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「キリストのこころで」 マタイによる福音書25章35~40節。

 主の年2023年3月5日/中野バプテスト教会主日礼拝 説教者:稲垣俊也

 

 私たちの社会では名誉名声が強調されます。新聞やテレビでは次のようなメッセージが、流れ続けます。

「あなたが作家であろうと、俳優であろうと、音楽家であろうと政治家であろうと大事なことは有名になり、皆から注目されることだ。偉大な人と称賛されることだ」

 しかし本当の偉大さとは、しばしば目に見えない謙虚で素朴で控えめなものであります。最も偉大な芸術作品や最も重要な平和のための事業のいくつかは、脚光を浴びることのない、脚光を求めることのない人々によって生み出されました。

 人の心に残る、偉大な業、偉大な様は「優しさ」ゆえに成したことではないでしょうか?

 ダックス先生と40人の子供たち~小学館 の中から「なかにししゅうすけ君」という小学校一年生の書いた詩があります。

「えらいひと」

「えらい人よりやさしい人の方がえらい。金のある人よりも金のない人のほうがもっとえらい。なぜならば、金のない人はさびしい中でよく生きているからだ。」

 しゅうすけ君のまなこに移る偉大さとはお金や権力に任せて、他者を意のままに操る人ではなく、やさしさをもってよく生きる人々でありました。

 マザー・テレサしかり。マザー・テレサはカルカッタの路上で今しも死に行く老人の言葉、「わたしは渇く」という言葉の中から主イエス・キリストの御心と観ることが出来ました。あの貧しい人々に対する献身的なやさしさが、世界の人々のこころを揺り動かしたのであります。

 マザーは現役東大生の尊敬する人ランキング第2位です。第一位は米アップルの共同創業者としてiPhoneを世に送り出した伝説の経営者、スティーブ・ジョブズ氏。

 非キリスト教国の日本ですら、マザーの生き方は最も尊敬に値するものであると、感動を与え続けています。

「私の兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」マタイによる福音書の25章35~40節。

 “キリストが愛する人”に示した優しさは、キリストその方になしたことと全く同じであると仰ってくださっています。キリストは世界中の全ての人々を愛してくださっています。私たちの日常の素朴な個から個に対する優しさは、キリストのこの言葉に繋がり、「あなたの優しさは世界大の愛である」と仰ってくださっています。

 

さて・・

 キリストのおやさしいおことばと、お心とその生き様が記された聖書。今なお世界のベストセラーであります。

 2000年にわたって。ベストセラー売り上げナンバーワンの書物が聖書以外には見出しえません。

 

「聖書は史上最高の頒布数を誇る本である」。―ワールドブック百科事典(英語)。

 

 今から550年以上前,ドイツの発明家ヨハネス・グーテンベルクは活版印刷を始めました。その印刷機から生み出された最初の大作は聖書でした。  それ以来,ありとあらゆる種類の無数の本が印刷されてきましたが,聖書は他をはるかにしのぐ,全く別格の存在です。

 聖書(全巻あるいは一部)はこれまでに推定47億冊以上印刷されています。頒布数第2位の「毛沢東語録」の5倍以上です。

 最近の1年間だけで,聖書の全体または一部が5,000万冊以上も頒布されました。「聖書は毎年,年間ベストセラーとなっている」と,ニューヨーカー誌(英語)は報じています。

聖書の全巻あるいは一部は,2,400以上の言語に翻訳されてきました。聖書の入手可能な言語をすべて合わせると,世界人口の90%以上をカバーできます。

 聖書は,政治当局による禁令,宗教上の反対者による焚書,批評家からの攻撃といった試練に耐えてきました。それほどの反対を受け,しかも生き残った本は,歴史上ほかにありません。

 これはまさに、聖書が「いのちのことば」として生き続けているがゆえに、成されるのであります。

 おやさしいキリストのことばに満ち溢れる聖書。

 キリストは・・「あなたの優しさが、お優しいキリストのことばを今、2023年にお運びしているのですよ・・」と、仰ってくださっています。

 あなたの優しさは、今にキリストの優しさを運ぶ「ノアの箱舟」「イスラエルの契約の箱」なのですよ・・と、仰ってくださっています。

 

 さて、私たちがお互いに交し合う優しさとは?

 ただ単なるヒューマニズムレベルではありません。

 主は、主の愛される人々にいのちを賭して、いのちといのちを生きる意味を与えられました。主が愛される他者を、主の愛ゆえに愛さずにはいられない「優しさ」であります。

 私の母は、妻久美子と大変良好な嫁姑の関係でした。一般的な嫁姑の緊張関係はありませんでした。さながらルツとナオミのような

 母のことば・・「久美子さんは,としちゃんが心から愛するくみちゃんです。としちゃんが心から愛するくみちゃんであれば、としちゃんゆえに、くみちゃんのことを大切に思わずにはいられません。」

 主がいのちを賭して命と命を生きる意味を与えられた他者であれば。主ゆえに愛さずにはいられないことと、相通じるような気がします。

 優しさとはただ単に、力強く荒っぽいことではない様という意味ではありません。

 あなたの欠点や合を。見なかったことにいたしましょう。大目に見て差し上げましょう。というのも、やさしさとは無縁であります。

 優しさとは、他者の強さと弱さを思いやり。何かを成し遂げようとすることよりも、“共にあること”を喜びとします。

 何かを成し遂げようとするのであれば、ゆっくりと確実に他者のペースに合わせてともに歩んでまいります。結果を得ることに躍起にならない。

 また、期待する結果に至らなくても、その過程において他者と近しく親しく関わっていきます。

 結果よりも過程・道程を大切にします。それがすなわち優しさではないでしょうか?

マタイによる福音書の5:5。柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ。心の清い者は幸いである。その人たちは神を見る」

 

 心にかけることケア(Care)と治療キュア(Cure)は違うものです。

 治療は変化、結果を意味し、期待します。

 法律家、教職者、ソーシャルワーカーなど。人々の生活に変化を起こすために、専門的な技能を使います。専門的なメソードを用いて治療を施し、そして結果を得、報酬を上げていきます。     

 しかしともすれば・・結果優先主義の技術志向、対処療法ともなりかねません。

 こころにかけるケアが不在の治療・キュアーは、破壊的なものにすらなってしまいます。

 心にかけるとは共にいること。共に泣く子と、ともに苦しむこと。ともに感じることであり。痛みを共にすることであります。

 心にかけると、ほかの人が自分の兄弟姉妹であり、自分と同じようないつかは死ぬ運命にある有限な存在であるということを互いに覚え、いたわりあい、共有することです。そのことがすなわち、「優しさ」と言えましょう。

 

 優しさとは「ともに在ること」。

 ところで「慰め」ということばですが・・英語では“Consolation”。ひとりの人(solus)共にいる(con)。がコンソレーションの作りとなっています。

 慰めとは、共にあることにほかなりません。

 慰めは痛みを取り去ることではなく。むしろ一緒にいて、次のように言って差し上げることではないでしょうか?「あなたは、一人ではない。私はあなたと一緒にいます。共に重荷を負い、会いましょう。恐れないで私がここにいます。」

 それが優しさに満ち満ちた慰めです。

 実際、教会の現場で解決できる事例は?

 カウンセリングの専門の牧師であっても。全体の20%ぐらいしかないということでございます。

治療の結果、結果としての解決・治癒が得られなくても、心と心が寄り添うケアは、物事の解決以上に大切なのではないでしょうか?

 

 さて今朝のテーマ「キリストの心で」

 キリストの心は?

 ズバリ、個が全体であるということであります。

 キリストなったことといえば?

 個々人に対して優しく心を分かち合われました。

 一匹の羊を探すために99匹の羊を野に残しても探しに行かれるキリスト。

 大伝道集会で一気に入信者をに書き集める方法を取らず、ザアカイに、シモンペトロに、マグダラのマリアにそしてユダに優しくお関わりなされました。

 そして、この個々人に対する優しさは、もっとも普遍的なことであるということをキリストのおことば、生き様に観ることができます。

 一つの鍵盤、一つのスポークを大切至極に思われるキリスト。この一つ、この個がなければ、ピアノや自転車を成り立たせることができない。

 個に対するこだわりと労わりと優しさこそが、キリストの心なのです。

 

 同様に、私たちもご近しい人と共に生きているその親密な生き方は、私たちのためだけではなく、全ての人々のためにもなりましょう。

 全く個人的なことが実はもっとも社会的であり、普遍的であるということです。これがキリストのみことばを生きるキリスト者の醍醐味といってもよろしいかもしれません。

 

「灯火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家のなかのもの全てを照らすのである。」マタイ5:15。

 

 私たちが互いに照らしあう“至近距離”での蝋燭の優しい光は・・世の中全てのための光になります。

 世界中に此の一本の灯火が、接ぎ木されていきますように。

 一本が十本に、10本が100本に、100本が千本に・・さながら聖火リレープラスalpha無限大ですね。

 私たち個々人の優しさが、世界と繋がった美しさであることを覚えてまいりましょう。

 キリストに賛美

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『愛と赦し』マタイによる福音書18章21~22節

 2023年2月5日/中野バプテスト教会主日礼拝  説教者:稲垣俊也

 

 人がなすことができる最も深い体験は、他者とかかわることです。私たちは他者と関ることで、自分自身を見出だし、本当に自分を自分たらしめることができます。

 人が他者と関わる際に至極大切なことは、たった二つ、「愛と赦し」です。

「愛と赦し」は表裏一体。いや、同じ言葉、同義語といってもよろしいかもしれません。

 今朝は「愛と赦し」と題して、メッセージをお取り次ぎさせていただこうと存じますが・・先日、BSTVで、ウクライナでロシアの爆撃で我が子を失った母親が泣き叫んでいる姿が映し出されました。

「お前たちのしたことは絶対に許さない。7代先まで呪ってやる!!」と悲痛極まりない声でした。この母親に向かって「あなたの敵を愛し、自分を迫害するものの為に祈りなさい」(マタイ5の43)と言ったところで、ことばは時として全く無力ではないかと思わされます。いや、それを言うことにはばかりすら感じます。此の時節、このメッセージをすることに正直、躊躇を覚えますが、いや、それだからこそ今このことを語らずには居られないとも想わされます。

 

「愛は寛容であり、愛は親切です」、有名なコリント前書13章のみことばですが、愛は「寛容」であるということです。

 このみことばは、特に結婚式の際には必ずと言ってよいほどお読みさせていただくみことばですが、寛容とは、たとえ夫、妻に弱さ、欠点があっても、赦していく愛のことです。欠点や不都合を大目に見るということでは決してありません。

 イエスの弟子のペテロはイエスにこう尋ねたことがあります。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)」イエスさまは答えられました。「七度まで、とはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」赦すとは、何回赦したかというような量ではなく、他者の弱さを自分のこととして共に苦しみ、どこまでも共に責任を負っていくという、意志の強さ、健気さをいいます。

 当時のユダヤ教のラビたちの教えは、「3回まで赦せ。それ以上は赦さなくてもよい」というものでした。それを知っていたペテロは、寛大な心で、「7回まででしょうか」と質問しました。イエスからほめていただけると思ったのでしょう。しかしイエスは、「7回を70倍するまで」と言われました。これは、490回赦せという意味ではなく、無限大に赦せということです。完全数7の70倍は、無限大を意味しています。赦しというのは、外面的な行為ではなく、恵みによって内面に起こるものです。

 

『赦すことは忘れようと努力する以上のなにものかである。

 それは新しい契約を結び、また希望をいだくものである』~アンドレ・フェリル

 

一口に“赦し”といっても大きく分けて2つの面があるように思います。

  • 忘れるということ=相手の仕打ちを完全に忘れ、許してさしあげるということ。 

思い出は良いこともそうではないことも、たえず私たちの中に生きています。“忘れるということ”は不可能に近いのではないでしょうか。神的な業といえます。

  • 私を侮辱し、あるいは損害をかけた人々に対して新しいチャンスを与え、新し契約を結び、またその人とのかかわりに希望をつなぐこと。これもまた形こそ違いますが、立派な許しといえましょう。

 

 私は相手を赦したいと思っても、どうしてもそれを忘れるまでにはいかない・・・これでは赦したことになっていないのではないかと思ってしまいます。

 しかしこれなら出来るかもしれません。

「どんなに忘れようと努力してもそれはできない。しかし相手が私の言葉や慰めなどを求めてきたとき、私はその人に何とか答えてあげたい」

 

 相手に答えられるのであれば、それは相手を受け入れ赦したことになるのです。過去の思いは忘れようと思って忘れられるものではありませんが、しかし少なくとも、相手の未来に対しては、共に責任を負っていきたいと思うこと・・・これは私たちがなし得る最高の“許し”ではないでしょうか。

 

 ここで以前にもお話したかもしれませんが・・私の敬愛する世界的な伝道者、N牧師の渾身のお証をご紹介したいと思います。

 世界をまたに駆け回るN牧師には、お嬢様がいらっしゃいます。現在はN牧師が主宰するミニストリーの協働者として宣教活動に勤しんでおられます。

 N牧師のそのお嬢様が、中学校2年生位の頃、お嬢様がぐれて非行にはしりました。服装も派手になり、毎晩の帰宅時間も遅くなりました。

 N牧師はお嬢様を牧師室に呼びつけ、お得意の説教をなされました。娘としていかにあるべきか、あるいは牧師の娘として、いかに振舞い証となすべきかを、こんこんと説いて聞かせたということです。(直にお聞きしたお話です。(大方の内容はもちろんあっていますが、こまかな言動はその通りではありません。いささか稲垣の所感も入っております故、ご了承ください。)

 お嬢様はますますふくれっ面になり、N牧師をにらみ付けます。思い余ってN牧師は、お嬢様の頬を思いっきり叩きました。お嬢様は目を真っ赤にして、その部屋を飛び出してきました。

 そんなお嬢様も心身ともに美しく成長なさりました。また理想の男性とめぐりあい、結婚式の佳きを迎えられました。

 結婚式に臨む前、控室でN先生はお嬢様にこのように言いました。

「おめでとう。Kちゃん。お父さんは君のお父さんであったこと、いや、これからも君のお父さんであることを本当に誇りに思っているよ。本当に君はお父さんの誇りだ。そんな素晴らしいあなたに、お父さんは一回だけすまないことをしたよね。たった一時、あなたがやんちゃであった時、お父さんはあなたの頬を叩いてしまった。本当にごめんなさい」

 そしたらそのお嬢さんは、このように答えました。「え、そんなことあったっけ?私の記憶ではお父さんがわたしに手を上げるなんて、ましてや私の頬を叩くなんて。そんなことは一回もなかったはずよ。」

 お嬢様は完全にそのことを忘れておいてでした。N先生はそれを聞き、別室に行き、大泣きに男泣きをしたとのことです。まさに神様のみ心がお嬢様のペルソナを通してN先生に表されたのです。

 神様は、自分の罪、不都合、不具合を忘れになっていただける方であるということです。

 姦淫の現場でとなえられた女性に対して。主は「私はあなたを罪には定めない。」とおっしゃられました。すなわち、完全に神様のご記憶から罪の事実を消してくださった・・ということでありましょう。

 いや、ご自身がお引き受けなさったが故、もうあなたの罪ではないと、おっしゃったのであります。

 N先生は海よりも深く広く澄み切った神のみこころを、お嬢様を通して知らされられ、感謝と感激のうちにお嬢様の結婚式にお臨みになられたとことです。

 

 神様は①も②もなしたもう方です。私の罪をお忘れくださった後、もう一度私に希望をかけて、新しい契約を差し出してくださいました。なんというお心でしょうか !!

 

 さて、そんな主のおこころを観つつ、今度は私たち人の「赦し」を観てまいりましょう。

 今朝のみことばのとおり、7の70倍という気持ちがなければ、人と人とが共に生きることはできません。赦しは良い時も悪い時も私たちを一つにし、赦し合うことで、私たちは互いに愛し合い、その愛を成長させることができます。

 しかし何を許し、何に対して許しを求めるのでしょうか?

 残念ながら・・私たち人間同士の日常生活においては、完全な愛を与えることも得ることも、完全な赦しを得ることもできません。このことを互いに許し合わなければなりません。

 私たちの愛は、条件付き限定された愛です。AさんがBさんに対し、互いの約束事を履行する時にだけ友愛が成立します。私たち“人の愛”には限界があることを赦し合わねばなりません。

 私たちはお互い神ではないことを赦し合わなければなりません。

 もう一度言います。私たちはお互い神ではないことを赦し合わなければなりません。

 

 さて、赦すことの恵みは、想いますに・・

 誰かを心から赦すということは、むしろ自己の解放へと繋がります。

 私たち自身を他者から侮辱されたものであるという重荷から解き放つのです。自分を傷つけた人を許さないでいる限り、重い負担としてその人々を引きずってしまうことにもなりかねません。

 それゆえに、「赦し」は私たち自身を自由に解き放つことが出来ましょう。自分の価値を否定されてしまったという縛りから自分自身を解放することができます。

 元来人は、その人とその人の価値を部分的、表面的にしか見ることができません。まさに人は神ではありません。先ほどのN牧師のお証のように親でもわが子を完全に把握できるものではありません。

 更に云えば、自分が自分を観るときとて、本当に自分の本質を理解しているとはいえません。

 まさに自分で自分が分からない状態です。自分で自分が分からないのに、人は他者を正しく評価できようはずもありません。

 しかし神は「私の目にはあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」と、どこまでもその人の全人格をご存知です。その人がここに在るという本質を喜んでくださっています。

 完全に自分のことを御分かりで、完璧な評価をしてくださっている、神に知られ、神に嘉せられ、そして神に罪赦されていることを想えば、限定的・条件付きの人の評価に過度に捕らわれる必要がなくなります。

 そして・・・私たちは「愛と赦し」そのものであられる主イエス・キリストとの関わりの中で、生涯を賭して少しずつ“キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように他者と自己を愛する”自己へと変えられていきます。一気呵成にキリスト者として完熟するのではないことを、互いに赦し合わずにはいられません。

 

 最後に一言付け加えさせていただきます。相手が謝罪して来ない場合は、「私はあなたを赦します。」と宣言する必要はありません。ただ、心の中でお相手を赦し、神から与えられる平安を自分のものとすればよいのです。

 相手に謝罪を要求したり、相手に友愛を保つにふさわしい言動をとることができるよう“変わってもらう”ことは、おそらく不可能に近いでしょう。まずは私自らをして「赦す自分」となり、平安のうちにみことばを生き抜く自分となっていくことが、友愛の第一歩ではないでしょうか。

 

「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」 (マタイ18:35)

 

 無限の愛と御赦しのキリストに感謝と賛美

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「すべての人に開かれし狭き門」2023年1月1日/中野バプテスト教会新年礼拝 説教者:稲垣俊也牧師

マタイ福音書7章13節~14節

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細い事か。それを見出す者は少ない。」

 

 あけましておめでとうございます。

 2023年の開幕を心よりお喜びを申し上げます。

 私たちは今、西暦2023年に臨もうとしていますが、西暦はADと表されます。

 ADとは、Anno Domini・・主の年という意味であります。

 キリストの御降誕を起点として起こされた「聖暦」ですが、これはキリストの御降誕からはじまった暦なのです。いや更に云えば、キリストがはじめられた暦といえましょう。

 主イエスがお創(はじ)めになられた主の年2023年、どのような光景は展開されるか、どんなAmazingに満ち溢れる新年であるのか、期待を寄せたいと思います。

 Amazing~“驚き”ですが、ただ単にびっくりするという意味ではなく、人の想いを慮りながらも、人の想いを遥かに超越する神のみこころに感銘、感嘆するというAmazingです。

 神様は、神と人、神に愛されている人同士がよりよく関われるよう、思いもかけないところに、思いもかけない方法で「架け橋」をおかけになるお方です。それ故に、私たちは“Amazing”と叫ばずにはいられなくなります。

 また神様は、閉ざされた扉を思いもかけない方法で開かれるお方でもあります。そのためには、私たちは主の御前において、固定観念にとらわれることなく柔軟に在らねばならないと思わされるのです。

 ある心理学者がこのような実験をしました。

 部屋の入口に扉を設け、その扉にはドアノブを付けました。実はこの扉は「観音開き」になっている扉なのです。

 まず大人がその扉を開けようと試技に臨みました。案の定、ドアノブを掴み前に押し後ろに引き、を繰り返しました。20分経っても扉は一向に開きません。挙句の果てには主催者にドアが壊れていると訴える始末。

 しかしその後、子供が試技に臨むと、ものの2.・3分で開けることができました。

 大人になると“常識”という固定観念が却って、主のなさろうとする多様性、柔軟性に富む御業を妨げてしまっているのではないかと、かく申し上げる私自身、反省しきりです。

 

 さて2023年最初のメッセージは「すべての人に開かれし狭き門」と題させていただきました。

 これもまた意表を突くAmazingやもしれません。

 狭き門を通り救いに与り、狭き門を通って天の御国に入らしめられるという、二重の意味が込められているみことばです。

 狭い戸口・・・私たちの生活・文化の中ですぐさま思いつくのは、茶室に入る際に、あえて狭い戸口から入る、あの不可思議な文化ではないでしょか。

 私が初めて茶道なるものに触れたのは、大学2年の秋。今や40年来の友人である、上村敏文氏(ルーテル学院大学教授)のお誘いで目白の裏千家流水会のお手前に与らせていただきました。

 そのときは茶道教授と上村氏、稲垣の三人でした。大広間にお通しいただき、ゆるりとたおやかなる時間を過ごさせていただきました。たおやかなる時間の流れのうちに、研ぎ澄まされた茶道の所作動作が浮き彫りとされるようで、まさに緊張と弛緩の妙なる調べに聞き入るようでありました。

 後でお聞きしたことですが、逆に4人、5人と大人数のお茶席の場合は三畳ほどの狭い茶室に入り、互いの膝をつきあわせて、お手前に与ります。

 少人数の茶席は大広間、大人数の茶席が三畳の茶室・・逆ではないでしょうか?と、問いたくもなりますが、これには深遠な意味合いがあります。膝を突き合わせるほどの狭さも、それを極めれば極めるほど、かえって幽玄なる世界が観えてくるとのことです。

 そして、狭い茶室には敢えて狭い戸口から入る、あの不可思議な習わしとは・・これは、武士であれば刀、武具を取り外して茶室に入っていただくためです。刀を差したままでは、刀が戸口につっかえて通ることができません。つまり、今生の権力、権勢の市象徴である刀を取り外して、素の自分として茶室に入りなさいということでしょか。自分の業績・肩書きDoinng ではなく、自己の存在そのものBeingをお持ちしなさいということです。

 狭い戸口は、膝つきあわせ狭さを極める世界への招きです。

 

 昨年、天の御国にお帰りになられたエリザベス女王陛下の国葬儀のLive放送を拝見させていただきました。というより、天の御国を垣間見る一大音楽礼拝に与らせていただいたような心地すらしました。

 女王陛下はまさに油注がれし者。此れは「キリスト」の意です。「キリスト」は、天の御国をこの地にて実現せんがため、特に神託が与えられた祭司、預言者、王らに対して課せられた呼称。

 女王陛下は「油注がれしもの」としての御働きを全うされました。そして告別式の際、祭壇に向かうその直前は、ようやくお棺ひとつが通れるほどの「狭き門」をお通りになられ、祭壇に昇り、天の御国へとお帰りになられました。

「狭き門」とは、今生、大切な方々と分かち合い、産出した“愛”のみを携え通ることができる“狭い門”。 愛と献身に生きられた女王陛下の天の御国への凱旋式は、そのことをこそ語っていたように思わされてなりません。これは、まさに狭き戸口から茶室に入る茶道の極意にも通じます。

 

 国葬儀はウエストミンスター寺院にて執り行われましたが・・私の愛読書の一つに、ウエストミンスタ―小教理問答書(Westminster Shorter Catechism)がございます。其の中の問1が秀抜です。

Q1

人のおもな目的は、何ですか。

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

◆此の「神を喜ぶ」とは・・神を“およろこばせ”すること。

 あるいは私の存在が、神に嘉せられる“神のおよろこび”となること、と心に響きます。

「神のおよろこび」とは、(キリストの)愛を交し合い分かち合い、味わい合うことに他ならないかと、想わされるのであります。

 人生の目的、あるいは成功とは、キリストとキリストに繋がる方々と、如何に多くの愛を呼び交わし合ったか、親しく近しくお関わりをさせていただいたか、に尽きます。

 女王陛下のお立場は、そのことをひろく、あまねく世界大で具現するためものでありました。女王として世界に君臨することが一大目的ではなかったはずです。

 

 改めて、今朝のみことば。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とある人がイエスに尋ねる。イエスはそれに対し、「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13,24)と答えられました。

 「狭い戸口」という言葉は、まるで救いが一部の選ばれた人々か、完璧な人々のためのものであるかのようなイメージを与え、わたしたちを恐れさせます。しかし、こうしたイメージはイエスの教えとは相容れません。実際、イエスはこの後に続けて、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(同13,29)と言っています。つまり、この戸口は狭いが、すべての人に開かれているのです。

 

 この「狭さ」は、キリストと親密かつ、あたたかな関わりの「狭さ」です。

 これは決して他宗教や、異質の考えを持つ方々を排斥するための狭さではありません。

 キリストをこそ私の唯一無二の親友とさせていただいたこと、キリストを私の生涯を通して慕いまつる牧者とさせていただいたこと キリストを私の生涯の伴侶とさせていただいた私の充実、これらを称して“狭さ”と云っても宜しいのではないでしょうか。

 

 私たちは、ゆっくりと確実にキリストとのお関わり、友情を育んでまいります。

 神のみ旨を自由自在に自分の生き様となし、まさにキリストにふさわしいキリストの親友にならせていただくことは、信仰生活のそのもの、信仰の醍醐味といってもよろしいでしょう。

 醍醐味という言葉は、実は仏教と深いつながりがあると言われています。

仏教では牛のミルクを精製する過程を5段階に定め、「五味」と表していました。五味とは乳味(にゅうみ)・酪味(らくみ)・生酥味(しょうそみ)・熟酥味(じゅくそみ)・醍醐味の味のことを指しています。

 そのなかでも醍醐は一番上質なものとされ、現在のヨーグルトやレアチーズ、バターなどの濃厚な味わいの食品だったそうです。

 また、醍醐はサンスクリット語では、「sarpis- maṇḍa(サルピス・マンダ)」と言います。

 カルピスは此のサルピスをもじった商品名です。

 醍醐を精製するには大変な労力と時間がかかりますが、極上の味わいを得るためには、楽しくも心ときめく時間と云ってもよいでしょう。

 イエス・キリストは、私たちが一気呵成に品行方正なキリスト者になることよりも、むしろそれを目指し、ゆっくりと確実に醍醐味溢れるキリスト者に変容していく、その「過程」をほほえましくご覧になり、お楽しみになっておられるのではないでしょうか。

 人生は、ゆっくりと確実により良きキリスト者になるための大切な、大切な時間です。

 ワンクリックで結論を得る、表層的な世界観とは正反対の世界です。

 昨今の人々は、DVD,BDで映画を鑑賞するとき、早送りをして結末を見てしまうということですが・・もちろん結末が如何様であるかは大切でしょうが、そこに至るまでの“過程”はもっともっと大切であると云えましょう。過程を不在としてしまっては、まさに味気のない、醍醐味のない無味乾燥な信仰生活と相成ってしまいましょう。

 

 私たちは狭い門を通って救いに与り、キリストとキリストのみことば、そしてキリストに繋がる隣人と親しく、近しくお関わりをさせていただきながら、やがて私たちも狭い門を通って天の御国へと馳せ参じることとなりましょう。

 天の御国では、すでに永遠の晩餐式に着座している私たちの諸先輩がたと相まみえ、果つるともなく続く親密な関わりを創(はじ)めさせていただけます。

 その日を夢見ながら、いや、此の究極の現実に思いを巡らしつつ、主の年2023年も、今生のいのちをキリストの眼差しとこころで寿ぎ合い、悦びあい、ゆっくりとたおやかに信仰生活をいとなんで参りましょう。

+キリストに賛美

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2022年12月4日/中野バプテスト教会礼拝メッセージのお分かち。

「みどりごイエス」

イザヤ9:5~一人のみどりごが私たちのために生まれた。

ルカ10:25~37

私たちは毎年、二重の意味で待降節(アドヴェント)を迎えます。

 一つは、神の御子イエス・キリストの人間としてのご降誕の祝いの準備期間として。もう一つは、この追想を通して、終末に於ける主イエス・キリストの再臨へと私たちの心を向かわせるためであります。

いずれにしても待降節は、愛と喜びに包まれた文字通りの待望の季節と言えます。

主の御降誕に寄せる篤い想いと、キリストの再臨を固く信じる信仰、更にはキリストの再臨と共にもたらされる私たちの最終的な復活・永生を信じること。これらは私たちの信仰生活を支える柱と言ってもよいでしょう。特に再臨信仰のないクリスチャン生活は、絵に描いた餅のように実態のない骨抜きの信仰と相成ってしまいます。

 さて、キリストのこの肝心な再臨について、その時がいつ?であるかとは誰にも知らされていません。ノアの洪水のように人々が気づかない時に来るとだけ教えられました。しかも主イエス・キリストの再臨は、主の普遍的、決定的な世界統治の始まりでもあります。さながら・・ノアの洪水によって、一切のものがさらわれたようにキリストの再臨によって、すべては彼の裁きに服します。

 決定的で普遍的な終末としての再臨は必ず来ます。しかし、その時がいつであるかについては私たちに知らされていないとすれば、当然、私たちにとって一番大切なことは、「今をいかに生きるべきか」について解決を観い出すことではないでしょうか。

 今 をいかに生きるべきか?すなわち。即ちより良き自分として生きる唯一無二の道は?

 それは今朝のみことば、よきサマリア人として生きることにほかなりません。

 神の愛をいよいよ、自己のものとする唯一無二の道は、兄弟愛の実践。

 此の善いサマリア人のように考え、ふるまうことです。

 このサマリア人は、子供のような人々と云ってもよろしいかもしれません。

 イエス・キリストは赤子として、そしてみどりごとして、この世にお出でになられ、お過ごしになられました。最初から完成された大人として生涯を始められたわけではありません。(お釈迦様のように、生まれて直ぐ、天上天下唯我独尊と語られたわけではありません。もちろん、そのようにお語りになられることも可能であったかもしれませんが、その思いは秘めておられました。)

 それは・・生涯を通して幼子の心で、みどりごの心で生きぬくご自分でありますようにというご決意の表れであり、その模範を私たちにお示しになられんがためであったのやもしれません。

 子供・・純真無垢というイメージがございますが、子供には欠けている部分もたくさんあります。独善的なわがまま、自己本位であると云ってもよろしいかもしれません。しかし、子供の一大特色は「自由なる人」と云えましょうか。

 社会的な立場。経済的な効果を顧みることなく、自由自在に行動し、生き抜くことができる人。これが子供のような人といってもよろしいのではないでしょうか?心の命ずるままに、自由自在に愛を表現できる人が子供のような人なのです。子供じみた人ではなく、子供のような愛の実践家が、このサマリア人ではないでしょうか?

 今朝の福音書に書かれています祭司。決して悪い人ではなかったでしょう。けが人を見たその時、祭司には大切な礼拝のご用があったのかもしれません。今けが人にかかわっていると、大切な宗教行事に間に合わなくなってしまう。自分の社会的な立場を優先せざるを得なかった祭司は、断腸の想いでその場を立ち去ったのかもしれません。

 レビ人も決して悪い人ではありませんでした。しかし、彼らの宗教の中心は律法にありました。「死骸に触れるものはすべて夕方まで汚れる。ゆえに神殿奉仕が赦されない。」と律法には明言されています。レビ人には、倒れているけが人は死骸と映ったのかもしれません。レビ人も倒れている人をかわいそうに思いました。しかし、彼らは兄弟愛よりも職業的立場を優先せざるを得ませんでした。

 しかし・・子供は社会的な立場を何ら有しておりません。そのような意味では子供は、自由人。自分の心の命ずるままに、自由自在に行動ができます。

 子供にとっては、まずは“関わること”愛の実践こそが最大の関心事なのです。

 さて・・・

 私たちにとって日々の信仰生活の中で大切なものが三つあります。

・教会の礼拝、礼拝奉仕。

・みことばによる養い、聖書研究。

・さらには兄弟愛の実践。

 信仰を支える三本柱といってもよろしいかもしれません。どれ一つ欠けても健全な信仰生活を送ることはままならないでしょう。しかし敢えて、どれか一つというのであれば、兄弟愛の実践を最優先にすべきでありましょう。

 みことばの研究と宗教的儀式を兄弟愛の実践を断る理由にしてはいけないということが、このイエス・キリストの御言葉から伺い知ることができます。

 愛の実践には人種や宗教の違いは関係ありません。愛はまず他者の必要を満たします。それから、神と神につながる人々と関わり合っていくより良い道、有り様を模索する研究する、という順番ではないでしょうか?

 まず愛を実践し、あいを分かつこと。分かつと分かるは、日本語は同じ語源であると言われています。分かち合うことによって分かりあうことができる。行動する愛、分ち愛の実践によって互いをより良く理解することができる。さらには、その愛を司る「神のご本質」を兄弟愛を通して理解をすることができましょう。分かってから分かち合うのではなく、分かち合えば分かり合えるのです。

 イエス・キリストを仰いました。隣人とは誰か?隣人とは誰か?

 言うまでもなく、この愛を実践したサマリア人です。

 私たちも、特に弱っている人、滞っている人に愛を分かち、自分たちの隣人とせずにはいられません。愛には人種、思想の区別があってはいけません。キリストの贖いによって、皆、神の家族、神の子であるがゆえに、まずは愛の実践をなさいとイエス・キリストは、このみことばで述べられています。

 

 スペインでの実話です。もう何年も前のことです。ある刑務所で突然暴動が起こりました。それは計画的というよりも、急に囚人が暴れる形で始まったようです。その当時のスペインの刑務所は、劣悪な環境でした。収監されている囚人が多くなりすぎ、収容人員にも限りがある刑務所内の生活環境は最悪となりました。

 ところで、此の刑務所には囚人たち皆が認めるリーダーがいました。そのリーダーは何人も人を殺したオオカミ(ウルフ)という極悪の囚人で、囚人たちの間でも恐れられていました。

 さて、興奮した囚人たちは、やがて所長室まで押し掛け、中にいた所長を殺そうとしました。ところが    その時、ウルフが止めろと叫んだのです。このウルフの強い一声で、所長の命は助かりました。

 この暴動は早く収まりましたが、結局、最も恐るべき囚人のウルフが所長の命の恩人となったのです。  過去に何人もの人を殺した、犯罪歴のあるこのウルフが、なぜ今回このような行動に及んだのか? 関係者にとっては、大きな謎でありました。数日後、そのことを尋ねられたウルフは、このように答えたそうです。「俺は人を殺すことなんて怖くない。慣れている。今まで何人も人を殺したからな。あの時止めろと言ったのは、所長さんの命を助けるためではなかった。所長さんの息子の為にやめろと言ったんだ。俺はあの子だけは孤児にすることができなかった。生まれて初めて俺に愛情を見せてくれたのはあの子だけだったのだから。俺は、あの子のためだけにあのようにしたのだ。」

 実は所長の息子は時々お父さんのところに遊びに行く習慣がありました。ある日、お父さんと一緒に刑務所内を歩き回って時、初めてその子はウルフと会いました。子供は目の前にいた男がどんな悪い事をした人間かを全く知りませんでした。むしろウルフの瞳の奥に優しさを感じたのでしょうか?いや、愛に飢えた、寂しさを感じたのかもしれません。

 お父さんが子供に「さあ、このおじさんにクリスマスの挨拶をしなさい」と言った時、その子は喜んで愛情のこもったキスをウルフの頬にしたのです。そしてこの心温まる行動が、ウルフの善行する動機となったのです。このたった一回のキスで、所長は殺されませんでした。

 愛には刑罰よりも死刑よりも、はるかに犯罪を防止する力があります。この子供は、自分の社会的な立場をなんら気にすることなく、あるいは、ウルフがどのような社会的立場であるかも何ら気にすることなく、愛を実践するに、何の躊躇もなければごく自然な形で、それを実践することができたのであります。

愛する体験。いや愛される体験は人にとって必要不可欠であります。それがなければ人は十分たりとて生きることができません。ある意味、空気よりも大切なもの云ってもよろしいかもしれません。   

 マザーテレサの言葉。「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。

 ヨハネの手紙第一、4章9~10節。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪の為になだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 愛に飢え乾いていている人々の元に人として訪れた、嬰児イエスキリスト。私たちが神を求めるよりも、神が私たちを愛し、欲して止みません。そしてみどりごイエスは、どんな状況、状態に置かれている人に対しても、其の頬に愛情いっぱいのキスをなさるのです。

 この世に存在してはいけない人間なんて誰一人いません。ウルフとて、愛される体験を持っていたのであれば、なんら犯罪を犯すことがなかったことでしょう。ある心理学者が言っていました。「刑務所に入っている人とは言ってない人の違いは?刑務所に入ってない人間意志が強く品行方正である、では決してありません。愛されている体験を持っていたか?持っていなかったか?だけの違いでありましょう。」私たちはすべからく、神によって命与えられ、命を生きる意味もまた与えられた、高価で貴いひとりひとりであります。

 私に貴い命が与えられているように、お隣に座っていらっしゃる「隣人」にも、尊い命と命の意味が与えられています。

 神によって愛されている人々同志が、幼子の心で、みどりごの心で挨拶を交わさずにはいられません。

 イエス・キリストのご降誕は、私達に今一度、みどりごのこころで愛を実践する“機会と想い”をもたらしてくれましょう。

キリストに賛美

 

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「想い出を記念して」 詩編23編1~6節 2022年11月6日/中野バプテスト教会

今朝は、先に天の御国へ召された方々を想い、召天者記念礼拝を執り行います。

ご周知のとおり仏教でも~回忌~回忌と、ご先祖のご供養を大切にしています。

しかし日本の仏教はインドで生まれた仏教とは全く異なります。

 釈迦は自分たちの死後のことには決して固執するなかれ、と言われました。

 本来、仏教の教義では死後のお弔いの行事は49日までしか想定されていません。

 中国でさえ三回忌までしか営みません。

 しかし日本では33回忌や50回忌まで営みところもあります。

 日本には古来から祖先に対する恭敬の思いが強く、死んだら肉体は朽ちてゆくけれど、そこから魂が抜けだして、いつまでもどこまでも子孫を加護するという民間信仰がありました。

 それ故に、祖先がその「家」を加護し繁栄をさせていただけることに対しての願いと感謝が、即ち永年供養となっているのであります。

 このことを想うと・・むしろ私は日本人は霊性に富む、徳高き民族であると思わずにはいられません。

 日本に最初にキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルは日本人の徳性の高さを評してこのように表現しました。「日本人はすでに高い徳性を有しています。この上更にキリストを教えを宣べ伝える入り用があるのでしょうか?」~誤解のなきようにお願いしたいのですが、これはキリスト教の布教が必要ないと言っているのではなく、日本人の徳性の高さを浮き彫りにする、西洋的な“逆説的”表現です。

 

 さて、私たちキリスト教会でもクリスマスに臨む前の此の時節、先に召された方に思いを寄せ、記念礼拝を執り行っています。

 カトリック教会では、死を黙想(memento mori)するレクイエム・ミサを執行しています。

 

記念礼拝や記念会では、キリストの十字架の贖いと復活の希望と共に、故人の思い出も語り合います。しかし思い出は自分だけで反芻するよりも、愛する人と思い出を語り合うほうがいいですね。

 私は母を1998年に天国へ見送りましたが、母の病床の思い出(母や家族と最も深い心の交わりが実現した大切な思い出です・・)を語り合うよりも、母が元気だったころの思い出、母に愛され育てられたときの様々なエピソードといったことを、妻や家族と話す方が好きです。

 スペインのお話ですが、4人兄弟でそれぞれ10代、20代の時に母親を失ったある家庭は、お母さんの命日ではなく、お母さんの誕生日に集り、お母さんをしのぶ会“記念会”を催すということです。そこではお母さんに死なれた寂しさよりも、素晴らしいお母さんに育ててもらった思い出を話し合うことにしているとのことです。

 兄弟たちは、皆が心を一つにするとき、母が喜んでくれることを確信していたので、悲しく過ごす代わりにミサに出てから皆で楽しくパーティをして、お母さんを“お祝いする”ことにしています。

 それぞれがお母さんの思い出を語り、四人兄弟が皆自分がお母さんに一番愛されていたのだと主張するのです。時にはスペイン人らしく話をオーバーにしたりけんかしたりして、お母さんの愛を今にも感じて深い喜びに溢れます。

 彼らにとってお母さんを記念するということは、お母さんの思い出を思い起こしてただ懐かしく過去のものとして嘆くことではありません。

 「記念する」ことはそのありがたさを思い浮かべて、今もそのありがたさを生かして、味わうことです。昔感じた幸福にもまして今もその愛された幸福を感じることです。

 もっとも・・スペインの此のご家庭の記念会も、本日私たちが営んでいる記念会にも現実感があるのは、お母さんが時間と空間を越えて今、天国で生きているからであり、再会の希望があるからです。そして、医学的にも遺伝子(DNA)として私の体に立派に生きているからです。

 

 そして記念するとは、自分の記憶にないことでも記念できるのです。

単なる記憶と“記念”のもう一つの違いは、自分は全く記憶していないことでも、“記念”することが出来るということです。即ち、“今”を生きる動機とすることができます。

 自分の人生は、あまりに短いために思い出には限りがありますが、記念することの出来る出来事は実に多いと言えましょう。

 

 私の一番古いと思われる記憶は、2つ違いの弟を宿した時の母のつわりです。日常ならざる母の態度を1歳半の幼心が敏感に感じ取ったのかもしれません。

 そして母の注視が生まれたばかりの弟にいく様を見て、何とか自分に母のまなざしを向けようとして、わざと“そそう”をしたことをはっきりと覚えています。

 しかしそれに先立って、私が覚えていない“私が生まれたときの両親の喜び”を、今嬉しく考えることが出来ます。自分がどれほど求められて喜びの種になったのかを、自分には記憶がなくてもその両親の喜びを今でも生かしなおすことが出来ます。

 

 自分と関わりのある出来事だけではありません。

 ペテロが3度もキリストを裏切ったにも拘らず、キリストは変わることのない愛でペテロを愛し続け、用い続けられたことは、私自身の中に起こっている出来事でもあります。

 信と不信は紙一重。いつも迷い痛む私たちの真中にイエスは訪れ、変わることのない対話へとお招きくださっていることは、まぎれもない今、自分の身に起こっている出来事であります。

 パウロの回心にしてもそうです。キリストの教えを弾圧したパウロですが、主がパウロももとに訪れ、主に変えられ、養われ、生かされていることは、私の中に生きている大昔の出来事であり、私は人生のあらゆる時にそれを思い越し、味わい、“記念”することが出来るのです。

 

 さて私は、ことばを語ることを生業としてますが、本当に「ことば」とは不可思議でありますね。

 ことばは発するまでは自分の全責任ですが、発した後はまるでもう一人の自己として自由自在に、時間に空間に飛び交っていくのであります。

 ことばは、伝えるべき「お相手」のもとに迫り、「お相手」を取り囲み、「お相手」を駆り立てるものであります。

 もう一人の自分である此の「ことば」は、時間空間の妨げを何ら受けることなく、自分の全権大使としていつまでも、どこまでも対話をし続けます。

 手塚治虫氏が述懐しておられましたが、「私が心を込めて“アトム”と“アトムのことば”を紙面に描いていくと、あとは“アトム”が自由自在に、私の代弁者として語ってくれるのです。ですから私は生涯,創作に労苦したことはさほどないのです。」

 

 神が語られたことばは、まさにことばのなかのことば。イエス・キリストは、神のおこころ、生き様を人にわかることばとしてお語りになられました。イエス・キリストはまさにことばのなかのことば。あらゆることばの源泉であり、目的であります。

2000年前のことばは、決して紙面に閉じ込められた活字ではなく、今この時、此のところで生きて働くことば・人格者、ペルソナなのです。

 

主のおことばは、私の過去においても現在においても未来においても変わることのない「愛」と「希望」です。

 有名な詩編23編。「主は私の羊飼い、私は乏しいことはありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

 主のみことばは、私を導く牧者です。羊が迷うことのないように、牧者は羊の可視領域、3歩先を歩まれ、「道しるべ」となっていただけるお方(ペルソナ)です。

 神様は、遠大な救いの計画をお持ちであられますが、十歩先、何十光年も先を照らすお方ではありません。私たちが暗闇で転ぶことがないように、懐中電灯で3歩先を照らし、お導き下さるお方です。私たちの五感によりそう優しいお方(おことば)です。

 

 「まことに私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう」

 私がガラクタと思って捨ててしまったもの、取るに足らないと蔑ろにしてしまった事、出来事を背後を守る牧羊犬・天使がそれらを拾い集めて言います。「これは、あなたが主と主に繋がる方々ともっと親しく近しくなるための“むしろ”大切な宝だったのです。これこそが主の恵みといつくしみに他なりません。」

 私の過去の体験に、主と主のことばが深い意味を与えてくれます。このことを教会は、「贖う」と言い表します。贖う・・日本語では大変分かりにくい言葉ですが、贖うはヘブライ語で「ゴエル」、取り戻す、弁済する、の意味です。過去の出来事そのものは取り消すことができませんし変えることもできません。しかし主のおことばは、その出来事が「今」に与える意味を変えることができます。

 

 主のおことばと共に、本日ご参集の皆様方の大切な方々がかつて語られたことばも、とわに生き続けます。私たちはこれをこそ「記念」して、今生与えられた「いのち」を喜びと希望のうちに生き抜いて参りたいと想います。

+キリストに賛美

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2022年10月26日中野バプテスト教会音楽賛美礼拝のお分ちです。

◇聖書:フィリピの信徒への手紙4章19節~わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

◇聖歌521番「キリストにはかえられません」に合わせて

◆説教「満たされて」

 主はご自身のおことば、御心、生き様で、私たちの心身をいっぱいに満たそうとなさっておられます。

 主は、「私は渇く」と仰られましたが、このお言葉は今なお私たちの真中にあり、エコーし続けています。

 主はご自身の御言葉で私たちの心身を満たされんとすることに"渇いて“おられます。

なみなみと注がれる主のご愛と其のおことばを、私たちは心の器をいっぱいに拡げお受けいたしたいと願わずにはいられません。

 器といえば・・一つの出来事を連想させられます。

 とある学校での出来事です。(半分以上は稲垣の創作物語)

 先生が教室に大きな荷物をもって入ってきました。とりい出したるは、大きな壺。

 先生は大きな壺を見せてから、まず石を沢山入れました。

 先生「さあ、これで壺はいっぱいになりましたか?」。

 生徒「はい。いっぱいになりました」。先生「はたしてそうでしょうか?」

 すると先生は小さな石を入れ始めました。小さな石は大きな石の隙間に入り込みました。

 先生「さあ、これで壺はいっぱいになりましたか?」。

 生徒「はい。いっぱいになりました」。先生「はたしてそうでしょうか?」

 更に先生は砂を入れはじめました。砂は大石、小石の隙間にまんべんなく入り込みました。

 先生曰く「さて、諸君は大石、小石を入れた段階で、壺はいっぱいになったと云いましたが、砂を入れてようやく壺はいっぱいになりました。諸君は私のやったことの意味が分かりますか?」

 生徒「わかりません。」

 先生「それでは説明しますからよく聞いてください。人生という壺には真っ先に最も大切な大石を入れるべきです。先に砂を入れてしまいますと、後で何も入れることができなくなります。

 まず大石。これは神への愛、隣人愛です。

 そして小石は、聖書の研鑽、教会活動といったところでしょうか。

 聖書の研鑽や教会活動は確かに大切ですが、これらを先に入れると、信仰の本質・真骨頂たる神への愛、隣人愛を入れることができなくなります。まさに本末転倒です。

 あるいは、こうも云えましょうか・・聖書の学びや教会活動を、神への愛、隣人愛の実践を断る理由にしてはいけないということです。

 そして砂。これは神によって与えられしいのちを悦ぶこと。自分自身を楽しむレジャー。

 これもまた必要不可欠です。

 レジャーはギリシャ語で”スホレ“と言います。これはスコラ哲学や、スクール(学校)の語源です。学校の本来的な役割は、高い学力を会得し受験勉強に明け暮れるということでは、決してありません。学校は、神への愛、隣人愛、社会活動や教会活動で得た実りを、確認し整理し、味わい分かち合う場なのです。

 此のレジャーの不在にしてしまうと、私たちの生活は無味乾燥となってしまいます。砂の役割もまた"大“と言わずにはいられません。

 以上、私のお教えしたとおりにすれば、大石、小石にはさらに深い意義と秩序が与えられ、また此の砂を極上のレジャーとすることができるのではないでしょうか。」

 今宵、ご参集の皆様が、大石、小石、砂のバランス感覚に富んだ心身の満たしを味わい悦ぶことができますよう、神の御祝福を祈ります。

 +キリストに賛美

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2022年10月12日、中野バプテスト教会・音楽賛美礼拝のお分かちです。どうぞ、こちらをお入り用とされている方々のもとへ届けられますように。

~Missio Dei~

「主の息吹を駆って」

 聖書:ヘブライ人への手紙11章1節~信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。~

 讃美歌270番「信仰こそ旅路の」に合わせて

◇主は、研鑽に励み努力を重ねれば「地の塩」「世の光」にして上げよう、とは仰っていません。

あなた方は、既に「地の塩」「世の光」であるのだから、それにふさわしく在りなさい、と私たちに篤い期待をお寄せであります。

 主は、努力をして信仰の旅路を懸命に走り切った者に、ご褒美として天の冠りを授けよう、とも仰っておられません。あなた方は確かに主に贖われ、「神の家族」とされたものであるのだから、誇りと気概を持って「信仰の旅路」を歩み続けなさい、と仰っておられます。

 さて今夕は讃美歌「信仰こそ旅路の」に合わせてのメッセージとなりますが、旅路を歩みゆくものを描いたスペインの小話をご紹介しましょう。

 昔、とあるところにお爺さんと十歳になる孫がいました。

 二人は長い旅に出ることになり、お爺さんはロバを手にいれてきました。

「わしはまだ十分歩けるから、お前はロバに乗りなさい」と言って、孫をロバに乗せ、出発しました。

 ところがしばらく行くと道端で二人を見かけた婦人が、孫に声をかけました。

「これはひどい。あんたは年をとったお爺さんのことを考えないのかい。若いくせに自分の足で歩けないのかい?」

 これを聞いたおい爺さんは、なるほどと納得をして、孫をロバから降ろし、今度は自分がロバに乗りました。

 またしばらく行くと、旅人がこれを見て、「おい、お爺さん。この小さな子供が可哀そうではないか。年端もいかない子供を歩かせるなんて、児童虐待だ」と言いました。

 お爺さんはしばし考えて、今度こそ文句が出ないように、二人ともロバに乗りました。

 しばらく行くと、牧畜業を営んである男性が二人に声をかけました。

「おい、お爺さん。そのロバ、可哀そうではないか。二人一緒に乗るなんて、ロバの体力を考えてくれ。」

 そう言われたお爺さんは、遂に究極の答えを見出しました。要するに二人とも歩いて行けば、誰にも文句は言われないと考えました。

 二人はロバを連れて歩き始めました。

 ところが、またしばらくすると旅人がこのように言いました。「これはおかしい。ロバがいるのにどうして乗らないのだろう。ロバを引っ張ることが楽しいのかな。二人は変人に違いない。」

 以上ですが、人の言いなりになるだけでは本当の知恵も湧かないということでありましょうか。

 また、私たちは旅の途上で何かをしようとすれば、それについて万人の共感を得ることはできないということも示唆されています。

 しかしながら・・主イエス・キリストですら万人の共感を得ることはできませんでした。

 いやむしろ、手塩にかけて育てた直弟子にすら裏切られてしまったではありませんか。

 このことは、却って私たちを大いに慰めてくれます。

 世の中には、旅の行程においては様々な選択肢がありますが、主は私たちが懸命に模索し選んだ道を祝福してくださるお方です。

 主は無理矢理、「こっちへ来い」と旅人に命令し強制なさるお方ではありません。

 むしろ後方から優しいエール(気)を,私の背中へと送り続けていただける方です。

 成程、日本語でも「気」が後にくる言葉は、よい言葉が多いですね。

「勇気」「熱気」「覇気」「元気」

 気が語頭にくると、あまりいい言葉にはなりません。

「気に病む」「気がかり」「気疲れ」「気おくれ」

 明らかに道を踏み外してしまいそうな状況でない限りは、世の中のおおよそすべての出来事、選択は神様の祝福で満ち溢れています。

 天上のエルサレムを指向する旅路は、いかような行程であろうとも私たちは自由自在に其れを楽しむことができるのです。

 主は私たちの自由な旅路を保証する「究極の自由」

 さあ、聖霊の息吹・エールを駆って自由自在に信仰の旅路を楽しんで参りましょう。

+キリストに賛美

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2022年10月2日、中野バプテスト教会主日礼拝メッセージ(全文)のお分かちです。どうぞこちらをお入り用とされている方々のもとへ届けられますように。~Missio Dei

 

▷「良き友となりて」フィリピ2:5~8

 伝統と刷新。私たちは意識する、しないに関わらず絶えず新しい自分や生活世界の実現に憧れ、それを目指しています。

 これまでの自己のいとなみや生活の在り方を顧みつつも、新しい自分や新しい生活世界に変えられることに「ときめき」を感じずにはいられません。まさにこれが、自己を生きる気概そのものとなっているのです。

 あるご老人がご自分の人生を顧みて語ったことばが、私の脳裏に焼き付いています。

 そのご老人は20歳の時このように祈っていたそうです。「神様。この世の中を変えることができるように、私に力と恵みをお与えください。」と。

 40歳になったときは、「神様。周りの人々を変えることができるように、私に力と恵みをお与えください。」と。

 そして80歳になったときは、この祈りに専心していました。「神様。自分自身を変えることができるように、私に恵みを与えてください」と。

 そしてこのご老人は「もし私が若いころからこのように祈っていたなら、今、私がかかわる世界はもう少しよくなっていたと思うのですが・・・」とお語りになられました。

 私たちが、今、ここに、この生活世界に在ることの意味・意義は、この生活世界をよりよくすること以外ありえません。私たちは破壊と暴虐を成すために此の生活世界に遣わされているのではありません。

よりよい世界・・即ち、この世界が天の御国にも似た主の平安と平和に満ち溢れる世界です。

 主の祈りの「みこころの天に成るがごとく、地にもなさせたまえ」です。

 ある意味、今生の生活は天の御国のための準備期間。天の御国に至るための前奏曲と言ってもよいでしょう。

 天の御国・・神おひとりを真の親として兄弟姉妹が、永遠に愛と平和を分かち合う世界です。

 以下、大変逆説的なメッセージとなってしまいますが・・天の御国では、自分と意志・意向の合わない人とも、永遠のときをご一緒しなければなりません。この地上では、仲たがいした人とは、しばらく顔を突き合わすことなく、離れていれば済むことですが、天の御国ではそのような方々とも永遠のときをご一緒することとなります。

 私(たち)は、永遠の扉の入り口で、仲たがいした人に向かってこのように言うに違いありません。

「分かりました。あなたが私と永遠のときをご一緒するにふさわしい人に変えられれば、永遠のときをご一緒させていただくこともやぶさかではありません。」

 しかし、よく考えてみると其の「あなた」は、彼(彼女)から観れば「わたし」に他なりません。

 私(たち)は、世の中や人間関係を好転させようとして、世の中や他者にそれにふさわしく変わることを望んでしまいがちです。

 しかし、私もまたその世の中の「構成員」であることを思うと、真っ先に変えなければならないのは、他ならない自分自身であることが分かってきます。

 他者を変えることは、ある意味、安易で簡単かもしれません。力と恫喝で相手を屈服させれば表面的には私に同調を示すことになるかもしれません。

 しかしそれはあくまでも一時的な部分療法、対処療法にしかなりえません。

 もっとも難儀で厄介なのが自分自身を変えること。これは自己のうちに「私は変えられた」という深い納得と確信がなければ成しえないことです。それをこそ克服することが、この生活世界をよりよくするための根治療法ではないでしょうか。

 ちなみに、他者と永遠を分かち合うにふさわしい自己と変わるべく、もしこの地の生活のさ中で其の悔い改めと“和解”の機会がなかった場合には、天の御国入り口で、身もよじらんばかりに、いずれの方とも永遠のときを過ごすにふさわしい自己に変わるための“悔悟”のときがあるはずだ。それをカトリックの方々、パトリック・オサリバン神父は“煉獄”と呼称しています。

煉獄・・地獄の予備軍のようなイメージがありますが、むしろ逆です。よりよき生(せい・いきる)を得るための、創造的な試練といえましょう。

 今朝のみことば

「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分となり、人間と同じものになられました。」

 只今は、人間関係の行きづまりをお話ししましたが、対神関係においても然り。

 神様と私たちの関係は、人の罪によって行きづまったのに、神様は私たちを責めたり、無理やり変えようとはなさいませんでした。

 主イエス・キリストは関係が行きづまったときに変えることができるのは、唯一、自分自身であるとお思いになられ、そのように行動なされました。

 天地をあまねく支配成される神は、人にわかるやさしいペルソナ(人格者)となられたということは、神ご自身が熱い思いでご自身を変えられたのです。

 イエスが語られた豊かないのちに至るための唯一の道は、「お互いに関わりが行き詰った時点にさかのぼり、再びその関わを取り戻す為に、私自身がどのように変われるか」を模索することです。

そうすると、相手との間に感情のエネルギーといのちの流れが蘇り、自他ともに心を開き合うことになりましょう。

 再三にわたり申し上げますが、お相手を責めたり、批判すると、問題を本来の場に置くことができません。本当に重要なのは「私たちがどのように変われるか」です。お相手の不都合や振る舞いは、今、私たちが取り組み最重要課題ではないのです。~これは今、私が私自身に説教をしているのであります~

 イエス・キリストは「人としての受肉」、「十字架の贖い」、「いのちのご復活」の出来事、おことばを通して、私たちにお示しくださいました。

 神と神に繋がる人とふさわしい自己になろう・・お相手好みの人になれという意味ではありません。昭和歌謡に「あなた好みの女になりたい」という歌がありました。なんと情けない歌詞であるかと思わされますが、決してそのような次元ではありません。

 また、相手になすが儘にさせなさい、ということでもありません。

 以前、説教で紐解かせいただきました。「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」は、右の頬を打つということは、世の中の人は大方右利きですので、他者の頬を裏拳で打つことになります。

 これは、他者を侮辱・罵倒する行為であるとともに、主人が奴隷を屈服させる所作・動作です。もし右の頬を裏拳で打たれたのなら、スキンシップと友愛という左の頬を差し出しなさい、ということです。

 なぜなら、あなたもわたしも神に愛され嘉せられる「神の愛」と「神のおよろこび」ではありませんか、互いに信仰の絆で今しっかと足首を結わえあい、主を真中に三人四脚の歩みを成していこうではなりませんか、いや、なさずにはいられない私たちであります。

 このことは、決して「人間力」のみで成しえることではありません。

 私たちの此の営みを、主が真中にいまし、それを司りお導きくださいます。そして聖霊の息吹を私たちを取り囲み、幸いなる航行を成すべくエールを送り続けてくださいます。

 本日ご参集の皆様、そして中野バプテスト教会が、「キリストによって」「キリストとともに」「キリストのうちに」にある、「キリストの友」である幸いに心から感謝を致します。

+キリストに賛美

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2022年9月28日、中野バプテスト教会水曜音楽賛美礼拝のお分ち。

どうぞこちらをお入用とされている方々のもとへ届けられますように~Missio Dei

▷「友なる主イエス」

◇聖書:ヨハネによる福音書15章12~15節

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあ なたがたに知らせたからである。

♪♪聖歌277番「友なる主よ」に合わせて

◇プロイセンの政治家であり軍人であったビスマルク将軍(1815~1898)の主治医としてシェベニンガー医師が招聘されました。

 彼は初めてビスマルク氏を往診した際、健康状態を知るため様々な質問をしました。

 ビスマルク氏はこれを嫌い「私は命令を下すことを生業としており、このような質問攻めにあうことには慣れていないぞ」と言い放ちました。

 するとシェベニンガー医師は立ち上がり、「それでは失礼をいたします。次回の診察は私よりも獣医をお呼びになった方がよろしかと存じます」

「どうして獣医を呼ぶのかね」

「獣医は患者に対して一切質問しないからです」とシェベニンガー医師。

 動物なみに扱われたことに、ビスマルク氏は烈火の如く怒ったかと思いきや、さに非ず。ドクターのユーモアのセンスにすっかり魅せられてしまい、二人は大の友人となったとのことです。

 はっきりとものを言うときは、まともに的を射抜くのではなく、「ユーモア」というフィルターを通した方が良いですね。

 これも実話ですが・・アブラハム・リンカーン氏が若かりし頃、旅をする旅行代がなく、ヒッチハイクをしました。

 立派な馬車が通りかかったとき、その馬車をとめて曰く、「申し訳ございませんが、このコートを町の広場にまで届けていただけないでしょうか?」

 馬車の紳士、「届けるのは構わないが、いつまた君に会って、其のコートを渡すのかね?」

 リンカーン氏「ご心配なく。いつも其のコートの下には私がおりますので!!」

 紳士は、このユーモアのセンスに「この男はただ者ではない」とすっかり魅了され、馬車に乗せたということです。

 もしリンカーン氏が、みすぼらしいコートを着たまま「馬車に乗せてください」と頼んだとしたら、その紳士はすぐさま乗車を拒否したことでしょう。

 懇願は自らの欲求の充足を得るためになすのでは、決してありません。

 懇願もまた、それを通して人との関わりを楽しみ味わう、絶好の機会と云えましょうか。

 それには「ユーモア」という潤滑油が必要不可欠でしょう。

 ユーモアは、すなわち「おもしろさ」。おもしろい、とはただ単に可笑しいことをいうのではなく「面白さ」に他なりません。

 面が白い~面白い・・これは全面真黒に塗りつぶされているのですが、未だ他者が介入する余地、「余白」が残っているということです。

 漆黒の闇の中でも、考えや状況が硬直してしまったなかにも、未だ他者との新規な関わりを楽しむ機会が残されているという意味なのです。

 これをして私たちは「面白い」と、笑みを溢さずにはいられなくなります。

 主も、人がより良く主に「懇願」をし、互いの関係を深めることができるようにと、御自ら「このように祈りなさい」と、「主の祈り」「詩編の祈り」をお示しになられました。

 これはある意味、主の究極のユーモアといっても宜しいでしょう。

 人は関わる存在。関わることで本当に自己を見出し、自己を自己たらしめることができます。

「友のためにいのちを捨てる。これ以上大きな愛はない」とは、決して無理難題の要求ではなく、「友との関わりをすべてに優先し、まずは第一をしましょう。さすればあなたは“愛”と“笑み”に満ち溢れる素敵なあなたと相成りましょう」と、こころに響きます。

 友の中の友、イエス・キリストは、あなたを此の深遠な関わりに、絶えずお招きくださっています。

 +キリストに感謝と賛美

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2022年年9月14日、中野バプテスト教会/音楽賛美礼拝のお分ちです。

 どうぞ、こちらをお入用とされている方々のもとへと、届けられますように~Missio Dei

▷説教『分かち合いの徳』 稲垣俊也牧師

▷聖書 使徒言行録2章43~47節

2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。

2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、

2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。

2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、

2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

◇このみことばは、神が不在の共産主義の在り方を示すものでは決してありません。

「分かち合いの徳」の具体的な実践を表すものであります。

 1940年代、イエズス会系のとある修道院でのお話です。

 修練者は大きな食堂で沈黙を守って霊的な内容の朗読を聴きながら食事をいただくのですが、食事中には次の規則が設けられていました。

 食事中、自分のことで何か起こったとき、例えばパンが足らないときは、自分が給仕係に頼むのではなく、隣に座っている人がその人に代わり、給仕係にお願いをするというものです。

 他者に対する心配りと申しましょうか、互いに心を分かちあう「分かち合いの徳」の実践訓練としては、大変素晴らしい習慣であろうかと思わされます。

 ある日、一人の修練者のスープの皿に大きな蠅が落ちていました。しかし、困ったことには、隣の修練者はそれに気付きません。さあ、どうしたことか。規則を破ってはいけない。しばらく考えて、彼は給仕係にこのように小声で話しかけました。「すみません。隣の人のスープには蠅が入っていないようですね。」

 それで、隣の人ははたと気が付いたということでした。問題は解決されたし、規則も守られました。

 ユーモアあふれるお話ですが、日本語の「分かつ」と「分かる」は同じ言葉、同じ語源と言われています。

 より良く「分り合う」ためには、「分かち合わ」なければなりません。

 分てば分つほど、分かり合えるようになりましょうか。こちらの修道僧らも、此のユーモアあふれる出来事を通して、互いの友情を更に深め「分かり合える」ようになったことは想像に難くありません。

 教会の皆様方も微笑みとユーモアをもって互いの心を分かち、分かり合いたいですね。

 喜怒哀楽を「包まず述べて」、「分かち合って」いきたく思いますが、意外にもポイントとなるのは「怒り」の分かち合いかもしれません。

「怒り」はもともと、「より良く関わり合っていきたい」「より良くありたい。より良くあって欲しい」という心の有様です。例えば、娘さんが夜遅く帰宅したとします。貴方は「何よ、この子は。こんなに夜遅くまで遊び歩いて!!」と怒りを露にします。しかしそれが本当にあなたの感情「心根」でしょうか。

 本当の感情「心根」は「あなたはお母さんにとって大切至極な子。こんなに夜遅くまで出歩き周るあなたのことが、心配でならないの」、ではないでしょうか。

 合唱の練習に不参加がちの人がいたとします。その人が久方ぶりに練習に顔を出すや「何ですか、あなたは。これまで練習をさぼりまくって!!」と怒りを露にするでしょう。しかしそれが本当のあなたの感情「心根」ではありません。 

 「あなたはこの合唱になくてはならない大切な方です。あなたがいないと私は本当に困ってしまうし、何よりもあなたの不在が寂しくてなりません。」、ではないでしょうか。

 このように「天の御国」とは・・互いのこころを包む隠すことなく表わし、分かち合うところ。互いに心配りをし合い、理解し合い尊重し合う美しい関わりが果てるともなく続くさまが、まさに「天国」です。

 今夕の賛美歌の歌詞にもありますように、「天つ(あまつ)世継ぎと なさしめられた」あなたと私は、神ゆえに、互いのいのちとこころを悦び合い、分かち合わずにはいられなくなります。

本日ご参集の皆様、中野教会が天の御国にも似た交わりの美しさに満ち溢れますように。

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「波風を鎮める主イエス」マルコによる福音書4章35節~41節       稲垣俊也牧師

  主の年2022年9月4日~中野バプテスト教会主日礼拝

 遠藤久美子さんの霊とまことをもって奉献された独唱賛美「ごらんよ空の鳥」に感謝をいたします。

マタイによる福音書 6:26 新共同訳

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 

 空の鳥とて、さまざまな体験をとおして、この厳しい自然環境の中で生き抜いていくための術を見出すべく学習をしています。絶え間ない努力をしています。

 しかし彼らのうちには、大自然が自分たちを養い育ててくれるのだという信頼と平安が満ち溢れています。

 まるで電車の中で、母親に抱かれ眠っている赤子のように。

 幼子はこの電車がどこに向かうのか分らなくとも、母親(父親)が必ずや目的の地へといざなってくれるであろうことに、全幅の信頼を寄せています。

 幼子は、この電車がどこで乗り換えるのかも全く気にしていません。

 ましてや、この電車の電車賃がいか程であるのか。目的地まで、電車賃が足りるのか否かも、考えていません。

 人生の旅路においてもこの幼子のようでありたいですね。人生の旅路を終えるまで、私の貯え、(兵糧米)は持つのだろうか? と、案ずる必要はありません。

 天の港に入る時も、其の港の入り口で主イエス・キリストという水先案内人が必ずお出でになるはずだ・・と確信いたしましょう。
~水先案内人とは、その湾内に精通した人。その湾内のどこが浅瀬であり、どこを迂回すれば暗礁に乗り上げなくて済むのか。また時間とともに変化する潮の流れを完全に把握しており、どの時間帯にどの航路を選べばよいのかを判断できる方。水先案内人は、元船長という方が多いそうですが、湾内に入る時は、その船の船長といえども水先案内人の指示に従わなくてはなりません。~

 

 私も還暦を迎え、人生の航路の終盤に臨もうとしていますが、先日、姑息にも年金の計算をしてしまいました。

 最近は国民年金の受給は、おのおのの状況を鑑み、受給時期を自分で選ぶことができますね。早く受給を始めた方は、毎月の受給額が少なくなります。逆に75歳で受給を始めると毎月の受給額が、65歳時受給に比べると約1.84倍高くなります。

 平均寿命まで生きるとして、男性、女性とも何歳から受給を始めると、生涯をとおして一番多くいただけるのか計算すると女性は65歳、男性は70歳が一番有利であるという数字が出てまいります。

 私も、あらゆる状況・パターンを想定して何通りかシュミレーションをしてみました。

しかし、そもそも人の齢(よわい)は、人自らが決めるのではなく、いのちをおつくりになられた神がお決めくださるもの。神様は、何年も先の状況をご存じであられ、私たちがいかなる道を選択すべきか、其の都度、お示し、示唆をお与えくださるお方です。「明日のことは思い煩うな。明日のことは明日自らが心配する」とのみことばは、常に真実です。

 かく申し上げる私こそ・・人の想いでのみ、数学的な計算でのみ自分の人生を推し量ってしまったことに、軽く悔い改めをしつつ、この説教に臨んでいるのであります。

 

 さて、本日のメッセージですが・・船が水浸しになるほどの強風なのに、イエスは艫の方で眠っておられました。不安になられた弟子たちがイエスを起こすと、イエスは風を叱りつけて凪としました。

 イエスは天地万物をおつくりになられた「父なる神」と同一の方であられます。この天地万物、森羅万象の摂理を司る主イエスとイエスのみことばに信頼するとき、恐れは消え去り凪となります。そのことを全人格・五感を通して味わい知るのが、今朝のみことばです。

 

 激しい突風とは・・もちろん自然現象の強風でもありますが、みことばを証しする人を妨げる悪者の勢力、反キリストの攻撃ととることができましょう。

 しかしそれ以上に、この激しい突風は、自らのこころの荒みによって作り出したものであると云えましょう。こころの荒みとは、過度の自己努力、神の御摂理が不在の人の計算などです。

 

 つまり、みことばよりも自己の思いや経験を優先してしまうが故の不安です。

 確かに私はみことばを信じてはいますが、自分の経験や周りの状況によって「みことばがこうである。とか、ああである」と解釈してはいないでしょうか。

 本当にみことばを信じるとは、主と主のみことばによって、自分の出来事や経験に、主にも繋がるより深い意味と意義を感じ、味わい、見出すことです。

 この主客を逆転してしまいますと、まさに本末転倒。人生の航路の船がひっくり返るほどの強風・荒波となってしまいます。

 この正対象の現象は、弱い私たち誰にでも起こり得ることです。正対象は両極に離れているのではなく、まさに紙一重の違いです。それ故に弱い私たちは、「先生。助けてください。私たちは溺れそうです」と叫ばずにはいられません。

 

 また個人的に思われることなのですが・・過度の責任感と言いましょうか、他者の責任まで負うことも激しい突風の原因になっているのではないでしょうか。

 私も含めて、人は他者の責任まで負うことは到底できません。確かに他者に対して“果たすべき責任”はあります。他者の責任を完全なまでに負うことのできるお方は、主イエスしかおられません。このことを違えてしまうと心身は乱れ、嵐となってしまいましょう。

 

 主イエスは即座に、私たち自らをして作り上げてしまった風と波に「黙れ。静まれ」と言われ、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と軽く叱責をなさいます。

 

 さて、主イエスのおことば「信じる」。「信じる」とは・・私たちは教会組織と其の教義。イデオロギーを自分の信念をしているという意味では決してありません。

 「信じる」とは、もっと個人的で篤いもの。

 「信じる」とは、主と主のことばは、いついつまでも私に寄り添うていただける牧者であり、伴侶であり、また背後を守る天使であることを信じるのです。主のおことばは今に生きてはたらく人格者であることを信じます。信じることは最高の人格行為であります。

 

 ことば・・私たちにとって最も身近で、かつまた最も深遠な不可思議な存在です。

 以前にもお証をさせていただきましたが、私が賛美や説教をさせていただくとき、発する声やことばは、発するまでは自分の全責任ですが、発した後はまるでもう一人の人格者として自由自在に空間に飛び交ってゆきます。もう一人の人格者である此の「ことば」は、自由自在に空間に飛び交うだけではなく、時間の制限をも受けることなく、いついつまでも生きてはたらき続けます。

 

 日本アニメ界の巨匠・手塚治虫先生をご存じでありましょう。

 生涯を通して、膨大な作品を創作なされた方です。あるTV番組でインタビューアーが手塚先生に「先生の無限とも思える創作の秘訣はなんでありましょうか?」と尋ねたところ、手塚先生は「創作に関して私は、皆様がお思いになるほど労苦をしたわけではありません。私が心を込めて“アトム”を紙面に書き記すや、あとはアトムがもう一人の自分として勝手に動いてくれるのです。」

 アトムは人格をもったもう一人の手塚先生にほかなりません。ゆえに私たちは、アトムを中心にした人格者の関わりに引き込まれてしまうのです。

 

 私たちのことばにも人格があるように、主のおことばはまさに「ことばのなかのことば」。すべての「ことば」の源泉であり、頂点であり、目的でもあります。この究極の人格者たる主のおことばが、私たちにお関わりくださらないはずはありません。

 

 主のおことばは、私の過去においても現在においても未来においても変わることのない「愛」と「希望」です。

 有名な詩編23編。「主は私の羊飼い、私は乏しいことはありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

 主のみことばは、私を導く牧者です。羊が迷うことのないように、牧者は羊の可視領域、3歩先を歩まれ、「道しるべ」となっていただけるお方です。

 神様は、遠大な救いの計画をお持ちであられますが、十歩先、何十光年も先を照らすお方ではありません。私たちが暗闇で転ぶことがないように、懐中電灯で3歩先を照らし、お導き下さるお方です。私たちの五感によりそう優しいお方です。

 

 「まことに私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう」

 私がガラクタと思って捨ててしまったもの、取るに足らないと蔑ろにしてしまった事、出来事を背後を守る牧羊犬・天使がそれらを拾い集めて言います。「これは、あなたが主と主に繋がる方々ともっと親しく近しくなるための“むしろ”大切な宝だったのです。これこそが主の恵みといつくしみに他なりません。」

 私の過去の体験に、主と主のことばが深い意味を与えてくれます。このことを教会は、「贖う」と言い表します。贖う・・日本語では大変分かりにくい言葉ですが、贖うはヘブライ語で「ゴエル」、取り戻す、弁済する、の意味です。過去の出来事そのものは取り消すことができませんし変えることもできません。しかし主のおことばは、その出来事が「今」に与える意味を変えることができます。

 心理学者のユングは「人の一生は幸福を求めることに費やされていると思いがちだが、実は生涯のほとんどが贖いのために費やされている。」と言っていますが、主イエス・キリストは十字架上でいのちを賭して贖いを成し遂げられました。その大いなる恵みといつくしみを私たちは“信じます。”

 

 「私はいつまでも主の家に住まいましょう」

 私たちは天のエルサレム、天上のエルサレムのキリストの婚宴を目指し、今、キリスト自身のエコートによって其のヴァージンロードを歩みゆく者であります。

 クリスチャンとは「キリストのもの」。キリストが私たちのことを、こころから愛してやまない「僕のもの」と仰ってくださっています。なんと篤いおことばでありましょうか。

 ある意味、私たちクリスチャンは神と結婚をさせていただいたものです。結婚式には誓いの言葉、誓約があります。「生涯を通して誠実を尽くすことを誓いますか?」「はい。誓います」

 神は気まぐれや思い付きで私たちと結婚の約束をされたのではありません。神の誓いは永久不変です。ご自身がご自身の愛に対して誠実なお方であられます。

 何があろうと、どんな状況になろうとも、此の天に向かっての二人三脚の歩みが止まることはありません。

 神のなされることはいつもand and andです。

 信仰の国、イタリアの友人たちが良く言いますが「神は決して、Se O Maはお考えにならない。Se(もしも)、O(あるいは)、Ma(しかし)は、神のおこころには無い。神はいつもE E E、and and andである。」

 神は天地万物の創造の神であられます。さらに言えば、神は私たちとよりよい関係を“創造し続ける”お方です。

 私たちは創造の神の救いの恵みに与り、天のエルサレムに向かいand and andと幸いな信仰の旅路を続けるものであることを信じます。

 今朝もみことばを通して信仰の神秘を深く味わわせていただきました。主なる神が、ご参集の皆様、おひとりお一人の信仰の旅路を、そして中野バプテスト教会の信仰の旅路を祝福し守り導びかれんことを信じます。

キリストに賛美!!

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『ああ、感謝せん』~ルカによる福音書17章11~19節~稲垣俊也牧師

​主の年2022年8月24日/ 中野バプテスト教会音楽賛美礼拝

聖歌292番「今日まで守られ」に合わせて

 ある日、イエスは重い皮膚病を患っている10人の人を癒しましたが、そのうちの一人だけが戻って来て「イエスの足もとにひれ伏し感謝をした・・・」

そこでイエスは言われた。「清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか」

 あるお母さんは子供(女の子)を寝かしつけるとき、いつも子供と一緒に就寝前の小さなお祈りを捧げていました。ところがその女の子のおばさんが病気になったため、「今日から、一日の感謝とともに、おばさんが早く治るようにお祈りしましょうね」ということになったそうです。

 おばさんは二週間ぐらいの療養生活を経て、すっかり良くなりました。お母さんは女の子に「これまで一生懸命祈ってくれてありがとう。でもおばさんはすっかり良くなったので、もう祈らなくてもよいのよ!!」と言いました。

 女の子は不思議に思って「治ったならば、どうして神様に感謝のお祈りをしないの?」と言いました。この言葉に、お母さんはびっくり。それから又しばらくの期間、感謝のお祈りを捧げ続けたということです。

 私も含めて、私たちは自分の願い事のお祈り、「大願成就」の祈りは決して忘れることはありません。

 しかし感謝の祈りとなると、つい忘れてしまうものです。

 おそらく、私たちはどれほど神様から恵みをいただいているかに気がつかないからでしょう。

 只今、ご一緒に詠いました聖歌292番「今日まで守られきたりしわが身」でも、主のご加護があってこその今日の私であることを、味わわせていただきました。

 何気に与えられている健康、本日新しくご来会いただいた方々との「一期一会」の出会いなど、私たちの生活そのものが、神の御恵みです。いや、今生、私たち一人ひとりに「いのち」と「いのち」を生きる意味が与えらえていることは、ほとんど奇跡といっても宜しいでしょう。

 ある心理学者が、「刑務所に収監されている人とそうでない人の違いは、収監されていない人の人格が、収監されている人より優れ健全であるから・・では決してない。罪を犯す現場、機会に巡りあったか、否かだけの違いである」と言っていますが、私たちが心身ともに健全でいられるとすれば、それは主が「我らが試み(悪しき機会)に会うことなく、守り救い出されている」からに他なりません。

 以下のお話は、多少私の創作が入っていますが、どこにでもありえるお話ではないでしょうか。

『Bさんは、大変重い病気にかかってしまいました。手術を受けないと助かりませんが、この手術は大変難しく、成功率は10%以下とのことです。

 しかしBさんはこの大変な手術を受けて成功し、長い入院生活を経て、ついに半年後に完治しました。いよいよ退院する日、それまで御世話になった先生や看護師さん、そして神様に対する感謝の思いを全身全霊で表わしました。

 そして此の退院日を、もう一度新しく生まれ変わった日として記念し、第二の誕生日としました。

 第二の誕生日には毎年、病院の先生、看護師の方々に心のこもった言葉とともに、感謝の品々を贈り続けておられます。』

 しかしよく考えると、入院しない人や手術を受ける必要のない健康な人は、より有難いはずです。

 Bさんよりももっともっと感謝をしてもよろしいのではないでしょうか。

 しかし私(私たち)は、此の感謝の思いを忘れてしまいがちです。

 主イエスは、感謝を強要する方ではありません。しかし主イエスは様々な出来事、対話、そして癒しを通して私たち一人ひとりともっと親しくなりたいと切望なさっておられるのではないでしょうか?

 感謝とは・・「愛する主(貴方)と共にいられることを有難うございます。」「愛する主(貴方)がいてくれて有難うございます」という最も素朴で崇高な心のありようです。

 ある方が私のもとにプレゼントを携えて訪問して下さったと仮定しましょう。

 私はその方を玄関でお迎えして「ああ、プレゼントですね。確かにお受取りいたしました。それでは、速やかにお帰り下さい」とは言いません。

 その方をリビングにお迎えして、しばしの間、感謝の思いとともに、その方と親しく御交わりをするではありませんか。

 くどくど祈ることと、日々感謝の祈りを捧げることは全く異なります。

 御父は私の願い事が唇に上る前から、ご存じであられます。あの手この手で「大願成就」のために作為を弄する必要はありません。素朴に簡潔に自身の入用をお話すればいいのです。

 感謝の祈りを日々の糧のように味わい表すとは・・・主イエスと私とのかかわりが日々、親しく、近しく、「新しく」なっていくことを全身全霊で感じ、悦ぶことに他なりません。
 

 今夕も素朴な感謝の賛美とともに、主と主のことばと、主の愛される兄姉とご一緒させていただいたことに感謝いたします。

+キリストに賛美

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「神の掟、それは神のご期待」ヨハネによる福音書15章12~15節    

主の年2022年8月7日中野バプテスト教会主日礼拝     説教者-稲垣俊也牧師

(新生讃美歌92番“喜びたたえよ”に合わせて)

 今朝、ここにご参集の皆様方は、主イエス・キリストが十字架におかかりになるほどに愛されるお一人お一人であります。

 私たちに対する神の愛、主イエスの愛の応える唯一の道は、神からいっぱい愛された人々が、互いに愛し合うことしかありません。“恋”は“片思い”という言葉があるように、一方通行ともなり得ますが、“愛”は其のさなかにある人々の深いこころの授受、「双方向」です。「受くる愛」と「授ける愛」の両者があってこそ「キリストの愛」を本物の体験とすることができます。

 此れは、まさに今朝の基調テーマ、ヨハネ15:12 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」に他なりません。

 

 主イエスが当初、私たちに示された唯一無二の戒めとは、「心を尽くして神を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」でありました。

 しかしながら・・特に後者「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、自分に対する自己愛を、他者に反映せよ、と曲解される恐れがありました。イエスも、当初このような懸念はお持ちであったでしょうが、人々の理解に合わせ、人々が古くから親しんでいる此のレビ書を、ご自分のみ教えの土台としていましたが、イエスはいよいよ“愛のみ教え”深めていきました。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

 私のいのちは尊い授かりもの。そしていのちを生きる意味と意義を主イエス・キリストはいのちを賭して私たちにもたらしてくださいました。隣人にも同じように、いのちといのちを生きる意味が主によって与えられています。

 互いに愛し合う其の愛とは・・主が愛する隣人であればこそ、主ゆえに隣人を愛さずにはいられない「愛」であります。

 器いっぱいに、溢れんばかりの愛の清水を注がれた自分であれば、それを溢れんばかりに隣人へ分かつことができます。いや、分かち合わずにはいられなくなります。

「天才バカボン」の作者赤塚不二夫氏は、お母さまからいっぱい愛された体験をお持ちでした。~「あなたは素晴らしい」「あなたは天才よ!!」と愛の言葉をお母さまから戴いたがゆえに、愛に溢れるユーモアを他者に分かつことができました。「あなたが何をしようと何であろうと、あなたの存在そのものが、お母さんの宝なの」との愛の言葉に、「これでいいのだ!!」と、“自分を喜んでくれる母”を喜ばずにはいられなかったのではないでしょうか?

 

 それ故、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」は、

~神からいっぱいの愛を注がれたあなたであれば、主イエスの眼差しで互いに愛し合わずにはいられないではないでしょうか?~と、

◆主イエスの限りない「ご期待」が籠められています。

◆更に主イエスは、それを私たちに“問いかけて”おられるのではないでしょうか。

 主イエスは、いつも優しく私たちに問いかけ続けてくださっています。「なぜ私に尋ねるのか」「どうしてそんなにこわがるのか」「なぜわからないのか」「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか]。福音書のイエスはつねに「問いかける」存在です。

 主イエスは、私たちに命令をしたり強制をしたり、あるいは無理やりことを運ぼうとなさる御方では決してありません。

 私達が主に在るより佳き道、より良き自己を選ぶことが出来るようにと、やさしく問いかけ、問題提起をなされます。そして私たちが、ふさわしい答えを見出すことが出来るようにと、篤いご期待を寄せるお方であります。

 日本人の宗教観は、儒教の影響が多々ありますので、「主の戒め」も日々三度反省をして、自分を律しなさいと、まさに“絶対厳守の掟”風な捉えかたをしていますが、イエスのおこころはむしろ、愛ゆえになす、愛ゆえに成さざるをえない・・が根底に流れています。

 イエスの「問いかけ」は、神のご期待通りのあなたでありますように、自らの自由意思をもってそのようにおなりなさいという、神の愛の表れではないでしょうか。・・と私もご参集の皆様にお問いかけ致します。

 

 私は合唱指導に長年携わっています。合唱の練習の際、指導者はいわゆる指導言を発しなければなりませんが、指導言は主に4種類あります。

  • 問いかけ ②指示 ③説明 ④助言

これら4種類が程よく調合された指導が望ましいとされていますが、合唱指導の初心者は問いかけ6%、指示79%、説明6%、助言9%となっています。「ああしてください。こうしてください。これはダメです。」と指示する場面のパーセンテージが突出しています。

ベテラン指導者になると問いかけ36%、指示32%、説明21%、助言11%と程よく4種類が調和していますが、指導言で最も多いのは「問いかけ」となっています。

 確かに、音程の低い人に対して、「貴方の音程は低い、もっと高くとってください」と指示されれば、誰でも意気消沈してしまいましょう。

 ところが、「貴方の音色をもう少し明るくすると、両隣の人ともっと美しく調和すると思いますが、如何でしょうか?」と尋ねられれば、誰しも気概を持ってそれを成さずにはいられなくなってきましょう。

 指導者が演奏者よりも自分が優位であることを示すために、言わなくてもよいことまで指示するのはマウンティングに他なりません。そこには“愛”はありません。

 指導者と演奏者が友愛のうちにより良きアンサンブルをしていこうと思えば、他者に対する優しい配慮、軽く他者のこころをノックして気付きを与えて差し上げる“問いかけ”はもっとも良い方法となりえます。そこには“愛”が籠められています。

 世界的な大指揮者カラヤンは、オーケストラの稽古中、個々人のミスを人前で指摘することは、ほとんど無かったと聞きます。オーケストラのリハーサル中、ミスを犯した人がいたならば、一旦オーケストラを止めて、そのミスに関連する音楽一般論を全然関係のない他のパートの人に向かって話し、その後、ミスを犯した“隣の人”に、「教えて差し上げてください」と言わんばかりにウインクをしたということです。帝王カラヤンは絶対君主ではなく、愛の配慮に満ち溢れるお方でありました。

 これも合唱指導法現場における金言ですが・・凡庸な教師は指示をする。良い教師は説明をする。優れた教師は模範となる。偉大な教師はこころに火をつける。

 このように観ますれば、主イエスはまさに、御自ら愛を実践し皆々の模範となり、やさしく他者にお尋ねになり、気付きをあたえ、内なる気概を呼び起こす偉大な教師といえましょう。

 

 愛ゆえに成し、愛ゆえに受け止めなければ、神の掟とて私たちを窮屈に縛る“手かせ、足かせ”にしかなりえません。事実、旧約聖書時代の人々は、愛が不在の数々の律法、掟に苦しめられてきました。

 最後にとある実話をご紹介いたしましょう。

 韓国のとあるご夫妻のお話ですが、この夫は大変な暴君でありました。夫が出勤する前に妻に「今日,家でやっておく十項目」なるメモ用紙を渡すのです。夫が会社から帰宅するまでに、一つでもやり残した項目があろうものなら、殴る蹴るの暴行を妻に加えるのです。それはそれは、毎日が地獄のようでした。

 然しその夫は、ガンにおかされこの世を去ってしまいました。妻はその後虚脱状態に陥り、茫然自失の日々を過ごしましたが、数年後、本当に心から彼女を愛してくれる男性と巡り合い、再婚を果たしました。

 彼女の生活は一変、幸せに満ち溢れました。いつものように夫を会社に送り出し、家を掃除していると、ソファーのクッションの下からくしゃくしゃになった紙が出てきました。それは何と、十数年前の以前の夫が書いた「今日家であるべきこと10項目」なる“命令書でした。

 彼女は其れを手に取るや涙がどっと溢れました。それは忌々しい過去を思い出したからではなく、今、愛する夫の為にして差し上げていること、愛に溢れる家庭の為に成していることは、命令書に書かれている十項目よりもはるかに多いことに気付かされたからです。

 愛の無い掟は、ただ心身を縛り、閉塞させてしまうだけですが、愛に満ち溢れる掟は、それによって更に自己の愛を燃え立たせることができることを、教えてくれる貴重なお証ではないでしょうか。

 

 主イエスの愛に満ち溢れる問いかけは、「あなたは、そう答えるであろう」、いや、「そう答えずにはいられないあなたであろう」、という神のご期待に他なりません。

 今朝ご参集の皆様方は、神のご期待、神の愛。

 心からの感謝のうちに、キリストに賛美。

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2022年7月27日/中野バプテスト教会音楽賛美礼拝のお分かち。

どうぞ、こちらをお入用とされている方々の元へと届けられますように~Missio Dei

「静かにささやく風の声」

列王記上19章9節~11節

♪讃美歌333番「主よ、われをばとらえたまえ」に合わせて~~稲垣俊也牧師

 預言者エリヤは、静かにささやく声(風のささやき)に、神のご本質を観る想いがしました。神は無理矢理ことを起こしたり、恫喝し命令する御方ではありません。

神は・・

①其の人が、其の人ならでは花を咲かすことができるよう、やさしく光を送られるお方。

②其の人が、よりふさわしい道を選ぶことができるよう、やさしく“気付き”をお与えくださるお方。

③反面・・其の人が、主に在って選んだ道を祝福してくださるお方。

 特に此の③ですが、結婚のお相手と巡り合うことを思えば分りやすいでしょう。

 「神様。わたしにふさわしい女性が与えられますように!!」と祈りさえすれば、まるで天からマナが降ってくるかのように、女性が舞い降りてくる? 一見、信仰深そうに観えますが、決してそうではありません。

 「神様。この女性(人)とこそ生涯をとおして愛を分かち合ってゆきたいと思います。共感、共苦をとおして、ますますこの人と愛を深めてまいりたいと思います。」との祈りに対して・・「よかろう。この人とあなたの結びは、私の悦び。大いに祝福をしよう。万軍の天使も万雷の拍手を送ってくれよう」と、主は仰るのでないでしょうか。

賛美歌には曲尾にAmenが付けられます。Amenは、「真実、信心、堅固」等の意味が込められた私たちが最も大切にする祈祷の文言ですが、Amenは神様の唯一無二の祝福のエールにも思えます。Amenは、「詠われた賛美歌の歌詞、みことばが確かに今、完成、成就いたしました」との、神様からの祝福の証印ではないでしょうか。

Amenが、曲の始めにあったとしたら、如何でしょうか? 「あなたはこのように成すべし」という命令となってしまいましょう。私たちの信仰の謳歌を寿ぎお喜びくださった神が、曲尾でAmenという祝福と保証をお与えくださることに、神のご器量の深さ広さを感じることができます。

 神様は大預言者エリヤに対しても(もちろん私たちに対しても)、決して無理難題を押し付けることはなさいません。

 主は、「主の柔らかな風の声」をお通しする"オルガン“たれ。とささやくお方であります。

 私たちは、此の主のおこころにお応えすべく、この日この時ならではの奏でを、気負うことなく臆することなくたおやかに成さずにはいられなくなってまいります。

 しかし楽の音は、奏でては消えゆくもの。それゆえに、次なる奏者へと世代から世代へと受け継がれていくものでもあります。モーゼからヨシュアに、エリヤからエリシャにバトンが渡されたように、救いの御業は一代限りで完成するものではなく、永続されるものです。

 私たちは、この日この時ならでは「福音」の奏でに携わる誇りと悦びを持つと同時に、次世代の主に繋がる他者へお伝えし明け渡す「謙虚さ」を持つこともまた必要となってなりましょう

 少々難しい言い方になりますが・・救いの御業の一回性と永続性の御摂理に、こころからAmenと唱える私たちでありたいと想います。

 私はモーゼ、エリヤとはじめとする信仰の熟練者にあこがれ、目指すものであります。

 信仰の熟練者とは・・厳しい修業を自らに課し、それを網羅する人? 決してそうではありません。

 むしろ、主のおこころの「受けとめ上手な人」こそ信仰の熟練者と云えましょう。

 長年の信仰生活の経験、いや、神様の信頼関係からみこころの注がれる機会、タイミングを逸することなく、また先走ることなく捉え受けとめることができる人が、すなわち信仰の熟練者です。

 しかし更なる信仰の"上手(うわて)“がいます。

 それは、「受けとめ上手」に勝る、「受けとめさせ上手」です。

 このことは、夫婦の関係で考えるとわかりやすいと思います。

 夫婦間では、むしろ「助け上手」であるためには「助けさせ上手」なければなりません。

自分はお相手を助けるが、お相手には助ける機会を与えない・・これは裏を返せば本当にお相手を助けることにはなっていません。これは、私は何でも独力でなすことができるのだという自己顕示にしかなりえません。

 「受けとめ上手」は「受けとめさせ上手」。「助け上手」は「助けさせ上手」。

ある意味、モーゼはヨシュアに対して「助けさせ上手」、エリヤはエリシャに対しては「助けさせ上手」であったのではないでしょうか。彼らは、主に在って“自由自在に他者を関わらせる”器量深い人であったればこそ、信仰の熟練者であったのです。

私たちもこのことを鑑み成せば、また一歩、主イエスのおこころ近づくことができます。

なぜなら、主イエスこそ究極の「助けさせ上手」「関わらせ上手」「見出させ上手」であられたからです。

夏の夕べ、清々しい涼風のごとく、このことを私たちに囁きお語りくだされた主イエスに感謝!!

 

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2022年7月13日中野バプテスト教会音楽賛美礼拝

「信仰の旅路」申命記34章1~3節  稲垣俊也牧師

基調讃美歌「しずけき祈りの」

▷信仰の神秘、信仰の深遠さは人の思慮分別を遥かに凌駕し、其れを人のことばで説明をしたり、解析をすることは、おそらく不可能でありましょう。

 しかし信仰の神秘を、私たちの生活と深く関わらせることは十二分に可能であります。

 私たちが信仰の対象者である「神」を究極の現実として認めるなら、それを何らかの方法で表現をしなければなりません。否、しないではいられなくなってまいりましょう。

 それが即ち、讃美と祈りではないでしょうか。

 讃美と祈りは、私たちの生活を神と深く関わらせていただく人の側からの真摯な働きかけです。

 更に言えば、私たちの生活をすべからく“祈り”となすことが、信仰者の醍醐味と云っても宜しいかもしれません。

 私達が何かをしながら神のことを想い、祈ることには価値があります。

 有名な話ですが、イタリアのとある修道会にて、修道士が修道院長にこのように尋ねました。~「院長様、祈りながらタバコを吸っても宜しいでしょうか?」

 院長は「そんなことは、言語道断です。修道士としてあるまじきことです」

 そして別の修道士が尋ねました「院長様、タバコを吸いながら祈っても宜しいでしょうか?」

院長はしばらく考えてから・・「それは、大変宜しいことかと思います。私たちはタバコを吸いながら祈ることは可能です。いやむしろ、生活すべての営みを祈りと成していくべきでしょう。」

 ことば遊びのような感じも致しますが、生活そのものが「祈り」ということでしょうか。

 しかしながら・・活動にはどっちつかずのところがありましょうか。

 いのちに与る機会にもなれば、心身が疲弊し、散漫にもなりかねません。

 反面、万難を排して主と二人きりになり、静けさの中で神を想い、神に祈ることは、どっちつかずの余地は全くありません。私達が神の臨在の前で一人立ち、全身全霊で神を想うことはまさに“至福直観”ともいうべき、珠玉のときと成りえます。

 

 さて私たちはイエスと共に、此の賛美と祈りを日々の糧として“天上のエルサレム”を目指し、旅を続けるものであります。

 旅の佳いところは、異質の文化に触れることで、自分の心身が耕され柔軟にされていくことに尽きましょうか?

 それを、旅路の友であるイエスと分かち合うことで、イエスをもっと親しく近しく感じ味わわせていただけることは、まさに旅の醍醐味でありましょう。

 私達は、“天上のエルサレムの小羊の婚宴”を目指し、花婿イエスご自身のエスコートによる幸いな“新婚旅行のさ中”にあるといっても宜しいかと想います。

 

 今回のレクチャー讃美歌は、カナンの地を目指し旅するイスラエルの民らを描いた「しずけき祈り」ですが、祈りに関してこのような質問がよく発せられます。「祈りとは、自分が自分に話しかけていることではないか?。祈ったからとて、すぐ答えが聴こえるわけでもなし、結局祈りとは独り言を言っているのにすぎないのではないか?」

 確かに私も祈った後すぐに、聴覚的にイエスのお答えが聴こえるわけではありません。祈った後はむしろ、静寂があるのみです。

 しかしある期間、祈り続けることで、私がイエスの実在をより深く意識し、周りの人々と出来事をより建設的に創造的に捉えることができるようになったのであれば、明らかに私が体験していることは本物の出来事です。神の側からの祈りに対しての明確な答えではないかと想うのです。

 私は、いつも祈りつつメッセージ・説教の準備をさせていただいていますが、みことばが、今の生活世界に飛び交い浸透するためにも「このように表現して欲しい」と自ら私に働きかけてくださいます。そして、当該のみことばの行間から“ことば”が沸き出でる様を、いつも目の当たりにさせていただいています。

 これもみことばに祈ったが故の、みことばから戴く答えではないかと想うのです。

 誤解の無きようにお願いしたいのですが、此れはみことばに新しいことばを付加するということでありません。みことばは既に完結しています。しかしながら、今のこの時代には、未だ其のみことばが十全に行き届いていません。今この時代の生活という土壌にみことばが根づくべく、この時代に相応しい“鍬入れ”が、みことばの行間から沸き出でるということです。

 

 この様にして観ると、祈りは私たちが信仰生活で成すことが出来る最も深い体験、究極の現実であることがよくわかります。

 私達は、「神」や「キリスト」という言葉を信じ、念仏のように唱え、信心業を営んでいるのではありません。神との対話(Oratio),即ち祈りを通してもたらされる“現実”を信じているのであります。

 今宵、ご参集の皆様と、心を一つにして神に祈れる幸いに心から感謝を致します。

+キリストに賛美

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「天(あめ)なる恵み」フィリピの信徒への手紙2章12~16節

基調讃美歌「雨を降りそそぎ」

2022年7月3日、中野バプテスト教会主日礼拝             稲垣俊也牧師

 只今「雨を降り注ぎ」を共に讃美いたしました。干乾びた大地が潤いを得て生き返る思いが致します。この賛美を歌う毎に、私は一つのみことばを想うことができます。

~エゼキエル書37章四節。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。」~

 カサカサに枯れた骨のような絶望的な状態の中にあっても、主のことばを聞くとその骨は生き返ると表わされています。主の霊がそそがれていくと、その人は生けるものとなります。

 同じエゼキエル書37章の7節では「見よ、動く音があり。」と語られています。只今の讃美歌「雨を降りそそぎ」の歌詞にも“雨を降り注ぎ、強き音もて、眠る民の目を覚ましたまえや”とありました。

~音、それは生命の象徴であります。死した状態には音がありません。静寂は無音ではなく、まさにシーンとした空気の流れ、深い息のそよぎがありますが、死は音のない状態です。

 宇宙空間は基本的に死の世界であります。音が全くありません。ある宇宙飛行士がこのように言いました。「宇宙に何か一つ持って行くものがあるとすれば、私はCDプレーヤーを持って行きたい。宇宙はまさしく音のない死の世界です。死の世界には「音」が必要なのです。」

私たちとて・・クリスチャン生活も長くなり“形骸化~骸骨化?”してきますと、ともすれば、この主がお語りになる、生きた音、生けることばを聞き損ねてしまうことがあるのではないでしょうか?

 ペンテコステには大きな音がして皆、集まったと記されていますが。そのような天的な音、周りを震撼させるような音を、聞き取ることが出来ない状況に陥ることがあります。

 どうして音を感じることが出来なくなってしまうのか?

それは結局、信仰者であっても常識がすべてであって、人間の世界と少しも変わらない状況を、自らをして作ってしまっているからではないでしょうか。 

私たちはしばしば周りの状況によってみことばが、「ああである。こうである」と判断してしまいがちです。

 しかし健全な信仰はむしろ逆といえましょう。みことばによって周りの出来事を観て、その中に深い意義を見出していくものです。それゆえに、私たち自らをして、音を感じさせなくしてしまっているのであります。

 私は常識が悪いと言っているのではありません。信仰はむしろその常識以上の事。常識を踏まえた上で常識を凌駕し超越するものこそが信仰でありましょう。

 本日ご参集の方々には「いや、私はそのような人間ではない」と仰る方がおられるかもしれません。

しかしいかがでしょうか? 大自然を凌駕する雷の音~雷の音は主の臨在を意味します~その雷の音が鳴っているにもかかわらず、イヤホンをつけてスマホを片手にこの世の情報の収集に明け暮れている自己に気付いたことはありませんか。森羅万象の美よりも、人工知能が作り出した美に価値を感じてしまう。このような本末転倒な社会現象が、信仰にも悪影響を及ぼしているのです。

 電車の中でも、幼い子供が母親に抱かれている愛くるしい風景をよく見かけますが、幼子イエスを想わせるような“笑み溢れる幼子のまなこ”が母親を見続けているのに、母親は子を観ようともせず、スマホに見入ってしまっています。ある統計によると1分間のうち、子は母親の顔を50秒見ているのに対して、母は子供を10秒しか見ていない。生きる「生の音」との関わり、今を生きる息の授受のよりもAIに最高の価値を見出そうとする有様が、生ける神との対話である「信仰生活」にも、悪影響を及ぼしていることは明らかです。

 これもまた「スマホ」が悪いと言っているのではありません。宗教改革者のルター先生も、往時発明されたグーテンベルクの印刷機をいち早く活用して、宣教の武具といたしました。人と人とのより良い関りの為に文明の利器を「活用する」ことと、文明の利器に「利用され」、素朴な人と人の関りを損なってしまうことは、紙一重ということでしょうか。

今日のみことば。

フィリピの信徒への手紙二章の12節。「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とあります。~自分の救いの達成に努めなさい~これは・・・信仰の新鮮さを、いつも保ち続けていなさいということです。

新鮮な感動、信仰の新鮮さとは?

 それはズバリ、いつも私たちが生ける神との対話に招かれているという「実感」であります。

 近世能の草分けである世阿弥の名言。「初心忘れるべからず」は、・・新鮮に存在するための方法を絶えず考えよ・・と言うことです。

 世の森羅万象は、生ける“息と音”のたおやかなそよぎそのものと言ってもいいでしょう。

 教会は「賛美」という文化を大切に致しますが・・賛美もゆらぎの世界です。私たちが心を籠めて奉げる賛美に対して、神の御祝福がまるでブーメランのように返ってくるが如く、其のゆらぎは二極の間を行き来する対話なのです。(祈りを表すラテン語のオラツィオ“Oratio”も、対話の意)

讃美を歌うということは、神様との対話、神様に繋がる方々との対話に招かれている「現実」を味わい悦ぶ体験に他なりません。これこそが、みずみずしい新鮮さを保つことに、いや創り出すことになっているのです。私たちが創造主のご性質に倣い、私たち自ら主体性をもって「新鮮に存在するための方法」を編み出すことになるのです。対話が滞ると一極に息が偏り、心身が閉塞してしまいます。すなわち「死に体」となってしまいます。

 先日、カトリックの神父様の説教を聴きました。その際、大変興味深いことを仰いました。信仰には「中心」と「周り」がある。私たちは中心のことよりも周りのことに一生懸命になる傾向があるということです。「周り」のこととは、教会運営の流儀、教会行事、教義の会得ということでありましょうか?

 「中心」のこととは言うまでもなく、今を生きるみことばたる“主イエス・キリスト”との対話です。

みことばとの対話~すなわち“自分の信仰の新鮮さに保つということ”に対して無頓着であるというのが、今の神学教育の現場や教会の姿ではないのかと、想わされるのであります。

 大きな水がめに、大きい石と小さな石をまんべんなく入れると致しましょう。水がめに小さな石を先に入れてから大きな石を入れようとしますと・・小さな石が大きな石が入り込むスペースをすでに奪ってしまっていますので、大きな石は入り込むことができなくなってしまいます。

 先に大きな石を入れて、その隙間に小さな石を入れますと、水がめは大きな石と小さな石両方をまんべんなく入れることができ、水瓶は残りなく隅々まで、大石小石でいっぱいとなってまいりましょう。

 ご参集の皆様方はもうお分かりでありましょう。大きな石は「中心」のこと。小さな石は「周り」のこと。まずは、大きな石があってこその、小さな石であります。その逆では決してありません。

 私たちの教会生活のさまざまな出来事、信仰上の知識、信心業、会得したスキルは、主イエス・キリストとイエスにつながる信仰の友との対話を支え、深め、堅固なものとなすためです。

みことばとの対話!!これを心身の「中心」に据え、更には教会という「共同体」「共鳴体」の中で、高らかに信仰の友らと共鳴、共振し合ってまいりましょう。さすれば私たちの信仰と信仰生活は、いつもときめき、新鮮さに満ち溢れ続けることでありましょう。 

十キリストに讃美

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◆中野バプテスト教会~水曜音楽賛美礼拝説(2022年5月25日)

音声認識機能による口述筆記。

 

『友なる主イエス』 主の年2022年5月25日 稲垣俊也牧師

▷聖書 ヨハネによる福音書15章12~15節

▷新聖歌285番「心くじけて(一羽のすずめに)」に合わせて

「一羽の雀さえ」~雀であっていいじゃないですか?スパロウ(雀)がスワロウ(燕)になる必要はありません。スパロウであっても、スワロウと同じ大空を舞えるではありませんか。 社長にならなくてもいいのです。課長のままでいいじゃないですか。社長は確かに自分のクルーザーを持つことができるかもしれません。しかし課長であってもレンタル・クルーザーで年に数回は、社長と同じ大海原を楽しむことができるではありませんか?あるいは・・・クルーザーを所有する社長は忙しくて、数年間クルージングすることができないかもしれません。

 等身大の素朴で自然なあなたの生き様を、主イエス・キリストは、 寿ぎ悦んでくださっています。

 「一羽の雀さえ」の歌詞に、「主イエスこそ我がまことの友」とあります。

 私たちがキリスト信仰を深めていく唯一無二の道は、イエス・キリストとの個人的な友情関係を育てていくこと、これに尽きるのではないでしょうか?

 主イエスは神様でいらっしゃいますけど、私にとって誰よりも親しい、近しい友であることを覚えましょう。

 イエスキリストの関わりの有り方は、まさに「個人的な関わり」です。99匹の羊を残しておいても、一匹の羊を探しに行かれる。これがキリストの心であります。

 野に放逐された羊が狼に食べられてしまってもいいとか、そういう意味ではなくて、この一匹は99匹に勝るとも劣らぬ高価で貴い宝であるということであります。「個が全体である」ということでございましょうか。

 ピアノは88の鍵盤がありますが、鍵盤一つの不都合によって、ピアノ全体が台無しになってしまいます。自転車の車輪にはたくさんのスポークがついていますが、スポークが一つでもかけてしまったら、もう走行することはできません。全体のための個ではなく、「個」があってこその全体であります。

 主イエス・キリストは、雀一羽ずつに名前を付けになって、お呼びになっているに違いありません。 花一つにも名前をお付けになられ、その名前でお呼びになっている屋に違いありません。

 アメリカでそのようなハンバーガー屋さんがありました。ロサンゼルスで牧会研修している時の体験ですが、お客の注文したハンバーガー出来上がると「はーい、ジョージ出来上がったよ」と名前でお呼び出しをするのです。でも、一つ問題がありました。「はーい。ジョージ出来上がったよ」と言うと、ジョージが何人も来ちゃって。でもフルネームで呼ぶと、これまた個人情報になってしまうので、ファーストネームで呼ぶスタンスは変えられません。「メアリー。出来たよ」と呼び出すと、メアリーが何人も来てしまいます。ですから、そのハンバーガー屋さんは名前で呼び出すシステムを断念したそうです。なるほど。そのハンバーガー屋さんは、クリスチャンの経営者だったみたいですね。

 ハンバーガーで思い出しました。その昔、常盤台バプテスト教会に奉職をしていた時分、バザーがありましてですね、戸上先生がブラジル風のハンバーガーをたくさん作って、皆様に振る舞われました。なんと250個作ったのかな?そしてその時の儲けが1300円!!

ちょっと大盤振る舞いが過ぎてしまって。「~さんに、~さんにとびっきり美味しいハンバーグを食べてほしいって思いが勝ち過ぎてしまって儲けが全く無かったけど、僕は十二分に満足です。」と満面の笑みで戸上先生はおっしゃられました。戸上先生はキリストの心を実践なされたのであります。

 さて私たちはイエス・キリストと友情を育むように召されています。さて、恋愛には片思いがありますが、友情には片想いはありません。友情は、関わり合う双方に影響を及ぼし、互いにより良き自己へと変えていくことができます。

 主イエスは真の友であります。もちろんイエスの生き様とイエスの言葉に、私たちは変えられていきます。キリストにふさわしい友人して、もっとキリストに愛される友人して変えられることを良しとします。

 その昔「あなた好みの、あなた好みの女になりたい。」という歌謡曲がありました。あまり爽やかな歌詞とは思えませんが・・表面的に、あなたのご機嫌取りに終始をするという意味合いではなく、「生涯を通してキリストにふさわしい友人なって行きたい。キリストにふさわしい友にならずにはいられない」という、積極果敢な自由意思を持ってこそ交わすのがイエスとの友情です。

 キリストの生き様とことばは、私を真芯から変えていく力がありますが、キリストと私の友情は、キリストも変えることができるのです。なんと 畏れ多いことでありましょうか!!キリストも私とのかかわりの中で、ますます愛の人になっていく。ますますに有愛に満ち満ちた御方になっていくのです。

 復活のイエスは、ペトロに対して「私の子羊を飼いなさい」と仰せになり、ペトロと友情を交わされました。

 ペトロとの友情を実践することで、イエスの愛に満ちあふれるお言葉が、本物のことばとなっていきます。実践を通してこそ、その言葉を本物の体験とすることができます。

 それ故、イエスはペトロに其の愛を「表さずには」いられなかったのです。

 本日、ご参集の皆様方も、心を一つにみことばを歌いかわしました。ことばを詠い,歌い交わし合うことで、みことばが自身にとって本物の体験と相成るのであります。

 聖書のことばは黙読するだけでも、もちろん恵はあります。深い示唆を得ることができます。しかしそれを詠い、兄姉と呼びかわし「表現」することによって、その「みことば体験」が現実の体験となります。

 日本の教育や教会社会で一番滞っている領域は「表現」です。教育には「健康」とか「言語の習得」「環境問題」「人間関係」等、大切な分野がありますが、「表現」は、日本人が一番不得手とするところであります。賛美はまさしく私たちの滞った表現領域を掘り起こし、育んでくれましょう。

 讃美のみことばに中にお住まいになる主イエス。主イエスは、真の神でありますけど、同時に真の人間でもありますね。これは、人間の言葉では到底表現できないものであります。では人間50%、神様50%、足して100%のイエス様かというと、そうではありません。人間100%+神様100%=イエス・キリスト100%であります。

 この人間の言葉では表現できない「神100%+人間100%=イエス・キリスト100%」という事実を受け入れると、ますます私たちの信仰が深遠なるものとなってまいります。人のことばでは到底及ばない次元を、その言葉とおり感じていけば、ますます私たちの信仰は、ますます深みを帯びてまいります。これはまさしく信仰の醍醐味といってもよろしいかと思います。

 以下、私が感じるところのイエス・キリストの人性、神性は・・

①人としてのイエス・キリスト100%。~主イエスは、私にとって唯一無二の親友である。
イエス・キリストは、私の理性・感情・意志、そして五感で感じ交わることのできる、究極の現実なるお方である。

②神としてのイエス・キリスト100%。~わたくしがどのような状況・状態であろうと慈しみぬき、愛しぬかれるお方。人が生来もっている条件付きの愛ではなく、まさに神ゆえに、神にしか成しえない不変・普遍の愛をお持ちになられる御方。

さあ、讃美歌の歌声をとおして、ますますイエスとの友情を深めてまいりましょう。そしてイエスが神であられることに、心からの讃美をお捧げ致しましょう。

+キリストに賛美

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◆中野バプテスト教会・水曜音楽賛美礼拝(2022年4月29日)

 イザヤ書43章18~19節 

​ 讃美歌148番「救いの主はハレルヤ」に合わせて

「ご復活の主との出会い」~稲垣俊也牧師

 ご復活の主イエスに出会うこと、即ちご復活の主イエスの息吹を心身にまとわせていただくということは、私が私をして花咲く自己となることができるよう、意識の下に埋もれた「より良き自己」を掘り起こし「より良き自己」を生きることができるようにされることです。

意識の下に埋もれたより良き自己を掘り起こすとは・・9割の「反応」を呼び起こし、復活させることです。

 心理学者によれば、人に起こる出来事は、たったの1割が「事実」で、残りの9割は其の「反応」ということだそうです。ゆえに、すべてのことにおいて肯定的に反応すれば、其の人は肯定的な人になれます。しかし物事にすべてに否定的に反応すれば、其の人は否定的な人になってしまいます。

 芸能界の出来事ですが、とある人気歌手がキャリヤの全盛期を迎えていました。街に出れば女の子たちが歓声をあげるし、コンサートツアーも大成功をおさめていました。しかし2時間のコンサート終えて帰宅するとだんだん心細くなってきました。「人気が落ちたらどうしよう。きっとみじめに違いない。」一日の大半、そのような想いが彼を支配し、とうとう彼は心身喪失となり自殺をはかってしまいました。 

 芸能界は、常人では考えられないほどの高額のお金が一夜にして流通し、それに関わる人々の「愛憎」もまさに異常といえましょうか。芸能人に“ご利益宗教的”な新興宗教の信者が多いのも、分かるような気がいたします。新興宗教団体が、芸能人を己の宗教団体の広告塔としてバックアップをする・・芸能人もまた己の人気の保持を宗教団体に保証してもらう、といった信仰とは無縁の、これまた異常な世界といってよろしいでしょうか。

 ご受難に臨まれる主イエスに対して、ペトロとユダは「裏切り」という“大罪”を犯してしまいました。大罪を犯した後、どちらも深い後悔の念に駆られました。しかし、その後の二人の“反応”はまさに正対称です。

 ペトロはご復活の主イエスに出会うことができました。ペトロはその際、ご復活の主イエスのお顔をまともに見ることができない状況でありました。もちろん深い後悔の念、自責の念はありました。かといってイエスに謝る勇気も持ち合わせていませんでした。

 そんなペトロの想いを痛いほど理解をしていたイエスは、過去の大罪を何ら言及することなく「あなたは、この人たち以上に私のことを愛しているか」「わたしの小羊を飼いなさい」と仰られました。ペテロの大罪を大目にみたのでは決してありません。むしろ、自責の念に打ちひしがれているペトロに、新しい使命をお与えになることで、過去の消し去り難い大罪を克服できるようにと望まれたのであります。

「私のことを愛しているか」とイエスは3度ペトロにお尋ねになれましたが、特に3度目は友愛(フィリア)のフィレオーでお尋ねになられました。これは即ち、「何があろうと、あなたと交わした友愛の契は変わろうはずはない。あなたと私はどこまでも、いつまでも愛し合い許し合う友であり続けるのだよ」というおこころの表れなのです。

 ペトロはイエスの友愛に対し、感銘のうちに「私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と涙ながらに答ずにはいられなくなります。ペトロにとっての裏切りの「事実」は、生涯を通して、イエスとイエスのおことばを篤く生き抜いていく気概へと変えられました。

 かたや、ユダ。ユダはイエス・キリストの共同体の財務を一手に担っていました。共同体からの信頼も厚く、仕事も完璧でした。大きなミスを犯したユダもまた後悔の念に駆られました。財務上のコンマ1円をも見逃さない完璧主義者のユダは、己の完全さを保てなくなったとあっては、自ら命を絶つしかありませんでした。

 

 私も復活の主イエスに出会った体験があります。

 15年程前、東京基督教大学奉職中に、業務上の失言をしてしまったことがありました。当時の音楽科の主任であられた大竹海二師は全力で私のミスをかばい、補ってくだされました。事なきを得た後、私は大竹師に対し、謝罪の言葉とともに「此の度のことに関して、何か懲戒はありますでしょうか?」とお尋ねいたしました。

 大竹師はそのことには何もお答えにならず、また私の罪にも何ら言及することなく、このように仰いました。「私も牧会の現場で、分別を欠いた失言をします。また、配慮の無さから言葉たらざること多々あります。」 

 大竹師も私と同じ痛みと共有する“友”であることを、ことば静かにお示しくださいました。年長の大竹師を“友”と呼ぶのは失礼がありましょうが・・この出来事を通して、「私は、大竹師に真にふさわしい“友”になってゆきたい」「此の“友”との友愛の関わり中で、美しい協働をなしてゆきたい」と心の底から想わされた次第です。

 私たちクリスチャンにとって大切なのは「事実」ではなく、「反応」です。

クリスチャンは、いくら大きな困難があっても、1割の事実を9割の反応で逆転させてしまう人たちです。「事実」ばかりにこだわることなく、「反応」でこの事実を逆転させる“恵みの人”とならせていただきましょう。

+キリストに賛美

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2022年4月13日中野バプテスト教会・水曜音楽賛美礼拝メッセージ 

『傷つく弱さと傷つく弱さの出会い』 稲垣俊也  

 聖歌400番「きみもそこにいたのか」に合わせて

聖書 ルカによる福音書23章39~43節

23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 人は誰しも心に傷を持っているものであります。人は誰しも過去に、否定されてしまった体験、充分に生かされていなかった体験、疎外されてしまった体験を持っていることでしょう。そのような体験が、今にも痛みを感じる傷として心に残っています。

ある意味、心に傷を負うことは、人として生きることそのものともいえましょう。

人が、心に傷を負うことは、人類最初の男女であるアダムとエヴァから続いております。アダムとエヴァは当初、エデンの園という神の絶対安全庇護のもとに生きておりました。しかしアダムとエヴァは、神との関係の外で生きることを決意し、エデンの園から出てしまいました。

 なるほど・・彼らはエデンの園の外に出ることができましたが。しかしその時、自分たちは何も持たない丸腰の裸で「傷つきやすい存在」であることに気が付いたのです。

 そして神からいただいていた原初の美しい男女の関係も損なってしまいました。お互いの存在そのものを恥ずかしいと思うようになってしまい、腰を蓑で覆い、お互いの身を隠すようになってしまいました。非常に傷つきやすく、もろく、繊細になってしまいました。

 神様は、もろく、傷つきやすい人間をお救いになろうと思われました。

 そしてお採りになられた方法とは、いかなる方法でありましたでしょうか?

「罪を犯したあなたが悪いのだから、しばらくそこで反省していなさい。」と仰ったでしょうか?さにあらず。

天上高くから、「私はあなたを救おう。」と、威厳に満ちたお言葉で人々に臨まれたのでしょうか?さにあらず。

 神様のお採りになられた方法は、意外や意外。ご自身もまた丸腰になり、無防備となり、アダムとエヴァと同じ傷つく弱さをお持ちになるという方法でありました。

 十字架上で死に、脇腹を槍で突き通されました。傷つくまでにご自分の弱さを示されました。傷ついた弱い人を助けて差し上げる唯一の方法は、助ける人もまた傷つく弱さを共に持ってあげること。それ以外にはありえません。

 弱さを癒す方法は「弱さ」しかありません。傷ついた弱い人に、強い態度で臨んでしまったら、傷つく弱さを持った人は、却って阻害と孤独を味わってしまいましょう。

 しかし、傷つく弱さが傷つく弱さに出会うと、そこに親密さが生まれてきます。共に苦しむ「共苦」することで、痛みを共有する新しいいのちの関わりが生まれてまいりましょう。イエス・キリストはすべてを奪われ、すべてを失い、丸腰になり、十字架上でお苦しみになられました。しかしそれは、傷つく弱さを持った人々とその弱さ、孤独、死を分かち合うことで、「これらは決して最後ではない。むしろこれらを通して本当のいのちの関わりが始まる」ことを御身を以て示されたのであります。

 バルセロナのサクラダファミリア教会には、十字架のキリスト像があります。何と、そのキリスト像は、全裸であります。ここ訪れる多くの観光客、特に若者は、このキリストの姿を見て嘲笑います。

 此の教区の多くの信徒は、「このキリスト像はあまりにも酷い。せめてこのキリスト像の腰を布で覆って差し上げるべきだ!!」と、大司教に訴えました。しかし大司教は、「これこそ、キリストが忍ばれたたひどい恥を表す。」と、毅然として答えたということです。

 さて・・・この世の中には二種類の人しかいません。

一種類は・・弱さを見なかったことにし、弱さを誤魔化し、それに覆いを被せて隠してしまう人。

 もう一種類の人は、自分の弱さを認め、神に弱さを明け渡す人。

 この世の中に、自分は強いのだと言える人は誰一人としていないのではないでしょうか? 傷つく弱さと傷つく弱さの出会いは、神様とのいのちの関わりの架け橋となります。

 カルバリの丘で、イエスと共に十字架につけられた犯罪者。確かに彼等の生涯は悪行三昧。彼らは正しく強い意志をもって生きることができなかった、弱い人間の代表のような人々であります。しかし、その弱さの限界である死の恐怖に苛まれるその時に、弱さと痛みと死を分かつ、主イエス・キリストの十字架に出会いました。

23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 かつては私(たち)も、ペトロのようにイエス・キリストを裏切り、十字架の傍らから逃げ去ってしまいましたが、今度はしかと十字架のかたわらに立ち、主イエスの姿とイエスのおことばに全身全霊を傾けてまいりたいと思います。

 しかし弱い私はまた十字架の主イエスキリストの傍らから遠ざかってしまうかもしれません。そんなとき、「主イエスよ。ここにいてください。」と、祈らずにはいられなくなってまいります。

 「イエスよ、此処にいてください」。この祈りは絶大です。

 私たちの信仰が、イデオロギーや心理学と違うのは「祈り」という武具があること。もちろんキリスト“教”は、素晴らしい倫理観、価値観を持っていますが。祈りもってまさしくイエス・キリストのおことばとペルソナを共有させていただけるのであります。

 「イエスよ。ここにいてください。」この祈りは、私たちの弱さを明け渡すことでもあります。誰しも心の中には心配があります。心配や懸念がやってくると。私たちはそれについて考え、心配に振り回され、気が付くとどこに自分がいるかわからない状態です。心配にすっかり取り込まれてしまって堂々巡りをし、何度も何度も同じ地点をめぐり、どこにも到達せずに益々失望し、困惑してしまいます。

 私自身も経験したこの祈りですが・・一旦心配が膨れ上がり、私を圧倒しそうになる時に、「イエスよ、ここにいてください。そしてすべてをあなたが解決してください。」と祈ります。とても単純な祈りですが、効果は絶大です。この祈りを続けると、心配が消え去るわけではありませんが、私の自由は確実に回復します。心配はまだそこにありますが、私を圧倒する力はもうありません。私たちがイエスにこの弱さを明け渡し、弱さの中にイエスを招き入れると、その体験の中にイエスご自身がお入りくださり、イエスの存在が私たちの自由を回復させてくださいます。

 私はどちらかといえば短気な方。怒りやすい人間と言えば、怒りやすい人間なのかもしれません。しかし怒りのさなかに、「イエスよ、ここにいてください。」と祈ると、怒りの意味合いが変わってくる体験をしたことがありました。

 例えばある人と不仲になり、不協和音が生じたと致しましょう。祈らないと「あなたが悪く、私が正しい」と、自己の思いが他者への人格攻撃となってしまいます。しかし祈っていくと「二人の関係を損なうものは、何であろうか?何が正しく、何が正しくないか?」二人の関わりをより良くするために「何」を優先し、「何」を剪定すべきか、という心の有り様に変えられます。もともと、怒りと正義は紙一重と言われていますが、祈るとより良き自己へと変えられるのが良く分かります。

 祈ると、状況そのものが変わるということももちろんありますが、祈りの素晴らしさはむしろ、ものの見方、体験の仕方、心の有り様を変えてくれることであると云えましょう。

 これこそが、ご受難の主イエス・キリストの私達に対するメッセージなのです。

+キリストに賛美

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『十字架の愛』2022年3月27日中野バプテスト教会主日礼拝          稲垣俊也牧師

今朝のみことば

詩編

62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ

62:10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

62:12 ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり

62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

 

【はじめに】

 今朝も敬愛する皆様とともに、主のみことばに耳を傾ける一時が与えられていることを感謝致します。

 みことばは、私たちの状況、状態がいかにあろうとも、親しく近しく寄り添ってくれています。

今私たちはレント、四旬節の期節を過ごしています。自らの罪を悔い改め、主の前に心身を整える時節であります。

ところで罪・・という言葉ですが、これは「的外れ」という意味であります。

 イエスのみことばが私たちの周りに在るにもかかわらず、周りの波風が気になってしまって、心の波長アンテナがそちらに傾いてしまうことです。

 “罪を悔い改める”とは即ち、此の雑音に傾いてしまったあり様をしかと自覚し、正しい波長へとチューニングすることであります。

 私たちの周りにはさまざまな雑音がありますが、私たちはそれらを完全に払拭することはおそらく出来ないでしょう。できることは、その雑音のさなかにあって、唯一の純音であるイエスとイエスのおことばにアンテナを傾けることです。却って、周りの雑音が強ければ強いほど、イエスへの集中力がいや増してまいりましょう。言い換えれば、イエスと私の絆が、波風立てる生活世界を通して強くなると言ってもよろしいでしょう。

 昔、芸大生時代、真夏のクーラーのない下宿で、カセットテープレコーダーに自分の発声練習を録音し、練習したことがありました。

録音を終えてテープの音を再生してみると、そこには自分の声の他に蝉の声や、車の警笛音や、「竿や~さお竹」の宣伝カーの音など、様々な音が録音されていました。

 録音した時は自分の声だけに集中していたので、周りの音は全く気になりませんでした。と言いましょうか、自分の声以外には聞こえていなかったのですが、いざ再生してみると、なんと多くの音が私の生活を取り囲んでいるかがわかりました。

 私たちが観るべきもの、聴くべきものに集中することができない「的はずれな罪」を自覚し、告解することで、心のまなこを今一度、イエス・キリストのみことばに集中させていただきましょう。

 

【本題1】

 さて今朝のみことばは、ご周知の「慈しみ深き友なるイエスは」の讃美歌の基となっています。

 宗教改革者のカルバンは、このみことばを引用してこのように指摘しています。

 カルバンは詩篇62篇9節「民よ、どのようなときにも神に信頼し、御前に心を注ぎだせ。」から、人の本当の苦しみは、悲しみを自分の中に押し隠し、潜在意識の中に押し込めているからであると指摘しています。(カルバン旧約聖書注解 詩篇Ⅱ 新教出版)

 賛美歌「いつくしみ深き友なるイエスは」の第一節の直訳は、

「私たちは平安をしばしば取り逃がし、無駄な苦痛を感じるときがある。神にすべてを告げないときに・・・」となっています。

 カルバンはこれと関連して「すべての苦しみを包み隠さず神に告白することを妨げる精神の病が私たちの本性にある」と述べています。

 「ある程度の苦しみは告白できても、最も深刻な苦悩はなるべく忘れようとして意識下に深く沈めてしまっている。」「我々の心が悲しみによって押し潰され、いわば窒息している間は、単純素朴な祈りは、そこから発生することはありえない」とも言っています。

 カルバンが言わんとしていることは、神の前で心の重荷をおろすことは人の本性ではなく、神に慰めを求めるよりも自分の心の中で悲しみを「押し隠す」という性質が人にはあるということです。悲しみをあえて直視して、それを明らかにし吐露しなければ、本当の癒しは実現しないといえましょう。

 「押し隠す」からつらいのか、告白できないから押し隠さざるを得ないのか、どちらか分かりかねますが、それゆえに賛美歌は、人の心を告白へと導く「道しるべ」のような役割を果たしてくれるのではないでしょうか。

 

 【本題2】さて、讃美歌「いつくしみ深き友なるイエス」で詠っている「悩み、悲しみ」の根本的な原因は・・それらを自らをしてこころの内に押し隠してしまう私たち自身にあります。

 それは、ズバリ「罪」に他なりません。罪、すなわち、親しく近しく私に寄り添ってくださる神を観ようとしないこと、神に気付かないことです。

 日本人には「罪」という言葉は、非常に抵抗感があります。「あなたは罪人だ」と言われるのが嫌で、教会に行きたくない、という方が沢山いらっしゃいます。

先ほども冒頭で申し上げました・・罪とは「的外れ」のことです。的が外れているのです。

「罪」を表わす聖書の言葉(ギリシャ語の「ハマルティア~αμαρτία」)の元々の意味は、「的外れ」ということです。

 

 つまり「罪」とは形に現われた犯罪とか不法行為だけではなくて、「神を観ようとしない」ことを指します。神は宇宙を創り、地球を創り、そして私たちにいのちと、生きる意味をお与えくださった方です。自分で自分のいのちを造ることはできません。進化論の限界は、生物の進化や発展は説明できても、いのちの起源に関しては、偶然、偶発的に起こったとしていることです。

私たちがその創造主のことを忘れている状態、創造主を不在として「自己努力」のみによって生きていこうと決め込んでしまった状態、弱さや欠点を包み隠し(見なかったこととして)、強がって生きている状態、つまり「的外れ」な状態を、私たちは「罪」と言います。

 

 私たちは、エデンの園のアダムとエヴァのように被造物として神からの存在と命と恵みをいただきながら、神への感謝と親しみのうちに生きるはずでした。しかし神に感謝せず、その親しみを切ってしまい、自分ひとりでの生き方に流されてしまいました。神と親しくなる代わりに、自分や社会のものに最高価値を感じるようになってしまいました。

 此の「罪」は様々な形を取りますが、一番極端な例は、絶対者である神を否定するがゆえに「自己絶対化」となるか、あるいは他のもの(金、権力、軍事力、名誉、世論)を絶対的なものとしてしまいます。

 今朝のみことばでもこの状態を警告しています。

62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

 

 プーチン政権の目指すところは、強国ソ連の復活と、共産主義への回帰ではありません。彼はロシア正教を国教とした、帝政ロシアの復活です。彼はある意味、宗教心の深い人です。かのスタジアムの決起集会ではヨハネによる福音書を多数引用しながら、まるで伝道師のような話しぶりでありました。

しかし彼は、帝政ロシアの復活の為に、「ロシア正教」を利用してしまっているのです。「ロシア正教」の裏打ちを得て、全体君主・皇帝にならんと欲しているのでしょうか。

 神に仕えるのではなく、神に仕えさせています。

 更に宗教と福音は異なることを申し上げておかなければなりません。

 宗教は志を同じくする者同士が結束し、異質の他者を排除します。

 福音は神の眼差しで互いに愛し合い、異質の他者と共生します。

 私たちは、福音を一宗教にしてしまっては、決してならないのであります。

 

【本題3】さて、人の此の「罪」について深く考えさせられることの目的は・・

 罪の中に落ち込んでいる自分の無能ぶりを悔やむことではありません。また自己嫌悪や自虐の念、自己呵責を得ることでもありません。

 目的はズバリ、キリストの十字架と復活にあらわれる“神の無条件で絶対的な愛”を悟らせていただく為です。 

 神様は人の罪は決して汚れたものであり根本的に醜いものであるとは仰っておられません。私がどんなに罪を犯しても私は神に愛されている「傑作品」であることには変わりません。しかし今は神から離れ、自分の決めつけによって自分を疎外しています。

 

 私たちはエデンの園でもっと羽ばたくことができるのに、もっと自由自在に飛び交うことができるのに、その羽ばたきを止め、羽を十字架の柄に釘付けにして、神の傑作である自分自身をだめにしてしまっています。十字架というと、十字架にかけられたイエス・キリストその御方を連想しますが、もっとむごい悲惨な十字架があります。

それは私が私を十字架に釘付けてしまっている姿です。

 

 考えて見ますと、昨今、自分も世界の他の人々も互いに十字架につけあっているように思えます。それであるからこそ、神であるキリストが十字架につけられ、私たちの身代わりとなられた愛の意義深さが、新しい光りで見えてくるような気がいたします。

 「十字架のキリスト」は、昔の出来事ではなく、今も行われている出来事でもあります。また悲惨な全世界のすべての罪を身代わりとして贖ってくださったことでもあれば、今十字架につけられている私自身に対して「心からその苦しみを分ってあげたい。分かち合ってあげたい」と叫ばれる、愛のみ業でもあります。

 今も詠い続けられる“キリストの今”なのです。

 

【結び】今日、個人の罪や社会の罪が極まり、

人々が神不在の心の状態を選び、神の御子(即ち神ご自身)を十字架につけるまでになったときに、神が却って最高の赦しを見せてくださったことが、十字架上のキリストによって表されています。

 2000年前と同じように、今もキリストが私に向かって言って下さいます。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ルカ23章34節

 「罪が増したところで、神の愛のほうが更にあふれたのです」ローマ5章20節

 

 罪の黙想し、罪を明らかにし、罪を嘆き歌うことこそ、福音の中核と存在理由に触れるのです。それは一言で言えば、罪の許しと、私を真に生かす“愛”です。

 「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」ヨハネ3章16節

 

+独唱賛美「十字架の愛」

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 2022年3月9日「中野バプテスト教会・水曜音楽賛美礼拝」メッセージ。

 「主イエスにある平安」詩篇148.1~6節。

 讃美歌75番「ものみなこぞりて」に合わせて

 ただいま讃美歌「ものみなこぞりて」を共に歌わせていただきました。同曲は、アッシジのフランチェスコの「太陽の讃歌」が基となっています。太陽はどこの国のものでもありません。空も世界中つながっています。確かに領空権なるものはございましょうが、これは人が定めたもの。ひょっとしたらわたくしが今飲んでいる水は、地球の裏側のブラジルの 方が流した汗かもしれません。ブラジルの方の汗が水蒸気となり、空に昇って、そして空をめぐって日本上空へと来て、雨となって滴り落ちたものであるかもしれません。森羅万象は主にあって、何ら隔ての壁を感じることなく対話を楽しんでいます。

 森羅万象がいずれの国のものでもないのと同じように、神のまなざしには日本人も外国人も差異はありません。個性の異なる兄弟姉妹が神を一つ親として、親しく近しくまみえあっている様を、神は喜びをもってご覧になっておられましょう。

 わたくしは青年期にイタリアに留学をしましたが、イタリアに到着をした次の日、ミラノの大聖堂の前で、友人と他愛のない会話をしたことがあります。

「すごい。ここはみんな外人だ。日本人は僕たちだけだね」と友達に言いました。友人は言いました。「何を言ってるの?ここではあなたが外人でしょう? 」

 実はよく考えてみると外人・外国人とは、場所だけの問題です。日本人もほかの国に行けば、そして英語で話し、考えるとすれば、当然ながら“I am here a foreigner”(私はここでは外国人です)と抵抗なしに言うことができます。ところが。日本語と日本人のメンタリティーを考えると、何処に行っても私は“日本語”で「外人です」と言うことができません。

 「外人」・・この言葉は、日本人が他の人種を「他者」として区別する言葉。確かにあまり積極的、創造的な意味合いでは使われていないように思います。。

 もうひとつ、実例をあげてみましょう。米国のクリントン大統領の時代のこと、ある女性が日本語と日本の法律を勉強する目的で、アメリカ政府から京都に派遣されていました。2年ほど滞在し、帰国する際に、日本の印象を聞かれました。「非常によかった。すばらしい。日本人は親切でおもてなしも素晴らしかった。ただ一つだけ嫌なことがありました。」「なんでしょうか?」「いつも外人さん、外人さんとして扱われたことです。」

 これは彼女の心に深い傷跡を残したようです。というのは帰国してから、ワシントンであまり感心しないことに彼女は遭遇してしまいました。ある日のこと、ワシントン空港に日本人の観光客グループを見かけたので、わざと添乗員に日本語で質問したのです。「皆さんは外国人ですか?」添乗員は答えました。「ノー。わたしたちは全員日本人です。」という答えがかえってきました。

 まさにこのことは、日本人が黄色人種以外の人々を「外人」と呼んで、異質の人種として区別する言葉であることが、改めて彼女の心の中に知らしめられたのです。

 確かに西洋人、日本人、黒人とでは、言葉と言葉から醸し出される情念には大きな違いがありましょう。

 日本語は一言で言えば名詞、形容詞が大変多彩、多様であるといえましょう。

半面、西洋語は日本語にはない時制の多彩な変化があります。

イタリア語では過去形だけでも,近過去、半過去。遠過去。大過去。それぞれの過去形が、直接法と間接法とさらに分割されます。未来形も単純未来、未来完了形。

 また日本語は、内に秘める「ことのは」であると言えましょうか、内に深く浸透して行く傾向があります。

 西欧の言葉は外に広がり、外に向かって表現してやまない傾向があります。女性に対してもイタリア語であれば、Sei bella!!(あなたは美しいですね)と平気で言えても、日本語で「あなたは今日も美しいですね」とは、とても恥ずかしくて言えたものではありません。

 様々な国々の言葉の違いは歴然としています。それであれば、私たちはむしろこの違いを楽しんで参りましょう。楽しむこととはすなわち、各々の「文化」という鍬で互いに耕し合っていくこと、互いの大地を柔軟にして互いの息吹を注ぎ合っていくことにほかなりません。

 文化の語源はラテン語のColere。これが転じてカルチャーとなっています。互いに鍬入れをして耕し合っていくことが、まさに文化的な生活であります。人間の偉大さは、文化を築くことができるということでありましょう。

耕し合うことは、この上もない「楽しさ」であるといえましょうか。楽しむことはユーモアに満ち溢れること。ユーモアは人間の特質そのものであります。

 言い換えれば、ユーモアの喪失は人間性の喪失であります。昨今、世界の人々からユーモアと「笑い」が消え去ってしまいました。。ウクライナのゼレンスキー大統領はもともと国民的なコメディアンでいらっしゃいました。あんなに笑顔の素敵な大統領が・・今は険しい苦しい顔となってしまいました。 

 主義主張の違いは、困ったものではありません。実は素晴らしいものなのです。この素晴らしさとは「対話」への招き。異なる音との協奏・対話は、至福の調和。

 ユニゾン・斉唱も素晴らしいのですが。ハーモナイズする調和のひとときは、まさしく至福の時。天の御国の「前奏曲」です。

「みこころの天になる 如く、地にもなさせたまえ」という祈祷文言は、今夕お集まりの皆様の「讃美」そのものではないでしょうか?

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2022年2月23日 中野バプテスト教会水曜音楽礼拝(ウクライナの平和を祈念する礼拝)

                         讃美歌298番「安かれ、わがこころよ」に合わせて

『ガリラヤへ行け』マタイによる福音書28章10節+16~20節

「復活の主イエスキリストは言われた。恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」

 イエスは弟子たちにガリラヤへ行けと言われました。ガリラヤは彼らにとっては「ふるさと」です。(ユダだけが違っていました。)だから、ガリラヤへ帰れと言うべきでありましょう。しかし、それをなぜ「帰れ」と言わずに行けと言われたのか。

 そこに 私は福音を携えたものの姿があると思います。復活の主に出会い、新しく使命を与えられた者にはもはや帰る世界はなく、「行く」世界だけがあります。それが自分の家であろうと故郷であろうと、自分の故郷に「行く」のであります。そこに新しく作られたものの生きざまがあります。

 ただいま共に唱和いたしました、フィンランディア「安かれ、わが心よ」の讃美歌も然り。讃美歌は「故郷」から逃れよとは、決して言っていません。むしろ復活の主の息吹を携え、故郷に行けとエールを送っています。

 私たちも自分たちにとってかけがえのない 故郷「日本」へ、復活の主の息吹を携え、注油するために出かけて行きます。日本文化に“福音を注油、土着”すべく出かけていきます。

 日本文化の代表といえば武士道でありますが、武士道は、何ら福音に反するものではありません。崇高で素晴らしい生きざまを示しています。ただ、復活の希望、永遠のいのちの喜びがありませんので、私たちは武士道の中に福音を注油し、武士道を完成・成就してさしあげる必要があるのではないでしょうか。これがまさに、インカルチャーレーション(文化内開花)に他なりません。

故郷に「行く」。この意味たるは・・新しいことはもちろんのこと、すでにおなじみの事柄、日常であろうとも、新しい切り口で観ていくこと。自分の家ですら帰るではなく、「行く」という新しさを携えて対峙をするということでありましょうや。

 さて、私たちにとってガリラヤとは・・それは私たちが復活の主に出会うべく「天の御国」を指向し続けることに他なりません。復活の主で会った時、どんな暗闇の中にあっても押しつぶされることはありません。イエスの復活が私たちの事実となるなら。暗闇のさなかでも一条の光となります。悩み、苦しみ、病気。経済的な問題、人間関係など、私も含めて私たちはいろいろなことで途方に暮れがちですが、一条の光を見入る私達には、それらのことは、大問題とはなりません。太陽が上がれば、それで闇は終わりです。私たちがイエスに出会う時、一切は解決いたします。イエスがガリラヤで私に会えると言われましたが、私たちもその所へ行かずにはいられません。

 光を闇で閉じ込めることはできません。光に闇を投じても、光量はほとんど減りません。しかし、闇の中に一条の光でも投じることができれば、闇は終わり、明るく新しくなってまいります。

 マタイよる福音書28章19節。「だからあなた方は言って、全ての民を私の弟子にしなさい。」

これは大宣教命令と言われているみことばであります。これは個人ひとりひとりが世界中を駆け巡れという宣教命令ではありません。むしろ世界中の人々、ひとりひとりが自分たちの生活世界に赴き、行き、福音を注油しなさいとの意味ではないでしょうか?

 讃美歌「安かれわが心よ」。交響詩「フィンランディア」の転用でありますが、すべてのモチーフが、一拍目の4部休符から始まっています。

この休符は、「福音の鍬を携え、鍬入れをせよ、耕せ」と言っているように思えてなりません。

「 凍てつく大地が、”福音の鍬入れ”によって、豊穣なる大地となりますように。ひとりひとりが良き耕作人たれ。大地が命の息吹を吹き返し、以前にも増して、たくさんのたくさんの愛の実りを産出することができるように」、という限りない主のご期待が、一拍目の4分休符に込められているように思えてなりません。

十キリスト に讃美

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ソロモンの知恵」列王記上3章16~28節                

   2022年2月13日中野バプテスト教会主日礼拝               稲垣俊也牧師          

 

 日本ではそれほど知られていませんが、旧約聖書のソロモン裁判事件は、「知恵」というものがどういうことであるかを、よく示しています。

 まずは、今お読みいただいた「列王記上3章16~28節」のみことばを味わい、反芻して参りましょう。

今朝の聖書箇所は、神の知恵がソロモンに「与えられたこと」を示す、一つの判例が書かれています。此の知恵は、ソロモンが会得したものではなく、神から「与えられたもの」、「賜ったもの」であることを念頭に、今一度此の御言葉に想いを寄せて参りましょう。

 

3:16 そのころ、遊女が二人王のもとに来て、その前に立った。

3:17 一人はこう言った。「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。

3:18 三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。

3:19 ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。

3:20 そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子をわたしのふところに寝かせたのです。

3:21 わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、わたしの産んだ子ではありませ んでした。」

3:22 もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」さきの女は言った。「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。」二人は王の前で言い争った。

 

これは判断を下すのが非常に難解な事件です。この二人の女以外に目撃した第三者がいないからです。

 

3:23 王は言った。「『生きているのがわたしの子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのが わたしの子だ』と言う。」

3:24 そして王は、「剣を持って来るように」と命じた。王の前に剣が持って来られると、

3:25 王は命じた。「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。」

3:26 生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言った。しかし、もう一人の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言った。

3:27 王はそれに答えて宣言した。「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」

3:28 王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。

 

 ソロモンが行なったのは、母性本能に訴えることでした。母は、自分の手から子どもがいなくなることよりも、子どもの命をもちろん大事にするでしょう。この本能を活用してソロモンは赤ん坊を二つに切る、と言ったのです。こうした非常に知恵ある、表面的ではない公正な判断をソロモンは下しました。それは神の知恵があったからだ、と書かれています。

 

 ソロモンは、どちらが本当の母親であるかを知りませんでした。しかし、彼の知恵はこの難しい問題をいとも鮮やかに解決したのでした。

「知恵」とはまさにこのようなものでありましょう。

 知らないことであっても、毅然とそれに対峙し、行動することです。

 兎にも角にも、まずはその問題の渦中に心身を投じてみます。さすれば、神は対峙する状況にふさわしい解決方法を備えてくださいます。その「渦中」、即ち水のなかを泳ぐ泳法を必ずお示しくださいます。

 泳げるか否かを、いつまでも水辺の傍らで眺めているだけでは、神の知恵の油注ぎに与ることはできません。知恵は上からの恵み、まさに「上智」であります。

 

 かくも申します私も、説教に臨ませていただく際には、毎回のように「神の知恵に与ることができますように」と、祈らずにはいられないものであります。

考えてみれば、神の事、神のみこころを、人が人のことばで語る・・それはとてつもなく畏れ多いことでありますし、人の業では到底、成しえないことであります。

 しかし意を決して、原稿に筆をおろすや、執筆した行間から新たなことばが零れ落ちてくるではありませんか。これは、みことばを変えてしまうとういう意味では決してありません。みことは、すでに完結しています。しかし“私”のうちには、未だみことばが十分に満ちていません。

 あたかも“みことば”が、「この日、此のところで私はみことばを十全に生きることができるよう、もっと具体的に表現してほしい」、「この日。このところにふさわしく彩ってほしい」と、自らの意思をもって働き始める、その妙なる瞬間に立ち会わせていただけます。これこそまさに、神からの知恵ではないかと想わされるのです。

 私がお受けする神からの知恵は、ソロモンの其れに比べれば微々たるものでありましょうが・・皆様は、「主ともにいませばなり~インマヌエル」ということばをご存じでありますね。

このインマヌエルは現在形ですが、過去形は「エベン・エゼル~助けの岩」。未来形は「アドナイ・エレ~主の山に備えあり」となります。

 この三つの時制変化は、旧約時代以来続く、主の救いのご計画、ご経綸は、今の私たちへと脈々と続き、そしてまだ見ぬ未来に対して、其れに対峙するための具体的な術(すべ)を主が備えたもうことを表しています。モーセ、ソロモンら偉大な先人たちの神は、今私たちと共におられる神であり、未来に向かって備えたもう神であると告白できることもまた、神の大いなる恵み、すなわち神からの「知恵」ではないでしょうか。

 

 ソロモンは誰もが認める「知識人」でありました。豊富な知識は、政治・経済分野のみならず、建築、食文化、ファッション、そして芸術・詩歌にまで及んでいました。

しかしそのようなソロモンであっても、それだけでは「知恵」を得ることはできませんでした。

 

 答えはもうお分かりですね!!単なる「知識」または、「学問」は、勉強すれば誰でも得られるものであります。ところが「知恵」と「賢明」さは、これとは違って一つの「恵み」なのです。知識人や学者でも、必ずこの恵みをもっているとは言い切れません。

 信じがたいことですが著名な「神学者」であっても、クリスチャンでない人もいます。

 

 しかしながら・・「知恵なるもの」を知覚しお受けするためには、ある程度の基本的な「知識」は必要です。自分が、自由意思と努力で会得した「知識」という器に、「知恵」という真清水をお受けする・・これはある意味、神と人との”妙なる協働作業”と云えましょうか。

知識という器は大切なものであります。しかし「器」そのものには「いのち」はありません。私たちの心身を潤す「知恵」は、神が注ぎたもう“真清水”のほうです。本末を転倒してはなりません。

 

 知恵を受けるためには、二つの条件が満たされいなければなりません。

まずは「祈り」。祈りを毎日の「日課」としていることです。「祈り」はラテン語でOratio(オラツィオ)、即ち“対話”です。祈りは虚空に向かっての独り言では決してありません。生きて働く人格者たる“みことば”との対話です。私たちの願い、希求が“みことば”の祝福という形で、まるでブーメランのように返ってきます。

 また私たちは、神のことば(特に詩篇)そのものをもって祈ることができます。私たちの言い尽くせぬ思いや、あるいは過ぎたる思いを、みことばがふさわしく代弁してくれましょう。

 まさに私たちは、みことばとの美しい対話に招かれています。日々、この対話に親しんでいることが、知恵を受くる第一の条件です。

 

 もう一つは「良いものであること」です。良いものとは、神と神に繋がる方々と、もっとより良く関わり合ってゆきたいという想いに他なりません。

 いのちといのちの関りの現場に心身を投じ、そして神に祈るとき、神は必ずや、その時その場に最もふさわしい“知恵”をお贈りくださることでしょう。

 

 今朝の説教の最後に一つ、実話をお話したいと存じます。

あるサーカス団での出来事です。とある村で夜間、天幕を張りサーカス団の興行がおこなわれました。魅力的な演目が続き、いよいよクライマックス「ライオンの猛獣遣い」の出番となりました。

 猛獣遣いの巧みな鞭さばきによって、激しく抗いながらも、猛獣遣いに従うライオンのしぐさを会衆が見守っていたその時、なんと全館・全テントが停電となってしまったのです。

 興行関係者と会衆はかたずを呑みました。十中八九猛獣遣いのいのちは無いものと確信しました。なぜならばライオンは夜目(よめ)がききますが、人間は夜目がきかず、真っ暗闇では何も見えません。

 皆が最悪の状況を確信しました。

 真っ暗な状況が数分間続いたでしょうか、停電が解消し、周りがパッと明るくなった時、会衆は信じがたい光景を目の当たりにしました。

 何と・・何事もなかったかのように、猛獣遣いの演技がなされているではありませんか。

 この出来事は全米の話題となりました。後に猛獣遣いになされたインタビューに、彼はこう答えました。「確かに私は、真っ暗闇の中で何も見えなくなってしまいました。しかし、ライオンが私の目が見えないことは分かっていません。ですから私はライオンの唸り声がする方に向かって、いつも通り鞭をふるっていました。」

 

 暗闇のなかにあっても、それに翻弄されることなく、毅然と心身をその場に投じていたが故の、神からの“知恵”であったのではないでしょうか。窮地に瀕した人間がとっさにできる業ではありません。

知恵とは、すべてを知らなくても、当たるように判断し行動すること。其れに対して神は人智を超える“知恵”を油注いでくださいます。

 私たちも長きにわたる信仰生活をいとなませていただくと、或る時にはトンネルのような暗い細道を通るような状況ともなりましょう。

しかし、暗闇のなかで私の目が見えなくなってしまっても、神は必ず私のことをご覧になってくださっています。

 また或る時は、私は主に愛されるに値しない、取るに足らない人間だと、心身ふさぎ込んで暗闇の中に自らを押し込んでしまっているときも、主は変わることなく「わたしの目には、あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)と愛の光を注いでくださっています。

「はい。そのことを心から信じます。」、と声も高らかに応答することもまた、神からの知恵ではないでしょうか。

 

 いついかなる時も、インマヌエルなる主が私たち一人ひとりに親しく近しく在って、愛に溢れる知恵をお贈りくださっている恵みに、こころからの感謝を奉げずにはいられません。

+キリストに賛美

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『我は幼子』 ルカによる福音書10章21節~24節  主の年2022年1月16日 稲垣俊也牧師

 

 私たちは毎回の礼拝で「主の祈り」を唱和しています。「我らに日ごとの糧を今日も与え給え」~特に此の言葉は、「必要なものはすべて父(母)がお与え下さるはずだ」と信じ切っている幼子たちの素晴らしい信頼心を表しているものです。

 御子イエスは御父に絶対的な信頼を寄せておられます。御父と御子は、聖霊の交わりの中で一体であられ、完全なまでにお互いの心をご自分の心をなさっておられます。御父と御子が、お互いの意思を理解なさっておられるように、私たちも互いの心や行いを理解し合わずにはいられません。

 理解し合うこと、すなわち「分かる」とは、「分かち合うこと」に、他なりません。

 日本語に於ける「分かる」と「分かつ」は同じ言葉といっても宜しいかと思います。「理解し合う」ためには、人の想い、ことば、行い、「喜怒哀楽」を「分かち合わなければ」なりません。

主が言われるまことの「知恵」とは、主が愛される幼子のように、「分かち合いの徳」を実践する力です。

 さて、少々逆説的な言い方になるかもしれませんが・・神、即ち「御父」の天地創造は、幼子の「遊び」に最も近いものであると云っても良いのではないかと想わされるのです。御父はこの世界を自由に、そしてご自身の完全な“悦び”の為にお創りになられました。したがって、御父を“幼子のように遊ぶ創造主”としてとらえるとき、私たちのいのちは、嬉々として輝いてまいりましょう。

 遊びは、上記「分かち合いの素晴らしさ」の中に観ることができますが、遊びのもう一つの特徴は、“可能性”との出会いであります。

 神の“遊び”、すなわち“ユーモア”は、私たちのなすことすべてが、無限の可能性へと開かれていることです。とりわけ神と出会うことは、これまで夢にも見たことのない限りない可能性と出会い、それらを体験することです。

 此のときめきに満ちた可能性との出会いが、私たちの信仰を絶えず新鮮な活動へと向かわせてくれます。御父がお創りなったこの世界には、様々な宝が隠されています。

私たちが、様々な活動をとおしてそれらを発見し、あるいは御父がご用意くださった“素材”をとおして、新しいものを発明して悦び「遊ぶ」ことを、御父もまた満面の笑顔でご覧になっているのではないでしょうか。

 遊びは、基本的に“可能性との出会い”であります。

 科学、芸術、スポーツ、釣りなども予想できない展開が、期せずして訪れます。それは成功の可能性の時もあり、失敗の時もありますが・・真に遊ぶためには、いつもは期待していないことを、あえて期待し、可能性へと開かれていなければなりません。

 同じことが御父との出会いについても言えます。

 御父の無限の愛は、私たちを驚かし、ときめかせることで私たちのこころを永遠に捕まえます。

 御父の愛に捉えられていれば、私たちは主と主に繋がる方々との関りをとおして、絶えずあたらしいいのちの関りへといざなわれ続けてまいりましょう。

 主の年2022年も、神がお創りになられたこの世界と人々との関りを大いに楽しむ一年でありますようお祈りを致します。

+キリストに賛美

 

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「キリストのこころで」 マタイによる福音書8章5節~11節 2021年12月26日 稲垣俊也牧師

 主の年2021年の降誕節・・主イエス・キリストを、今朝のみことばの百人隊長のような「キリストのこころ」で、私たちの生活世界の真中にお迎えせずにはいられません。

 百人隊長の信仰の素晴らしさは、「謙遜さ」「ことばに対する絶対的信頼」「部下の苦しみは私の苦しみ~共感、共苦の愛の人であること」に尽きましょう。

 主イエスが、百人隊長の部下の病を行って治してあげよう、と言われているのに、百人隊長はそれを拒否しています。まず、イエスを自分の家にお入れする資格はないことを言っています。彼が、ユダヤ人の習慣を意識しているからです。使徒行伝において、ペテロはコルネリオの家に入るとき、「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。(10:28)」とあります。

 百人隊長は、無理やり自身の願い事を押し通すようなことはせず、当時の社会の習慣を、武人であればこそ尊重をするという立場をとっています。

けれども、イエスが一言だけおっしゃれば、自分の部下は治ると信じたのです。この信仰によって、百人隊長は、異邦人であるけれども、願いが聞かれました。ただ、注意していただきたいのは、彼が盲目的に何の根拠もなくてそのように信じたのではありません。百人隊長は「ことば」には権威があることと、更に「みことば」は、生きて働く人格者であると認識していました。

 私たちは今、「聖書」を通して、百人隊長が聴いた同じ「ことば」に与ることができます。

 聖書のことばは、紙面に閉じ込められた活字ではありません。今なお私たちに迫り、私たちを取り囲み、私たちを駆り立てる、生きて働く「人格者」であります。

 私たちがお互いに交わすことばもそうではないでしょうか。ことばを発するまでは自己の責任ですが、一度(ひとたび)ことばを発すれば其れは“もう一人の自己”として、時間・空間を越えて、他者と関わっていくものであります。私たちのことばですらそうであるのですから、ことばのなかのことば、主のことばはまさに、生きて働く「とこしなえのみことば」なのであります。

 そして、主イエスが特に隊長に感心したのは、彼の堅固な信仰、謙遜さだけではなく、彼のたぐいまれな「優しさ」であったのではないでしょうか。彼の優しさとは、ただ単に柔和であったということだけではなく、「部下と私は一心同体。部下の苦しみは私の苦しみです。故に、主イエスが私に発せられた“癒しのおことば”は、即座に一心同体の部下の癒しになりましょう」これは、人の罪をご自身の罪として共に痛み、苦しまれた、いや、一身にお引き受けになられ身代わりとなられた主イエスの生き様そのものであります。

 百人隊長の信仰は頭だけの観念だけでなく、実践し行動し共苦する愛であったことを、イエスからほめられています。イエスは「感心し」とありますが、原語では、「イエスは百人隊長にすっかり魅せられ」「ほれぼれと見とれてしまわれた。」という篤い表現となっています。情熱のお人イエスと、百人隊長の情熱が、高らかに共鳴、共振したのであります。

 2021年も、心ひとつに中野教会に集い、キリストの愛のおことばに与り、キリストのこころをお養いになられた皆様方は、既にキリストが魅了するほどに愛されるお一人おひとりなのであります。

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『神の成される契約』(説教要旨) マタイによる福音書20章1~15節  

   2021年11月21日 中野バプテスト教会主日礼拝  稲垣俊也牧師

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」

このたとえでは、ぶとう園の主人は神を表しています。そして、労務者は私たち人間です。私たちが、神のために働く者たちとして描かれています。賃金は天国の報いであります。更に、また夜明けから夕方までに流れる時間は、幼少から老年までの期間を表す表現です。

一日を、日没6時から始まり、翌日の日没6時で終わると仮定をすると、朝早く雇われる労務者は、いわば、小学生の時にイエスを救い主として受け入れている人です。そして、12時は働き盛りの年代。3時は50代の中堅世代。5時に雇われている人は、老年になってイエスを救い主と告白した人と言えるでしよう。

また、5時過ぎは、人生の今際の床でイエス・キリストの招きに答えた人とも云えるでしょう。さながら、イエス・キリスト共にカルバリの丘で十字架につけられた犯罪人の人生最後のことばの如しです

「イエスよ。あなたの御国に御出でになる時は私を思い出してください」~「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒にパラダイスにいる」

神は、何とかしてひとりでも多く、罪から救われて神の国の一員になってほしいと願われているのです。私たちはそのために、何回も何回も福音を聞く機会を与えられました。したがって、雇われる時刻は、私たちがイエス・キリストの招きに答え、救いに与る時なのであります。

イエス・キリストは人々が一日も早く神の呼び掛けに答え、救いに与ることを望んでおられますが、これは無理にではなく、その人のペース、その人の最もふさわしい時を尊重したうえで絶えず招いておられます。

続いて、朝から働いた労働者の不平、不満に対して、主人が言った言葉を観て参りましょう。

『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。』

此のことばは、神と人間のはかり方は、決定的に違うということを知らしめられます。

まず人が人と交わす契約は「消費者契約」と云うことができましょう。

消費者契約とは、売り手が買い手の需要に納得できる価格で商品、労働を提供する間だけ続く関係です。もっと良いサービス、あるいは同じサービスを、より低価格で提供する売り手が現れれば、消費者は最初の売り手との関係に留まる義務はありません。

かたや神と人が交わす契約・・これは、神と人との関係(かかわりが)、個々人の利益よりも優先する「関係性を優先する契約」です。

その人がその人であるがゆえに、関わらずにはいられない、人格と人格の関りです。

神は、幼少期よりクリスチャンであった人にも、老年になるまで福音を聞く機会に恵まれず、迷いと苦悶の生涯を送ってきた人にも、「あなたも、苦しみもだえながらも、唯一無二のあなたの人生を生き抜いたのだね」と、等しくおねぎらいを注がれたいとお思いになっておられるのではないでしょうか。

毎週、毎週、執行される礼拝は、神と人が交わした此の契約は、永遠に更新され続け、変わろうはずがないことを表す、主ご自身の永遠のご決断と保証に他なりません。

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お説教ノート「主の平和」 基調聖句~マタイによる福音書6章28~30節  

                                      2021年10月10日/中野バプテスト教会・賛美主日礼拝  稲垣俊也牧師

▷♫「この世の波風さわぎ」

 拙著「オペラな日々」より「アッシジのフランチェスコ」の手記。

「とある村に滞在していたある日、召使いが井戸から水を汲んでいる様子を何気なく見ていた。よく見ると、大きな桶を下ろして水を満たし、引き上げるときにいつも小さな十字架の木切れをひとつ、その桶に投げ込んで入れるのだ。『なにかのおまじないなのかな?』と不思議に思い、その召使いに理由を尋ねてみたところ、このような答えが返ってきた。

『水を汲み上げるときに十字架の木切れを桶に入れると、水が波立たなくなります。これを入れないと、揺れるたびに水が飛び出してしまい、半分くらいしか残りませんから。』

 私はこれにいたく感じ入った。私たちの心は、すぐに揺らいでしまうものだ。だが、そこに十字架という木切れを投げ入れてはどうか。十字架の主イエスは、私たちの心が揺れるたびに私たちを助けてくださり、苦痛を共に負ってくださる。そして、此の十字架は復活の希望へとつながる十字架だ。」

 

▷♫「野の花を見よと」~てぃんさぐ節

さて此の「十字架」によってもたらされる平安は、即ち「平和」に他なりません。

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」

 私たちは、主と主のことばによって日々、平安のうちに養われ、活かされています。

 そして野の花は、種類の異なる花々、即ち“異質の他者”と共生し、美しい花園と成しているではありませんか。天の御国はある意味、主に在っての“異質の他者”との完全なる調和です。これこそが「平和」と呼ぶにふさわしい有り様です。

 以前、軽井沢のキャンプ場で、アメリカ人宣教師の子供とドイツ人宣教師の子供が、遊んでいる様を目の当たりにしました。子供たちは互いに英語とドイツ語で会話をしていましたが、言語の違いを何ら問題とせず、遊びに興じていました。否、互いの言語が違うことに気付いていませんでした。

 此の幼子や野の花のように、私たちも此の生活世界を、天の花園にも似た「平和」な世界とせずにはいられません。

 

▷♫「Ave Maria」

天使ガブリエルのご挨拶、「お悦びなさいマリア。主があなたと共におられる」~ルカによる福音書1章28節。

 心に主イエスを宿す私たちもまた、神の“およろこび”です。

 「お悦びなさいマリア」、ラテン語で「Ave Maria」は、私たちが互いに、主によっていのちといのちを生きる意味が与えられていることを“悦び”呼び交わす「平和の挨拶」なのです。

 

▷♫「ガリラヤの風薫る丘で」

▷♫「悔悟」

主イエスと主に繋がる方々との堅固な絆は、逆風が吹こうとも、取り合った手と手を骨組みにして帆を張り、帆の前面に風を受け、高く舞い上がることができます。順風の時はまさしく順風満帆。帆の背に風を感じ、信仰の船路を平安・平和のうちに航行できます。此の絆の確かさは、あらゆる風を美しいそよぎとなすことができます。

私たちは「神の子」とされ、完全に達する保証が与えられているのです。「天のエルサレム」を見つめ、迷うことなく登りゆく我らと成させたまえ。

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『キリストのよう愛そう』 ヨハネによる福音書15章9節~17節      主の年2021年9月19日 

                                      稲垣俊也牧師

 今朝のみ言葉ですが、一見、私たちには到底なし難い、厳しいおことばのようにも感じられますが、実は、私たちが確実にたおやかに、愛の人に「変容」することが出来るようにとの、温かいご配慮に満ち溢れるおことばなのです。

 主イエスは、今朝のみことばに先んじて、このように仰いました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイによる福音書22章37〜40節)主イエスは一時期、これを“み教え”の土台とされました。

「隣人を自分のように愛しなさい。」は、云うまでもなく律法からの引用ですが、律法は、イエス・キリスト以前、人々を養い導いた“養育者”であり、“規範”でありました。主イエスは、人々の理解に合わせて、まずは律法の教えを紐解きつつ、徐々にご自分の教えを深めていきました。

 愛の人となる第一段階は~できるだけ自己主張を控え、お相手を優先させる~ということです。

 主イエスは、自分の権利や主張だけで押し切ろうとしないで、お相手の意見や権利を優先させることをお勧めになっておられます。「優先」であって、「黙する」のではありません。むしろお相手を優先することで、自己の意見も表しやすくなります。

 例えば・・「この件に関しては、貴兄の意見とは少々切り口が違いますが、私の意見は、また別の角度からあなたの意見に追い風を送ることができます。」

「この意見は貴兄と真っ向から対立するかのようでありますが、スイカは、少々お塩をまぶすことでますます甘みが増します。(信州の塩羊羹も同様)。よろしければ、最良の味付けとして活用してくださ い。」

 如何でしょうか? 主イエスは、決して無理難題を私たちに強いているのではないことが分かりま す。私たちが、たおやかに自然に、愛の授受の口火を切ることができるようにと、ご配慮くださっています。

 そして今朝のみことば、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」とは・・「お相手の為に祈り、素朴に自然に愛を実践なさい。」、ということであります。

お相手の為に祈るとはこのような祈りではないでしょうか?

「主は私にいのちをお与えになり、生きるための深い意味と意義をお与えになっておられます。同じように、主は彼にもかけがえのない命と、生きる意味をお与えになっておられます。私は彼のことを、その能力や所有物、仕事上の肩書や立場、また自分の能力との比較で、推し量ってしまいがちですが、主が彼のことをどのようにご覧になり、彼をあなたのお喜びとなさっておられるのか、主のおこころを悟る力をお与えください。表面的、近視眼的に彼を観るのではなく、主の眼差しで彼を観ることが出来るよう、私のまなこを開かせてください。」

 また、愛の実践は決して大げさなものでも、意を決してなすものではありません。愛の実践は大きい、小さいではありません。ささやかであろうと表すか、表さないかだけの違いであります。

 キリストが望まれる愛の実践は、日常の何気ない心遣いや親切を通して、老いも若きも、男性も女性も、皆がキリストの愛であり、神の“およろこび”であることを、寿ぎ悦びあうことなのです。
+キリストに賛美

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『主の山に登ろう』イザヤ書2章1-5節 主の年2021年8月15日     稲垣俊也牧師                

【はじめに】

◆8月15日、本日は終戦記念日。最も意義深い日に、共に礼拝に与れますことを感謝いたします。

◆第2次世界大戦の時勢を反映したミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」・毎年、NHKBS等で、必ず一回は放送されます。

◆私は、幾度もこの映画を鑑賞し感銘を受けました。またクラシカル・ミュージカルとしてトラップ大佐を演じさせて戴いた作品です。あらすじは熟知しているにもかかわらず、毎回のように、最後まで見入ってしまいます。

◆初めて「サウンド・オブ・ミュージック」を鑑賞したのは。高校生の頃。若いころに出会った歌は、まさしく生涯を通しての道しるべです。

◆「初心忘るべからず」~ご周知、世阿弥の言葉ですが・・サウンド・オブ・ミュージックに見入るごとに、この道を志した頃の初々しい新鮮な思いを、想い起こすことができます。

◆私の人生で、初心を忘れるたびにふとまた出会って、否、私を訪れて新鮮な想いにさせてくれる、そんな歌の一つがサウンド・オブ・ミュージックです。

 

◆サウンド・オブ・ミュージックの一大テーマ「全ての山に登れ」は、あまりに有名です。

「全ての山に登れ」は以下のような訳となります。

▷Climb every mountain Search high and low Follow every byway Every path you know

・すべての山に登りなさい 高き低きもくまなく探し求め 知ってるすべての横道も すべての小道も辿って

▷Climb every mountain Ford every stream Follow every rainbow Till you find your dream

・すべての山に登りなさい すべての川を渡って すべての虹を追いかけて あなたの夢をつかむまで

▷A dream that will need All the love you can give Every day of your life For as long as you live

・夢を手にするために あなたの愛をすべて与えなさい あなたの人生一日一日を 生きてる限りずっと

 

◆本日8月15日は終戦記念日です。日本人、否、世界中の人々にとって最も意義深い日です。

◆Climb every mountainは、オーストリアの職業軍人でありながら、ナチスドイツへの従軍を拒否したトラップ大佐とその家族の、渾身の歌であります。彼の時代に、是々非々を決然と言い表すことが如何に大変であったか、想像に難くありませんが、

此のトラップ一家(実在のファミリーのモデルになった一家)は、誠の武人・軍人たらんと、自らの信念を貫き通したのでした。

◆Climb every mountain~すべての山を登れ、と聞くと、「あちこちにある山々を、すべて征服しろ」という意味にもとれてしまいます。

◆しかしここはそういうニュアンスよりむしろ、夢に向かってずんずん前に進んでいく途中、困難な山に出会おうとも、また谷間を横切ることになろうともSearch high and low、

その都度、逃げないで、私達の愛の関りの力を駆って、必ず登って乗り越えましょう、というニュアンスかと思います。つまりここでの every の意味は「その都度」ということです。

◆この歌に出てくる「山」や「川」や「横道」や「小道」や「虹」は、夢に向かって進む途中に「立ちはだかる様々な困難や選択肢」です。その都度、愛し合う者同士の愛の関りによって、克服していきましょう、いや克服できないはずはない、と詠っています。

 

【本題1】主のことば イザヤ書

2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて、幻に見たこと。

2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

 

◆さて聖書には、山が沢山登場します。

モーセが十戒を授かった山、シナイ山。 エリヤがあたたかな静かな神のみこころに触れた山、ホレブの山

◆聖書における山は、象徴的な意味を私たちに与えてくれます。

◆イエスは祈る際に山に登られました。神に近いからです。

◆山という存在そのものが神聖だとかという意味ではなく、聖書の世界観では、山は一番神に近いことの象徴なのです。

イエスがなされた山上の垂訓(マタイ5章)も山の上からでした。

◆反面、海は滅びの象徴です。海そのものが悪いとか、マイナスのイメージがあるというわけではありません。海は豊かな海産物を私たちに提供してくれます。

◆しかし象徴(目に見えるしるし)としての海は、人が存在できない場所。ノアの洪水で人々が滅んだところです。 つねに動き、落ち着かない不安定な状態です。

 

◆それに対して、陸、岩、大地は、「救い」の象徴です。

聖書には、救いの岩という表現がよく出てきますが、「不動」「不変」という意味合いが込められています。

ヨナは、海の大魚の腹の中にいて、陸に吐き出された。イエス・キリストの復活の前奏曲です。

 

 聖書の世界では、このように区分分けされます。

  • 山は、神の垣間見る、生活世界の頂点。

  • 陸は、救いの世界。契約の世界。

  • 海は滅びの世界、契約外の世界。

 

◆日本の神社は、山の中腹に建てられることが多いように思われます。 神社の近くには、湧き水や清水が流れ、あたかも神社から出ているように工夫されています。

◆これはまさに、エデンの園の象徴と同じといえましょう。エデンの園は、山の中腹にあったと考えられています。

「水が園を潤し、それが4つの川となって平野に流れ出る」、とあります(創世記2:10~14)

◆山の頂上は、神のおられる場所。そこから恵みの水が流れ、中腹にあるエデンの園流れ込みます。エデンの園はクリスチャンの集う教会を象徴しています。 クリスチャンは、自分で祝福の水を作り出すことはできません。 神から与えられる必要があります。

◆そして、クリスチャンは自分が受けた水を下流の平野の人々に流すのです。

山頂の祝福を、未だイエスの祝福に与かっていない方々に、お届けせずにはいられません。

其の為に、エデンの園の一人ひとりが、通りよき管となって、いつも山頂と通じ合っていなければなりません。

こころのまなこを絶えず山頂に向け続け、山頂をからもたらされるその清い息吹と恵みの泉に浴していきましょう。そのことが即ち、山へ登ろうということになりましょう。

 

【本題2】~“山に登る道は、剣を鋤に変える平和の道” であります。

 主のことば イザヤ書

2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

 

◆ここでいう剣の道とは、他者を武力で制圧し、屈服させる道です。

◆鋤の道とは、自己と他者が、互いに耕し合うこと。自己と他者、そして私たちの住まう世界を、豊穣なる大地としていくこと。~鋤(すき)は、現在のスコップのように、手前から土に押し込んで耕すもので、

鎌(かま)は、草や柴を刈る農具です。

◆さて「文化」は、ラテン語のcolere~耕すが語源であります。ともすれば形骸化してしまっている自分の生き様や考え方を、これまで考えが及ばなかった異質の生き様、考え方、習慣という鍬(すき)や鍬(くわ)で耕し合い、整地をすることで、自他ともに柔軟に耕され、より多くの実を結ぶこととなります。

◆これは、まさしく文化の薫りに満ち溢れる、“平和”に他なりません。

人が人である素晴らしさは、創造主のご性質を反映して、文化的な生活世界を作り上げる創造力があるということです。神はその有り様を、このうえもなくお悦びであられます。

◆私たちは互いに異質の鋤であればあるほど、鋭敏に耕し合うことができます。それは国家間においても、個々人、男女間においても言えることです。

自己と他者の“違い”は、実は文化創造をなしていく“美しさ”なのです。

此の違いの美しさを、男女間で例えるとより分かりやすいので、以下お話を進めさせていただきますが・・・

◆男性には男性独特の働き、役割があります。男性としての性質、男性性にはおもに、構築力、統合力、論理性、計画性。女性性には、あい、いつくしみ、はぐくみ、やさしさ。

(個人的には女性性の方が優れていると思いますが)、これらは決して優劣を競うものではありません。両者が互いに関り、耕し合うこと、教え合うことで、互いの欠けを補い、更には相乗効果、共鳴、共振によって、自他ともに無限大に花を咲かせ、互いを悦び合うことができます。

◆私たちには、主によって各々に、その人ならではの役割が与えられています。しかし、人ひとりの役割、能力、時間には限界があります。世の中全ての事々を網羅しようと思ったら、人生は百回あっても足らないでしょう。

◆お互いに耕し合い、異なる性質を“注油”しあうことで、人はより良き自己として大きく自己開発、自己実現をすることができます。これこそが、“平和”と呼ぶにふさわしいあり様であります。

 

【結び】

◆平和は、互いに見つめ合う仲良しクラブ的な関係ではなく、同じ主を共に見つめることによって成すことができます。

◆即ち、“私”には、主によってかけがいのない“いのち”と、いのちを生きる意味が与えられています。同じように他者にもかけがいのない“いのち”と、いのちを生きる意味が与えられています。自己のいのちに勝るとも劣らない隣人のいのちを、いのちをお与えくださったキリストに在って、キリストの眼差しで愛し合わずにはいられなくなります。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)

 

◆キリストが愛された、一人ひとりの異なるいのちの有り様、異色の糸があってこそ織りなせる美しさを、私たちは心から喜ばずにはいられません。

◆本日は終戦記念日!!

信仰の山路にあるお一人おひとりが、そして国々が互いに励まし合いつつ、耕し合いつつ、主の山を登り続けて参りたいと思います。

◆そしてやがての日、山頂で主イエスと直接、相まみゆるときを“夢見て”、Till you find your dream.
詠いつつ歩んで参りましょう。

キリストに賛美

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『仕える者の幸い」 ルカによる福音書14章7節~14節 主の年2021年7月18日主日礼拝 稲垣俊也牧師

【はじめに】
“仕える”“奉仕をする”、更には“犠牲を払う”という言葉は、あまり良いイメージの言葉ではないように思えるかもしれません。 しかしこの言葉は、特に日本の伝統・武士道には非常に深い美しい意味があるのではないでしょうか。
「奉仕をする」というのは上から押し付けられた義務ではなく、自ら求め欲する愛の貢献です。
 人は意識の中、無意識に拘らず自分が仕えることのできる誰かを探していて、その人のためならたとえつらいことでも喜んでやれる・・そんな人を探しているのではないでしょうか。
 愛ゆえに成さずにはいられない「愛の表れ」が、奉仕に他なりません。
 よく、「成したる罪」と「成さざる罪」ということが言われています。
 行為として犯してしまった罪よりも、無関心ゆえに成さなかった罪のほうが、ある意味、深刻な罪と言えましょうか。マザーテレサの言葉、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」も、そのことをこそ語っているのではないでしょうか。
 
【本題1】
主のことば~ルカによる福音書14章
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、 同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 主イエスは、披露宴では一番上座の席に座らないように、人に勧めました。
私を含め人は、自分たちの社会的な地位を向上させ、社会的に認められた人たちと一緒にいたがったり、成功者にふさわしく振舞ったり、あるいは誰かに自分が成功者であることを印象付けようとします。

 主イエスは、名声を目指すよりも、まず私が仕えることができる場所を探すよう、勧めておられます。

それがあればこそ、主イエスは私に、もっと大きな規模で仕えてくれるよう、より重要なポストに就くよう、取り計らっていただけることを、このみことばを通して語っておられます。

 また、奉仕とはいたずらに自分を卑下して、出来る仕事もせず、遠慮をすることではありません。奉仕のこころとは、自分の能力と時間の限界を素直に認め、謙虚に振舞わせていただくことです。自分を過小評価することなく自然に素朴に、お務めに臨ませていただく、「こころのありよう」でもあります。   それが、逆に自分の賜物の強さと素晴らしさを認め、キリストが指示されるのであれば、大胆にいつでも喜んでそれを用いていくことができましょう。

 健全な奉仕は、自分を等身大にへりくだらせ、自己をよりよく発揮する為に高めてくれます。

【本題2】

主のことば

14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、 あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。

14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

 主イエスは、祝宴に招く人々を職業や経済力、社会的ポストによって限定してはいけないことを語っておられます。

また、自分自身の他者に対する貢献で、如何に社会的な効果、社会的影響を得ることができるのか・・という観点で推し量ってはいけないことを示唆しているのではないでしょうか。

「奉仕」は量的な多さや、能力の大きさではなく、ささやかであろうともそれが「愛の表れ」、「分かち合いの徳」であるということが、至極大切なのであります。

 

ここで仕えることの本当の意味、素晴らしさを語った記事をご紹介したいと思います。
 『私の中に神がいるだろうか』チャ・ドギュン著
 結婚した後、暴君のように変貌した夫と30年暮らしてきたある女性の告白です。
「世間では出勤前に夫が妻の唇に愛のキスをするのが慣わしでしたが、いつもこの女性の夫は、自分が帰ってくるまでに妻が家でしなければならないことを書いたメモを渡すのです。もしメモに書かれた事柄を一つでも忘れたら、夫は暴君になりものすごい暴力を振るうので、夫が帰ってくるまでに任務を完了しなければなりませんでした。
 そうしているうちに一日が終わり、夫が戻ってくるころには心身ともにクタクタになってしまいます。30年をこのように過ごしてみると、毎日が地獄のようでした。
 そんななか夫が突然、癌にかかって亡くなってしまいました。
 何年かたった後、自分を尊重し心から愛してくれる男性に出会いました。お互いに深く愛し合うようになり、過去のことはすべて忘れて再婚をすることになりました。
 住んでいた家に多少のリフォームを加え、新婚の所帯を構えました。 
 ある日、ソファーの掃除をしていると、クッションの間からくちゃくちゃになった紙切れが出てきました。何かと思って開いて読むと、両目から涙が流れ落ちました。自分の30年の人生を奪ったあのうんざりする紙切れであったからです。
 しかし読んでいくうちに、箇条書きで書かれてある項目よりも、今愛している人と共に暮らしながら毎日していることのほうが、はるかに多いことに気付きました。
 女性はその紙切れを破って、ゴミ箱に入れて言いました。
 『私は今、ここに書いてある全部のことよりも、もっと沢山の事をしているんだから。こんな紙切れはもういらないわ』」

 愛の動機から起こる“自発的な奉仕”が如何に大切であるか、愛のない“強いられた奉仕”が如何に危険であるか、あるいは奉仕を、能力や結果のみで推し量ってしまうことの虚しさをよく言い表している話ではないでしょうか。

 

【本題3】

 さて、ここで「奉仕」のもう一つの大切な意味を、共に観てまいりましょう。

 わたしのお証しをさせていただきたいと思います。

私はかつて“池袋コミュニティカレッジ”にて、一般の方々を対象とした「讃美歌講座」の、お務めをさせていただいていました。2012年から2013年、この時期は声楽家、神学校音楽教師、そして神学生の三刀流。私の心身は限界に達しました。

 神学生時代であったことを鑑みると、やたら理論的、教義的になり、そのことが受講生に伝わるや、不人気講座となり、受講生が3人になってしまいます。閉講の危機にひんした時、ようやく私は妻に状況を話しました。

 妻曰く、「私も声楽家として妻として神学研究者として多用な毎日を送っているので、簡単にお引き受けさせていただくとは言えない状況よ。でも俊ちゃんがそのような状況であるなら、よろこんで手伝ってあげたいの。どうして私に手伝わせてくれなかったの?」~どうして夫を助ける機会を与えてくれなかったのか・・妻は少しがっかりしたように表情を見せました。

 其の時、私は自分を助けて欲しいとは思ってもいなかったと、はたと気付かされました。何かを頼んだり、ただで与えられたりする立場に立ちたくなかった自分に気付かされました。

 私は“妻を手伝いたい”と思ってはいましたが、それは、自分の夫としての優位を保ちたいとする“姑息”な考えでしかないことに気付かされました。これはもはや“助ける”“奉仕”という衣を纏った他者に対する“支配”でしかありません。

 自分は人を助けるが、相手に助ける機会を与えない~それは裏を返せば、本当に相手を助けることになっていない、ということです。此れは、何でも独力で成すことができるのだという自己顕示でしかありません。

 結局、私が妻の助けを拒んでいたのは、福音の恵みの中に生かされているという、福音の真髄を良く理解していなかったからです。

 そもそも福音とは何かと云うと、“罪深い私”の為に、主イエスが死ななければならなかったことです。

同時に主イエスが喜んで命を捧げるほど、私は深く愛されていて“価値”があることが知らされます。

福音が伝えられると私は、実に自己中心的な罪人だと分ります。そして私は、他人に善人だと思われたいが故の、自己満足であることを示されます。

 それと同時に、それまで想像もしなかった、もっと大きな愛と安心で満たされます。私は、功徳や業績によって神に喜ばれているのではなく、私が“私”であることを神は喜んでくださっています。私は絶えまない努力や業績によって、自分の価値を獲得する必要がなくなります。自己に過剰な期待を課することから、解放されると、却って、自由に大胆に奉仕や仕事に専心することができます。

 このように福音は、信仰者をへりくだらせ、また同時に引きあげます。

 

 私は主イエスに助けていただかなければ、憐れまれなければ1分1秒とて生きることができないほど、弱くもろい存在であることを覚えさせられます。

 それと同時に、憐れみと助けを必要としている方々には、イエスから戴いた溢れんばかりの愛を、溢れんばかりにお分かちをさせていただけます。大盤振る舞いをさせていただけるという此の二面性。

これが、福音に生かされる恵み、さらには“福音を生きる恵み”であることに、遅蒔きながら気付かされた次第です。

 

【結び】

「助け上手」であるためには、むしろ「助けさせ上手」でなければなりません。

 「受け止め上手」であろうするなら、まずは「受け止めさせ上手」である必要があります。

 なんでもかんでも、自分の貢献・奉仕によって事が運ぶと思うことは、大きな勘違いでしかありえません。

 

 プロフェッショナルは、日本語では「玄人・くろうと」と表しますが、これは、「黒と」「白」の合成語の略であるとのことです。

 キャンバスの全面を黒一色で塗り潰されていますが、よく見ると、黒で塗り潰されていない白地が残っているという状況です。即ち、「他者に関わっていただく余地があるということが本物のプロ」であるという意味合いが、此の「玄人」に込められています。

路上運転の本当のプロであるトラック運転手は、大きなトラックを自由自在に操作し路上を闊歩できましょうが、運転に不慣れな初心者マークの車が困っているのを見るや、運転の滞っている人を見るや「どうぞお入りください」と言わんばかりに、さっと自分の車線を空けてくれます。

 今朝のみことば、「むしろ貧しい者を招きなさい」そのものではありませんか。

 

 このように私たちも各々の奉仕・仕事を通して、信仰と奉仕の「玄人」を目指して参ろうではありませんか‼

  • 精一杯の奉仕をしつつも、他者に程よくお関りになっていただく機会をお示しさせていただきましょう。

  • 精一杯の奉仕をしつつも、自らの能力、時間、器量の限界を素直に認め、心の真中に主イエスにお入りになっていただきましょう。

  • 主イエスと主イエスに繋がる方々に対し、真に「助け上手」「助けさせ上手」になっていくこと。其れをもって、主イエスと主イエスに繋がる方々と、もっともっと親しくならせていただきましょう。

 

 謙虚かつ大胆に“奉仕”に臨む中野バプテスト教会のお一人おひとりが、主イエスの“およろこび”でありますように。

+キリストに賛美

 

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『主は湖上に立ちて』 マタイによる福音書14章22~33節 

                              2021年6月20日 中野バプテスト教会主日礼拝   稲垣俊也牧師

◆はじめに

 湖上を歩くイエス・キリスト。私には、この福音書の出来事に関わる、忘れがたい思い出があります。

 私は、文化庁派遣在外研修員としてイタリアにて研鑽を積ませていただきましたが、留学中はイタリア人のとあるご家庭にホームスティをさせていただいていました。

 此のご家庭には、私と一つ違いのヴィットーリオという青年がいました。ヴィットーリオは此のご家庭の次男坊でした。もちろん彼とは血縁はありませんが、彼のことを今でも私は、実の弟と思っています。

 ある時ヴィットーリオが、「Toshi。これから水上ミサに出かけるけど、一緒に行かない?」と誘ってくれました。「Messa dell’acqua~水上ミサ?何それ?」と答えるや、「行けば分かるから、兎に角一緒に出掛けよう」と家を出ました。

 出かけた先は、市営の屋内競技用プール。観客席は既に、大勢の人々で溢れかえっていました。

 軽快な口調の司会者が開幕の挨拶をするや否や、まずけたたましい大音響とともに数台の“水上バイク”が現れました。室内での水上バイク。その音響の凄まじさは、皆様も容易に想像することができましょう!!水上バイクはわざと観客席の手前で急カーブを切り、観客に水しぶきを掛けます。観客は、歓呼の声をあげます。

 水上バイクのパフォーマンスは、10分ほど続いたでしょうか。その次に現れたのが、見目麗しい乙女らの“シンクロナイズドスイミング”でした。その妙技に、ヴィットーリオも私も、観客もうっとり。

 そしてクライマックス。その後、司祭が水色の大きな発砲スチロールに乗って、プール奥から登場し、プール中央へと進み出でました。

 発砲スチロールの下にアクアラング装備の男性らが入り、それを押していましたので、はた目にはまるで司祭が水面を歩いているかのように観えました。その司祭の姿に人々は、「主イエス・キリストの御出ましだ!!」とひざまずき、十字を切り始めました。

 ある意味、子供だましの滑稽な光景のようにも思えますが、さに非ず。その場に参集した会衆は、往時の人々が感じ発したであろう感動の吐息を、自分たちも感じ味わわんがため、この水上ミサに馳せ参じたのであります。往時の出来事の、追想像!!福音書の文字を“観えるみことば”と成すための、創意工夫であったのだと、理解することができました。

 水上バイクは、湖面に荒れ狂う大波を表していました。シンクロナイズドスイミングは、浮き沈みをするペトロのあり様。そして発泡スチロールの司祭は、湖面を歩くイエス・キリスト。その場に居合わせた私も、まるで“幼子のように”、その光景、即ち“観える御言葉”を、感じ味わい楽しませてもらいました。

 

◆本題1

▷今朝の主のことば

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

沖へ漕ぎ出だした船は、教会を表しています。主イエスがご不在の教会は、灯台の光を見失い、ただただ逆風に悩まされるばかりです。

 ちなみに、船が間違いなく港に帰着するためには、三つの要素の一致が必要と云われています。灯台の光と、船の先頭部分・船首と、船の中央部・艦橋が一直線になったとき、間違いなく港に帰ることができます。どれ一つ欠けても、港に帰り着くことはできません。

 同じように、信仰の船旅を確かなものとするのは、三つの一致が必要と云われています。

即ち、みことばの光~みことばからの示唆。そしてみことばの光を絶えず指向し続け、船を操舵する信仰者の気概。更には、同じ「教会という船」に乗船する、信頼のおける信仰の友からの助言・協力。どれ一欠けても、信仰の航海を健全に航行することが叶いません。

 この状況は、彼の時代の「対岸」の出来事ではなく、私たち自身の出来事にもなりうるということでありましょう。

 

▷主のことば

14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

「わたしだ。」~ギリシャ語ではエゴ・エイミー~私は在る。私は在るというものだ、と意味です(出エジプト記3の14)。「わたしだ。」という言葉は、ただ単にイエスに気付かせるための言葉ではなく、旧約聖書以来、予期せぬ場面で神が現れる際に使われることばです。神が私たちの出来事の中に、歴史の中にご介入なされんとする宣言であります

 

▷主のことば

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

 

 ペトロは湖上を歩くイエスから、「来なさい」と言われたので、船から降りて湖上を歩き始めました。

最初は感激と歓びのうちに歩いていました。しかし彼の感激も束の間、突然、強い風と大波に気が付いて怖くなり沈みかけたので、「主よ助けてください」と叫んだのであります。

 ペトロは沈みかけている自分の存在に気付き、自分が湖上を歩くという「人力」だけでは成しえないことに驚きました。

 その時、ペトロははたと、イエスに信頼するほかに術はなしと想い「主よ、助けてください」と叫ばずにはいられなくなりました。

 

 私たちの信仰生活や献身者の生活もある意味、人智をはるかに超越するもの。いわば大海原をあるくようなものでありましょう。人力・自力だけでは到底成しえないものです。それを人力・自力だけで推し量ろうとするとき「主よ、助けてください。」と叫ばずにはいられなくなります。

 イエスという絶対的なみ助け、灯台の光から目を離してしまうと、「強い風」「高い波」ばかりが目に入ってしまいます。とてもそれを自分だけでは克服することができないことに気付くと、自分自身の存在がぐらつき、揺らいでしまいます。

 皆様は「視覚吸引効果」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか?危ないと思っているものに見入ってしまうと、自らそこに吸い込まれてしまうという現象です。

 自動車を走行中、隣の車線に大きなトラックが迫ってきたとしましょう。トラックが自分の走行車線に入ってこない限りぶつかることは無いのに、トラックの大きさに圧倒されて見入ってしまうと、自らトラックの方にぶつかりに行ってしまいます。多くの事故は、この「視覚吸引効果」に起因していると云われています。

 

◆本題2

▷主のことば

14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

主はペトロに「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と軽く叱責なさりながらも、すぐさまやさしく手を伸ばし捕まえてくださいます。

 また主イエスは、「信仰の薄いものよ。なぜ疑ったのか」と言われました。「信仰の無いものよ。」とは仰いませんでした。

 「信仰が弱い者。薄い者」とは、信仰は確かに持っているものの、先ほどの健全な航海のための三つの要素、すなわち「みことばの光~みことばからの示唆。そしてみことばの光を絶えず指向し続け、船を操舵する信仰者の気概。更には、同じ“教会という船”に乗船する、信頼のおける信仰の友からの助言・協力。」のバランス感覚に欠けるもの、という意味ではないでしょうか。

 

 多くの場合、サタンは人の弱さよりも、「人の強さ」に付け込んできます。強さを遺憾なく発揮させることで、「自力救済」させようとします。

 ペトロはガリラヤ湖を熟知していました。漁場はもちろんのこと、どこが浅瀬で、どこの潮流が激しいかをくまなく把握していました。筋骨隆々で体力にも優れていました。サタンは「あなたの知力・体力・経験をもってすれば、あるいは湖上を歩くことだってできるかもしれません」と、まことしやかに告げます。

 同じように、サタンは「あなたのこれまでの信仰者として豊富な経験があれば、みことばの示唆、裏打ちが無くても、大丈夫ですよ。」「信仰の友の助言など、入用ではありません」と言ってきます。確かに信仰の熟練者になると、教会流の流儀や、この業界での立ち振る舞いによって、物事を好転させることができるかもしれません。

 しかし、私たち信仰者の信仰の旅路に必要なことは、主と主のみことばを見つめる信仰の眼(まなこ)です。信仰の旅路の日々の糧は、高遠な知識や学問ではなく、ただただ素朴に、自然に主と主のみことばに、日々まみえさせていただくことです。此の日々の糧は、釈義をしたり習熟していくものではなく、日々深めていくもの、親しくなっていくもの、“新しくなっていくもの”であります。

 これがあればこその信仰者。さもなくば、キリスト教は数多と存在するイデオロギーの一つと化してします。

 

◆結び

コリント信徒への手紙第Ⅱ 5章4節~死ぬべきものがいのちのみこまれてしまうためである。~

 なんと不可思議なことに、私たちはこの世の荒波にのみこまれて、溺れてしまう前に、主のご愛に取り囲まれ、その中に溺れさせられたものであります。

 神の愛は、「溺愛」であります。この溺愛は、“あなた”を真綿に包むように甘やかすといったものでは決してありません。

 神の溺愛は、“あなた”が“あなた”であるが故に、愛さずにはいられない、無条件で一方的な愛です。あなたが良い子であるときも、荒れているときも、すさんでいるときも、そして悪い子であるときも、あなたは変わることなく神の“およろこび”であり、神の“愛”であると、なんら憚ることなく高らかに宣言する愛です。思慮分別が無い愛ではなく、思慮分別を超越する愛です。

 

 今朝のみことばも含め、聖書に幾度となく登場するペトロ。武骨で一本気の反面、弱さや欠点も多く持っていたペトロ。しかし主イエスは、ペトロがペトロであるが故に、愛さずにはいられませんでした。友情を育みたいと心から願っていました。恋には片思いがありますが、友情は関わり合う双方に影響を及ぼし、双方を変えることができます。主イエスと私との友情は、私たちを変えるばかりか、主イエスをも魅力あふれる愛の人と変えることとなります。これを思慮分別を越える聖なる溺愛と呼ばずして、何と呼びましょうか?

 同じコリントⅡ5章の14節に「キリスト愛、我に迫れり」とあります。此の御言葉は、「さあ“あなた”は、この世の荒波に飲まれる前に、主のご愛に心身を投じなさい」と迫ってくるようであります。

 「目まぐるしく変化するこの世の波に翻弄されながら、その中で神のご利益(ごりやく)を願うのか、あるいは、変わることの無い神の愛に心身を投じ、今生の出来事を、主イエスと更に深く愛を交わし合う機会となすのか。あなたには二者択一しかありませんよ。」「さあ、信仰のまなこをしっかと開き、後者を選ぶあなたであっておくれ」と、やさしくも情熱を持って語られる主イエス・キリスト。

 それに、こころから「はい」とお応えをしていく中野バプテスト教会のお一人、お一人でありますように。

キリストに賛美

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『陶器師の手の中で』 エレミヤ書18章1~10節            

    2021年5月16日 中野バプテスト教会主日礼拝 稲垣俊也牧師

◆はじめに

今朝のみことばは、全体が美しい隠喩によって彩られています。陶器師である主に対し、私たちは主の御手の内で形作られ育まれている“器”である、ということでありましょうか。

私は2018年3月、長崎の五島を旅行いたしましたが、頭ヶ島天主堂 (カシラガシマテンシュドウ)にて、或る陶器師の方と交わした会話とその体験を忘れることができません。

長崎の五島には美しい教会が点在いたしますが、中でもこの頭ヶ島天主堂は、総石造りの重厚な教会として広く知られています。

私たち夫婦は、お御堂に入りお祈りを奉げた後、彼の時代の潜伏キリシタンの方々に想いを馳せつつ、グレゴリオ聖歌Sanctusを詠わせていただきました。それをたまたまお聞きになっておられた教会堂堂守の方が、「およろしければ、拙宅兼工房にご案内をさせていただきたいのですが・・」と、丁寧なご挨拶を頂戴いたしました。

その方は何と陶器師でもありました。工房に入るや否やこのように仰いました。「これらの陶器は、私の手によるものですが、全て生きております。私が息を吹き込み、自身の心を注がせていただきました」「恐れ入りますが、手を陶器に近づけてください。陶器はあなたの人となりを精査し、友愛を結ぶにふさわしい否か、見極めようとしています。」「陶器があなたと友情を交わそうと思い至ったのであれば、熱い“気”をあなたに送ってきます!!」

私は“牧師”でありますが、このようなスピリチュアルなことには疎く、半信半疑で言われるがままに陶器に手をかざしました。手をかざして数分間は、何の変化もありませんでしたが、5分程たった頃でしょうか、ファーと熱い“気”を手に送ってきたのです。一瞬、火傷を負ったかもしれないと思うぐらいの熱気でありました。

陶器師は更にことばを続けます。「この工房自体も生きています。ほら、天井の木の色が少し白く変色しているところをご覧ください。それがこの建物の目なのです。そしてその下にお立ちください。頭頂部が熱くなってきますよ。」

これもまた半信半疑で言われるがままにしたところ、成程、その通りと相成ったのでありました。

 

陶器も家も、ただ単なる物品ではなく、制作者の思いの反映に他ならないことを知らされた貴重な体験でした。主なる神が土(アダマ)で人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き入れられ「アダム」となさったことを彷彿とさせられました。

「ものを大切にしなさい。」とは、単なる道徳訓ではなく、もっと深遠な意味があることを、遅まきながら知らしめられた次第です。

 

◆本論1 エレミヤという預言者

エレミヤは、イザヤ、エゼキエル、ダニエルと並ぶ、四大預言者の一人です。エレミヤは、南ユダ王国のヨシヤ王の治世13年目、紀元前627年(頃)、神のことばを受けて立ち上がりました。

その頃、北イスラエル王国は、既にアッシリアに蹂躙(じゅうりん)され消滅していました。

イスラエル王国は、ダビデとソロモンの治世を経て統一国家として建国されましたが、ヤロブアムという王が、イスラエル王国を更に強固にするために、隣国シドンの王エトバアルの娘イゼベルをめとり軍事同盟を結びました。そして隣国との外交交渉がしやすいように、都をエルサレムの北、シェケムへ勝手に移してしまったことで、南北分裂国家となってしまいました。北イスラエル王国は、近隣諸国との融和を図るため、隣国の宗教・バアル教との混合宗教国家となりました。

北イスラエル王国は、これらの人為的な政策により強固になるのかと思いきや、むしろ歪な国家となり果て、ほどなく強国アッシリアの支配を受けるに至りました。後の世の人々は、これらの一連の出来事を「ヤロブアムの罪」と呼び、自分たちへの戒めとしています。

南ユダ王国もまた北イスラエル王国と大同小異、五十歩百歩でした。先住民カナンの持っていた民間宗教との混合宗教に陥り弱体化してゆきます。エレミヤは、南ユダ王国が北イスラエル王国と同じ轍を踏むことの無いよう、警鐘を鳴らし続けました。

エレミヤは罪を犯した多くの人に対峙しましたが、民らの反応が全く無かったので、本当に自分が役に立っているのか疑問になりました。エレミヤはたびたび失望し、時には辛辣になりました。

罪とは、神様との関りを自らをして断ってしまうことです。罪には、災いと申しましょうか“罰”がまるでブーメランのように返ってきます。“罰”は、神がもたらされたものであるというより、自分たちが主と主のことばの不在を選んだがゆえに、自ら悲惨を招き入れてしまったと云えましょう。

義なる太陽である主の御光に浴することより、自家発電、自家栽培(軍事同盟等)を選び、自ら枯渇の道を歩んでいくユダの民らを観ながら、エレミヤは涙をもって語りました。

自分たちの生き様を悔い改め、義なる太陽に目を回し“回心”するようにと、エレミヤは語り続けました。(普通、教会では“かいしん”は、回心と表記します)

 

◆本論2

主のことば~エレミヤ書

18:3 わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。

18:4 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。18:5 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。18:6 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。

 

此の隠喩にあるように、神は粘土(ユダの民ら)に対し力を持ち、神はそれが役立つ器となるまで作り続ける権威があることを示しています。

南ユダ王国は直ぐにでも「混合宗教国家」といういびつな形を整え直す必要がありました。

粘土は誤った方向に向いて固まってしまうと、全く役立たずになってしまいます。

陶器師がろくろの上で粘土の壺の形を整えます。形にするにつれ、よく欠点が現れることがあります。陶器師は粘土に対して、欠点をそのままにすることもできれば、形を整え直すこともできます。

同じように神には、ユダの民を神の民にふさわしく在るように、と作り直す力があります。

私たちは、粘土のように考え無しであったり、“まな板の鯉”のように全くの受け身であったりすべきではありません。しかし神がお望みになり、お悦びになられる器となるためには、これまで構築なさって戴いた「器」を保ちつつも、軌道修正を快くお受けする柔軟な態度が必要であります。

柔軟な態度・・即ち、いつも主の御前において“リラックス”していなければなりません。リラックスとは、だらしなく休むことではなく、周りの状況、状態に対しいつでも行動に移すことのできるあり様を云います。

 

◆本論3

主のことば~エレミヤ書

18:7 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、

18:8 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。

 

 陶器師である神が私たちに望まれることは、悔い改め“回心”をする柔らかな心。自分の固定観念に固執することなく、いつも柔軟に主のご示唆に従い、行動に移すことができる“リラックス”した心身です。

 おおよそこの世の中に、欠点のない人は一人としていません。

 芸術の道も、上手くなればなるほど“欠点”が目立ってくると云われています。全体的に下手な人は、欠点も目立たないということでありましょうか。ある意味、信仰の道も、熟練すればするほど“欠点”が浮き彫りにされていくのかもしれません。かく申し上げる牧師である私は、皆様方よりも明白な欠点をもっていると言えましょうか?

 欠点のない人はいません。大切なのは罪を犯すまじとすることよりも、罪を悔い改め、回心をする柔軟な心です。

 主はその人、即ち“器”の個性、アイデンティティを何ら損なうことなく、むしろそれを美しく生かすべく作り変えてくださいます。

・取税人ザアカイ~人から財を搾取する人から、財を分かつ真の経済人へと変えられました。

・マグダラのアリア~主の復活を使徒たちに最初に伝えた宣教者にせらるる。人に媚びる仕事から、人に貢献をする仕事へと変えらるる

・シモン・ペトロ~人をすなどる漁師へ変えらるる。

 皆それぞれに欠点をもっていましたが、主イエスは、それらを美しく作り変えられました。主イエスのまなざしには、欠点は汚らわしいものであるというより、「まだ生かされていない種」「これから成長していかなければならない領域」として映るのでありましょう。

 まだ生かされていないペルソナ(人格・生きざま)に惹かれ、それを生かそうとなされる主の情熱が、まさしく良き訪れ、“福音”に他なりません。

 

 エレミヤ書19章11節には「陶器師の器をひとたび砕くならば、もはやもとのようにすることはできない。」とあります。

 主イエスの弟子のペトロとユダ。どちらも主イエスを裏切るという大罪を犯しました。

 ユダは銀30枚でイエスを売ってしまいました。「何ということをしたのだ」という後悔の念はありましたが、悔い改め“回心”をし、主イエスに委ねる思いがありませんでした。自分は正しく生きてゆかねばならないという「自己主張」しかありませんでした。自分の考えや正義感に固執し、凝り固まっていました。それが上手くゆけば良いのですが、上手くいかなくなったときには、もはや自ら命を絶って、粉々に砕け散るしかありませんでした。

 主イエスが裁かれる夜、三回も「私は知らない」と言ってイエスを否定したペトロ。しかしペトロは柔らかい悔いた心で、イエスに回心しました。その後のペトロは、まさしく新しく作り変えられた真のキリスト者として、殉教の死を甘受するほどの働きを成したことは周知のとおりであります。

 

◆結び

 私たちは陶器師・イエスの工房で、念入りにこねられ整えられた粘土であります。そしていのちの息を吹き入れられ生きる器「アダム」となさっていただいていることに、感謝を奉げずにはいられません。

 更に私たちにはもう一つの誇りがあります。この土の器に尊い宝が入れられていることです。

 それは御父・主イエスご自身の霊である“聖霊”と、主のことばという真清水です。

 器そのものにも価値がありますが、更にそれを高価たらしめるのは、珠玉の真清水が入っていることです。高価な器でも、中に泥水が入っていたら何ともなりません。

 私もそうですが、時として自分の器、「器量」を嘆いてしまうことがあります。失望したり、ほかの器に嫉妬をしてみたり、立ち止まったり、ひがんだりすることもしばしば有ります。しかし、触れれば割れるような土の器であっても、そこにキリストという宝が入っていることを想えば、そして器そのものにも、主のいのちが吹き込まれていることを想えば、私たちの人生はまさしく神の傑作品であると、声高らかに賛美をせずにはいられません。

「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」

キリストに賛美

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『ご復活の主に倣いて』 ヨハネによる福音書14章15~21  ヨハネによる福音書15章12~17節 

            2021年4月18日 中野バプテスト教会主日礼拝 稲垣俊也牧師              

◆はじめに

主イエスは、私、私たちにとって愛にあふれる牧者、リーダーであります。

反面、ご受難に臨まれる前、弟子たちの足を洗った「洗足の出来事」からも分かるように、どこまでも私たちに仕え、奉仕をなされる謙遜なるお方でもあります。

私達羊の群れを、リードするリーダー・牧者であり、羊の群れの後方から、羊を守る牧羊犬のようなお方と云えましょうか。まさしく詩篇23篇の世界!!

◇“仕える” “奉仕をする”というとあまり良いイメージの言葉ではないように思えるかもしれません。

◇しかしこの言葉は、特に日本の伝統には非常に深い美しい意味があるのではないでしょうか。

◇仏教では、若い僧は悟りに導いてくれる尊敬できる老師に奉仕をすることを、自ら欲するといいます。

◇「奉仕をする」というのは上から押し付けられた義務ではなく、自ら求め欲する愛の動きです。

 人は意識の中、無意識に拘らず自分が仕えることのできる誰かを探していて、その人のためならたとえつらいことでも喜んでやれる・・そんな人を探しているのではないでしょうか。

 人の心には人を支配したい気持ちと、人に仕えて生きたいという二人の自分がいるといわれています。私を含め人は基本的には“自己”を中心としていますが、そんな自分の殻を抜け出して、尊敬できる人に仕えることは名誉と誇りだと思える、そんな人を求めているのもまた偽らざる自分であるといえましょう。

 「仕える」ことは、自分が自己と他者の二人の人格を満たすような“2倍”豊かに生きることかもしれません。

 よく肩をもまれる人より、肩をもむ人のほうが癒されるといわれています。

 もちろん肩をもまれる人が癒されるのは言うまでもありませんが、肩をもむことで人に仕えるということは、自分の心が豊かで広いがゆえになせること、あるいはそうありたいと思うがゆえになしていくことです。「仕える」ことによって自分自身の心の豊かさを味わうことになるのです。

 

 また「奉仕をする」ことは神様からの恵みでもあります。

 なぜなら確かに仕えたいと思うのは、神様の命が私の中にも流れているからです。「神に奉仕をする」ことは、私自身の心の中にお住まいになっている神様を味わうことではないでしょうか。奉仕をすればするほど神を身近に感じることが出来ます。

確かに私も自分が一番むなしくなり自己嫌悪に陥る時は、エゴイズムに流され、自分の向上のために他人を利用してしまった時、あるいは自分に奉仕をするように他者に強いてしまった時、他者を自分の犠牲者にしてしまった時です。

 反対に良かったと思うのは、自分が他人のためにいくらかでも役にたった時、少しでも他人のために貢献できた時です。

 エゴイズムにはむなしさがありますが、愛の献身・奉仕にはむなしさがありません。

 愛とは心の呼吸のようなものかもしれません。

 愛することは飽きることなく、永遠に残る業(わざ)です。

「愛は決して絶えることがありません」“コリント人への手紙第一13章8節”

 

◆本題1~主イエスのよき友となる

♰聖書の言葉~ヨハネによる福音書

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 

 

イエスが昇天なさる前に、弟子たちに語られたおことばです。

御父とイエス・キリストご自身の霊である、“聖霊の派遣”の為にこそ、イエスは肉体という衣をお脱ぎ棄てになられ、天に昇り、全能の父なる神の右の座にお着きになられました。今なお“弁護者”として私たちに親しく、近しく“在って”くださいます。寄り添ってくださっています。

私達が、この聖霊と共に「在る」ことの条件は、キリストを識ることです。キリスト教を幾多ある宗教、思想の一つとしてではなく、イエスの語られたことばと聖霊との対話、“愛の授受”を悦ぶことが、キリストを識ることに他なりません。キリストについて識ることと、キリストを識ることは、天と地ほどの違いがあります。

そしてもう一つの条件は、キリストの掟を守ることです(上記15節・21節)。キリストが与えたもうた掟とは・・

 

♰ヨハネによる福音書

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主イエスは私たちをご自身の友となさっていただき、私たちの為にいのちを差し出されました。私たちもイエスに倣い、友の為に心身を捧げてゆきたいと思わずにはいられません。

友の為にいのちを捨てるとは、もちろん字義通りの意味合いもありましょうが、友との関りこそ、いのち与えられ生かされていることの究極の意義であることを悟れ、友との愛の授受こそが絶えることのない永遠の悦びのはじまりであることを覚えなさい、捉えることが出来ましょう。

兄弟愛を実践し表現することで、愛の源であるまことの友、友のなかの友イエス・キリストとの愛の授受を、本当に自己の体験と成すことが出来ましょう。

*夫婦愛もある意味究極の“友愛”。女性エヴァはヘブライ語で“エゼル~ 特別な助け手である友、増援部隊”と訳されています

 

◆本題2 文化内開花

さて、少し観点を変えお話をさせていただきたいと思います。

乃木希典大将は、明治天皇が崩御された折、妻・静子と共に殉死をされました。

天璋院篤姫の老女・菊本は、篤姫の島津本家養女入りの際、殉死をされています。いずれも肉体という衣を脱ぎ去り「霊」そのものとなって、限りなく主君に寄り添い、守り抜いてゆきたいという気概、意思の表れではないかと想わされます。

西郷隆盛も主君・島津斉彬他界の際、同じ理由で殉死をしようとしましたが、清水寺の月照和尚がたしなめ、西郷の魂を月照和尚に預けさせたとされています。月照和尚は、新しい日本を建国せんがための開国派の指導者して攘夷派から命狙われる身、和尚様自身が近い将来の最期を予期し、西郷に代わり斉彬にその魂をお届けしようと思われたのかもしれません。

殉死とは、主君を失った絶望感故に後追い自殺をするといった意味では決してありません。むしろ逆に、肉体という衣を脱ぎ捨ててでも、無限に敬愛する方に貢献をしてゆきたいという「究極の悦び」ではないかとも思わされます。

 主イエスは神でありながら、同時にどこまでも人に仕える奉仕者の姿をおとりになり、死して死を滅ぼし、(聖)霊となり無限に私どもに寄り添っていただいているのでないかと想わされる次第です。

 

武士道の真骨頂、「高き身分の御者に伴う義務(noblesse oblige)」とは、強いられた義務ではなく、自分を真に自分たらしめる“誇り高き生き様”を、自ら欲し希求することに他なりません。

自由自在に他者(主・主君)に貢献しうることこそ、最も誇り高き生き方、生き様。この武士道精神は、主イエスの生き様に通じるところ大であります。

 

 私は牧師とならせていただいた今でも、「武士道」に対しては恭敬の念を禁じえません。武士道は、キリスト教になんら煩いをもたらすものではありません。よいキリスト者になるために、武士道を軽んずることがあってはならないと思います。そもそも自国の文化や精神(こころ)を軽んずる人が、よいキリスト者であるはずがありません。

 古来より日本人と其の文化は、キリストにも似た、崇高な精神を持ち合わせています。私たち日本のキリスト者は、武士道が言い尽くせなかったところ、即ち神の義について、復活の永世 等を、武士の魂に”注油“して、武士道を発展、成就させることこそが大切ではないでしょうか。

 日本の地に、信仰をしっかと土着化~インカルチャレーション・文化内開花~させるためには、能う限り日本の文化語、精神をこそ用いていくことが肝要かと想わされます。

 

◆結び

主イエスは、人々と永遠に愛の授受をなすべく聖霊をお送りになるためにこそ、ご復活なさり天に昇られたのであります。

肉眼や現世的な見方で、イエスを見ることはできなくなりましたが、聖霊の“油注ぎ”によって、もっとはっきりイエスを観ることができ、もっと近しく親しく関わらせていただくことが出来るようになりました。

そして、復活した主イエスとの出会いは、今朝の御言葉ヨハネによる福音書15章6節にもありますように、そのまま弟子たちの宣教派遣に繋がります。

『ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。』

私たちは聖霊のエールを駆って、主イエスの愛に満ち溢れるお言葉をお届けする「キリストの全権大使」として召されたものであります。

 私たちが互いに愛し合い、そして私たちが「インカルチャレーション・文化内開花」に専心・貢献・奉仕していくことで、(大変畏れ多いことでありますが・・)私たちはキリストの真の友に、そして私たちがますます「神の家族」となっていくのです。

全身全霊で私たちに奉仕・貢献をしていただいた私たちのまことの師イエス・キリストの倣い、私たちも主と主の御言葉と、そしてかけがえのない私たちの生活世界に奉仕・貢献をして参りましょう。否、しないではいられません。

キリストに賛美

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『山頂を目指して』マルコによる福音書9章2-10節 ローマの信徒への手紙 8章28-30節

                             2021年3月21日中野バプテスト教会主日礼拝               稲垣俊也牧師

 今朝の福音は、イエスのご変容について詳細に記しています。何故イエスは、内弟子であるペテロとヤコブ、ヨハネの前でこのようにご変容なさったのでしょうか? 時はあたかも、イエスの最も惨めなご受難を直前であることを考えると、答えは明白であります。弟子たちが筆舌に尽くせないほどの苦しみと、壮絶な死を遂げられるイエスに絶望しないように、彼らにイエスの最終的な「本来的な」お姿を示しておきたかったからでしょう。

 つまり主イエスは間もなく、屠所にひかれていく小羊のように、惨めな死を遂げることとなりますが、弟子たちが最後まで忠実にイエスのあり様を受け入れ、また救い主として信じ続けるようにと望まれたからです。

 イエスのこのようなご変容は、私たちの向かうべき姿でもあります。わたしたちもイエスがそうであられたように、あらゆる困難を克服しながら、最後まで主の招きの完成を目指し、“信仰の山”を登り続けていかねばならないことを、否、登り続けずにはいられないことを表しているのではないでしょうか。

 私たちは、最終的には此のモーセ、エリヤのように、天の頂にてイエスと同じ真白きお姿に変えられ、イエスにまみえさせていただく希望と確信があります。私たちも天の雲間より発せられる「これは私の愛する子。これに聞け」との、主のエールを聞きながら、お声の発せられた方に、心のまなこを向け、登頂を続けていくことができます。

 信仰の登頂に必要不可欠なものは二つあります。それは、軽い荷物と朗らかな精神であります。登山において何よりも大切なことは、できるだけ荷物を少なくすることです。荷物が重いと息が段々と辛くなり、途中で登山をするのをやめることになるでしょう。同じように、罪・とがはこころの重荷であると云えましょうが、悔い改めると心が軽くなり、とりわけ此の四旬節の山に喜んで登り続けることができます。

 そして、朗らかな精神。此れは即ち、祈りと賛美。祈りも賛美も、どちらも神と神の繋がる方々との、美しいことばの授受、即ち「対話」であります。対話の流通が滑らかであればあるほど、私たちの精神は朗らかになります。対話が滞ると、心身が閉塞し朗らかではなくなります。

私たちは聖化に聖化を重ね、生涯を賭してゆっくりと確実にキリストに似たもの、キリストの友に変容していきます。(ローマの信徒への手紙 8章28~30節)

 私たちは最終幕の完成に向かって、一幕ごとに深い意味と意義を味わいつつ、歩み続けるクリスチャンです。一幕と二幕の間にはいわゆる幕間(まくあい)があります。幕を下ろし、一度物語をリセットします。幕間は、明日に向かっての一時の夜ともとれますが、これはむしろ今日とは違う明日を実現するためには必要不可欠なものです。ともすれば、一時の暗転幕が漆黒の闇に感じられることもありましょうが、明日の夜明けに向かうための夜であります。クリスチャンの品性はむしろこの幕間の暗転のさ中でこそ、養われると云っても宜しいでしょう。

 さあ最終幕に向かって、否、もう幕間や暗転幕のない“最新幕”の光景をしっかと見定めて、この信仰の旅路を賛美と祈りを日々の糧として、軽やかに歩んで参りましょう!!

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キリストに賛美

『歌の中の歌、雅歌』 旧約聖書朗読 雅歌2:8~14 福音書朗読 ルカ1:39~45

           2021年2月21日 中野バプテスト教会主日礼拝 説教者:稲垣俊也牧師

「雅歌」は、ソロモンが書きました。「雅歌」の直訳は「歌の中の歌」です。ソロモンは1005首の歌を書きました。それらの歌は、歌の中の歌、つまり最高の歌だ、ということです。その内容は、ソロモンが愛した女性とその女性との間で交わし合った愛の歌です。

  今朝の聖書箇所では、ソロモンが愛する女性は、イズレエル平野のシュネムというところにいます。そこは、今でもイスラエル有数の穀倉地帯であり、豊かな農耕地が広がっていたのでしょう。そこに、王なるソロモンがわざわざ、彼女の家のところまで来て、呼び出しているのです。冬が過ぎ去り、春がやって来たと彼は言っています。イスラエルでは冬に雨が降り、土がぬかるみますので、移動する時は春になります。時期が来たので、ようやく動くことができたということです。しかし、ここに隠喩があります。つまり、もはや結婚の時期が近づいていますね、ということです。女性はその時期が来るのを待っていたのです。

  ソロモンの口を借りて主は私たちに、こう仰っているのではないでしょうか。「さあ、婚宴の時が近づきました。あなたはどこまでも、どこまでも主に愛された“花嫁”です。主に赦された“主のおよろこび”です。自分で自分を蔑み、自分を“氷室・ひむろ”の中に閉じ込めるのはおよしなさい。さあ、冬の衣を脱ぎ捨て、光の主の元に羽ばたいて来なさい」。

 確かに私たちは“罪びと”であります。どこまでも主に憐れまれなければ一分・一秒とて生きることができないぐらい弱い存在です。しかしそれゆえに、主イエス・キリストは、私たち花嫁(隠喩としての意)の弱さ、痛み、罪を、一心同体の“夫”として一身にお引き受けになられ、ご自身の弱さ、痛み、罪となさってくださいました。到底、私一人では背負うことができない弱さ、罪を共に背負い分かち合うことで、未来に向かっての新しい“いのちの関り”へとお招きくださいました。主イエス・キリストと私たちの関りは、このように夫婦愛にも勝る“情熱的”なものです。まさに、情熱はパッション。パッションの極みは十字架の“ご受難”!!教義的、思想的な愛では決してありません。

  今朝の福音書ルカ伝に登場するマリアとエリザべト。二人は大いなる神の使命に与りましたが、召命に与る前、特に二人に大きな業績があったわけではありません。経済的、社会的に恵まれた家庭の人であったわけでは決してありません。神は、「マリアがマリアであるが故」に、ご自身の無上のお悦びとなされました。(アヴェ・マリアは、“お悦びなさいマリア”,“あなたは神のお悦び”、の意)。まさに神の愛は思慮、分別を超える愛です。

  エリザベトの言葉、「主が仰ったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とは、「主と主のことばは、愛と慈しみと“赦し”に満ち満ちています。どこまでも私たちは“神のおよろこび”“神のご期待”!!」に他なりません。

  神の情熱的な愛によって愛され、赦され、活かされていることを想えば、「胎内の子が喜びおどる」のに合わせ、私(たち)自身も春に向かって悦び踊り、羽ばたかずにはいられなくなりましょう。

  キリストに賛美

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『初めに“ことば”ありき』  ヨハネによる福音書1章1~5節    

              2021年1月17日 中野バプテスト教会主日礼拝 説教者:稲垣俊也牧師

 主の年2021年の幕開けを、心よりお慶び申し上げます。

 私たちが何気に使っている西暦は、イエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とした紀年法ですが、紀元前はBC~Before Christ。紀元後はAD~Anno Domini~主の年となります。主が私たち一人一人をご自身の“お悦び”となさり、深く関わることお望みになりお創(はじ)めになられたが故の“主の年2021年”であります。皆様には主の年2021年が、かけがえのない新年となりますよう、祈って止みません。

 さて今朝の説教題は、「初めにことばありき」。 新年の初めに今一度、主の御摂理を観させていただく機会とさせていただければと想います。

「みことば」は生きて働き人格者です。紙面に閉じ込められた活字や記録では決してありません。

著名な漫画家・手塚治虫氏はこのように語っています。「私が心を込めて紙面にアトムを書き付けた後は、まるでアトムが一人の人格者のように自らの意思を持って動いてくれるのです。アトムは私の思いを浮き彫りにするもう一人の自分です。」

私自身も歌手としてこれと似通った体験をさせていただいています。声や歌詞は、発するまでは自己の責任でありますが、発した後はまさしく“もう一人の自分”として、自らの意思をもって空間に自由に翔び交ってくれます。時には自分が発した声や言葉に自分自身が励ましを受けたり、慰めを受けることがあります。声や“ことば”はもう一人の自分というより、むしろ一心同体の娘ともいうべきでありましょうか。実に不可思議なことです。

さて今朝のみ言葉に、「ことばは肉となって・・」でありますが、イエスは神の“ことば”そのものであります。言葉はギリシャ語では「ロゴス」。「ロゴス」は口で言う言葉だけではなく、心の中の“ことば”であったり、考えや理(ことわり)でもあります。          

 アダムとエヴァが自らをして作ってしまった神と人との隔ての壁。人の側からの修復は到底不可能な状況下、神ご自身が人の生活世界にお出でになることで、此の損なってしまった関りを修復しようとされました。天地創造以前からお持ちになっておられた熱い愛に溢れることばを、人に分かる“ことば”“声”として発せられ、一心同体の御子としてお遣わしになられました。そして、人の生活世界の真中に“血肉”を持ってお住まいになられた方こそ、イエス・キリストその御方に他なりません。

 父なる御神の熱い“ことば”が、まさに「具体的」に表された御業が、イエス・キリストの十字架による贖いと、新しい復活のいのちへの招きであります。ことばは神そのもの。それ故に「私と父は一つである」とイエスは仰せられたのであります。

 そして、御父と御子が交わされた「愛」が「聖霊」であります。御父は、みことばである御子を心から愛し、御子であるみことばは、御父に全幅の信頼をお寄せになり、御父から遣わされた“全権大使”として、命を賭してその使命を全うなされました。御父と御子が互いにいのちを賭して、無償で愛を与え合うその生き様が、私たち一人ひとりに「聖霊」という形で注がれています。

ヨハネの手紙第一の4章8節に「神は愛である」とあります。互いに無償で自己を与え合う御父と御子の愛の関りに、私たち一人ひとりも招かれているのであります。

信仰を告白したクリスチャンには、聖霊がお住まいになられます。聖霊は、その人がもっと愛に生きる自己となることができるよう、内なる力を与えてくれます。神の愛そのものを、心身に宿したクリスチャンは、同じ主にある兄弟・姉妹を愛さずにはいられなくなります。

ヨハネの手紙第一4章7 節。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」

 愛を具体的な形で表現することで、私たちの信仰は、本物の体験となってまいります。

父・御子・聖霊の三位一体の神は、人の限られた体験や知識で釈義するものではありません。イエス・キリストのよき訪れを通して、聖霊の油注ぎを通して、そして私たちのささやかな愛の実践をとおして、私たちが神の篤い愛に十重二十重に包まれていることを「体感」するものであります。

 さて、此の御方を受け入れるも受け入れないも、人々の間には様々な反応があります。一つ云えることは、神は、「努力をして功徳を積めば福音を伝授し、神の子としてあげよう」、と仰っているのではありません。神は、「既にとこしなえの“みことば”はあなた方の真中に在って、あなた方の生活の中にお住まいになっておられるので、あなた方は“みことば”の友としてふさわしく在って欲しい」と、熱いご期待をお寄せになっておられるのです。

福音は私たちを取り囲んでいます(Ⅱコリント5:14)。私たちは、「“みことば”と共に、神の子とされた誇りと気概をもって生きていこう、否、活かされていこう」と、想いも新たに“主の年2021年”に臨んでいこうではありませんか。

キリストに賛美

 

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主の年2020年11月15日、中野バプテスト教会主日礼拝・説教のお分ち。 

~冬ざれの ヨブに倣いて 佳く生きる~

(ふゆざれの よぶにならいて よくいきる)

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『ヨブに倣って佳く生きる』~要旨~ 

ヨブ記19章21節~27節  稲垣俊也牧師

 昨年末のクリスマスから始まった教会暦、一年サイクルの最期を締めくくる11月は「永遠のいのち」に想いを馳せる月であります。永遠のいのちの戸口は「死」ですが、永遠のいのちに想いを寄せることは、即ち「死」を黙想することでもあります。「死を黙想する」は、ラテン語で「memento mori~メメント・モリ」。メメント・モリは、いたずらに死を恐れ、自分はやがて死んで朽ち果ててしまうむなしい存在であることを嘆き悲しむことではありません。むしろ永遠のいのちに招かれている身であればこそ、与えられし今生のいのちをより佳く生きることに、新たな気概を得ていくことであります。

 さて私は、一年間を通してヨブ記だけを読み味わわせていただいたことがありました。耐えがたい苦悩、苦痛,苦悶と自問自答の繰り返し、そして親しい友からの誹謗中傷の中で、主と主のみことばを生き抜いたヨブの生き様には大きな魅力を感じずにはいられません。

 小学館の「ダックス先生と40人の子供たち」に小学校一年生の“なかにし しゅうすけくん”の日記が紹介されています。

『えらいひとよりも、やさしいひとのほうがえらい。やさしいひとよりも、かねのないひとのほうがえらい。なぜかというと、かねのないひとは、よくさびしいなかで、よくいきているからだ』

 小学一年生の子供の純粋な目に映った偉い人は、金にものを言わせたり、地位や権力で人をねじ伏せたりする人ではありません。本当に偉い人は、寂しい中でよく生きている人です。

 ヨブの生き様に魅力を感じるのは、まさしくそうした理由によります。自分の弱さや痛みをはぐらかすことなく、ごまかすことなく表し、それにとことん対峙をしていく。自分にのしかかる不条理に対してもいたずらに嘆くのではなく、しっかと自分の心身に刻印をしていく。「今」、この苦しみの意味が分からなくても十年後、二十年後、あるいは人生を終えるその時には必ずその意味が知らされるはずだ・・その篤い想いが「私のことばが書き留められるように」「碑文として刻まされるように」と言い表すに至っています。

 ヨブが予見した「あがない主」は、私の耐えがたい苦しみの現場に訪れになられる御方です。そして耐え難い苦しみ共に背負っていただける御方です。贖い主イエス・キリストと主の御業を信じるということは、「私を苦しませた事実や出来事は払拭できなくても、その苦しみが“今”に与える深い意味が、共にお苦しみになられる主によって必ず与えられるはずだ」と、ヨブに倣って告白することではないでしょうか。

 “なかにししゅうすけくん”の日記にもあるように、人生にとっての成功者、偉い人とは、順風満帆に過ごし、財や富、世間の評価と立場を得ることでは決してないはずです。

 キリスト者にとって、今生を生き抜く意味、あるいは今生における成功とは、「今生のいとなみを通して主イエスとどれだけ親しくなれたか」、ということに尽きるかと想います。

主イエスは生涯を通して、私の「腹心の友」でありたいと「腹の底から焦がれています」。この深遠な熱い想いは、即効薬のようにすぐにもたらされるのではなく、全生涯を通してたおやかに私の心身隅々に沁みわたることでありましょう。

 キリストに賛美

 

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