見て、四頭の獣に象徴されている四つの異教の王国に対比する「神の聖なる民」(18・27)を示す象徴でもあります。四つ目の獣はローマとその終わりの時を指し示しますが、このことは“神の聖なる民”が、“人の子”によって死にさいなむ者から勝利を得さしめられたことを表わしています。

 神の国は、人となられたみことばにあって更に近いものとなり、福音書全体をとおして告知され、キリストの死と復活によって、既に到来しているのです。

 

 このように神の国は、キリストの再臨による最終的到来と云う側面と、イエスの最後の晩餐以来、感謝の祭儀の中でも到来しており、私たちのただ中にあるという二面性があります。

 このことは、“天上のエルサレムの子羊の婚宴”が未だ完成してはいないものの、今このところから始まっていることを示します。

 天上を指向するということは、この地上の生活を世捨て人のようになおざりにすることではなく、むしろ天上の至福に与る者にふさわしく在りたいと想い、振る舞うことになりましょう。

 私たちは、未だ此の婚宴に招かれていない人々を一人でも多くこの教会という“大船”にお乗せし、天上の婚宴への航行を共に楽しんでまいりたいと思います。

 

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マタイ16章・18章に出てくる教会の意

                         

 「教会」という語は、使徒行伝、手紙、黙示録ではしばしば出てきますが、福音書ではマタイ16章18節と、18章17節だけに出てきます。16章における「教会」は、主とシナイ山で契約を結び主に導かれて約束の地に入った「神の民」という旧約聖書の概念に符合します。「教会」はギリシャ語のエクレシア“呼び出す”に由来し、「招集」を意味します。この語はギリシャ語旧約聖書の中で、選ばれた民の神前集会、とくに、イスラエル民族が律法を授かり、神の聖なる民とされたシナイでの集会を表すため、繁雑に用いられています。

 教会をつくるのは神、イエスであって、私たちがつくるのではありません。召し集められた民で、集まってきた者の群れではありません。

 イエスがご自分の教会を立てる岩については、おそらくは、教会指導者としてのペテロに当てはまるようです。ちょうどペテロがキリストの正体を明らかにしたように、イエスもまたペテロの正体と役割を明らかにされました。後にペテロは、キリスト者は使徒と預言者という土台の上に建てられており、イエスが・キリストがその礎石であると言っています(Ⅰペテロ2:4-6)。すべてのキリスト者は、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、ペテロがここで述べた同じ信仰によって、この教会を構成することとなります(エペソ2:20-21)。イエスはペテロをこの信仰告白のことで褒めました。キリストの御国の土台は、ペテロのような信仰です。

 18章での「教会」は、私たちに対して罪を犯す人たちに対して対処するために、地元の地区、あるいは更に広い範囲から集められたキリスト者の団体を表します。

 18節の「つなぐ」「解く」は、争いごとについての教会の決定です。信者たちの争いは教会でとどめ、裁判所までもっていくべきではありません。問題解決の為、神の導きを求め、神の方法で問題に対処することは「今」のみならず、永遠に及ぶ影響を与えることとなります。

 

 神は確かに私たちの過ちを大目には見て下さらないでしょう。しかし、神は私たちを告発されることはありません。私(たち)が、他者を告発する時には、他者の罪を断罪し、「有罪判決」を言い渡すことになります。しかし神の「かかわり方」は違います。神はご自分の裁きを私たちに言い渡すことはなさりません。むしろ、私の心に住んでおられる聖霊によって、私たちの過ちを自ら判断できるようになさっていただけます。

「教会」という場でこそ、聖霊のおはたらきを期待するところの「兄弟的勧告」が実現するのではないでしょうか。

 

 

 

 

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