top of page

 中野バプテスト教会で当方がご用させていただいた最後の聖餐式(2023年9月)。“最後の晩餐式”ということもあって、序詞で臆することなく個人の思いを述べさせていただいた。

 私がご用させていただいた説教、招きの文言等は、当方のホームページ等にUPさせていただいている。しかし“最後の聖餐式”の招きの文言だけは、SNS上にはUPしなかった。

 その時、当方が語った文言をもう一度観てみたいと、とある方から熱い要望をいただいた。迷ったが、自身の思いの整理の為にも、公開をしたいと思う。

◆聖餐式に参加できる有資格者とは?

▷日本のほとんどのプロテスタント教会は、洗礼を聖餐に与るための条件と考えている。カトリック教会は聖体拝領の際、ご聖体に与れるのはカトリックの洗礼を受けたカトリック信徒のみと明言をしている。これは、聖餐式の制定のことば“Ⅰコリント11章”の、「だから相応しくないままでパンを食し、主の杯を飲むものは、主の体と血とを犯すのである」に基づき、聖餐の礼典に与れるのは、きちんと洗礼を受けたキリスト者としている。この考え方には、一理ある。

▷しかし私自身は、洗礼を受けていなくても聖餐式に与ることができると考えている。

 歴史的経緯を振り返ってみよう。

 聖餐式は、イエスが最後の晩餐の席で命じたものである。

 洗礼は、復活のイエスが大宣教命令の中で命じたものである。

 時間的には、聖餐式の命令が先で、次に洗礼の命令が与えられた。

 即ち、イエスご自身によって執り行われた最初の聖餐式では、誰一人としてまだ洗礼は受けていなかった。聖餐式は、キリストの恵みによる招きに他ならない。ゆえに、個人的には、洗礼を受けていなくても聖餐式に与っていいと思っている。

▷また聖餐式は天上のエルサレムの小羊の婚宴の前表・前味でもある。

 主の晩餐式は地上に居ながらにして、「天上の典礼」に与る聖礼典である。

 私たちはよく思い違いをする。地獄は刑罰の場所、天国はご褒美の場所であり、神は私たちにとって裁判官か警察官のようなお方だと。

 しかし神は裁判官でも警察官でもない。神は私たちがどれだけ良い子であったか、言うことを聞かない悪い子であったかによって、天国に送ったり、地獄に送ったりはなさらない。

 神は愛であり、ただひたすらに「愛」である。

 神には憎しみも復讐心もない。私たちが罰せられるのを観て喜ぶお方ではない。

 神はひたすらに赦し、愛されるお方である。

 しかし放蕩息子の父親が、父の家を出ることを息子自身で決断させたように、神は私たちに「神の愛」を拒否する自由も与えてくださった。神は私たちの自由を保障する“究極の自由”であられる。

 天上の祝宴と其の前味である“主の晩餐式”に参加できる「有資格者」は、神が選ばれるのではない。

 放蕩三昧をした息子が父の家に帰ったように、温かい食卓を囲むのを良しとするのか、父と父の言葉を不在にして、果てるともなく続く放蕩と疎外に身を投じるのか、むしろそれは私たちの選択である。

********************************************************************************************

 

『キリスト、教会の主よ』  Ⅰコリント12:12~26 

  2023年9月3日 中野バプテスト教会主日礼拝                   稲垣俊也牧師                

 中野バプテスト教会最後の主日礼拝お務めと相成りました。かけがえのない一時となるべく、心を込めて御用をさせていただければと存じます。

 中野教会をお暇するにあたって、今朝は「教会」について共に思いを巡らしてまいりたいと思います。

教会は神の民です。教会にあたるギリシャ語「エクレシア」は、エク(から)、カレオ(呼ぶ)。から来ています。すなわち招集、集めるを意味します。

 奴隷状態から自由へ、罪から救いへ、絶望から希望へ、闇から光へと呼び出された神の民、召集された神の家族、それが教会です。

 私たちは競争社会から協奏社会へと招かれました。競争から協奏へ。ちなみにラテン語でコンサートのことはコンチェルトと言いますが、これは競争です。時代を経てイタリア語のコンチェルトは協奏曲の協奏であります。まさに神様は、歴史全体をとうして競争社会から協奏社会へと私たちをお招き下さっているといってもよろしいかもしれません。

 そして私たちは所有、搾取の世界から、分かち合いの徳へと招かれました。搾取・所有はほしいほしいほしいと、いつまでたっても満たされる事の無い魂の渇望であります。仏教者はこれを輪廻転生といっています。輪廻転生は命が果てるともなく生まれ変わることでありますが、今生でこれをやり残したから来世またこれがしたい。来世は今生体験できなかったこれをしてみたい・・言い換えれば果てることなく続く渇望の生き地獄でありましょう。もともと輪廻転生は仏教の思想にはなかったのですが、ヒンドゥー教徒の影響を受けて仏教思想として加味されたとのことです。

 分かち合いは、それがささやかなほのぼのとした分かち合いであっても充実があります。自己を心をこめて他者にお伝えしを捧ることは、今生なすことのできる最も自然で充実した営みといってもよろしいでしょう。教会はこの充実の人生への招きです。

 

 教会は一つの体です。パウロは言っています。

「一つの霊によって、私たちはユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと皆一つの体となるために洗礼を受け皆一つの霊を飲ませてもらったのです」1コリント12:13

 しかし、一つの体には多くの部分があります。パウロが言うように

「すべてが一つの部分になってしまったらどこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても一つの体なのです。」Ⅰコリント12:19~20

 全てのものになることなど、誰にもできません。

 私たちはともにキリストの体であって、ひとりひとりに全体の中で果たすかけがえのない役割があります。私たちはそれぞれ限界がありながら、それぞれに大切な部分であることを認め、それを互い悦び合いたいと想います。

 隣人は自分にとって有難い存在です。また忘れていはならないのは、自分もまた他者にとって有難い存在であることを、素直に喜び合いたいと思います。

 ヴァイオリンはチェロパートを同時に奏でることはできません。トランペットはチューバを同時に吹くことはできません。教会はオーケストラ・・異質の他者との協奏が、教会生活の美しさであり、醍醐味ではないでしょうか。

 私の全人格を持って共同体と他者に貢献をしていく。・・信仰の熟練者は、ある意味助け上手であると言えましょうか?

 しかしそれ以上に信仰の熟練者といえば? 助けさせ上手ではないでしょうか?

 私は他者を助けるが、他者には助ける機会を与えない。それは裏を返せば本当にお相手を助けることにはなっていないということであります。これは、わたくしは、独力で何でもなすことができるんだというお相手に対する自己顕示にしかなりません。夫婦に例えれば・・夫婦の営みはまさしく持ちつ持たれつであります。しかし、夫婦道の極みは、助け上手よりも助けさせ上手。支え上手よりも、支えさせ上手。受け止め上手よりも受け止めさせ上手・・ではないでしょうか?私たちキリスト者は他者に、そして何よりも神様に助けさせ上手になりたく想います。そのことがすなわち謙遜ということではないでしょうか?

 富岡製糸工場で働いていたとある女工さんの物語。

 作業中、機械に糸が絡まってしまいました。何とか女工さんはそれを回復させようと機械を操作し、糸の絡みをほぐさんと懸命に対処致しました。しかし糸はますます絡まり、ついには機械が停止してしまいました。職工長が駆け付け女工さんに言いました。「どうしてこんなことになってしまったんだ?」女工さんは答えます。「職工長、わたくしは何とか糸の絡みを回復させようと最善の努力をし続けてまいりました。しかし、残念ながらこうなってしまいました。」職工長は言いました。「あなたにとっての最善は、すぐさま私を呼ぶ事ではなかったのか?」

 

 さてキリスト共同体の最も大切な部分は? 

 リードを制御する頭や手ではありません。最も重要な部分は他よりも見栄えが悪いと思われる部分です。これが教会共同体の神秘と言えましょう。教会の中心を形作るのは、私たちで中で最も弱い部分である人々。言い換えればご高齢者・幼子・障害を持った人々・心の病を患う人・飢えている人・病気の人・『貧しい人』ではないでしょうか?パウロは言っています。

『私たちはもっと見栄えが悪いと考える体の部分を最も大いなる権威で包むのです。第一コリントの12章23節。ニューエルサレムバイブルからの訳であります。

 貧しい人々が教会の最も大切な部分であるとき、教会は神の嘉せられる集いとなります。

 教会は貧しい人同志が互いを思いやり、慈しみ合う場です。思いやるは、「コンパッション」。これはとも(コン)に苦しむ(パッション)という意味であります。コンパッション・・傷ついた方々にともに自分も心身   傷付いた者として相対することは、キリストのこころそのものであります。

 傷つく方々と傷つくキリストとの出会い。これはまさに、福音の中核であります。傷つく弱さと傷つく弱さの出会い。これは聖書全体を網羅する通奏低音であります。

 

聖書の最初に記されています旧約聖書創世記。

 人類最初の男女であるアダムとエヴァ。アダムとエヴァは神様のみめぐみとお守の中、神様の絶対安全、庇護の下、エデンの園で仲睦まじく暮らしていました。

 しかしある時、蛇がヱヴァをそそのかします。

「この、園の中央にあるリンゴの木の実を食べたるなら、あなたはまさに目が開けて、神様と同じように思慮分別を持つことができるでしょう。自己裁量で自分の人生を生き抜くことができるんですよ。」蛇に唆されたエヴァはリンゴを食し、アダムにも与えました。

 よってアダムとヱヴァは神の絶対安全庇護のエデンの園から出るに至ってしまいました。確かに自己裁量で神の安全枠の外に出ることができました。しかし、そのとき気づいたことは、自分たちが何も持たない丸腰で弱く、もろく繊細な存在であることが分かったのです。

 神の御守りにあった時の平安‼ 荒れ野に出でたアダムとヱヴァには、もはやそれがありませんでした。自分たちの存在も恥ずかしいと思い、体を木の葉で覆い隠し、自分たちも互いに隠れ合う関わりとなってしまいました。すなわち男女の関わりの尊厳をも失ってしまったのです。

 弱く、もろく繊細になってしまったアダムとエヴァに対して、そしてその子孫である人類をなんとかを救いなろうと神様はご思案なされました。

 そしてお取りになった方法は・・・天上高くから「私はあなたを救おう。」と仰せになりお救いくださる方法ではありませんでした。もちろんそのようにお救いになることも可能であったかもしれませんが、神のお取りになられた方法は?なんとご自身もまた丸腰になり、無防備になり、アダムとエバと同じ弱さを持つという方法でありました。

 十字架上で丸裸にされ、丸腰にさせられ、心臓をやりでつかれました。傷つくまでにご自分の弱さを示されることで、アダムとヱヴァと人類の末裔である私たちを愛されました。

 傷つく弱い人を助けて差し上げる方法は?助ける人もまた傷つく弱さを共に持って差し上げること以外にあり得ません。

 コンパッション‼共に苦しむことであります。弱さを癒す方法は弱さしかありません。傷つく弱さが、強靭な力に出会ってしまうと、これは逆効果と言わざるを得ません。「あなたはどうせ強いからいいですよ。あなたはあなたでよろしくやってください。」とますます傷つく弱い人が阻害と孤独、そして嫌悪感に陥ってしまいます。

 しかし、傷つく弱さが傷つく弱さに出会うと、そこに親密さが生まれてまいります。共に苦しみ、悩み共苦をすることによって、その苦しみの「事実」を払拭することができなくても、共に苦しむという命と命の対峙、関わりを通して、未来に向かってこそ共に関わりを深めていこうという新たな気概が沸き起こってまいりましょう。

 私はこのように申し上げたく思います。この世の中には二種類の人しかいない。「弱さを明け渡し、神と神の家族に共有していただくことを望む人。もう一種類の方々は弱さを誤魔化し見なかったことにし、自分の心の奥深に蓋をして閉じ込めてしまう人。」

自 分のことを強いと云える人は誰もいません。弱さを持ち、悩み苦しむことこそ人であり、生きることそのものではないでしょうか?

 人間の生きざまそのものに、すなわち傷つく弱い人間の心の真中に、傷つき痛むキリストがお入りくださいました。

 教会は主イエス・キリストと人、そしてクリスチャン同志の傷つく弱さと傷つく弱さの出会いの場です。

 

 残念ながら昨今の日本の教会は・・停滞を通り越し衰退期に入っていると分析をする神学者もいます。とある神学大学の宣教学の教授が分析したことではありますが・・日本のキリスト教界は斜陽産業であるとも言っています。なんともひどい表現ですね。

 それではどうすれば教会の停滞、衰退、劣化を防ぐことができるでしょうか?

 答えは明らかです。貧しい人々に焦点を合わせることです。貧しい人々の存在によって教会はその本来のはたらきを果たすことができましょう。

 教会がもはや貧しい人々の教会でなくなったときは、教会はその霊的な本来的な姿を失ってしまうでしょう。そうなると衰退の一途をたどることになりましょう。

 パウロは言っています。「神は見劣りする部分をいっそう引き立てて、体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分がたがいに配慮しあっています。」と。

 これが誠の教会のビジョンです。

 

 さて、先ほどから「貧しさ」と再三申し上げていますが・・貧しさにはいろいろな形があります。経済的な貧しさのみではありません。感情的な貧しさ、精神的な貧しさ、霊的な貧しさ、そして「自分は愛されるに足る人間ではない。自分の生きることに意味を見出すことができない。」と自分で思い込んでいる人も貧しさを代表する人ではないでしょうか?

 そして誤解なきように申し上げますが、今日初めて教会においでになられた方々も貧しい人々ではないでしょうか? これまで心の糧である福音を食す機会がなかった方々には真っ先に相対さなければなりません。教会は今日初めて接する方々に対し、可能な限り心を砕き、お交わりしなければなりません。いや、しないではいられません。教会の説教は、毎週、毎回、福音を初めてお聴きになる方々のための説教でなくてはなりません。

 

 最期に・・最も見栄えがしない部分にちなんだお話をさせていただきます。

 3年ほど前主日礼拝で語らせていただいたことですが・・

 マザーテレサの話。マザーがカルカッタで営む修道院が経済的にいよいよ立ち行かなくなりました。マザーはとある元修道女のことを思い出しました。この元修道女はロンドンに住む大富豪の娘です。元修道女は健康害して修道生活をやめざるを得なくなってしまいました。

 マザーは修道院が窮地に瀕した時に、その元修道女に電話をしました。私を含めて大方の人々は・・きっとお父さんに頼んでお金を工面してちょうだいと・・お願いの電話をするかと思いましたが・・さにあらず。マザーは元修道女にこのように言いました。「あなたの祈りで天の御国を動かしてください。御心にかなう修道院として、神に嘉せられる修道院なることができるよう祈ってください。今こそあなたの祈りが必要なのです。」それを聞くや私は感涙のうちに嗚咽を漏らしてしまいました。

 マザーは経済力・行動力のある方よりも、「祈りの人」に最高の素晴らしさを見出されました。此の元修道女は心身が滞り、共同体にとって見栄えがしない弱く貧しい一枝にしかすぎませんでした。しかしマザーの目に此の元修道女は「体が滞り祈ることしかできない人」とは映りません。「生活が祈りそのものである人」なのです。「祈りの人」こそマザーの最高の協奏者であったのです。

 

 中野バプテスト教会を司り導く水先案内人は、主イエス・キリストご自身であられます。乗船になっておられますお一人おひとりにはかけがえのない乗組員としてのお役目がございましょう。

互いに手と手を取り合って、確かに手と手を取り合ったこの絆を骨組みにして帆を張り、逆風が吹こうとも、むしろ此の帆の前面に風を受け、高く高く舞い上がり飛翔してまいりましょう。そして追い風の時にはまさしく順風満帆。確かに取り合った手と手を骨組みにして帆を張り、帆の背に風を感じ。順風満帆のうちに天上のエルサレムを指向し航行してまいりましょう。

中野バプテスト教会の信仰の旅路に幸いあれ。

キリストに賛美

*************************************************************************************

キリストに在る一致』 2023年8月6日/中野バプテスト教会主日礼

    コリント信徒への手紙第一10章16~17節                  稲垣俊也牧師
 本日8月6日は広島の平和を祈念する日であります。
 彼の時代をまさに必死で生き抜いた方々の”いのち“と”死”を深く想う日であります。死を黙想する・・ラテン語でMemento Moriといいます。Memento Moriは、死を想うことで、今生を生かされている意味と意義をより深く味わうという意味が込められています。
 死と愛・・相反することばのように思えますが、両者には共通項があります。それは・・死も愛も私たちを”永遠に出会わせてくれます“。キリストの愛にまみえ、死を黙想すること・・どちらも永遠との対話に他なりません。「キリストの愛の観想」とMemento Moriは、信仰の旅路に必要不可欠な両車輪」なのです。

 

 さて中野教会で説教と聖餐式のご用意させていただく機会もあとわずかとなりました。この機会に、本日は目に見え、味わうみことばたる「主の晩餐式」、即ち聖礼典についてお話をさせていただきたいと思います。
 まさに聖礼典は五感・全人格で味わうところのみ言葉であります。プロテスタント教会、バプテスト教会では「聖餐」と「洗礼」を二大聖礼典として制定致しております。

 洗礼は一生に一回ですが聖餐は毎月、あるいは教派によっては毎週、そしてカトリック教会は毎日のごミサでいとなまれます。主イエス・キリストはご自身の生と死の記念として、私達に「聖餐」の恵みを与えてくれました。この記念は単に私たちがイエスのことを思い起こすためのものだけでなく、私たちをイエスの体の一部とするためのものであります。主イエスに心身とも接ぎ木されるためのものであります。
 イエスは死に渡される夜、「これは私の体」と言ってパンを裂き、「これは私の血」と言って杯を取られました。キリスト体を食し、キリストの血を飲んで、私たちはキリストと一つ同じ体、一心同体と相成ります。
 以前にもお話申し上げましたが・・血と乳は同じであります。もちろん味覚は違いますが、血と乳の成分はまったく同じということであります。母親は自らの命を、即ち血を”乳“として我が子に与えているといってもよろしいのではないでしょうか?
 主イエスは聖餐式を通して、自らの体と血とをもって、いのちをお分かちくださいます。
 ゆっくりと確実に主のおいのちに与ります。日々の食事のごとく少しずつ私たちの体を作り上げていきます。一気呵成に栄養を補給したとしても、体は急に成長するわけではありません。むしろ体には害毒となりましょう。一日一日、その日にふさわしい分量の栄養を摂取し、ゆっくりとたおやかに心身を築き上げてゆきます。
 私の昔の友人に喫茶店を経営している方がおられました。今は別の職業に携わっておられるとのことですので、彼の証を赤裸々に明かしてもよろしいかと思います。
 喫茶店や飲食業界では、お客には一発で、一食で美味しいと満足させなければなりません。ゆえに栄養学的には考えられないほどの甘味料を入れているとのことであります。過度の甘味料は健康に良くないとしつつも、経営目的の為にはやらざるを得ません。一元さんにも満足さなければならないという職業的な使命感、いやプレッシャーにより、其れをやらざるを得なかったということであります。

 モーゼに導かれ。エジプト脱出を実現したイスラエルの民。荒野を旅するイスラエルの民らに主は天よりマンナを降らせました。香ばしい鶏肉にも似た美味なるマンナ。しかしマンナは一日一回、一日分天より降ってきました。週末の安息日のみは土曜日、日曜日の分として2日分のマンナが天から降ってまいりました。一日一日ふさわしい分量の栄養を食することによって主から届いた大切な体と命を養わせていただくことになりました。
これは・・労苦はその日一日一日にて足りる。明日のことは明日自らが心配をする・・その一日を精一杯生き抜いていくという、信仰者の生きる姿勢とも合致するものです。

 

 さて、私たちも友人を食事に招待するとき。私たちはその友人の体に必要な食べ物を提供するだけではありません。友情、交わり、楽しいおしゃべり、にぎやかで親しい関わりも提供致します。
「どうぞもっとお召し上がりください。遠慮なさらないでもう一杯いかがですか?」という時、私たちは友人に食べ物と飲み物を進めるだけでなく、私たち自身の心をも差し出しています。
私たちは食卓を通して、精神的な霊的な絆をも深めてまいります。即ち、私たち自身がお交わりの栄養そのものとなっているのです。
 このことを最も完成した形が、聖餐式に他なりません。イエスがご自身を私たちの食事、飲み物として提供してくださるのです。イエスご自身の体と血(すなわち乳)与えてくださります。イエス様がご自身の命そのものを私達に注油なさり、可能な限り親密な交わりを私達に差し出しておられます。

 

 主イエス・キリストが十字架にお掛かりになられた後、弟子たちは其のあまりの恐ろしさにその場を逃げ去ってしまいました。二人の弟子がエマオの旅の途中で主イエスに出会いました。しかし、弟子たちの目は遮られていたので。イエスであることが分かりませんでした。しかし、その2人の弟子は家に着いたとき、食卓でイエスがパンを裂かれたその時、主イエスであることに気づきました。
 パンを裂くということ以上に一般的で日常的な仕種が他にあるでしょうか? パンを裂くこと・・もちろんこれは中近東あるいは欧米社会の食卓でも基本的な動作です。私たちにとってはご飯を盛って差し上げることと置き換えてもよろしいでしょう。
 このパンを裂く、ご飯を盛って差し上げるということ以上に一般的で日常的な仕種は他にあるでしょうか?それはあらゆる人間の動作・仕種の中で最も人間的なものでありましょう。それはもてなしの仕草であり、「友情」「思いやり」「一緒にいたい」という思いの表れでもあります。
 パンを一つとって祝福し裂いて食卓を囲んでいる人々に与えることは?~~「交わり」「一致」「平和」を表します。イエスは最も日常的なことを通して、最も超日常的なことをなさっておられます。それ言い換えれば最も人間らしい仕草であることこそ、最も神らしい仕草であるといってもよろしいのではないでしょうか。日常的で最も人間的な仕草のうちに私たちは私たち自身のただ中にイエスがおられるのを知ります。最も人間らしいいとなみに、最も神が親しく近しくお出でになっていただけます。
 かつて潜伏キリシタンの時代、彼らは聖餐式をパンではなくお刺身で行っていました。五島の人々の主食である魚を食し、いのちを分かつ其のところに主イエスはお出でくださいました。それ故に、250年もの間、司祭が不在であっても信仰を保ち継承することができたのではないでしょうか。

 食卓を囲み一つのパンから食べ 一つの杯から飲むときに、私たちはお互いに一番無防備な状態になっているのではないでしょうか? 銃を背負ったり、あるいは腰に拳銃をぶら下げて仲良く一緒に食事をすることはできません。茶室に入るとき、武士は刀を取り外し、丸腰で狭い戸口から入室します。食卓を共にするときそれが物質的な武器であろうと心理的な武器であろうと、それを戸口に置き、互いに信じあう場所に丸腰で入っていこうとします。
 聖餐式の美しさとは、まさにこのことではないでしょうか?すなわち丸腰・無防備のままの神様が、無防備な人々を招いて、一つところで平和のうちに食事をすることです。
 ちなみに・・茶道の開祖・千利休によって確立された茶道の作法は、限りなく聖体拝領(聖餐式)のそれに近いとされています。ある歴史研究者は、千利休はキリスト者であり、「せんのりきゅう」は「セイント・ルーク」、すなわち「聖ルカ」から採ったとしています。真偽のほどは定かではありませんが、千利休はキリスト教美徳から大きな影響を受けていたことは間違いないでしょう。

 

 さて、先ほどエマオの弟子の家でイエスがパンを裂かれたとき、二人の弟子たちはそれがイエスだとわかりました。そのときイエスの姿は見えなくなりました(ルカによる福音書24章31節)。
 主イエスだと分かることとイエスの姿が見えなくなるというこの二つのことは、実は、同じ一つの出来事です。大変難解な箇所でありますが、このようにご理解になられてはいかがでしょうか。
 それは外に観える主イエスが、自分たちの心のうちにお入りくださったことに他なりません。そしてこれよりは自分たちがキリスト運ぶものになったのだということが、弟子たちに分かったからです。
 つまりイエスはもはや彼らが話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人としてテーブルの向こうに座っている人ではありません。イエスはこの弟子達と一心同体となられたのです。イエスはご自分の愛の霊を2人に与えられました。彼らの旅の同伴者にイエスはおなりになってくださいました。   

 今や彼の魂の同伴者になられました。伴走者になれました。
 2人は生きています。私たちも生きています。けれども。生きているのは(彼らだけでなく)2人のうちに在って生きておられるキリストなのです。ガラテア人への手紙二章の20節。
 ちなみに・・思い起こす追想するは。英語ではリメンバー。イタリア語でrimenbranza
 すなわち「 り」再び、「メンバー」同伴者・伴走者にする。ということであります。 イエスが生きておられた同じ時代に生きていた信徒らはまさにイエスのメンバーでありました。
しかし、私達が聖餐の礼典をとうして追想する、いや追創造することは、イエスを再びの同伴者とするもう一つの現実であります。
 此のリメンバーかつてのメンバーに勝るとも劣らない、いや、2000年の歴史・風雪を生き抜いてきた、より堅固な関わりではないでしょうか?

 

 聖餐は「一致のサクラメント」です。聖餐によって、私たちは一つの体となります。
今日のみことば。「パンの一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。みんなが一つのパンを分けて食べるからです。コリント信徒への手紙第一10:17。
 聖餐は私たちがキリストにあって一致していることを味わい実践をする場であります。一つのパンから食べ、一つの杯から飲むことで。私たちはキリストが現存するキリストの体となってまいります。
 日本語でも同じ釜の飯を食う、という表現がありますが、これもまた食といのちを分かつ私とあなたは同じ人間であると云って憚りません。
 聖餐は「一致」を呼び起こします。一致とは・・お互いに一つ共同体の体を造るため、互いの役割、分担を尊重しあい、共生、協奏していることではないでしょうか?一致とは、「右に倣え」「同化せよ」ではありません。私ならではの役割を見出し、此れをもってかけがえのない個として共同体に参与していく喜びではないでしょうか?
 イデオロギーは異質の他者を除外しますが、福音は異質の他者との共生、協奏の架け橋となってくれます。

 

 キリスト共同体において健全な一致は「お餅」ではない「おにぎり」状態ではないでしょうか?お餅は一つ共同体を形作るために個をつぶし鞣していきます。
「おにぎり」は一粒一粒の米粒があってこその「おにぎり」です。
 キリストの共同体は個性あふれる一つ一つの米粒が集まったおにぎりです。
 しかし反面、このようにお思いになることもありましょうか?大きなおにぎり。大勢の合唱団。私一人が抜けたとしても。何の問題はないのではないか。抜けたとしても抜けたことすら分からないのではないか・・とお思いになるやもしれません。
 私は合唱指導の専門家でもありますので、声を大にして次のように言うことができます。確かに一人抜けても音量はさほど変わりません。しかし、音色は明らかに変わっていきます。
 世の中はいかに多くのものを会得し所有しているかで価値観を推し量ってしまいます。しかし、私たち量の多さや大きさよって価値を見いだすのとは、むしろ真逆の世界に生かされています。
 それは・・私、私達ならではの色を醸し出し、主に在って互いに関わりを悦び合っていくことです。この日この時に確かに私たちが。存在していたことを私たちならではの生きざまをもって彩っていくことです。

 また、合唱指導の現場でこのように聞くことがあります。「わたくしはもうおばあちゃんです。声も出ないので聖歌隊にいても。皆様にご迷惑をかけるばかりでございます。」
 いや、そんなことは決してありません。主と主の御言葉生き抜き、生涯を通して賛美を友となされたその方が、そこに立ってるだけで、声を出している方の反響板となることができ。自身の心身が素晴らしい反響板として合唱に貢献していくことができます。
 逆に・・合唱活動に否定的な方が合唱団員の真中にいたとしましょう。
 合唱のさ中、合唱団員の間に音の波がウェーブします。しかし合唱活動に精通してない方が其の真ん中にいると、音の波といいましょうか「そよぎ」がそこでストップしてしまうのです。これは合唱現場でわたくしが感じた生の証あります。
 たった一粒でもされど一粒。大いなる反響版になる一粒もあれば流れを滞らせる一粒もあります。
からし種ほどの一粒であっても過小評価をしてはいけません。
 自転車の車輪を形造るスポーク。たくさんあるから一本ぐらい外しても問題はないと思いきや、さに非ず。一本抜けてしまったら車輪がガクガクとなり走行が出来なくなってしまいます。
 本当に 私たちの共同体を形作るに不必要、余分な人は一人とていません。その共同体が健全にたおやかに形作られていくには? まさにキリスト者をひとりひとりの生き様・人格そのものが一粒の米粒として心身を寄せ合っていくことではないでしょうか。

 私たちは一つ体の部分同士として「主に在って」、「主ゆえに」互いに与え合っていくときに、おおよそこの世では得ることのできない、妙なる調和と一致に与らせていただけましょう。主の食卓に招かれたものは幸い。
 キリストに讃美

 

**************************************************************************************
 

『隣人とは誰か』 ルカによる福音書10章25~37節  主の年2023年7月2日/中野バプテスト教会主日礼拝   

                                        稲垣俊也牧師

「隣人を自分のように愛しなさい。」

 ここで言う「隣人」とは誰のことでしょうか。

 私たちは「隣人とは、この地球で一緒に暮らしているすべての人のこと。特に病気や貧困で苦しんでいる人々。」と答えるでしょうか。

 もちろん間違ってはいません。その通りでしょう。

 しかし此れは、イエスが仰っておられる「隣人」ではありません。

 わたしの隣人とは誰ですか?との問いに答えんが為、善いサマリア人の話をなされました。

 ルカ10:25~37

 イエスは次のように話しかけ、締めくくられました。「さてあなたは・・だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」

 イエスが仰るところの隣人とは、身ぐるみをはがれ、殴られ、瀕死の重傷を負って、道端に投げ出された気の毒な男の人ではありません。

 道を渡って、「傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行き介抱をしたサマリア人こそが隣人であります。

 わたしの隣人とは、私のために道を渡って来てくれる人のことです。

 

 お互いに道の向こう側へ渡ろうとするとき、私たちは隣人となります。

 世界にはたくさんの分離、分断があります。黒人と白人、同性愛者と異性愛者、老人と若者、健康な人と病気の人々、キリスト教徒と他宗教に携わる人、カトリックとプロテスタント、西方教会と東方教会。これらの隔てのさまは、神が御望みになられた状況では決してありません。人自らが作ってしまった分離・分断です。

道を渡ってゆきましょう・・と招きの声を聞くも、私たちは内輪のことで目一杯で、対岸のことに気を配る余裕はないのかもしれません。

 道を渡るとは、異文化、異教徒の方々のところに、船や飛行機でおもむき東奔西走をしなさいということではありません。互いにより良くわかり合うために、異国の文化や言語、習慣を学ぶということでも、私たちは互いに真の隣人になることができるのではないでしょうか。

 

 隣人になるということは、人との隔たりに橋をかけることです。

 私たちは人々との間に距離があって、互いに目を合せることができないでいる限り、他者に対して間違った考えやイメージをもってしまことになります。

 第二次世界大戦中、「鬼畜米英」という言葉がありました。彼らは人間ではない、鬼けだものにも劣る感性・感覚しか持ちあわせていない。自由自在に意見を主張し合う「民主主義」を無政府状態、人生を高らかに謳歌する生活態度を「怠惰な生活」とし、彼らを敵とみなしたのです。

 とんでもない誤りです。

日本人が夫婦仲睦まじく暮らすように、彼らも夫婦共々愛し合い、私たちが子供にいっぱいの愛情を注ぐように、彼らの子供を我が身のように、いやわが身を顧みず愛します。私たちが、地上のいのちを全うし死んで行くように、彼らもやがて死んでゆきます。

 私たちとなんら変わることがありません。

 私たちは、神によっていのち与えられ、いのちを生きる意味もまた与えられ、神と人を愛してやまない人生に召されています。私たちは、神を一人,親とした、地球家族ではありませんか。

 私たちが地球家族の一員同士として道を渡り合うとき、お互いにかけがえのない隣人となることができます。異文化、他宗教に同意は出来なくても、彼らのこころのうちを理解して差し上げることはできます。此れもまた立派な隣人であると云えます。

 

 わたしはイタリア留学中にとあるイタリア人の家庭にホームステイをさせていただきました。ホームステイ先では、老夫婦と私はパパ,ママ、とし、と互いに呼び合っていました。

或る時、イタリアのママが「とし。あなたの日本のお母さんに手紙で伝えて。」このように言いました。

『この世界にわが子のことを思わない母親、父親などいようはずはない。特に母親は、わが身を顧みすわが子とことを思って止みません。としを異国の地にお送り出しをしたあなたのお気持ちは痛いほどよくわかります。

としのことは、私があなたの代わりに母となり心配りをさせていただきますので、どうぞご休心ください・・』

 このことを日本の母に伝えたら、母は感涙のうちに感謝をいたしました。

 私どもはイタリアで結婚致しましたが、その際、日本から私の両親と妻の両親と姉がイタリアに来てくださいました。結婚式に臨む前、これまで御世話になったイタリアのパパとママに、私の母が「通訳なし」で直接こころからなる感謝を伝えたいと、話かけました。もちろん日本語で。イタリアのママとパパはイタリア語で答えます。私は横で黙して聞いておりましたが、何と会話が成立しているではありませんか。

 その会話は延々30分続きました。父母が子を想う気持ちは洋の東西なんら変わることなく、どのような想いで一年間、イタリアの父母としてとしに接してきたのか、文法的な理解が得られなくとも、こころのそよぎは十二分に伝わってきた、伝え合うことができた、ということを目の当たりにした感謝の瞬間でした。

 言葉が分からずとも、少しだけ勇気をもってささやかな架け橋をかけるよき、私たちは互いに分かり合える、いや、互いの想いを分かちあわずにはいられない"隣人“であることに気がつかされます。

 このような状況下、女性の方が男性よりもコミュニケーション力を持っていますね。男性は自尊心なるのものゆえに、「きちんと語学を習得してから話さないと、一社会人として、大人として恥ずかしい」と思ってしまいます。

女性はそれよりもなによりも、社会的体裁よりも、この日この時のいのちといのちの関わり大切にします。出産や授乳に観られるように、其の関わりは、まさにいのちに直結しています。

・・ちなみに乳と血は、医学的には同じであるとのことです。もちろん、味覚は違いますが、栄養成分は全く同じ。母は子に自らの血を与えていると云えましょう。

 

 ラテン語では司祭のことを、Pontifecus(ポンティフェクス)といい、これは“橋をつくる者”という意味です。司祭は神と人、神に愛されているもの同士を一層堅固に繋ぎ合せる、“橋渡し”的役割に召されているものといえましょう。

 

 敬愛してやまないイシドロ・リバス神父様。素晴らしい霊的指導者であり、“司祭”であられました。

 リバス神父様から、教えられたことの一つに“司祭的家庭”という項目がありました。

 プロテスタント教会は万人祭司・聖書主義・信仰義認を宗教改革の三大テーマとして掲げましたが、昨今のカトリック教会は、私たちは家庭を持ちながらも“司祭的”であるように、すなわち「万人司祭」であるようにとお勧めをなさっておられます。

 私たちと何等変わりは無いどころか、大いなる示唆さえ与えられる想いがいたします。

 

司祭的家庭とは?

家庭で愛し合う人々は、その愛で、ほかの人に対する橋をつくるべきである。 =ビブイック

 

 私を含めて多くの人は、愛というものが、優しい言葉とか、没我的な行為のような錯覚をもよおしてしまいます。しかし本当の愛は、夫婦を深く結び付けるがゆえに、それによって他の人に対する橋を作ることでありましょう。 二人だけの限定された愛ではなく、二人の愛を他の方々に分かちあって差し上げたい・・・。「愛」とは人々が関わり合い、共に在ることの美しさ‼

 二人の家庭での愛を分てば分つほど、二人の愛は本物の体験となります。

 

 神前式結婚式の際には、夫婦固めの杯「三々九度の杯」があります。キリスト教でも聖杯を飲み交わすという儀式が、ギリシャ正教、ロシア正教に観ることができます。当方が携わっています結婚式でも、聖杯を飲み交わす儀式がございます。

 聖書の世界では、食事をする、飲み交わす、泊まるということは、いついつまでもあなたを私は同じ人間なのですよと言っていることと全く同じです。主イエスのことば「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてある。あなたと食事と共にしたい。」

 いついつまでもということは、未来に向かってだけではなく、過去、現在、未来を通して、貴方と私は同じ思いを共有するものです・・ということに他なりません。

 そう、日本語でも「一宿一飯の恩義」という言葉があります。一宿一飯に与ったからには、その恩義は生涯を通しての恩義となります、という意味合いでしょうか。

 神前式の結婚式では三々九度の杯は、小・中・大と、三種持ち替えることもあります。小はこれまでのいとなみに感謝、「過去」を表します。中は、かけがえのない「今」を表します。大は、眼前に広がりゆく大いなる「未来」を表します。

 「過去」は即ち「過去の痛み、悩み、苦しみ」です。自分一人では到底背負うことのできない痛み、悩み、弱さを共に背負い合うことで、過去を礎として、未来に向かってこそ共に歩んでゆきたいという新たな”気概“を見出すことができます。あるいは共に痛み、悩み、弱さを背負い合うことで、それらに「今」に繋がる新しい意味を見い出すことができます。日本語ではこれを「贖う」と云います。

 心理学者のユングは「人の一生は幸福を求めることに費やされるのではない。過去を贖うことに費やされる」と言っています。

 そして「今」。「今」愛する人と共に在ることの平安とときめき。人はこれらがなければ生きていくことができません。

 更に「未来」。家庭で実ったたわわな愛の実りを、お子様に生活世界にそして世界にお届をする、分かち合う・・家庭が世界に向かっての愛の発信源となる悦び、充実です。

 まさに、神にある人々は、この三様の愛に生きることに召されています。過去あっての現在、現在あっての未来。過去の贖いがあればこそもたらされる未来に向かっての創造・クリエイション。

 この三様の愛は、まるで三本のより糸。三本のより糸で織りなされた「愛」なる極上の絨毯は、堅固で丈夫でしなやかです。

「司祭的家庭」は、過去、現在、未来にそよぐ愛の息吹きでありましょう。

 

 そして、正しい他者理解のために・・もう一言申し添えます・・現況では司祭は自分の家庭をつくりません。其れは、神様と他の人に対して一層しっかりとした強固な架け橋となるためであるということです。

「司祭とは、他人が孤独でないようにと、一人で生きる人のことである。」とい

う言葉にも感動いたしました。

これは一人ぼっちで生活している人に対して、同じ境遇になるための犠牲的な愛であると同時に本当の孤独とは何かということを深く考えさせてくれます。

 例えば私が一人寂しく路上で暮らしている人のカウンセリングに臨むといたしましょう。

 大方、話し終えたころに恐らくその方はこのようにいうのではないでしょうか。「牧師さん。大変いいお話かとは思いますが、貴方には私の気持ちは分かりっこありません。あなたには家族があるし奥さんがいるし、教会に行けば信徒さんがあなたを慕ってくれているのでしょう。あなたは一人ぼっちの恐ろしいまでの孤独感、虚無感を持つ人の気持ちは分かりっこない。」・・私はその言葉には、ただ黙するしかないでしょう。

 まさに牧師の足らざるところに、神父・司祭がおられることに、神の大いなる摂理を感じずにはいられません。

 

 そして・・もし司祭の孤独が、神との交わりによって満たされていないなら、神経衰弱になるか、あるいは他の”気晴らし“を求め、生活がすさんでまいりましょう。反対にすべてを捧げて神と共に生きる人であるからこそ、神と共に在る本当の充実とよろこびを味わうこととなりましょうか。

 

 司祭の「孤独を分かつ架け橋」と、司祭的家庭から溢れ出る「悦びと平安を分かつ架け橋」。

 まさに双方相俟って成せる全世界・全教会レベルの「協働」ではないでしょうか。

 

 違いがあるということは、実は素晴らしく美しいことですね。

 互いの色・役割の違いを見出した上で、それらを互いに生かし合い、美しいハーモニーと成していく。

 単旋律のモノフォニー聖歌も美しいですが、ハーモニー豊かな音楽、追いつ追われつのフーガ(フーガは、「逃げる」の意。互い取り逃がしてしまったものを保証する、購い合うという深い意味があります)の多彩な響きにこそ魅せられるものであります。

 私たちは、信仰にある自由意思をもって、異質の他者を"隣人“となしていく使命に召されています。

 それは内輪であることに遙かに勝る信仰の醍醐味と云ってよいでしょう。

+キリストに賛美

*******************************************************************************

「父の愛、母の愛」ルカによる福音書15章11~32節   2023年6月4日中野バプテスト教会主日礼拝

                                       稲垣俊也牧師

 本日は聖書の中の聖書と言われている特に著名な「放蕩息子たとえ」からのみことばの解き明かしであります。芥川龍之介が“世界最高の短編小説”と絶賛して止まない此の放蕩息子の物語!!

 ご参集の皆様方、特に教会生活に長く親しんでおられる方々は、この喩えには幾度となく接しておられることでしょう。

 また偉大な説教者が既にこの喩えを詳細に解説をいたしております。あるいは神学者も神学書にあらゆる視点から紐解いておられます。

 今わたくしが語ることなど、先人の繰り返しになる・・とも思われますが。そのことも踏まえまして、今朝は一つ新しい視点でこの物語に接してみたいと思います。

 今朝のメッセージ。「父の愛、母の愛」と題させていただきました。

 私たちにいのちといのちを生きる素晴らしさをあたえてくれた、父と母。父と母、それぞれにいっぱいの愛を息子、娘に溢れんばかりに注いで止みませんが、父親ならでは愛、母親ならではの愛があります。

 

 ところで神様は普通“父なる神”と言われています。それはもちろん本当のことなのですが、人によってはあまり良いイメージを持たない人もいるかもしれません。(特に父について悪いイメージを持っている人には)

 このことは聖イグナチオ・デ・ロヨラが「霊操」で語っていますので、それを参考にさせていただきますが、神は私たちにとって親以上の親的存在であるわけですが、どうして親の一方だけの「父」に限定してしまうのでしょうか?

 ある意味ではこのことはあまりにも神を狭くしてしまっているともいえましょう。

 あえてイグナチオは「父母なる神」と呼んでいます。

 この表現には、普通の人間の親と全く違って、すべてを超越する方であることが示されています。それでいて人の親の愛の特徴である「あなたがいてくれて有難う=母的愛」「お前を絶対に生かす=父的愛」という両親の強い思いを表しています。

 また「母なる神」であることは、神と人間とは父親との「外的関係」に留まらず、妊娠と母乳の連想から神と人間との関係に身近さと暖かさという「内的関係」を感じることができます。

 父のみというイメージは、権限とつながってある意味では人が上から司られている拘束を感じてしまいます。また神様は仕えられることによって、利益を有しているという誤解を生むことがあります。

 神が母であるというと、ピラミッド的な上下関係とは逆に、神は一番下からすべてを支えて存続させ、育て生かす御方であることが実感できます。

 「母」は利益や権力の世界と違って、平等であるというイメージ、いやむしろ弱い人、障害を持つ人、いじめられている人を守ろうとします。聖書にも「神は母のようである」と書いてあります。

「母がその子を忘れることがあろうか。たとえ母がその子を忘れても、私はあなたたちを忘れることはない」イザヤ49:15

 神の特徴である“あわれみ”という語は、聖書が初めに書かれたときの国語であるヘブライ語では“ラフム”といい、これは“母の胎”という意味でもあります。つまりヘブライの人々にとっても、日本の人々にとっても、神は私を暖かく包みこみ育んでくれる“おふくろ”のような存在であるといえましょう。

おふくろの愛は、其の子と共にあることを無上の喜びとします。ケア(Care)・・と申しましょうか 

父の愛はもちろん「ラフム」なるものもありますが。それよりも「お前を絶対に生かす。お前を絶対に花と咲かせてみせる」という、教育愛、普遍愛でしょうか。必要な教育、治癒を施し心身健全たらしめる、キュアー(Cure)と申しましょうか。

 主の祈りの冒頭で“天にましますわれらの父よ」と呼びかけますが、神は男性でも女性でもありませんから、「天にましますわれらの父母よ」と祈っても構わないのです。

 

 マリアは、神の母的な愛、神の母的なご性質を完全なまでに具現したお方です。

夫であるヨセフを“まだ知らなかった”マリアが子を身ごもるということは、世間の心無い人々によって、悪いうわさが流れるのを余儀なくさせられました。

 また政治状態にかき回され、自分の家のナザレから身重のままで旅をしてベツレヘムまで行かなければなりませんでした。せめて宿で生まれるように探しましたが、人類がキリストを拒否したことの印として、馬小屋の中で生まれました。(彼らにとって宿に場所がなかった“ルカの福音書2章7節”)

 自らが難民、野宿者の一人として貧しさ、苦しみ、侮辱に耐えられました。

 

 イエスは生涯のうち、その大部分の30年間、沈黙を守られました。

 イエスは神の御子であるというしるしを一つもあらわさないという、一見不毛にしか見えない30年間、「マリア自身の心も剣で刺し貫かれる“ルカ2章35節”」と胸に苦しみをおさめながら、沈黙のうちにマリアは神のご計画を信じ協力し続けたのでした。

 わが子の成功を信じ、ひたすら耐え、暖かさと希望のうちに子を育むことは、まさしく母としての神のご性質のほかなりません。

 マリアの生涯は、神様のそんなご性質を最も「具“体”的」にあらわした生き様であられました。

 

 さて、この有名な放蕩息子の物語には母が登場致しません。想像をするだに・・母はこの物語に必要なかったということでしょうか。いや、母は不在であったのです。むしろ「母の不在」がこの物語のもう一つのモチーフであります。

 これはまさしく想像の域でございますが・・母は既に二人の息子が幼い頃に他界していたのかもしれません。兄息子は「父の愛」しか知りませんでした。社会人として立派に立たしめようとする父の教育メソード、普遍的な公共的な愛のメソードを網羅することによって、父の期待に応えようとします。

 一方、弟息子は母的な愛に飢えていたのかもしれません。未だ幼い青年であった弟息子には、母の愛が絶対に入り用であったのです。

 弟息子は母の愛に枯渇していました。自暴自棄になり、放蕩三昧を繰り返したのも、そんな思いを紛らわすためのものであったことでしょう。そして遊女に溺れてしまったのも、ひとえに女性の愛を得たい、母的な慰めを得たいという、思いだったことは想像に難くありません。勿論、決して許されることではありませんが、弟の息子は母性愛を求めるために、放蕩の旅に出で立ったとも云えましょう。

 もし母親がいたら、おそらく弟息子は放蕩の旅には出なかったかもしれません。(私もそうでしたが・・人生の大先輩としての父親には対しては時に異を唱えたり、反抗することもありました。しかし母親だけは悲しませたくはないと思っていました。)

 放蕩息子の例えには2人息子・・弟は家から逃げて遠い国に行きますが、兄は家にとどまりすべき自分の仕事を続けます。

 弟は放蕩で身を持ち崩し、兄は一生懸命働き、仕事のすべて忠実に成し遂げることで、父の愛を得ようと懸命になります。 しかし、2人とも失われたものでした。

 父親は2人のことを嘆き、悲しみます。2人のどちらとも望んでいるような親密さを分かち合うができなかったからです。一時の気晴らしに身を持ち崩すにしろ、教義・経典を網羅するにしろ、それでは私たちは、真の神の子となることはできません。

 弟息子にとってはもちろんのこと、兄息子にとっても、まずは神の無条件の愛に包まれて、心が安らぐことができる。神の愛の家に帰らなければなりませんでした。

 

 私たちは弟息子のように一時の気晴らしに道を踏み外したりします。

 あるいは兄息子のように、楽して事を成し遂げた者に対して、怒りに満ちた復讐心に駆られていたりして、道に迷ってしまいます。 修行、修練が功徳、結果が信仰の本質・第一義を想ってしまうことも、ある意味、道を誤ることになっているのです。

 

 放蕩息子の物語に出てくる父親は・・同時に母親でもあります。放蕩の旅から帰ってきた弟息子に走りよって迎え抱きしめくちづけをする。最高の服を着せ、指輪をはめ、サンダルを履かせ、そして宴会を催します。

 これらの行為は、私たちと距離を保つ威厳に満ちた「家長」のものではありません。これらの行動は優しさ、細かい心遣い、自分を顧みずに与え赦す母的な愛を豊かに表しています。「母」と父の両方の愛が余すところなく表現されています。

 二人の息子はそれぞれに神様の御本質はまずは「母」であることを、心身に深く知らしめられることと相成りました。

 神様の本当の「愛のありよう」に気付かされました。

 

 天の父の完全な愛は、父母が子供達に対して抱く愛のすべてを含みます。そしてそれをさらに超越するものです。

 私たちを抱きしめる神の二つの手を母の手。父の手と考えてみるのも良いかもしれません。一方では優しく慰め元気づけ、もう一方の手は支え励まし力づけて、いのちを生かす旅路へと行かせてくれます。

 いやしかし、敢えて言えば「母的な愛」は「父的な愛」に先んじるものでありましょうや。

 何の功徳・業績がなくとも、私が私であるがゆえに無条件に愛されているという母的な愛があればこそ、父の愛に励まされ自分の罪、弱さにも対峙し、克服しより良き自己へと変わっていかずにはいられなくなります。

 母的な愛は、まさにすべての愛の「最初」であり「母体」であります。

 

 そしてこの物語には・・私たちもまた家に帰りたいと思っている人にとっての「父や母」となることができるようにと呼びかけられています。

 この2人の息子もやがて成長致しますでしょう。二人とも父なる神の愛を心の底から理解し、知らしめられ、成長を遂げていくことでしょう。

 この2人の息子もやがて父にならなければなりません。息子は父親に、娘は母親にならなければなりません。

 私たちも成長して「神と似たようなものになりなさい!!」ということが、この物語には当然示唆されています。

 イエスはためらわずにこのことをおっしゃいました。「あなたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。あなたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深いものとなりなさい。」マタイ5:48&ルカ6;36。

 ではどのように完全にならなければならないのでしょうか?

 それは・・父の神が私たちを家に歓迎してくださったと同じように、私たちも道に迷っている兄弟姉妹や、神のご本質を理解できずにいる兄弟姉妹を我が家に、そして教会に歓迎することによってであります。    

 

 私たちは此の父親のように彼らに走るより抱きしめ、くちづけをして喜び、迎えましょう。私たちの大切なお客さんとして迎えましょう。とびきりの食事を用意し、心を込めて御交わりをいたしましょう。~いや、既に中野教会の皆様方はそのようになさっておられますね~

 そして一番大切なことは? 謝罪や釈明を求めずに唯々この兄弟姉妹と私たちが再会できたという計り知れないほどの大きな喜びだけを分かち合いましょう。

 これこそ私たちが天の父と同じように。完全と成ることではないでしょうか?

 それは非難や恫喝をすることなく、心から許すことです。過去犯した罪の事実は、未来永劫払拭することができません。

 しかし、大切なのは今です。過去の苦しみ、痛みを共に分かち合い、自己を与えていく。未来にこそ責任を負い合っていくことが、此の物語のもう一つの大切なメッセージです。

 私たちの心を満たすものは? 兄弟姉妹、息子、娘が家に帰ってきたことの感謝、それだけであります。この感謝と共に、新しい信仰の旅路を共に踏み出だしていく。このことこそが天の父と同じように完全と成ることなのであります。

「あなたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。あなたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深いものとなりなさい。」

+キリストに賛美

*************************************************************************************

「この世界に遣わされて」 2023年5月7日中野バプテスト教会主日礼拝 稲垣俊也牧師

◆ヨハネによる福音書17章18~19節

 誰もが人生において果たすべき使命を持っています。イエスはご自分に従う者たちのために御父に向かって祈られました。

17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。

17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 

 私たちは神様から与えられた務めを果たすために遣わされているのだということを充分に意識することはほとんどありません。どこで誰とどういうふうに生きるか、自分で決めなければいけないかのように振る舞っています。被造世界においては、単に産み落とされ、死ぬ時までに自分がどのようにその人生をやり過ごすのか、いかに自分自身を楽しませるのかを自分で見つけなければならないものであるかのように生きています。

 しかし、主イエスがそうであったように、私たちは神によってこの世に遣わされたものであります。人はただ単に精子と卵子の結合によって生成されたのではなく、私が生まれる以前から大いなる意思が働き、大いなる摂理のうちにこの世界に送られてきたのです。然るべき時に、然るべき両親のもとに送られてきました。

『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。』旧約聖書 エレミヤ書 1章5節

 

・帝京大学・池川明教授が「胎内記憶の研究」をされていますが、胎内記憶を持つ子らは、人は生を受くる以前にも意思が働いているとのことです。人は地上の舞い降りる前、「大いなる御者」の前で、どの両親の子となるのか、イメージを次々と見せられるそうです。そして自らの意思をもって両親を選び、母の胎に舞い降りるとしています。

 

 私の幼き頃。かつて母が一度だけ私にふさわしくない言動をしてしまったと、深い反省のうちに謝ってくれたことがありました。

 私の幼い頃、母は、このように軽く私をからかって言ったそうです。「としちゃんは、お母さんから生まれた子ではないのよ。近くの庄内川の河原で拾ってきた子なの。」

 その時、私はまるで火がついたかのように大泣きに泣いたということです。私は全く覚えていませんが・・「違うよ。僕はママから生まれた子なんだ?」と涙ながらに訴えたそうです。母は言ってよい冗談と言ってはならない冗談を悟り、後年・・と云っても私が大人になったとき、其のことを証し謝罪してくださいました。

そのときの幼子の心の内を大人になった今、冷静に分析すると、このように云うことができるのではないでしょうか?

「私は思う。私はどれほど両親に望まれ、愛され「愛の結晶」として」生まれたのか。命は決して偶然、偶発的に生じたものではない。私は両親の愛として生まれたのだ。父母に愛されるために生まれてきたのだ。そしてわたしが赤ちゃんとして生まれてきたのは両親、とりわけ母を喜ばせるために生まれてきたのだ。」

 幼子はこのことを本能的に知っているのです。

 本当に・・人として愛を分かつことはかくも素晴らしいこと、美しいこと。

 主イエスはヨセフとマリアという、一時のパピーウォーカーとしての両親から人として生きることの美しさを学ばれました。

 主イエスは御父と共にヨセフとマリアを両親としてお選びになられました。

 人も然り。人も両親を選んで生まれてきました。大体3歳くらいまでは「胎内記憶」と云いましょうか、そのことを憶えているのですが、大人になると次第に忘れていくとのことです。

 

 両親はその両親かいのちといのちを生きる意味を与えられました。その両親の両親の、更に両親は?

神であります。いのちの期限は神であります。

 進化論の限界は、命の期限を偶発的、偶然的に生じたいうことにしてしまっているところであります。いのちは大いなる摂理と、堅固な意志を持って与えられました。

 

 先月のイースターのその日、敬愛いたします誠志会病院の岡田信良先生が天に召されました。

 まさに岡田先生の人生は、人生においての果たすべき役割を全うし、イースター主のご復活のその日、天の御国に凱旋なされました。

 岡田先生のご召天に際し、短歌を詠ませていただきました。

『みことばを 白衣(びゃくえ)と着こなし 信良師、

天つ御国でイエスにまみゆ』

 

 信良先生がま白き衣・びゃくえを纏い、主イエスにお会いになっておられる様を詠ませていただきました。びゃくえは、生涯岡田先生がおめしになっておられました「白衣・はくい」と掛けさせていただきました。岡田先生は「いのち」の最前線で真白き白衣を纏い、キリストの愛と御癒しをあまねくお分かちくださいました。ご使命を果たされ、イースターの朝、一点の曇りなき青空にお帰りになられたさまは、まさに岡田先生のご召天にふさわしいありようかと存じます。

 岡田先生がそうであったように、人生をいただいたものとして生きるなら、そこから送り出され、いずれは帰らなければなければならな家があることに気づくようになります。

文部省唱歌「ふるさと」。志を果たしていつの日か帰らん、山は青き故郷 水は清き故郷」これは作曲者の岡野貞一先生の生家。故郷であると同時に天の御国のふるさと。此の二つの故郷をさせていることは周知のことであります。

 

 今朝のもう一つの御言葉。◆テモテへの第一の手紙2章4節から7節。

2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

2:6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

2:7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 

私たちがこの世に遣われた使命はずばり・・この三点につきましょうか。

  • それは皆々が神の愛と喜びであることを知らせること。

  • そしていのちの源である神を喜ぶこと。

  • 自分が神からいのちを生きる意味と意義が与えられるように、他者にも同じいのちといのちを生きる意味が与えられています。

    いのちを喜び合うそのありようは十人十色であります。

 一人の人と神の愛を味わい合い、互いのいのちを喜び合い深めるもよし。

 また、できるだけ多くの人々にそれを伝えるべく励むもよし。東奔西走をするもよし。

 神はおのおののありようを尊重し、同じ価値として、見守ってくださっています。

 神は決して無理難題なる使命をお与えにはなりません。自分のやり方でその使命を実現できるよう。神様は、その有様を温かく見守ってくださっています。

 

 私たちは、信仰を説く人としてこの世に遣わされました。これは何も牧師だけの仕事ではありません。わたしたちは、すべからく万人祭司であります。信仰は、つまり神と人、神に繋がる人々同志の対話です。「いのちは尊い授かりものであり、いのちを生きることは素晴らしい」と、心の奥底からハイと応答する心の態度です。

この信仰は結果に目を注がざる信仰であります。信仰のみを満足する信仰であります。この信仰があってこそ、私たちのうちに初めて真の平和が実現するでありましょう。

 残念乍らこの世の価値観は、量的にいかに多くのことを成したかに尽きましょう。しかし愛の授受・対話には上下貴賤はありません。愛は多い、少ないの問題ではなく、それがあるか、ないかの違いであります。

 神様は量的な結果はお望みではありません。各々が各々のやり方で愛の授受・対話に生きることを望んでおられましょう。先ほど申し上げました。一人の人と神から戴いた愛を深めるもよし。多くの方々と愛を分かち広げていくも良し。しかしながら・・主イエスが示された愛はどちらかと云えば前者です。シモン・ペトロにマグダラのマリアに、そしてザアカイに個人的にお関わりになられ愛をお分ちなされました。しかしこの個人的なことが福音書に記されるほどの普遍的な出来事であるということは、これまた信仰の神秘と云わずにはいられません。

 また手の業をもって愛を成すことが出来なくても、行動を伴う愛の実践が出来なくても、私たちは沈黙のうちに“祈る”という愛を成すことができます。

 いや、互いに祈り合うことこそ、究極の愛ではないかと想わされるのであります。祈りは信仰そのものありましょう。

 以前にもお話いたしましたが、映画「マザーテレサ」で、マザーがいとなむ修道院・養護院が立ち行かなくなったとき、ある元修道女のところへ電話をしました。

 其の元修道女は健康上の理由で修道生活を断念した方ですが、大富豪の娘でありました。私も含めて皆々はてっきり「大富豪の父上にお金の工面をお願いする」為の電話かと思いました。しかし答えは否です。

 マザー曰く「あなたの祈りが必要なの。あなたの祈りで天の御国を揺り動かして頂戴。そして修道院・養護院が神のみこころの適うよう祈ってください」~私は感動のあまり感涙にむせびました。

 

 ご復活の主イエスが「われ汝に平和を与えん」と言いたまいし平和は、このような愛と祈りを分かつ平和です。

 イデオロギー・律法の表面的、量的、打算的世界に遥かに勝る平和はこの平和です。この平和、平安のうちに私たちはこの世に生きる意味と意義を十二分に感じることができるのではないでしょうか。

 

 そして以下は個人的な所感になるやもしれませんが・・私が此の世界に遣わされた使命の④は、

・私が確かにこの世に遣わされて、この時代を生き抜いたという「証し物語」書く為。と申し上げたく思います。

 私のいのちが、他の人々に役立つように、とりわけ後世の人に役立つ「私(わたくし)物語り」を書くためにこの世界に遣わされました。

 私たちは、「そうは言っても、物語りを書くような独創的なものは何一つないよ。私が言うことは、もうだれかがとうの昔に言っていることでしょう。しかも私よりももっと上手に」と云いたくもなりますが・・しかし人はみな、二人とない独創的なかけがえのない人であります。

 確かに、私だけにまなこを投じれば、自分の足らなさ、不都合に失望することもあるかもしれませんが、神が「私の目にはあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」と神がどのように私に関わってくださったのか、キリストに知られ愛された私が、キリストの香りを他者にお届けすべく、そのように他者に関わっていったのかということは、唯一無二の物語ではないしょうか。

 神が人にお関わりになられるさま十人十色、千差万別、無限大です。私たちが主に在って執筆する物語は主ゆえに、素晴らしい価値があることを信じたいと思います。

 今日ご参集に皆々様は、偉大なエッセイストであり文学者でもあり、弁論家でもあります。私たちは自分の物語を上手に語れば語るほど、自らをしてその物語をよりよく生き抜いていこうと、内なる力が沸き起こってまいりましょう。

 

 私の生き様が、後世の人々への物語となるよう、今この時を気概をもって生き抜くようご配慮くださっている“父なる神”と“主イエス・キリスト”と、そしてご聖霊のご臨在に心から感謝を致したく想います。

+キリストに賛美

*******************************************************************************

『新しいいのち』 イザヤ書43章18~19節

         ヨハネによる福音書20章11~18節 

 主の年2023年4月9日・中野バプテスト教会イースター礼拝        稲垣俊也牧師

 主イエス・キリストのご復活。

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストは世の人々の罪を十字架上であがない、死にて葬られました。死して死を滅ぼし、3日目にその死から蘇られ、新たないのちに復活されました。

 イエスの十字架の死と復活の新たないのちに与る私たちもまた、新しいいのちに生きるものとされます。さて、私は今「いのち」と申し上げましたが、ひらがなの「いのち」であります。漢字の「命」をイメージして「いのち」と申し上げたのではありません。発音はいのちも命も同じなのですが。漢字の命は生命を維持するための医学的な観念。生命反応が途絶えた死の反意語であります。

 ひらがなの「いのち」は、その人の生きざま、ことば、人格・ペルソナを表します。そしてひらがなのいのちは「いのち」と関わっていく「いのち」です。此のいのち・ペルソナは関わらずにはいられません。人はまさしく関わる存在です。関わりの中で本当の自己を見出し、自己を自己たらしめることができます。

 主イエスの復活によってもたらされた「いのち」は勿論、イエスとともに今生のみならず、天の御国においても永遠に生き永らえるということに他なりません。

 そしてご復活のもう一つの大切な側面は、「いのちといのちの関わりの復活」にほかなりません。

人をして作ってしまった神と人、人と人、男と女のいのちの関わりの断絶・壁・溝をイエスご自身がお体をもってその架け橋となり、隔ての溝を克服してくださったということでもあります。

 かつてエデンの園で自由自在に神と人、人と人が関わり合った友愛の世界をイエスが取り戻してくださったということであります。イエスとイエスにつながる私たちは、互いにイエスの眼差しで関わり合い悦び合うものとせられました。この関わりの美しさは、今生のみならず天の御国においても果つることなく続いていきます。

 まさにいのちといのちの関わりの復活です。

 今、エデンの園と申し上げましたが・・原初の男女であるアダムとエヴァは神の絶対安全庇護の下で、なんら隔ての溝を感じることなく自由自在に関わり合っていました。神の見守りの中であればこそ味わう自由を、アダムとエヴァは謳歌しておりました。

 しかし、蛇がエヴァを唆します。「このリンゴの木の実を食べれば神様と同じような思慮・分別を持つことができ、神様にお伺いを立てることをしなくても自己裁量で自由自在に生きることができるんですよ。思いのままにに自分の意思を発揮することができるのですよ。」

 エヴァは蛇に唆され林檎の木の実を食べ、そしてアダムにも与えました。結果、アダムとエヴァはエデンの園から出て、神から離れるに至ったのであります。

 なるほど。エデンの園から出たアダムとヱヴァは、一見自由になったかのようでありました。しかし、アダムとヱヴァは自分たちは何も持っていない。丸腰で弱く、もろく、傷つきやすい存在であることが分かったのです。以前は裸であることも何ら恥と思っておりませんでしたが。自分たちの存在そのものを恥ずかしいと思い、自分たちの心身お互いに隠しあう存在となってしまいました。すなわち男女の関わりの尊厳を失ってしまったと言えましょうか?

 

 丸腰となって弱く、もろく、傷つきやすくなってしまった人間に対して、神様はご思案なされました。いかにして、この人類を救おうか?

 天上高くから「私はあなたを救おう」とのたまう事によってお救いになることも可能であったかもしれません。しかし、神様がお取りになった方法は、ご自身も弱く、もろく、傷つきやすい存在になってゆかれることでした。十字架上ですべてを剥ぎ取られ丸腰となり、孤独と阻害の極致を味わわれ、槍で脇腹をつかれ、本当に弱く、もろく傷つく存在となられました。これが、神様が人に対してお取りになった救いの方法であります。

 傷つく弱い人が強い人に出会ってしまったらいかがでしょうか?傷つく弱さを持つ人々はさらに阻害と孤独に陥ってしまうでしょう。「あなたは強いのでしょう。わたくしは弱く脆い人間です。あなたはあなたでよろしくやってください」と、更に自分をその人から隔離することになってしまいましょうか?

 しかし、傷つく弱さが傷つく弱さに出会ったらどうなりますでしょうか? 互いに弱さを共感・共苦するという親しさが生じてまいります。苦しみを分かち合い、理解し合うことによって、苦しんだ事実を取り消すことができなくても、苦しみを分かつという新しいいのち関わりが芽生えてまいります。

この新しい命のかかわりは過去の傷・痛みの共感・共苦を通して、新しいいのちの関わりへと自分たちの心を向かわせます。人の側からの修復は絶対不可能と思われた隔ての壁と溝。なんと神様の方から修復・復興の歩みよりをされたのであります。

 神様のみ見守りの中、かつて「エデンの園」では自由自在にはばたき、互いに花と咲く有様を寿ぎ合い、悦び合い、愛で合ってきたにもかかわらず、私たちはその羽ばたきの羽を、今しも花咲かんとする其の美しさを、自ら制限をし、その羽ばたきをFix・釘つけてしまったのであります。

 十字架というと、皆さまはイエス・キリストその方が十字架にお掛になった姿を想像するやもしれません。しかし、もっと酷い十字架があります。人が自らをして自分自身を十字架に釘付けてしまっている姿です。もっと羽ばたけるのに、もっと花咲くことができるのに、自分自身で自分に見切りをつけ、自分の可能性と素晴らしさを傷つけてしまったその姿が、最もむごい十字架といえましょう。主イエスキリストは、そのもっとも酷い十字架の身代わりとして、御身をもってその姿をおとりになってくださいました。

 そしてイエス・キリストは、ご自身が身代わりになることによって、私たちが課してしまった手枷・足枷をご自身のものとしてお引き受けになられ、私たちを再び羽ばたけるもの、花咲けるものとしてくださいました。

 主イエスのもたらされた新しいいのちの関わりは、今生のみならずの天の御国においても果つるともなく続くものですが・・今生においては、互いにイエスの眼差しで見る時、魅せ合うとき、そこには上下・貴賤・左右・先輩後輩の区別はなくなります。皆皆が同じ生き様を共有する友となってまいります。いや   イエスであっても我が友となってくだされます。(♬主イエスこそわがまことの友)

 あるいは・・我が子ですらイエス・キリストにおいてもたらされた新しい関わりによって「友」となる世界が信仰の世界ではないでしょうか?

 確かに子供は幼少期には、養育者としての親の存在を必要不可欠とします。

 歴史をさかのぼれば・・イスラエルの民がまだ民族として充分成熟していなかった時代・・信仰の在り方を示す模範である律法が必要でした。律法はイスラエルの民の養育者でありました。

 しかし、子供たちが成長すると親元を離れていきます。 そして両親の元にはたまに帰るだけです。子供たちは親元に帰ると、もう一度子供に帰ったかのような気持ちになりますが、しかし、あまり長くいようとはしません。

 また、親も子供たちが独立した後も子どもの無事を気にかけます。親にとっては子供はいつまでたっても子供です。

 ある親子さんのお話。親子といっても、70歳の母親と40歳の息子ですが、駅改札口にまだ券売機がなかった頃、鉄道で共に旅行を致しました。改札で70歳の母親が切符を購入する際、このように駅員に言いました。「大人一枚、子供一枚。」

 けれども、親子ともイエスの復活の息吹によって生かされる時、その関わり方も自由自在となってまいりましょうか?もちろん親子の絆をより深めていくことであろうことはいうまでもありませんが・・母親は自分を娘の娘に、父親は自分の息子の息子になることもまた可能なのです。

 いのちの有り様は自由自在。また、母親は自分の息子の娘。父親は自分の娘の息子になることもできます。父親と母親は自分の子供の兄弟姉妹となり、「友」になることができます。これは煩雑に起こることではありませんが、ある意味天の御国の関わり方は、このようなものであろうかと思わずにはいられません。この世の時間系列、すなわち親から子が生まれるという時間によってもたらされた人間関係に制限されることなく、存在そのものBeingで関わっていくという・・ことでありましょうか。

 

とある実話です。幼い子供が父親に「僕はお婆ちゃんと結婚したいの」

(父)そはそれはダメだよ

(息子)どうして?

(父)だって、おばあちゃんはパパのママだよ。

(息子)じゃあ、僕だって大丈夫だ。だってパパは僕のママと結婚してるじゃないか。

このように天の御国は年齢、時間、空間の隔ての壁をなんら感じることなく、Bing存在そのものとして自由自在に関わっていくところなんでしょうね。

 

 今朝のもう一つのみことばイザヤ書の42章。

「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。」

このみことばも彼の時代に在って、新しいいのちの関わりを示唆する、まさに預言であったといえましょう。

 新しいこと、新しい出来事は、これまでの営みを一掃して全く新しいものに変化(へんげ)するということでは決してありません。むしろこれまで培ってきた伝統、経験をよりよく今に活かす新しいすべ、新しい方法を見出して行くということではないでしょうか。

 これは社会においても、個人においても言えることです。

 漁師、ペトロ。人をすなどる漁師へと変えられました。

 取税人ザアカイ。同朋イスラエルの民から税を搾取し、私服を肥やす仕事から。富を貧しい人々に分配をする真の経済人へと変えられました。

 遊女マグダラのマリア。人に媚びる仕事から、復活をされたイエス様を使徒たちに伝えた最初の使徒となりました。人に媚びる仕事から人に貢献をする女性と変えられました。

主は個人の個性・経験を十二分に鑑み、よりよく神と他者に関われる新しい生き方、新しい術を堀り起こしてくだされます。

 宗教改革者マルティン・ルターとて同じことです。ルター先生はこれまでのカトリック教会を一掃して全く新しい教会を始めようとしたのではありません。一時、時代の潮流に翻弄とされてしまった部分を是正し、かつての初代教会の良き有様に回帰しようとしたのです。

 そして、かつての初代教会の精神を、時代を経た今によりよく生かさんが為の提言をされたのであります。しかしながら、ローマカトリック教会はルターを破門としてしまったため、心ならずもルーテル教会という新しい教会を立ち上げることと相成ったのです。

 

 先ほど父母は子供たちの友人となることができる・・申し上げましたが。子は当然、親の生き様や思いを深く自分自身の心身にしみ込ませます。

 しかし、子は親の次の世代を生きる者として、これまで親から培わせていただいたものを、よりよく今に活かす新しい術を見出し、自分自身の生き様とし、さらにまた次世代へと継承せんがため、新しい提案をします。

 伝統と刷新のバランスは大切至極です。教会の歴史を見ても、伝統と刷新のバランスを欠くところ、必ず異端やカルトが起こってきます。

 しかし、あえて言うならば、よりよく刷新をせんが為の伝統であって、その逆ではないということです。新しい切り口、生き様を深く支えるための伝統であります。

 老いては子に従えとは? 老人となった自分を諦めて子に従えということではなく、伝統をもとに新しい時代様式を生み出した子の価値を十二分に認め、その支持者、協奏者になっていけ・・ということではないでしょうか?

 主イエス・キリストの復活と聖霊の派遣は天地創造以来の神の救いの経綸の頂点であります。

 主イエス・キリストの復活の出来事は、決定的な永遠に変わることのない「新しさ」であります。この唯一無二の決定的な光を、それぞれの時代に生きる私たちが心のプラズマで反射・反映をして、その時代に「ふさわしい」「優しい新しい光」醸し出させていただきましょう。

 それぞれの時代の人々が、それぞれの思いを持って、心のプラズマで光を屈折し、この生活世界と歴史を七色の虹の文様にも似た「美しく新しい光」で彩って参りましょう。

十キリストに賛美

 

**********************************************************************************

『新しい歌を主に向かって歌え~詩篇96篇1~3節 2023.3.9 東京国際朝祷会

「新しい歌を主に詠え」

 新しい歌とは、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の息吹に与かり、新しくされた人々の歌であり、新しくしてくださった方に奉げる賛美と感謝の歌であります。

 

 私たちは日常的に何気に「賛美」ということばを使っていますが、ギリシャ語で賛美は「エウ・ロギア~Ευ-λόγια」と云います。ギリシャ語では「祝福」も同じ「エウ・ロギア」で表します。

 

エウ~よく、ロギア~言い合うこと、即ち、神と人が美しい愛の言葉を交わし合い、いのちの授受を成している様を表しています。御ひとり子をお与えになるほどに私たちを愛され、祝福なされる神に対して、私たちは感謝を込めて主を礼拝し賛美をお奉げします。否、お奉げせずにはいられなくなります。実に祝福と賛美は、表裏一体のことばであり、この上もなく親密かつ自由な神と人との対話なのです。

 

 「新しさ」とは、インターネット情報のように24時間経ってしまったら次なる最新情報に取って代るような、時間と共に流転する「新しさ」ではなく、決定的な普遍的な(不変的な)新しさであります。神が人と交わされた「愛の授受」の契約は、主イエス・キリストにおいて未来永劫、変わろうはずもありません。

 讃美歌は、対話、授受の様相を呈しています。

~慈しみ深き(授)・友なるイエスは(受)

 つみとが憂いを(授)・とりさりたもう(受)

 こころのなげきを(授)・つつまずのべて(受)

 などかはおろさぬ(授)・負える重荷を(受)

 讃美歌は、神が私たちを、いついつまでも親しく近しい対話へとお招きくださっている、最も確かな「契約の印」ではないでしょうか

 

◆ところで契約と約束は、あきらかに異なります。

 約束(コントラクト)・・たとえば人と約束するとき、私たちは次のように言います。

「あなたがあなたの分を実行してくださるなら、私も自分の分を実行します。あなたがその約束を守らないなら、私も約束を守る必要はありません。」と。約束はしょっちゅう破棄されます。というのも、両当事者がおのおのの合意条件に従うことができなかったからです。

しかし神様は私たちと契約(コヴェナント)を交わされました。

 

「わたしたちが誠実でなくても、 キリストは常に真実であられる。 キリストは御自身を否むことができないからである。」(テモテへの手紙二2:13)。わたしがどれほど神を嫌っても、神はわたしを愛しています。神の声が聞こえなくても、神はわたしの祈りを聞いています。わたしが神の存在を感じなくても、神は今もわたしのそばにいます。わたしが何度神から離れても、神はいつも温かく迎え入れてくれます。わたしの不誠実を知るとき、それは即ち、私の不誠実を遥に凌駕する神のご誠実を知ることになります。

 

 わたしの不誠実を素直に素朴に認めるとき、そんな私に自分自身が疲れ切ってしまったとき、実は神が最も身近に親しくいらっしゃるのです。神が示された愛は、私たちがどんな状況、状態であろうと変わることのない決定的な“新しい愛”なのです。

 

◆祝福と賛美の対話は、主と主のみことばを

  • 「今」のことばにします。

  • 「私」のことばにします。

 

  • 「今」のことば

これをお読みいただいている皆様も、昔の思い出深い曲をお聞きになったり歌われたりすると、曲のみならずその当時の出来事や思い出が髣髴と蘇ってくるのを禁じえないのではないでしょうか?あたかもご自分が、その曲を歌い聴くごとに、かの時代に舞い戻ったような、いや、かの時代の出来事を“今”に牽引して、その時の出来事や思い出を“今”にも感じて味わうことができるのではないでしょうか。

 イエス・キリストの十字架は、2000年前にパレスチナで起こった“一事件”ですが、賛美歌というフィルターを通せば、その過去の出来事が今日の出来事として、私たちに心のうちに「新しく」働きかけられ告白することができるのです。

 源氏物語の紫式部は「真実は現実の中になく、物語の中にこそある」と言っています。~現実はあまりに早く過ぎ去ってしまいます。まるで机の上をクルミを転がすように。現実のさ中、クルミをとり殻を割り、実を食すことができませんでした。

 今一度、彼の時代の出来事を反芻して、今度はしっかとクルミを手に取り殻を割り、実を食してみましょう。反芻して物語られたことばも、現実に勝る“もう一つの現実なのです~

 

  • 「私」のことば
    礼拝の最後に牧師が祝福の「祝祷」をいたしますね。

 これは祝福を授ける牧師が上位であり、祝福を受ける信徒が下位ということでは決してありません。

祝福を授ける人と、受ける人は同じであること表しています。

実に「授」と「受」は同義であります。

 先ほど祝福と賛美は表裏一体の「エウ・ロギア」であると申し上げましたが、授受・対話のいとなみを通して両者の境がなくなり、まさに一心同体となるのです。

 主のおことばを自由自在に自己のことばとなさせていただけます。

 

◆そして此の「新しい歌」は、まだ見ぬ永遠の新しさ、天上のエルサレムの光景・出来事を「今」のときめきにすることができます。

へブル人への手紙11:1

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

信仰も祈りもまさしく“未来完了形”。日本語にはない文法です。~~であろうあった!!

 

旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、ヘブル語で特徴的な文法は“預言過去”です。

未来の出来事を予言する場合でも、既に完了した過去完了形で表現をしています。

教会は、讃美歌を歌うことが、一大文化でありますが、讃美歌は、今まさにこのところで、神と私の愛の授受が果てるともなく続く“未来永劫の永遠の契約”であることを確認するものです。

賛美の「ことのは、ゆらぎ」は、私は“未来完了形”ではないかと想っています。未来のことを詠いながらも、既にしっかと手中に収めていることを歌っています。

 

♬「主よみもとに近づかん」

 「エルサレム、エルサレム 神の都はついにあもりぬ」

 

 “既に”、天の御国に招かれているものとしての誇りと気概をもって、キリストに愛されている人々が、互いに愛を呼び交わし、歌い合い、「未来完了形」で、「終わることのない永遠に新しい」天上のエルサレムの小羊の婚宴を指向し続けます。

  しかし、クリスチャンは世捨て人ではなりません。天上の市民権を得させていただいている者として、ふさわしく今生を生き抜き、今生の出来事をなおざりにすることなく真摯に対峙し、今生を天上のエルサレムのプレリュード(前奏曲)と成してゆきたいと想わさるることこそが、“信仰の神秘”!!

 

◆聖書のことばではありませんが、私の好きな言葉に、「キリストの今」という言葉があります。

 

非常に極端な言い方かもしれませんが、

キリストには過去もなく、未来もなく「今」のみがある。

すなわちキリスト者は、過去も未来も、今の“ときめき”にさせていただける信仰の神秘に与かっている。

今=キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに生きる私・私たちを覚える今。

今=キリストご自身のエスコートで、天上エルサレムの小羊の婚宴を目指し、一直線にバージンロードを歩んでいることを確信する今。

2023年の今が、かけがいのない今でありますよう、ご参集の皆様と共に「今」を悦び合い、歌い交し合って参りましょう。

 

キリストに賛美

bottom of page